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偽装の結婚  作者: 琴乃つむぎ
第二部(暫定版)
42/64

第六章・一

 アウラシールの商慣習は本国と違うと聞いていたし、その違いについてはある程度情報を集め、心の中で対策を講じてもいたのだが、実際に体験してみるとかなりの驚きがあった。

 元々、自分は外の世界を知っている方ではない。それは自覚している。知りたくとも生まれた環境がそれを許さないのだ。

 上級貴族、それも宗家に極めて近い名門に生まれた自分にとっては、外の世界は始めから極めて限定されたものだった。

 だからそう簡単に市井の中へ入っていくことは出来なかった。

 外見という不利もある。ささいなことであっても自分の意志を通そうとすること自体が、陰湿な非難となって返ってくるからだ。

 遥か離れた王都の大神殿や王宮のことは知っていても、地元の小さな神殿や市場には、表立って行く事は出来ない。そういう状態が長く続いた。

 もちろん今は違う。しかし普通の者達が暮らす町中を訪れる為には、ちょっとした工夫が必要にはなる。それは仕方ない。

 自分の暮らす館からその家並みが見える所よりも、馬車で何日も掛けて行く王都の方が生活的な距離感は遥かに近いのだ。この馬鹿げた事実について考えるとき、ルキアはいつも不快感を覚えた。

 己が尊貴さを示すために人を遠ざける。それも身近な、しかも自分の生活を支えてくれている領民を卑俗だとして遠ざける。

 馬鹿げている。危険でもある。人の愚鈍さにははてがない。

 人間は性質たちの悪い猛獣だ。ついこの間草原を走り回っていたと思えば、今日は空を飛んでいるといった感じで、明日には星々の世界にまで行くかも知れない。

 それは空恐ろしくもある。

 何故神々はこのような存在を野放しにしているのか。自分で作っておいて何故放置するのか。

 きっと神々には愛がないのだ。そうとしか考えられない。

 だがこの世には権力と戦争がある。その自浄作用によって愚者は自滅していく。素晴らしいことだと思う。

 でなければとてもではないが、こんな世界を生きていく気にはならない。

 馬鹿に向かって馬鹿と言っても無駄なのはよくよく判っているので警告はしない。

 忠告もしない。かといって馬鹿が自滅するのを待つほど気が長くもない。

 彼らが崖から転げ落ちるのを見たいとは思わないが、視界から消えて欲しいとは思う。

 だからせっせと馬鹿の背中を崖に向かって後押しするのだ。

 我ながら陰険だと思うし、御し難い性質だとも思うが、神々がそれをルキアの中に置かれたのだ。だったらそれを認めて生きていくしかない。

 神殿の神官達もそれを認めるだろうか? ……いや悩むことだろう。

 素の現実と自分の世界観が衝突したとき、人は大概自分の世界観の方をる。

 今まで出会ったほとんど全ての人間がそうだった。

 現実ではなくて、()()()()()()()()()という自分の世界観の方を採るのだ。

 だから神官達も教典に示された教えではなく、慣れ親しんできた自分の信仰の方を選ぶだろう。

 そこには馬鹿を排除せよとは書いてはいない。それはそうだ。だが汝の敵を愛せとも書いてはいないのだ。それをどう取るか?

 怒りにせよ忍耐にせよ、限度を超えたら相手を排除するしか手は無い。

 ルキアはそう思っているし、事実そのように聖典を読んでいるが、神官達はそうではない。

 むしろその対象を調伏せよ、帰伏させよと説く。そこに神官らの慣れ親しんだ人間観、信仰の有り様がある。

 そしてそれが常に現実や真実を汚泥のように塗り替えてしまう。

 馬鹿げてる。しかしその馬鹿げているところにおそらく人間の本質があるのだ。

 それを尊いと感じるか愚鈍と感じるかは、その時々の状況が決める。

 世界に真実は存在せず、ただ解釈が有るのみとも言えるが、実際には事実が真実へと変わるのが世界であり、単なる事実など何の用にも立たぬものなのだ。

 人に必要なのは真実だが、問題はこの世の全ての人間の持つ真実が、全て正しいというところにある。

 真実と真実との対峙が人の世であり、そこで生きることが神々が定めたもうた人間の宿命なのだ。

 その為にこそ人には意思が与えられているのだとルキアは考えている。

 唯一絶対の力である意思。

 それは強靱な、決して屈せぬ意志の力であり、自己を律し、世界と関わっていく精神の働きである。

 素の現実と自分の世界観が衝突する。

 何故こんなことに。どうしてこうなった。まさかこんなことになるとは。

 魂への一撃を受けて蹌踉よろめいたまさにその時。

 人が、世界に、人生に意思を介在させるべき時とは、そんな時なのだろう。

 そうした機会は日常の中にも存在するが、むしろ運命的な瞬間の中にこそ鋭く立ち現れてくるのだ。

 芝居の台詞ではないがまさしく「人の魂が燃える。アウラシールの一千の花のように」。そうした瞬間が人生にはある。

 その瞬間に自分の人生の手触りがある。その瞬間に人は人生に向き合うのだ。

 要は目の前のことに対して無自覚なのか、そうでないのかという違いだけがあり、それに気付くことが出来れば生きるのが少しは、少しは楽しくなるのだと思う。

 ……そういえばあの男は無事に監獄から出られたのだろうか?

 半ば本人に責任があるとは思うが、あの才能を牢獄に朽ちさせるのは余りに惜しい。

 とにかく、状況に大きな変化が起こった時には動き出さなくてはいけない。

 注意深く大胆に、しかも絶妙の手練を駆使して動くのだ。

 ルキアはそう思っているからこそディブロスに来たのだ。おそらく他の五家はまだ情報の全体像すら掴んではいない事だろう。それを油断というのだ。

 ……と、いつものように行者や神官のようなことをぐだぐだ考えつつも、ルキアはディブロスにやっては来たのだが、余分な人員としてクリュスタが付いてきてしまった。

 しかしこれは予想の範囲内だったからまあいい。

 問題は前もって始めておくべき商売の方だった。

 目標のことを知るためには自分が商売をしてみるのが一番いい。つまり商人になるのだ。

 それもあくまで本気で行なう。でないと経験として役立たないからだ。

 情報として知っている事と、経験として知っている事との間には天地の開きがある。知識というものはそれを人生の中でかせてこそ初めて意味があるのだ。

 ルキアは出来るだけ高い水準で準備をしておきたかった。

 商売を始めるにあたって、まずディブロスでも中心となるローゼンディア人地区は避ける。足が付きやすいからだ。

 となるとダルメキア人地区か、アウラシール人地区という事になる。

 それ以外の地区もあるにはあるが、レメンテム人の地区は宗教に関する規制が強烈なので近づきがたいし、南大陸の連中はどうもよく解らないしで、選択肢から外れる。

 結局店を構えるにはダルメキア人の地区か、アウラシール人の地区しか選択肢がないのだ。

「リムリク商人一人に対して、その他の商人十人」という言葉がある。

 そのぐらいでかからないと勝負にならないという意味だそうだが、それほどに古来アウラシールの商人、特にリムリク地方の商人は凄腕だと言われてきた。

 ならばもう行くしかないという事で、ルキアはアウラシール人地区へ、則ちリムリク商人が集まる街区へと出店を決めた。

 決めたはいいが店舗を借りる交渉の段階で早くも首をひねることになった。

 まず定価という観念がアウラシールにはない。物の値段が場所や状況によって変わるのは当たり前だが、大体の目安というものがある。そうでないと生活に困るからだ。

 それを相場という。野菜一束なら幾らくらいか、小麦を一袋なら幾らくらいか、そうしたいわば値段感覚の事だ。

 商売は、特に食料日用品にはそうした相場があるのが常識だ。そしてその相場によって値段の、大体の目安が付く。ローゼンディアではそうなっている。

 だから大体の物の値段はほぼ決まっていると言ってよい。それを定価という。

 ところがアウラシールにはそれがない。無いという話だった。だが相場はあるのだという。

 相場はあるが定価がないとは妙な話ではあるが、そうなのだから仕方ない。

 実際接してみると、食料日用品については値段が変動するものの、まあローゼンディアと同じように買い物が出来た。

 一種懸値(かけね)と言ってしまってもよいのだが、必ず吹っ掛けられるというわけでもないのがややこしい。

 問題は高級品とか大きな買い物の方で、こちらは文字通りの懸値になる。だから腰を据えた交渉が必要になる。

 場合に寄っては一日掛かりの交渉になるのでかなり大変だが、ルキアの見たところ、アウラシールの人々はそれを楽しんでいる風でもある。

 売り手と買い手が雑談混じりにじっくりと話し合うのだ。時間さえ有れば、それも悪くないと思えなくもない。

 ともかく、アウラシールでは交渉によってものの値段が決まるのだ。

 これはアウラシールのほぼ全域にわたって通用する事実であり、常識だと言っていい。

 もう一つ困ったのは不動産の記録方式だった。

 アウラシールでは不動産の記述方法が変わっているのか、それともダルメキアでもそうなのか、またはもっと多くの国でもそうなのかは判らない。

 判らないが、少なくともローゼンディアでは不動産を売買したり貸借たいしゃくしたりする際には必ず物件の状態とか、大きさ、敷地の面積などについての記述がある。

 だがアウラシールにはその感覚は無いらしい。というかリムリクにはないのだろうか。

 一応そんな話を聞いてはいたが、物件の紹介を受けた時にはやはりそうなのかと思ったものだ。

 簡単な図面の中央にはルキアが借りようと思っている物件の位置が示してあり、正面は道路。背後は共用の中庭。左にはビヤール・ナブ・ハッサダ・ナブ・ダブラ・アヌン=ルカブの店、右にはマムー・ナブ・セブル・ナブ・ハティカ・アヌン=ラルの店と書いてあった。

 この『誰それの店』とか『ジャバルハディ商会倉庫』とかいう記述だけはやけにくわしく、ルキアが借りる店舗には隣接していない店舖や倉庫についてまでも書いてある。

 どの建物も中庭に面するように作ってあるために道はくねくねと折れ曲り、真っ直ぐな道路というものが余り見られない。都市計画という発想自体を放棄したような造りになっているのだ。

 しかしお蔭で最初の紹介図面だけで、近隣の店舗について大体の位置関係が判ってしまった。

 もっとも最重要だと思える借りたい物件の間口や造り、どの程度古びているのかなどは一切書いていなかったが。

 その事については直に現場に足を運べという事らしく、仕方なくルキアは変装して現場に足を運んだ。

 そして市場ダームの魅力にやられたのだ。

 それは美しき渾沌とでも言えるようなきらめく世界だった。

 そんな怪しいアウラシールの市場ダームで、ルキアが始めたのは石鹸屋である。

 正確には「最初は石鹸屋だった」と言うのが正しい。

 今では他の物も取り扱っているし、近隣の店と同じく、段々何をやっているのか判らない店になりつつあるからだ。

 お香や香水も置いている。リムリク地方に限らずアウラシールではこれらの需要が大きいが、それに見合った供給が出来ない事情がある。

 お香を作るには香木などの材料が必要になるし、香水を作るためには精油が必要になる。

 香木などの材料は遥か東方の暗黒海に多く、取りに行くのは命懸けの仕事である。

 それに比べれば香水作りはまだ難易度が低いと言えるが、精油の確保にはかなりの面積の花園が必要になる。これがアウラシールでは難しい。

 水の問題もあるが、いくつかの要因が絡み合ってアウラシールでは広大な花園を作る事は難しいのだ。

 だから香水は売れる。飛ぶように売れる。お香も売れるが、どちらかというと個人ではなく神殿などの買い手が多い。

 しかもルキアはお香や香水にうるさいゼメレス族の人間である。幼い頃から色々な匂いを体験しており、この分野に関しては有利さがあった。

 お香と香水を置くと結果的に香料全般を置く事になり、食料品も商品にざるようになってきた。蝋燭まで入荷してきた。

 それでもまだ一応主力は石鹸だという認識がルキアにはあったので、目立つところに石鹸を置いていると、客の中に糸瓜へちまや垢擦りはないのかと聞いてくる者が増えてきた。せっかくだから一箇所で買い物を済ませたいのだろうと思いきや、そういう客に接している内に、どうもそれだけではないらしいと気付いた。

 彼ら彼女らはルキアの店で買い物をしたいのだ。

 それはルキアの信用が一定の水準を持っているという事の何よりの証明であり、その事を実感したときは何とも言えない喜びが身の内に溢れてきた。

 気をよくして糸瓜を置き、垢擦りを置いて売り始めた。すると隣で商売をしているビヤール・ハッサダが、風呂場の補修に使う彩色タイルも売らないかと持ちかけてきた。

 なんでも信用できる人を紹介してくれるという。

 言われるままに会ってみるとナクバ・ナブ・ムルバク・ナブ・グヌンバク・アヌン=パルビニという四十歳くらいのリムリク商人で、タイル工場の経営者だった。

 しかし行商も行なっていて、ディブロスの近くの村々はもちろん、ザナカンダやエルメサへも商売に出掛けるという。

 ナクバと話している内に気に入られたらしく、新しい工場を作りたいので共同出資しないかと持ちかけられた。面白そうなので乗ってみた。

 気が付いたら、石鹸と香料を中心に風呂場用品全般と補修用建材を売っていて、時々飛び込みで入荷する乾物や、小麦(ふる)い器などの生活雑貨も売り、しかも工場の経営者まで兼務していた。もはや何屋なのか判らない。

 客は『エルミラの店』という知識だけでやって来る。エルミラというのは店を出すにあたって考えた偽名だ。まさか本名で商売をするわけにはいかない。

 客は大体が馴染みの人々だが、一見さんも入ってくる。近所の店と同じで看板も出していない。呼び込みなどもしていない。

 だけど繁盛している。

 ルキアはリムリク商人、成功者への道を着実に歩んでいるというわけだった。

 そんなわけで商売は物凄く面白かったが、だからといって毎日店に出るわけにもいかない。

 表向きは休暇で来ているとはいえ、ルキアはゼメレス族では宗家に次ぐ格式を持った東方鉄弓家、しかもその筆頭家の跡取りである。

 それがディブロスに来ていると聞けば、ローゼンディア人貴族達だけでなくダルメキア人の貴族や、その他の国々の貴族達、そして大商人、高位の聖職者達までもが色めき立つのは仕方ない事だった。

 連日にわたってうんざりするほどの招待状や面会の申し込みが舞い込んでくる。

 それも本国領地や、都の本邸に居たときよりも多い数となれば、如何いかに社交の達人ルキアといえども処理する事に食傷気味になってくる。

 店の経営はその息抜きとして打って付けの場所だったが、考えてみると店の経営の方がディブロスに来た本当の目的であり、貴族や聖職者達との社交の方がむしろそのおまけなのだ。

 しかし後者の方がずっと余分に時間を取られるために、時々どちらが重心を置くべき活動なのかルキア自身判らなくなる事がある。それに気付くたびに情けないやら馬鹿らしいやら、ちょっと複雑な心境になるのだった。

 ゼメレス館から出る時には行き付けの学院や神殿を名目にして、その実せっせと自分の店へと商売に通ったが、無論その行動の全てを秘密にしておけるわけもない。

 こういう時のために身の回りには信頼できる人間達がいるのだ。

「お嬢さま」

 奥で、と言っても狭い店だ。店先の商品のすぐ裏手で書類を書いていたメイファムが声を掛けてきた。外にいるときは「お嬢さま」と呼ぶように伝えてあるのだ。

「なあに?」

「午後からは館に帰っていただかないとなりません」

 返事の代わりにルキアは溜め息を吐いた。メイファムに眼をやる。

 メイファム・エストリタ・テルミオスは、凜々しいという表現がしっくりくるゼメレス美人である。

 その髪は黒かったが、瞳は見事な青色をしている。彼女の父親は戦神の末裔(イスタリヘーレイ)なのだ。

 その父親によって幼いときから鍛え上げられており、一級品の戦士としての実力を持っている。

 どんな時でもルキアの側にあり、最も信頼できる人間の一人であった。

 メイファムは顔を上げずに書類に向かっている。

 実直な性格がその仕草に現れていて、凄く真面目に仕事をしているように見えるが、残念ながら商売上の書類を書いているわけではなかった。

 ルキアに来た招待状への返事や、面会希望者への返事を書いているのだ。

 こんなところまで私生活が汚染を拡げているのだと思うと、ルキアはわらいたくなる。

 しかも返事の手紙に使うのはラビュラス紙ラビュラディエ・テピクスである。香木皮紙とも言われ、故郷のトラケス地方でしか作られることのない最上級のテピクスだ。

 本来ならば招待状だの、個人的な返事だのを書くために使うべき紙ではない。ルキアはそう思っているが、これ以外の選択肢はないのである。

 実に下らない理由だが、要するに東方鉄弓家筆頭、ベルディアス流ゼメレス家としての格式を示すためである。

 要するに相手を威圧するためにこんな素晴らしい紙を使っているのだ。しかしこれ以外の紙を使えばおそらく見識が疑われることになるだろう。

 ラビュラス紙は何よりも史書に使われるべきである。それだけの耐久性を持っているからだ。それにラビュラス紙には虫が付かない。これは長期保存のための紙なのである。

 だから重要な史書や学術書、あるいは芸術のための用途が相応ふさわしい。それを気軽に招待状やら返信やらに使う方がどうかしているのだ。

 そんな事のためにこの素晴らしい紙を使用するのは大いに気が引けるところなのだが、これ以外の選択肢はない。それはルキア一人の希望でどうにかなるものでは無いのだ。

 贅沢と冒涜の境界線は曖昧だ。人の世の階段を上がれば上がるほど、その境界は見えにくくなっていく。

 己の足で登る力と、人の手で押し上げる力とがそこには働いている。それゆえに個人の意思で状況を動かすのは難しい。

 ルキアが坐っている背後の棚には石鹸が積まれており、先日入荷した髪用の香油の瓶がその隣に並んでいた。

 この香油は柑橘の風味を付けた新作であり、爽やかな使い心地が素晴らしい。調合師も自信作だと胸を張っていた。

 これは売れるとルキアは踏んでいるので多めに仕入れている。つまり場所を取っている。

 横手にも物が積まれているので、残された僅かな空間に机を出して墨壷を置き、メイファムは硬筆を走らせていた。ゼメレス族であるから筆の方が手慣れているが、宗家の近衛兵団に所属していただけあってメイファムは硬筆も上手く使いこなす事が出来た。

 角張った、ナーラキア語のような綺麗な文字をメイファムは書く。良い意味で性格が出ているとルキアは思う。

 店が狭いのは金がないからではなく、この辺りの物件は全部小さく、狭い物が多いからだった。

 これはアウラシール人の特徴で、入り口も店構えも小さいが、奥には黄金が蓄えられている、といった造りを好むためだ。

 だからアウラシール人の店を外見から判断してはいけない。扉を開けて中に入ると一転してそこは綺羅きらびやかな世界だった、などという事は珍しくない。

 メイファムは表向きルキアの秘書という事になっているが、実はルキアの家に仕える家臣である。

 二人の関係は元々は、家臣の家の中から主家の子供に見合った同性の子供を選び出し、従者兼遊び友達としてあてがうという王侯の習慣から生じたものだった。

 しかし長い時間を共に過ごした結果、今では単なる主従というよりも、むしろ幼馴染みのような間柄になっていた。

 ルキアとしては姉妹のようだと言いたいところだが、そこには厳然とした身分の差がある。

 だからその言葉を口に出すわけにはいかないし、言ったところでメイファムも戸惑うだろう。

 ルキアが店に出る時には必ずこのメイファムが付いてきた。

 護衛という事もあるが何より、最も信頼できる人間の一人なのである。ルキアとしても頼りにしているのだ。

 二人は店に出てはいるが、まだ開店してはいない。営業開始にはまだ時間があった。

「エルミラ。そろそろ行こうか」

 隣のマムー・ラルが顔を覗かせてそう言った。

 朝のお茶会の時間なのだ。実はお茶会は朝に限らずちょくちょく開かれているが、誰もそのことを問題視しない。

「そうね。行きましょうかメレス」

 ルキアの偽名がエルミラならメイファムの偽名はメレスである。

 二人は店のはす向かいにあるお茶会場所へと向かった。

 すぐ近くのそこは、ジャバルハディ商会の前で、この店では銅製の食器や、真鍮の茶器などの食器類と、手袋や綿織物、香料を売っているが、飴や菓子、豆類も売っている。どれが専門ということはなく、どれもが専門とも言え、つまりはよくあるリムリク商人の店だ。

 香料を売っているのはルキアも同じなので、その点商売が被るのだが、意外な事に商売敵にはなっていない。むしろ互いに相手のお蔭で自分の商売が助かっている面がある。

 お互いに客を紹介し合うし、相手の店に、自分の店の物より良い品があれば抵抗なく相手の店に行く事を客に勧めている。どちらで買うかの選択権は客にあるのだ。

 客を奪い合う、ということはアウラシールでは、少なくともここではない。

 その店の前がこの近隣の店主がつどうお茶会の場であり、今も商品搬入用の木箱を裏返してそこにクヮデレムを置き、茶を沸かしていた。

 クヮデレムは湯を沸かす為の金属製の容器で、ローゼンディアではカペレースという。

 お茶屋のスウィーク・ワハルが盆に載せた茶を皆に配っていく。

 アウラシール風の香草茶ではなく牛乳と砂糖を入れた紅トラナ茶だ。リムリク商人たちのお茶会なので基本的には香草茶が多いのだが、ここはローゼンディアの植民都市ディブロスである。トラナ茶も結構流通量しているので、お茶会の際にこうして出されることもあるのだ。

 真鍮製の小さな茶器を銘々が礼を言って受け取る。

 幾つかの椅子が道に置かれており、近所の商店主達が揃っている。いつも通りの顔ぶれだ。

「はい、エルミラ。砂糖サハルは少な目にしておいたよ」

「ありがとう」

 ルキアも笑顔で礼を言って受け取り、自分の椅子に腰かけた。メイファムもそうする。

 砂糖サハルを少な目というのは、アウラシールの人たちは恐ろしく甘いお茶を飲むからだ。飲み終えた器の底に溶け残った砂糖がどろりと現れることさえある。

 ローゼンディア人はそこまで甘くしないし、ましてやルキアはお茶に卓越したゼメレス族の出身である。

 故郷のトラケス地方では茶と言えば大体は何も入れないで飲むものであって、牛乳や蜂蜜、砂糖などを加えて飲む赤トラナ茶などはむしろ例外に属する。

 アウラシールより砂糖が伝来してからは、茶とは砂糖を加えて飲むものだと思っているローゼンディア貴族が多いようだが冗談ではない。

 基本的にはほとんどの茶が、牛乳や砂糖に限らず一切余分なものを入れないで、そのままに飲むものなのだ。

 そしてトラケス地方では料理に砂糖サハルを使うということもまずあり得ない。少なくともルキアは知らない。

 甘みが必要な料理には蜂蜜や水飴を使うのだ。他氏族の、特に貴族はその事を知ると驚くと言われるが、トラケス地方では料理に砂糖サハルは使わない。砂糖サハルが使われるのはお菓子だけである。

 もちろん使うとなれば徹底的にこだわるのがトラケス流であるから、用途に応じて様々な種類の砂糖を使い分ける。王都の貴族たちのように白砂糖フェトラ・サハルや、最高級の氷砂糖グラッシャールばかりをとうとんだりはしない。

 価格が、精製の等級がそのまま価値を示すわけではないのだ。

 単純に甘味の強さだけを比べても、白砂糖フェトラ・サハルよりも黄砂糖イェレン・サハルの方が強いし、更に等級が下とされる赤砂糖カディト・サハルにも、それでしか得られない風味や旨みというものがある。

 それを認め、その魅力実力を限界まで引き出そうとするのがトラケス料理の心意気である。

 そしてその結果生み出されたのが『研ぎ砂糖(メルシャリエ)』と呼ばれる独特な砂糖であった。トラケスの高級菓子にはこの砂糖が使われる。

 複雑な製法で作り出される高級な砂糖であり、トラケス地方では白砂糖以上の最上級品だが、その存在は余り知られていない。

 しかも見た目が淡い黄色をしているために、その価値を知らない者にとっては白砂糖フェトラ・サハル以下のものだと勘違いされてしまう。黄砂糖イェレン・サハルの一種と見做みなされてしまうためだ。だから他の地方では高い等級は付けられていない。

 しかし研ぎ砂糖(メルシャリエ)を用いて作られるトラケスの高級菓子は、甘味を好む貴族達の間では有名である。その味の素晴らしさから別格のものとされているのだ。

 研ぎ砂糖(メルシャリエ)によって生み出される甘さは格別である。

 全くしつこさがなく、砂糖に有りがちな重さというものを感じさせない。

 まるで雪でも含んだときのようにさらりと口の中で溶けて消えていく。後に残るのは爽やかな風味だけである。

 ローゼンディアには「何大料理」という言い方がある。

 王国各地の郷土料理を採り上げて、優れたものを上から三つとか七つとか選んだものだが、まずほとんどの者が最初に挙げるのがトラケス料理だ。

 自負心の高い王都の貴族たちは認めたがらないが、それほどトラケスの料理は素晴らしいとされている。

 王都のオギュルエ料理や、西部のロスメニア料理などは美食の誉れ高く、この手の有名料理序列では必ず含まれるものだが、それら指折りの美食も実はトラケス料理が源流なのだ。

 そのトラケス料理では、お菓子にだけ砂糖を使う。ここで使われるのが研ぎ砂糖(メルシャリエ)なのである。

 そしてトラケスのお菓子は基本的に茶席菓子なので、必ず茶の存在が前提される。

 ロスメニア料理が葡萄酒の存在を前提に発達したように、トラケスの菓子はお茶の存在を抜きには語れない。そこには長い文化的な伝統があるのだ。

 菓子の中心になるのはコエム豆と小麦粉、そしてネモラケと言われる芋の粉である。

 甘味には砂糖だけでなく蜂蜜や糖蜜、時には甘葛の汁などまでを使い分ける。

 他地方の菓子との最大の違いは豆を甘くして餡を作ることだが、これが実に奥深く、豆と砂糖しか使わないため、味に全く誤魔化しが効かない。

 一見、制作過程は素朴で単純だが、その実とんでもない技巧が要求される菓子なのだ。

 トラケス地方の職人以外ではどうしても本来の味が出せない菓子として知られており、美食家の垂涎の的となっている。

 しかもほとんどの菓子が日保ちがしないため、実質トラケスの領域外ではまず味わうことが出来ない……ルキアのように本国から職人を連れて来ていれば別だが。

 トラケスの菓子には不文律がある。

 曰く、「菓子の甘さはコモの実を越えてはならない」

 コモはトラケス地方では一般的な果樹である。その熟れた果実はそれだけで十分に甘く、秋になるとトラケスの人々を楽しませるものだが、菓子の甘さは、その甘さを越えることがないように……という意味である。

 そうした上品で衝撃的な菓子を食べてきたルキアである。

 だから強い甘味というものが正直苦手なのであった。

「本当にその甘さでいいのかい?」

 それだと疲れが取れないよ? そういう含みを持っているであろう問いかけである。

 スウィーク・ワハルは心配して言ってくれているのだろうが、逆にこれ以上甘いと気持ち悪くなってしまう。

 初めてアウラシールの砂糖ごってり茶を飲まされた時にはせた。後味に苦しめられ、胸焼けとはこれかと思った。

「いえ。これがいいのよ」

 ルキアは真面目な顔をしてそう答えた。甘くされてはたまらない。

 おはよう。いい朝だね。そんな挨拶が交わされてから世間話が始まる。

 話の内容は多岐にわたる。仲間内の四方山よもやま話から、政治や、商売などの話まで、非常に幅広い。

「エルミラ。この間はありがとう」

「どういたしまして。こちらも楽しかったわ」

 少し縮れた短い黒髪の青年は、グルカフィ商店の店主ダウズだ。

 ルキアが言うのもどうかと思うが、まだ若い。聞くと数えで二十歳になったばかりという。

 先日妹のマティシャが結婚し、ルキアもその結婚式に呼ばれたのだ。とても楽しい結婚式だった。

 正直、今までに参加したどの結婚式よりも楽しい時を過ごせた。

 ルキアは心からマティシャの結婚を祝い、彼女の人生が幸福に包まれることを祈った。

 そしてそれだけでよかった。その他のことを考えたり、配慮したりする必要がなかったのだ。なんて素晴らしい結婚式だったろうか。

「あとで男達がうるさかったよ。みんなエルミラのことを俺に聞いてきてさ」

「まあ」

 ルキアは微笑んだ。ダウズがじっと視線を注いできたが何も言わない。うすうす感じるものはあるがルキアとしても今は触れる気はなかった。

「おはようエルミラ」

 青年のすぐ隣にはよく似た顔立ちの少年がいる。こちらは弟のウルスニ。十一歳。グルカフィ商店は兄弟二人の経営だ。

「ええ。おはようウルスニ。いい朝ね」

 二人の父親は井戸掘り職人だが、この二人は親とは別の商売をしている。

 特殊な技術が必要なため、アウラシールでは井戸掘り職人は世襲率がとても高いと聞いていたのだが、そうとは限らないようだ。

 聞けばダウズの二人の兄が父親を手伝って井戸掘り職人をしているという。

 この兄弟の事例でも判るように、アウラシールでは必ずしも子供が親の職業を継ぐとは限らない。人々は自分に合った仕事、興味のある仕事を見付けると、気軽にそれに関わる傾向がある。

 しかもそれが軌道に乗ればすぐに商売替えをしてしまう傾向もあるので、職業で人を区別する考え方に慣れていると訳がわからなくなる事がままある。

 ここでは職業よりも先に人間が来る。

「何かの仕事、商売をやっている誰か」ではなく、「誰かが何かをやっている」という順番で世の中が動いているのだ。

 実際ルキアも何屋かと聞かれた事はない。誰もが「エルミラの店」と言い、そこに行けば何が手に入るか、という情報があれば十分なのだ。

 ルキアは既に自分が石鹸屋だという認識は捨てている。ここでは自分の商売を限定しようとすれば狂うしかない。この場に居る店主達、誰に聞いても「自分は商人ダッカームだ」とは答えるが、「何屋であるか?」との問いには答えられない。そう尋ねると不思議そうな顔をされる。そういう思考を持たない人々なのだ。

 ところが彼らは「何をあきなっているか?」ならば答えられるのだ。

 この微妙な違いを理解しないとリムリク商人の生活様式は理解できない。

 アウラシールでは市場の事をダームという。そして商人の事をダッカームという。

 しかしダッカームはそのままローゼンディア語での『商人』を意味しない。何故なら客の事もダッカームと言うことがあるからだ。

 つまり市場にいる人間はみんなダッカームなのである。その意味でダッカームは『市場参加者』とでも訳すのが適当なのだろう。

 更に売買を意味する動詞の使い方も怪訝おかしい。

「売る」はデゥル、「買う」はアッファというのだが、外国人には困った事に、時にはこれが逆の意味で使われることがある。

 これはイデラ語やアウラシール語に見られる語法で、意味の階層表現から来ている現象だが、そうなると「売る」が「買う」で「買う」が「売る」となり……と本当に訳がわからなくなる。

 こうした全てに対応していかないといけない。でなければ狂うしかない。

 アウラシールでの商売は本当に一筋縄ではいかないのだ。

 グルカフィ商店は主に敷物と陶器を売っている。敷物にはハルジットから仕入れた高級な絨毯タフィートなども含まれる。陶器は主にジルバラやローゼンディアの物を売っている。

 この店を始める前はダウズはクヮデレム職人の修行をしていたらしい。だから店にはクヮデレムも置かれている。色々な種類の物があって面白いし、店主のダウズの説明を聞くのも楽しい。

 ダウズは月に十日程は行商に出掛ける。近隣の村々を回って敷物や皿などを売るのだが、その際にクヮデレムの修理を頼まれる事が多いという。

 ちなみにダウズが店を空けている間はウルスニが店主になる。こんな子供を店番に置いて大丈夫なのかと思う所だが、大丈夫なのだ。立派に店主をやっている。

「どうですお客さん。寄っていきませんか? お茶をお出ししますよ」

 店主の椅子に坐ってそんな風に客に声を掛けたりしているのだ。すでに一端いっぱしの風格すら漂わせているのだから恐れ入る。

 たくましいというかしっかりしてるというか、とにかくルキアの常識外の光景に最初は驚いた。

 しっかりしていると言えば兄のダウズも相当なものだ。

 この街区に来てまだ新参のルキアを家族の結婚式に呼んでくれたり、何かと気を遣ってくれる。

 それはそうだ。何せローゼンディア人の若い女が、アウラシール人の街区で商売を始めようというのだ。誰だって気になるところだろう。

 しかもそれでいて余計な穿鑿せんさくはしてこない。まだ若いのにしっかりしているのだ。

 周囲に対してそれだけ心配りが出来るという事は、意識の水準が高いのだ。

 もう六十歳を越えるというのに頭も心も幼児のような貴族だっている。そんな者たちを見ているだけに、ルキアにはダウズが立派だと感じられた。

「マティシャが結婚したのにお前は結婚せんのか?」

 茶を飲んでいたベルゼルが口を開いた。彼はニブルスル商店の店主で、元交易商人だ。

 今はこの地区に店を構えて落ち着いているが、アンケヌやザナカンダくらいまでなら、年に一、二度は隊商を組んで出掛ける事がある。

 背は余り高くないが骨太のしっかりした体型で、砂漠の日射しにさんざん焼かれた所為か肌はとてもよく日焼けしている。髪も髭も白いが肌にはまだ艶があり、見かけ程には老けていない。

 いつも白い長衣ケスを着て、白の頭布ハーティカを被っている。お茶と水煙管みずぎせるが彼の必需品だ。

「いい相手が居ないんですよ」

「そりゃ自分で見付けるもんさ」

 ベルゼルの言葉に皆が笑う。

「結婚は早くした方がいいぞ。子育てには体力が必要だ」

 ルキアの左隣で商売しているビヤール・ハッサダが言う。彼は六人の子持ちで、主に衣料品を取り扱っている。主力商品は日常用の衣類だが、高級品も置いている。店の奥にはローゼンディアの絹織物ラスキスがあると言うが、ルキアは見た事はない。

 絹織物ラスキスは日差しに弱く、店先に出せないということもあるが、何よりも超が付く高級品だからだ。庶民がおいそれと目にできる物ではない。

 ラスキスは独特の光沢を持った美しい布だが、それだけでなく、素肌に優しいと言われる。軽くなめらかな肌触りをしているからだ。

 更に吸放湿性にも優れた特性を持ち、これで作られた衣服は極めて着心地が好い。

 美しいだけでなく多くの点で優れた布地なのである。

 当然、諸国の女性たちはもちろん、富裕層なら誰もが憧れるものとなっている。

 ただし生産量に対して需要の方が圧倒的に多いため、価格が非常に高い。

 ローゼンディア王国内ならばまだしも、富裕な者なら手に入れられる余地がそれなりにある。

 だがアウラシールのような外国となれば、目眩がするような値段になるに違いない。おそらくは相当な財力がなければ手に入れられないだろう。

 なにせラスキスはローゼンディアのトラケス地方でしか産しない。その製法は秘伝であり、ルキアですら精しくは知らない。

 ローゼンディアの他地方に出回るのは製品となった布地だけだ。それはトラケスでは反物クリュースと呼ばれる。

 その反物クリュースになる前の糸すら、トラケスの領域外に出ることは滅多に無い。

 トラケスの歴史上、ラスキスの秘密を探ろうとする者は全て殺されてきた。そのことをゼメレス族の闇だなどと言う者もある。

 しかしゼメレス族にはテピクスの製法を開示することでローゼンディアに、いや広く世界人類に対して大きく貢献したという自負がある。

 この上(ラスキス)の製法まで公開しろというのは、虫が良すぎるというものではないか。

 テピクスの製法は開示してもラスキスの製法は開示しない。それがゼメレス族の不文律なのである。おそらくはこの先も永久に。

 とまれ絹織物ラスキスなら多く目にしてきているルキアである。

 もしもビヤール・ハッサダが見せてくれるならば、きっと見知ったものが有ると思うのだが……まあ見ることはあるまい。余程の金持ち客が買い求めに来たところへ居合わせるのでもない限りは。

「まあまあ。ダウズはまだ若いんだし、いずれラヌハサのお導きがありますよ」

 マムー・ラルが穏やかに言う。彼はルキアの右隣で商売をしている。珍しくほぼ専門のお茶屋だ。

 お茶屋と言ってもスウィーク・ワハルのように直にお茶を売るのではない。

 茶葉となるトラナや、香草茶となるリヴァーフを中心に、風味を加える為のアルメタなどの香草や、蜂蜜、砂糖なども売っている。卸売りが本業だが小売りもやっていて、そちらの客も多い。

 お茶の他には金細工物を売っていて、こちらは知人の金細工師の作品を売っているのだという。

 金細工と言えばリムリク地方では都市ベルガトの物が非常に有名だが、その金細工師はベルガトで修行したのだという。

 マムー・ラルは上品な風貌をした男性で、焦げ茶色の髪と髭をしている。

 その家系はダルメキアの貴族だというが、本人から聞いたわけではないので詳しくは知らない。現在三十五歳で独身だが、愛人はいるらしい。

 彼が口に出したラヌハサというのは、アウラシールの神々の内では最も良く知られているあけぼの黄昏たそがれつかさどる女神である。広く信仰を集めていて、アウラシールだけではなくダルメキアやローゼンディアにまで信者がいる。

 その象徴は夜明けと夕闇を飾る輝きの星であり、愛と戦いの女神であるという。

「おう。みんな揃ってるな」

 店の中に入っていたガンティが戻って来た。彼はジャバルハディ商会の店主であり、お茶会の場所を提供してくれているのだ。

「そういえばみんな、この間の騒ぎの理由が判ったぞ」

「ほう。なんだったんだ?」

 ベルゼルが興味を示した。

しばらく前からローゼンディアの大貴族がここに来ているらしい」

「ああそりゃ俺も公衆浴場ハルサブルで聞いた。なんか相当な大貴族らしいな」

 嫌な予感がした。

「何でもここの執政家すら敬意を払う程の貴族様だとか」

「ほう。そりゃ凄いな」

 執政というのはここディブロスの統治者であり、ローゼンディア王によって任命された者がその任に当たる。

 任命については特別な条件はなく、王が適任と考える者ならば、誰もが任命される可能性がある。

 しかし実際はディブロスの執政職は海神の末裔(ゼフルヘーレイ)の独占物となっているのだ。

 それは三家の持ち回りで世襲されており、この三家の者以外がディブロスの執政になる事はない。

 その三家とはアナクシス、ベルギルス、フィロディアスの三家であり海神の末裔(ゼフルヘーレイ)宗家、則ち海王グライアス家を支える三海将家である。

 それぞれがミスタリア海を取り囲む三つの海に支配権を樹立しており、海上では無敵と言える程の絶大な力を持っているという。

 この三家による執政職の独占については法的根拠があるわけではない。

 長い間の慣習上でそうなっているだけだが、そこには王家を含めた王国七宗家の間での利権配分という問題が横たわっている。

 だから七宗家の誰もその独占に対して文句を言わないし、もし言えば逆に自分の利権について文句を言われてしまう危険があった。

 貴族の言葉で言えば「大人になって目を瞑れ」という事になるのだが、何が大人だとルキアは思う。状況を単に放置して面倒くさがっているだけではないか。

 大人というのは怠惰を言い換えたものだと言えばそれまでだし、実際そういう面も極めて大きいのだろうが、変化し続けていく事を放棄して何の生甲斐があるのか。そもそもそれはヴァリア教でも強く批判されていることではないか。

 いずれ怠惰な馬鹿者共は、寿命なり戦死なりして地上から消え失せるのだろうが、そうしたら今度は次の馬鹿が湧いてくる。まるで牧場の雑草だ。

 妥協するつもりはないが、たとえ利益配分から始まった現実であっても、長い間には、そこに合理的な秩序が形成される事もあるだろう。

 その位はルキアも考える。考えるがやはり釈然としきれないものは残る。

 しかし今は他の宗族のやり口について思案しているときではない。まず自分の宗族の問題を考えねばならぬのだ。

 現在のディブロス執政家はフィロディアス家である。つまりその一族がこのディブロスを支配しているわけだ。

 取り立てて良い評判も聞かなければ悪い評判も聞かないから、ああ見えて中々の遣り手なのかも知れない。

 ディブロスに着いてすぐにルキアは執政館を訪れている。

 その時の印象ではごく平均的な貴族というだけだったが、意外に有能なのか。それか優秀な官僚が補佐に付いているのか。

 どちらにしろ生活している庶民の間に不満や苦しみが少なければ良いのだ。

 悪政などいくらでも激しくなる事が出来るのだから、現状でよしとする事は賢明な判断の内に入るだろう。

「エルミラは何か知っているかい?」

 ガンティが尋ねてきた。来たなという感じだった。ローゼンディア人の自分に必ず聞いてくるだろうと思っていたのだ。

「ええ……話には聞いたわ。狩猟神の末裔(ダルフォイヘーレイ)の大貴族様だとか」

狩猟神の末裔(ダルフォイヘーレイ)? それって確か、二つあるんだよね?」

 意外にガンティは詳しい。

「ええ、今来ているのは東の方の狩猟神の末裔(ダルフォイヘーレイ)。ゼメレス族の御方らしいわ」

「ふうん。どこに領国があるの?」

「トラケス地方よ。ええと……カプリアから二つの山脈を越えて反対側になるわね」

 ディブロスは海に面しているという位置関係上、距離的には西方ゼフロシア地方の方が遠くとも、実際の往来には海を挟んでいるために心理的な距離は近く感じるのだ。

 何しろ船が使える。陸路で行くトラケス地方の方が遠く感じてしまうのである。

「じゃあ戦神の末裔(イスタリヘーレイ)の国の近くじゃないのかい?」

 同じ森を共有しているけどトラケス地方の方がもっと西北にある。

 心の中でそう思ったが、それは言わなかった。

「うーん……私もあんまり詳しくは知らないのよ。結構離れているから。けど領地は接しているはずよ」

「じゃあおっかない連中だって事だな」

 水煙管から口を離してベルゼルが呟いた。

 西方世界で嵐神の末裔(ドヌスヘーレイ)がそうされるように、戦神の末裔(イスタリヘーレイ)はアウラシールでは畏怖される存在である。

「どういう連中なんだろうね」

「女性が家を継ぐので有名よ」

「へえ? でもローゼンディアでは珍しくもないんじゃないのかい?」

 ガンティが不思議そうな顔をした。

「違うわ。ゼメレス族ではほぼ間違いなく女性が家を継ぐのよ。男性が家長になる事はまずないらしいわ」

「へええええ……」

 心底不思議そうにガンティが頷く。確かに、アウラシールにあっては考えられない事だろう。

「あの辺りはラシュメルタ王国もありますね。あの国も支配者は女王だし、男性が政治に参加する事はないと聞きます」

 マムー・ラルが口を挟んだ。ラシュメルタ王国はイオルテス地方とカサントス地方に接する形で存在する独立国で、古来ローゼンディアとは友好的な関係を築いてきている。

 この国は女性家督を更に推し進めた独特な社会構造をしており、最高権威者として女王が君臨している。女王の元に国全体が強力に統率されているのだ。

 一般には雀蜂の国と呼ばれ、聖なる六角形と呼ばれる象徴を神聖視する。

 彼女らは独特の構造をした建造物を作り、あらゆる物にその形象が多用されるのだ。

 そしてその産業は傭兵である。屈強な女戦士達が国外に出て稼いでくるのである。

 女性を男性以下と捉えるアウラシールであっても、ラシュメルタの傭兵の評価はとても高い。それだけの実績があるからだ。

「やっぱりおっかない連中じゃないか」

「まあまあ。我々の文化と違うからといって、そう否定的に捉えるのは良くありませんよ」

 マムー・ラルがベルゼルに穏やかに注意する。

「けどこの間の騒ぎは結構なもんだったらしいじゃないか。輿こしに乗った娘が金切り声でずいぶんわめいてたっていうぞ」

 ああ、嫌な予感が当たった。ルキアはそう思った。

「でもまだその娘が件のゼメレス族の大貴族とは限らないでしょう?」

 いいえ。そうなんです。間違いありません。

「まだはっきりしないのに決め付けるのは良くありませんよ」

「それはお前さんの言う通りだが、ガンティの話によるとその辺がはっきりしたってことなんじゃないのか? そうなんだろう?」

 ベルゼルがガンティに顔を向ける。

「ああ。その時騒いでいたっていうのがそのゼメレス族の大貴族らしい」

「一体何でそんなことになったんだ?」

「そこまでは知らん。通行人と揉めたらしいが」

「狭い路地に輿に乗って入ってくる方が悪い」

 はい。よく言って聞かせます。ルキアは心の中でベルゼルにそう答えた。

 困った事になったと思っていると、不意に服の裾を引っぱられた。相手を見るとウルスニだった。

「なあに?」

「エルミラのお店にお客さんが来ているよ」

 言われて見ると、確かに店の前に女性が佇んでいる。

「あら大変。みんなごめんなさい。少し戻るわね」

「ああ。商売が上手く行きますように」

「おお、行ってこい行ってこい」

 ガンティとベルゼルに送り出され、急いで店に戻った。

 女性は前にも来た事のある人だった。少し話して石鹸を二つと、香油を一瓶買ってもらい、そのまま開店準備に戻った。

 お茶会の間も終始無言だったメイファムは、またルキアの書類を代筆する作業に戻った。

 彼女は無愛想だが根性が悪いわけではない。むしろ優しい心根を持っている。

 ただ、誤解されやすい。それは確かだ。

 お茶会はまだ続いてるようだったが、ルキアは店を始める事にした。

 狭い店だし看板などもないので、入り口を開いてしまえばもう開店準備完了である。

 あとは道路がよく見える場所に陣取って通行人を見ていればいい。

 もちろん、やるべき事を探せばそれはいくらでもあるが、リムリク商人は齷齪あくせくする事はあまりない。怠け者というわけでもないが。

 何人かの客に応対し、しばらく時間が経った頃、初めて見る相手が現れた。

 それは編み籠を提げたアウラシール人の少女だった。

 何故かローゼンディアの服を着ている。動きやすい服装をしているし、前掛けをしているからどこかの店で働いているのかも知れない。

「どうですか? 寄っていきませんか? お茶をお出ししますよ。それともカファールがよろしいかしら?」

 そう笑顔で話し掛けると、少女も笑顔を返してくれた。店の方に入ってくる。

 カファールは豆をいて作る飲み物で、アウラシールでは香草茶と並んで人気がある。ローゼンディアでは人気がないが。

 トラナ茶よりもれるのに手間が掛かるからだとか、泥水みたいだからとか色々言われているが実際のところは解らない。

 アウラシールではカファールはやや高級な飲み物として、お茶と人気を二分している。

「どうぞおかけ下さい」

 ルキアは優雅に来客用の椅子を提示する。彼女には少し高いので、手を取って坐るのを手伝ってあげた。

「あ、あのこんにちは」

 少女は意外にもローゼンディア語で挨拶してきた。しかしその発音にはまだぎこちないところがあった。

「ええこんにちは。いい天気ね」

 ルキアがイデラ語で答えると少女は安心したような顔になった。

「今日は何の御用かしら。石鹸? 香水? それとも他の何か?」

 言いながら背後の棚から石鹸を二種類取る。新作の香油も一瓶取る。その間に少女はすぐ近くで硬筆を走らせるメイファムに気付いたようだ。

「こんにちは」

「いらっしゃいませ」

 歓迎の感じられないメイファムの言葉が聞こえ、硬筆の走る音が聞こえる。

「あ、あの……何を書いてるんですか?」

 少女はまたローゼンディア語でメイファムに尋ねた。硬筆の文字を見てローゼンディア語だと理解したのだろう。おそらく彼女はローゼンディア語を勉強しているに違いない。

 可愛いらしいことね……そんな風に思ってルキアは少しだけ微笑む。

 しかし背後から聞こえた言葉はルキアの予想外のものだった。

「それが君に関係あるのか?」

 感情の籠もらない口調でメイファムは少女にそう問い返したのだった。

 問い返してしまったのだった。

 そしてどうやらその言葉を理解できる程には、少女の方もローゼンディア語を理解できているようだった。少女が息を詰める気配がルキアの背中に届いたからだ。

「メレス!」

「はい」

 即座に硬筆が止まって返事がくる。

「このお嬢さんのためにお茶を頼んできてくれるかしら?」

「かしこまりました。スウィーク・ワハルのところですね」

「ええ。お願い」

 メイファムに指示を飛ばすと、ルキアは目一杯の笑顔を作って少女に向き合った。

「それで甘さはどれくらいにしますか?」

 もちろん言葉はイデラ語に切り替えて問いかける。

「ふ、普通で……」

 少女は気圧されたように呟く。

「甘さは普通で。間違えては駄目よ? 甘さは普通よ」

「かしこまりました。甘さは普通で」

 メイファムはすぐに立ち上がって店を出て行った。

 その間にルキアはメイファムが止めてしまった時間を出来るだけ優しくというか、少女がそれと意識しない内に動かし始めるようにする。

「ローゼンディア語を勉強しているの?」

「え? はい。勉強しています」

「どうして?」

 ルキアは笑顔で尋ねた。少女に語らせるにはそれが一番いい質問の仕方だと考えたからだが、個人的にも少し興味があった。

「はい。あたしは今ローゼンディア人の奥様のところでお世話になっているんです」

「そうだったの。それでローゼンディア語を」

 少女は頷いた。

「あなたの奥様はイデラ語を話せないのかしら」

「いいえ。お話しになります。とてもお上手です」

「ではどうしてあなたはわざわざローゼンディア語を勉強するの?」

「それは……その……」

 どう答えていいか判らないようで、少女は困っているようだった。

「……奥様の言葉で話したいから?」

 ルキアがそう水を向けると、少女はこくりと頷いた。

 それはそうだ。人は母語が一番習熟度が高いのだ。意思疏通を考えれば母語で話すのが一番いい。

 問題は話す相手が外国人だった場合だ。その時はどちらかが相手の言葉で話す必要がある。少女は自分が奥様とやらに合わせて、外国語であるローゼンディア語を学ぼうと思ったのだろう。無論それだけではないだろうが。

「ローゼンディア語を勉強するのは楽しい?」

 その問いかけに少女は強く頷いた。笑顔も見せる。

 今までの印象と会話の内容から、ルキアは幾つか推測できるものがあったが、敢えてそれ以上思考が進まないように意識を切り替える。

 子供を相手に色々と勘ぐってもあまり意味は無いし、上品だとも思えないからだ。

「奥様の所で働いているのね」

「はい」

「それで今日はお買い物を頼まれたの?」

「はい。石鹸を買ってくるようにと頼まれました」

「そう。じゃあ石鹸は奥様が使う物なのね?」

 答えながらルキアは、どのぐらいの質の石鹸を薦めればいいかと思案し始めた。

「いえ、そういうのはないです」

「じゃあ石鹸は他の人が使うものなの?」

「みんな同じ石鹸を使います」

 妙な答えが返ってきた。普通、主人は使用人とは等級の違う石鹸を使うだろう。

 奥様とも言われる立場ならば尚更だ。

「ええと……」

 何と尋ねたものかとルキアが考えていると、スウィーク・ワハルを連れてメイファムが戻って来た。しかし先に立っているのは香草茶を載せた盆を持ったスウィーク・ワハルの方だった。

 彼はルキアと目が合うと軽く頷いた。それでこちらの状況を既に察しているのだとルキアには感じられた。

「ようこそ可愛いお客様。お茶屋のスウィーク・ワハルです」

 笑顔と共に挨拶をし、真鍮の茶器を少女の前に置く。それからルキアの前に。

「ありがとうございます。あたしはスィサと言います。メルサリス商会の使用人です」

 今何と申した?

 ルキアの中で瞬間的にそんな言葉が湧いてきた。

 さすがに口には出さないが、意表を衝かれた所為か、それでも訛りが出てしまった。ローゼンディア語の、それもトラケスの都方言だ。ゼメレス族の貴族しか使わない一種の古語である。

 ひょっとしたらと思ってはいたが、物事そんなに偶然が重なるものでもない。それはないだろうと退しりぞけていた考えである。ところがそれが目の前に出て来て驚いてしまったのだ。

「そうなんだ? メルサリス商会と言えば大きな所だよね。まだ若いのにご立派だ」

「い、いえ、その……」

 スィサは照れたのかもじもじしてる。

「さ、お茶をどうぞ。甘さは普通にしてありますよ」

「ありがとうございます。いただきます」

 ルキアが絶句している間に目の前でなごやかにお茶の時間が始まっていた。

 さすがにアウラシール人だけあって抵抗なくお茶を受け取るな……ローゼンディア人だったら初めて行ったお店でお茶を出されたら驚くだろうし、飲んでいいものかどうか少し考える人の方が多いだろうに……そんな風にルキアが考えていると、またスウィーク・ワハルがルキアの方を見てきた。

 ほらほら。商売の話をしないと! そんな感じの目付きだった。

 それでルキアは我にかえった。

 助かる。持つべきものは仲間だと思う。痛切に。

「私もいただくわね」

 言ってルキアもお茶を手にする。見るとメイファムも茶を一口含み、茶器を置くと、また硬筆を走らせている。まるで政治庁舎の書記のようだ。

「メルサリス商会ではみんなが同じ石鹸を使うの?」

「はい。こだわりのある人は自分で用意するみたいですが、石鹸以外にも浴室に置いてある物で十分なんです」

「自前の浴室があるの? さすが大きな商会は違うわねえ」

 ルキアが会話の流れを掴み始めたのを見て、スウィーク・ワハルはそっと身を退いた。

「ご利用ありがとうございます」

 笑顔で一礼して軽やかに去っていく。茶器は後で取りに来るのだ。

「それじゃあ日常用の石鹸の方が良いのかしら?」

「はい。どんなものが売れていますか?」

「売れ筋はこれなんだけど、もうちょっと安い方が良ければこちらでも余り変わらないわよ? 逆に少し良い物が欲しければこちらかしら」

 三種類の石鹸をスィサの前に並べて置いた。どれも同じに見えるが等級が違う。高級な物はアルサム油だけでなく、リーヴェの油を混ぜてあるのだ。

「変わったのがよければこういう物もあるわね」

 別の三つの石鹸を置いた。こちらは順に焦げ茶色、緑色、少し薄い緑色をしている。

「それぞれ土や香草を混ぜた物よ。土が混ざっている物は洗浄力が強いわ。香草を混ぜた物は良い香りがするわよ。嗅いでみて」

 言われる通りにスィサは石鹸を持って鼻に近づけた。

「……いい香り」

「そうでしょう?」

 緑色の方にはナーセファナ、少し薄い緑色の方にはリトリスが混ぜてあるのだ。

 ナーセファナには心地よい香りが、リトリスにはすっきりとした爽やかな香りがある。

「でもお使いなので、こちらを三つ下さい」

 売れ筋のごく一般的な石鹸をスィサは選んだ。

「かしこまりました。三つですね」

 言いながらルキアは、リトリスを混ぜた石鹸を一つ加えて四つにし、スィサの編み籠の中に入れた。

「あの、三つですけど」

「ええわかってるわよ。これはお試し品。お代はいただかないわ」

「そんな。お茶までご馳走になったのに……」

「いいのよ。使ってみて感想を教えてくれる?」

 微笑みかけると、スィサはまだ迷っている様子だったが、結局は頷いた。

 強く断ると失礼に当たると考えたのだろう。

「ありがとうございます。お代はいくらですか?」

「十二ラムよ」

 ルキアは標準的な値段をスィサに言ってみた。

 高くもなく安くもない値段である。ここで値引きすれば彼女は引け目を感じるだろうし、高級品でもないのに吹っかけるのは馬鹿らしい。そもそも吹っかけるような流れの会話をルキアはしてこなかった。

 スィサは頷くと硬貨を取り出して卓の上に置いた。

「ありがとうございます。またのお越しをお待ちしてるわ」

「ご馳走さまでした」

 きちんと礼をしてスィサは去っていった。

 ――いやはや……。

 世の中狭いものだと思う。それとも自分が相手に近づいている分だけ狭くなっているのだろうか?

 どちらにしろ面白くなってきた。それだけ気を抜けない度合いも高まってきたと言えるが。

「お嬢さま。そろそろ店仕舞いの準備を始めませんと昼には戻れなくなります」

「あなたはもう少し愛想を学んだ方がいいわね」

「……何のお話でしょうか?」

 メイファムは戸惑ったような顔をしている。多分本当に判らないのだ。自分がスィサに返した言葉がどういう効果を発揮したのか自覚していない。

 おそらく本当に、それがスィサに関係有るのかどうか不思議に思ってああ言ったのだろうが、だとしたらますます性質たちが悪いというか、問題の根は深い。

 もうメイファムに接客をする機会を与えないようにしよう。ルキアはそう思った。

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