第五章・三
花の都と讃えられ、数々の美しい庭園を持つザナカンダにも貧民窟はある。
貧民窟は町の東部地区、その中でも水捌けの悪い地域にあった。
ザナカンダの西部地区には、王が住む有名な新ナーラキア様式の宮殿と二つの馬場、そして貴族街や神殿などがあり、一般民衆の暮らす東部地区とは趣が異なっている。
都市の区画の作りも、生活の感じも、やはり東部地区は雑駁としたものがあるのだ。
貧民窟はその東部地区の外れ、最外縁部にあった。
治安は悪い。これは仕方がない。治安が良ければ貧民窟になどならぬからだ。
ザナカンダでは治安を守るために常に兵士が巡回しているが、彼らも貧民窟に立ち入る事はまずない。
彼らにとって貧民窟はザナカンダではないのだ。つまりそこに暮らす人々は、同じ都市に暮らす同胞として認められていないということだった。
その理由として挙げられるのが「貧民窟の連中は税を納めていない」ということだが、そもそも税を納めることも出来ない貧しい人々が住んでいる地区なのであり、税を納める納めないの選択肢は実は最初から無い。
納められないのだ。貧しすぎて。
そして支配者はそういう現実を想像することすら出来ないわけで、かくして劣悪な貧民窟が市内に誕生してしまうわけである。
ザハトはここに足を踏み入れるという事を、隊商宿の主にも、市場の食堂で出会った果物屋にも話していなかった。
言えば止められただろうし、ザハト達一行に対して要らぬ嫌疑を惹起する結果になっただろうからだ。
「ザハト殿」
ゴーサの傭兵の一人が声を掛けた。
アンケヌでは摂政閣下と呼ばせているが、ここでは名前で呼ぶように言ってあった。
「何だ?」
「一つお願いしたき事がございます」
「何だ? 言ってみろ」
ザハトはおおよその見当が付いていたが、あえて男自身の口から言わせる事を選んだ。
向こうの考えを言い当てても別に良い事は一つもないからだ。不愉快にさせたり、不気味がられるのが落ちだろう。
「御用事が済んだあとで、我らに少しお時間をいただけませんか? 市場で見ておきたいものがあるのです」
「わかった。時間を作ろう」
「ありがとう御座います」
男が軽く頭を下げる。ザハトの予想通りだった。市場に何を買い求めに行くのかも想像が付いていた。
まず間違いなく武器だ。槍か、剣か、そこまでは判らぬ。しかし武器である事は間違いない。
なんとなればザナカンダは古代より、強靱な武器を生み出す事で知られた町だからだ。
「ザナカンダの刃」という言葉がある。独特の紋様を持った、極めて強靱な鋼鉄の武器をザナカンダの鍜治師達は作り出す。
無論それら武器の製法は秘密であり、ザナカンダ王によって厳重に管理されているが、ザナカンダの武器の素晴らしさ、恐ろしさは新ナーラキア帝国時代にまで遡る。今に始まった話ではないのだ。
当然製法の流出はあったはずだ。しかしザナカンダ以外で同じ武器が生み出されたという話はない。
理由は材料にあるからだ。ザナカンダ鋼と呼ばれる特殊な鋼を用いて武器は作られる。
その鋼こそが武器の強靱さの秘密だった。そしてその鋼はザナカンダでしか手に入らない。
武器の製法を知り、加えて材料となるザナカンダ鋼自体を有していれば、別の場所でも同じ強靱な武器は作れるであろう。
しかしその材料である鋼はザナカンダでしか産しないので、武器の製法が知られていてもどうしようもないのだ。
ザハト達一行は数を減らしていた。五人は別行動を取っており、貧民窟を歩いているのはザハトを入れて八人だった。
道の左右には、急拵えで立てられた不格好な日干し煉瓦の家々が並び、洗濯物を乾す為の綱や、路地や建物の角に纏められたゴミや汚物がやたらと目に付く。
ものの腐った臭いや饐えた臭い、家畜の糞尿や、下水の臭いが混ざり合って辺りを漂っていて、時々そうした悪臭の強烈な場所を通りがかってしまう事があった。
奥へ進んでいくと路地の暗がりに倒れている人間の足が覗いているのが見えた。おそらく死んでいるのだろう。蠅が飛び回っていた。
遊んでいるであろう子供達の叫び声が良く耳に届いたが、実際にそうした子供達と遭遇すると、どの子供も垢と埃にまみれていて薄汚く、満足な服も着ていなかった。
服を着ていても上着だけだったり、逆に下穿きしか穿いていなかったり、もっとひどい場合には裸だったりした。
皆裸足で、靴やサンダルを履いている子供など全く見なかった。
子供達はザハト達一行を見ると、すぐに寄ってきて小さな手を開いて突き出してきた。
何か恵んでくれというのだ。
どの子供も動物のような目をしていて、瞳に知性の輝きがない。
そこに欲しい物があったら手を伸ばしてそれを取る。その結果は何も考えない。そういう目付きだった。
おそらく今は、ザハト達から何か物をせびり取る事しか考えてはいないだろう。
そこには上手くやって何かを取ってやれ、奪ってやれという思考すらない。
それ以前である。つまり悪意がない。
自分が腹が減っているかどうか、それが欲しいかどうかという本能だけで行動してしまうのだ。
要するに生きる事、食べる事を考えるだけで精一杯、限界なのだろう。
その混じり気のない瞳は、貴族や神官たちが勿体ぶって語っている世界や自分についての思考や学問が、如何に優雅で贅沢なものであるのかを嘲笑っているようだった。
それらは所詮、生の余技でしかないのだと。
生の本質とは絶え間のない飢えと恐怖との戦いであり、それ以外では有り得ないのだと。
ザハトは持っていた果物籠から石榴を一つ取ると子供達の方に投げてやった。
たちまち叫び声が上がり奪い合いになる。ここでは強い者がいい目をみるのだ。
「どこも同じだな」
ザハトが呟くと、ゴーサの傭兵の一人が黙ってザハトに目を向けた。その眼差しには肯定も否定も表れてはいなかった。ザハトはそう感じた。
つまるところ貧民窟の不潔さとは生活の不潔さなのだ。
人が生きているという状況、それ自体が生み出す混乱と汚物、それらが都市の行政管理から外れるとどうなるのかという、ただそれだけの事なのだった。
ザハト達は貧民窟の中を進み、やがて一軒の家の前に出た。
辺りの家と同じような、貧相で、あちこち崩れかけた日干し煉瓦の家である。
水を使っている音が聞こえた。水場は家の向こう側らしく、おそらくは中庭だろうと思われた。この辺りの家数軒で一つの水場を共同利用しているに違いない。
ザハトは中庭に入れる場所を探して家の横へと廻った。
すぐに建物の隙間のような所を見付けた。そこから中庭へと入れるようだ。
三人の傭兵を連れてザハトは中庭へ入った。残りの四人には周囲を警戒させた。
やはり中庭の真ん中には井戸があり、女が水を汲んでいた。
生意気に井戸には屋根が付いている。ザナカンダの周りには大きなオアシスがあるので、比較的木材が手に入りやすいのだろう。屋根が作る影の所為でよく見えないが、まだ若い女のようだった。
中庭を囲む家々はどれも中庭に向けて入り口が開いていて、その周囲には土の壺など、色々な道具が積んであった。
鶏小屋も見えたが鶏の姿はなかった。離れたところに痩せた犬が一匹繋がれていたが大人しく、吠えてはこなかった。
「すまぬが聞きたい事がある」
女の姿を見るなりザハトは自分から声を掛けた。何も言わずに近づくと警戒されるからだ。
「お前達はここで待て」
三人の傭兵に言って、ザハトは自分一人で女に近づいて行く。
それでも女は警戒する気配を見せた。ここは貧民窟だ。無理もないと思った。
ザハトはすぐにその場で足を止めた。
「何もする気は無い。ただ聞きたい事があるのだ。そこで良いので答えてくれるか?」
少し大きな声で問いかけると、女が頷くのが見えた。
「私は人を捜しているのだ。この辺りにマグヌハヌ・シュガヌという人が暮らしているはずなのだが、知っていたら教えてくれぬか?」
女は暫く黙っていたが、やがて桶を置いてザハトの方に歩いてきた。
「ラド・バナアル・マグヌハヌ・クム=シュガヌ・ナブ・ワラディク・アヌン=エレビエリというお方だ。知らぬか?」
間違いのないように正式な名前で尋ねることにした。シュガヌはクメニ、つまり尊称である。
「その人なら死にました」
その言葉にザハトは一瞬呼吸が止まるのを感じた。
血の気が引いていくのを感じた。久しぶりの嫌な感覚だった。胸の中から混乱が忍び寄ってきたが、意志の力で捩じ伏せた。
ザハトは自分の足の爪先に目線を据えた。落ち着かなくてはならない。
ただこれで大きな目的が一つ失われてしまった。それだけは確かだ。
「……そうか」
絞り出すように何とか口を開く。
「ならばせめて墓を教えて欲しい。その人には恩があるのだ。このままでは帰れない」
「あなたは?」
ザハトの返答が予想外のものだったのだろうか。女は怪訝そうな声で聞いてきた。
「私はザハトという。ザハト・ナブ・ディメク・ナブ・ダウメク・アヌン=アムシュタル。シュガヌ師匠から剣を学んだ身だ」
「ザハト!? ひょっとしてラムシャーン族のザハト様?」
その言葉にザハトは驚いて顔を上げた。場所を考えて、敢えてラムシャーン族であるとは名告らなかったのだ。女が近づいてくる。
「本当にザハト様なのですか?」
汚れた衣服を着た、見るからに貧しそうな女である。だが驚きに溢れたその顔には見知った面影があった。
「……ファマヌか?」
その言葉をザハトが口にした瞬間、女は手で口元を覆った。
「そんな……生きておられたなんて……」
「師匠は亡くなられたのだな?」
ザハトの問いかけに、ファマヌは首を何度か横に振った。その目に涙が溢れた。
「……こちらへ。案内しますわ」
ファマヌは涙を手の甲で拭った。ザハトは背後の三人に振り返った。それでゴーサの傭兵達も理解して近づいてきた。
「その方々は?」
「安心しろ。私の護衛だ」
ファマヌは不思議そうな顔をしたが、納得したのか歩き出した。ザハト達もついて行った。
外を警戒していた四人の傭兵も合流し、ファマヌを先頭に一行は進んだ。
中庭から出て暫く歩くと、やがて小さな広場に出た。広場の奥は畑になっていて、無花果の木が生えているのが見える。
広場では杖を突いた老人がこちらに背中を向けて立っていた。
決して大柄ではない。逞しさや威圧感などもない。一見どこにでもいる普通の老人に見えるが、上手くは言えない妙な雰囲気がある。
ザハトにはすぐに判った。長い間会っていないが間違いない。紛れもなくマグヌハヌ・シュガヌ師匠だと思った。
「シュガヌ師匠!!」
大きな声で呼びかけた。老人が振り返る。ザハトはその顔を見て、やはり老いたなと思った。
十一年ぶりなのだから当たり前だが、想像していたよりも師匠には老いを感じてしまう。
こんなところで暮らしていれば当たり前かとすぐに納得した。
近くまで行くと、ザハトは右腕を胸に翳して礼式を執った。
「お久しぶりで御座います」
「生きていたか」
老いを感じさせる外見からは意外な程、はっきりとした声だった。
「はい。生き延びました」
ザハトは顔を上げてシュガヌ師匠を見つめた。
シュガヌ師匠はザハトを暫く見ていたが、ふいとその背後の七人へ、ゴーサの傭兵達へ目線を向けた。
「物騒な連中を連れおって……今は何をしている?」
「アンケヌを取り返し、摂政をしております」
「そうか」
興味なさげな一言だった。シュガヌ師匠は右手で頬を掻いた。
「まあ、話だけは聞いてやろう。ファマヌ、こいつらを家へ案内しろ」
「お爺さん……こんなに大人数は入りきれません」
困ったようなファマヌの言葉に、初めてシュガヌ師匠の顔に驚きのようなものが表れた。
「そうだったな……」
「構いません。近くで待たせます」
ザハトが言うと、
「そうか」
再び興味なさげな一言を漏らし、シュガヌ師匠は歩き出した。
僅かだが、右足を庇うような歩き方をしていた。
ザハトはその意味を察した。師匠の歩みを見ながら歩いた。
師匠の自宅は、やはり最初に訪れた日干し煉瓦の家だった。ザハトの調べはやはり正確だったのだ。
「……誰か訪ねてきたら儂は死んだと言えと言われているのです」
家に向かう途中、ファマヌがそう白状した。師匠らしいと思った。
中庭に入らずに入り口から屋内へ入った。ゴーサの傭兵を二人だけ連れて入る。五人は外で待たせた。
「適当に坐れ」
シュガヌ師匠はそう言ってまず自分が坐った。その後でザハトが坐る。
ファマヌは中庭へ出て行った。二人のゴーサの傭兵は、部屋のそれぞれ別の場所に立っていた。それとなく警戒するような位置に立っているのを見て、シュガヌ師匠が軽く鼻を鳴らした。
「何ごとも質が良すぎるのは考えものだ」
すっかり白くなった無精髭を撫でながら、どこか揶揄するようにザハトに言った。
「憶えておきます」
生真面目にザハトが答えていると、ファマヌが水を持って部屋に入ってきた。
一応真鍮の茶器が四つ盆に載っているが中身は水だ。
彼女はシュガヌ師匠とザハトと二人の傭兵に水を渡すと、自分は部屋を出て行った。
「いつからこちらへ?」
「あの後からずっとだ」
アンケヌが落ちてからずっとという意味だろう。
「御苦労をされたでしょう」
「うん」
あっさりと師匠は認めた。
「毎日の食い物にも困る始末だ。お蔭であいつには苦労をかけっぱなしよ」
あいつというのは孫娘のファマヌのことである。
「大きくなられましたな」
「お前もな」
会話の感じは昔と変わらないなとザハトは思った。
ザハトが初めて会った頃からシュガヌ師匠はこんな感じだったのだ。
普通の大人と話すつもりでいると会話が噛み合わないので、子供ながらにザハトは戸惑ったものだった。
そのことを相談すると、
「賢しいな、ザハト」
ジュダル王子はそう言って笑った。言葉のわりには嫌みのない優しい笑いだった。
「それでいい」
そしてあの真っ直ぐな目でザハトを見て頷いた。
「一芸に大きく秀でた人間というものはやはり変わっているものだ。だからこそ大きく秀でることが出来るのだとも言える。そうした者達は独自の言葉を使うことが多い。良く心を澄ませよ、ザハト」
耳を澄ませとは言われなかった。ジュダル王子は心を澄ませと言ったのだ。
大切な真心からの助言だった。今ならばその事がよく解る。
さてここからの会話が大切だ。ザハトは密かに気を緊縮めた。
「師匠がお好きな果物を持ってきました。きっとお口に合うと思います。お納めください」
ザハトが指示すると、外で果物籠を持っていたゴーサの傭兵が家に入ってきた。石榴とハミ瓜が一籠ずつである。
シュガヌ師匠は賄賂が通用する相手ではないし、単純な報酬や、ましてや脅しで動かせる人物ではない。それは当然解っている。
ザハトが手土産を持ってきたのは、ただ好意からだ。含みは一切無い。
「すまんな。ありがたく貰うぞ」
「喜んで戴けるならとても嬉しいです」
「ファマヌ!」
シュガヌ師匠は孫娘を呼び付けた。
「これを切って、儂らと、外で立っている物騒な連中にも配れ」
「はい」
果物籠を受け取ると炊事場へ行くのかファマヌはまた姿を消した。
呼ばれたときだけ現れて役目が済むとすぐに姿を消す。
男達の会話を邪魔しないのはアウラシールの女の常識だった。
「それで、お前は何をしに来たのだ?」
「お願いしたいことがあって罷り越しました」
「だろうな。大方儂に剣の指導をしろとでも言うつもりだろう?」
「そのとおりです。再びアンケヌに戻って剣を指導して下さいませんか?」
ザハトはにじり寄って願い出た。実際の気持ちと行動を一致させる。これがマグヌハヌ・シュガヌという人物と対話するときに、自然なやり取りを成立させるコツだった。
「……儂はな」
シュガヌ師匠はそこで言葉を切った。難しそうな顔をして、何やら言葉を選んでいるように見えた。
「儂はな」
もう一度言う。しかしまた黙ってしまった。
「はい」
ザハトも返事だけして、シュガヌ師匠が何か言い出すのを待っている。
「……儂は三十年、アンケヌの王宮に仕えていた」
「はい」
「それであの事件が起こった」
今度はザハトは頷くだけに止めた。シュガヌ師匠は粗末な土の天井を見上げた。
「儂は誠心誠意近衛を鍛えたつもりだ。精一杯やった」
「はい。師匠のお蔭で数々の優秀な近衛が育ったと聞いております」
「聞いておる、か」
シュガヌ師匠は天井からザハトに目を戻した。
「そうだな。お前は若い。儂がどのような三十年を過ごしたか、知るはずもないか……」
「私が知っているのは聞いた話がほとんど。それは間違いありません」
「うん」
「ですが師匠が鍛え上げた近衛が、どれほどのものかについてだけは別。私には最後のあの日にこの目で見、この身で感じたものがあります」
ザハトは師匠にその鋭い眼差しを向けた。他の者なら思わず緊張するであろう切るような目付きである。しかしシュガヌ師匠の顔つきはまるで変わらない。
「ほう。そうか」
間抜けとも感じられる返事をしてきた。
「儂の教え子がどのようだったかを知っているか。しかし短い期間だったとはえ、お前も儂の弟子だ」
「はい」
「失礼します」
ファマヌが切ったハミ瓜を持って入ってきた。室内の四人にそれぞれ手渡すとまた出ていった。今度は外にいる傭兵に配るのだろう。
しゃくり、とシュガヌ師匠がハミ瓜にかぶりつく。
「美味い。素晴らしく美味い。どこで買った?」
「市場で。向こうから売り込んできましたので店の方はわかりません」
「そうか。それに聞いた所で儂には買えんか」
「私の願いを聞き入れてくだされば毎日でも食べられますが」
ザハトの言葉にシュガヌ師匠は笑った。
「儂はもう以前のようには動けぬよ」
「先程、足がお悪いのではないかとは感じました」
シュガヌ師匠は頷き、そのまま一気にハミ瓜を食べた。
「ファマヌ!」
「はい」
また彼女が現れる。
「まだあったら持ってこい」
「石榴がありますわ。今切るのでお待ちください」
「外の連中にも配ってやれよ」
「判っております」
ファマヌが炊事場に消えるとシュガヌ師匠は立ち上がった。
汚れた長衣を捲って右足を曝すと、腿の辺りまでの大きな傷痕があった。
「あの日にやられた」
「……」
ザハトはすぐに言葉を返せなかった。驚きや悲しみ、苦しさなど幾つもの感情が入り混じって混乱した。
素直な言葉で返事をしなければならぬと思っても、胸が詰まって言葉が出て来ない。
「……おつらかったでしょう」
何とか絞り出すように言うと、シュガヌ師匠は微笑んだ。口元に、まだまだ丈夫な歯が少し見えた。
「お前はそんなにいい奴だったか?」
「……」
「儂はな、三十年王宮に仕えた。そしてあの日も戦った。孫は守ったが傷を負い、右足の自由を失った。そんな儂に、まだアンケヌの為に働けと言うのか?」
なるほどと思った。正論だ。何と言うべきかザハトは悩んだ。
暫く黙っていたがシュガヌ師匠も急かす気配はない。再び腰を下ろすと、シュガヌ師匠は膝の傍にあった茶器を取って水を飲んだ。
「……アンケヌの為だけではありません」
「ほう? では何の為に」
「師匠ご自身の為、そしてギジムの為です」
「ギジム? 奴が生きているのか?」
「いえ、死にました」
「そうか。あいつがなあ……」
シュガヌ師匠は少し俯いた。
「そうか死んだのか……」
「無念です。ギジムもさぞや悔しかったことでしょう」
シュガヌ師匠は暫く黙って今度は土の床を見ていた。
「……で?」
「で、というのは?」
「まだ話は終わっておらぬだろう? 続きを言うがいい」
「ギジムは死にましたがその息子が生きています。名前はイシュタト。彼に剣を教えて下さいませんか?」
「ギジムの息子か」
「はい」
「会ってみたい」
その言葉にザハトは救われる気がした。こういう人なのだ。
会いに来て良かった。本当にそう思った。
「ギジムの一族はヤンギルの者共にほとんどが殺され、残りは奴隷として売られました。その奴隷とされた者達も、もはや多くが死んでしまっております」
「あれから十年以上経つからな」
「はい」
奴隷の寿命は短い者で数年、長い者でも十数年というのがアウラシールの常識である。
もちろんこれは様々な要因が絡み合った結果の平均であって例外はある。
奴隷と言っても召使いのように家内作業に従事する家内奴隷と、過酷な環境下で農作業をさせられる農園奴隷とでは生存環境には大きな違いがあるし、都市によって法も違う。奴隷から解放される望みを持てる場合もあるのだ。
アンケヌの場合、僭主ジヌハヌが支配者となってからは、奴隷が自力で自由の身分を獲得する芽は断たれてしまった。
だからジヌハヌが居座り続ける限り、そして奴の後継者達がのさばる限り、先の政変で悲運に見舞われた者達への救いはなかったわけである。
支配者がザハトに入れ替わった現在では、奴隷は自分の身を買い戻すことが出来るように法が改められた。
しかしそれで奴隷の主人達が、同じように自分の所有物たる奴隷たちに対して態度を改めるかと言うと、あまり期待は出来ないであろう。
アウラシール全域について一般的に言うならば、特殊な職務に就くなどの例を除くと、ほとんどの奴隷は大体が十年前後で死ぬか、使えなくなって都市の外れに打ち棄てられるのだ。それだけ酷使されるという事だった。
「目下生き残りを全力で捜させておりますが、今のところ、ギジムの一族は二人しか残っておりません」
「その一人がイシュタトか」
「ご存じでしたか?」
「ギジムが抱いているのを見た事がある。アンケヌのモダバでな」
モダバの市場はアンケヌの南西にある市場で、主に生鮮食料を中心に取り扱っている。石造りの小さな売り場が綺麗に並んでいていつも混んでいる。
「そうでしたか」
「幸せそうな家族だったよ」
「……」
また場に沈黙が落ちた。黙っている間にファマヌが石榴を持って部屋に入ってきた。
今度はシュガヌ師匠は口を付けなかった。なのでザハトも口を付けない。
結果ゴーサの二人も石榴を手に持ったまま、ただ立っていた。
「……動くことは出来なくとも、指導することはお出来になるでしょう」
「どうかな」
ザハトが口を開くと、シュガヌ師匠は首を捻った。
「剣とは、武とは体から体に伝わるものだ。ああせいこうせいと見て指図するだけで、伝えられるかどうか……」
「師匠ならお出来になれます」
「ほう、買い被られたものだな」
「それにもはや近衛の剣を知っているのは師匠お一人だけ、師匠が伝えなければ近衛の剣は絶えてしまいます。私にはそれが耐えられない」
「……アンケヌの剣風は絶える。これは仕方のないことだ。代わりに『剣の神殿』にでも指導の神官を派遣して貰えばいいではないか」
「まさか本心からのお言葉ではないでしょうな?」
さすがに師とはいえ聞き逃せない言葉だった。ザハトは厳しい目を向けた。
『剣の神殿』というのはアウラシールの南部ジルバラ地方、都市ティブリルに興った宗教で、剣の魔神ラマシュガを祭る神殿である。
教団は八千年以上の歴史を持つが、元々が修行者たちの秘密結社から出発したため、その長い歴史の割に神殿の数は少なく、その信徒もアウラシール以外ではダルメキアぐらいにしか存在しない。
今でも入信には厳しい儀礼が課せられるので、誰でもが信徒になれるというわけではなく、入信を認められること自体が一種の社会的な意味を持つ特殊な教団である。
アウラシールの幾つかの都市には分社とも言える『剣の神殿』があり、そこでは絶えることなく祭祀と剣技の鍛錬が行なわれているが、特に本拠地のティブリル大神殿からは非常に傑れた剣士達が数多く輩出されているのだ。
「師匠の代わりなど誰にも務まりません。あなたほど傑れた御方が派遣されるとも思えない」
「今の儂の代わりなど誰にでも務まると思うぞ」
「いいえ務まりません」
「……」
「それに師匠はそれでよろしいのですか? 御自分が生涯を懸けて磨いてきた剣技剣風が絶えてしまう……それを看過ごせるのですか? 何より近衛の剣はシュガヌ師匠がナラバル王から示された古伝を元に、工夫と研究を重ねて復元されたものだと聞きます。それほどに貴重なものを絶伝させてしまうのですか?」
ザハトの言葉にシュガヌ師匠は腕を組んだ。唸った。
「うー」
両手で自分の頭を挟む。子供のような仕草だった。
「痛いところを衝いてくるのう……」
本当に頭が痛んでいるようにすら見える。
「何も再び近衛を再興して欲しいとまでは言いません。ただ一人、イシュタトだけで良いのです。どうか彼に近衛の剣を、彼の父ギジムが遣った剣を伝えてやって下さい」
ザハトは頭を下げて頼んだ。
「……どうしてそこまでする?」
「どういう、意味でしょうか?」
頭を下げたままザハトは問い返した。
「お前はそんな奴ではなかったと思うが。儂の記憶違いか?」
真面目に頼んでいるのに酷い言い種だと思ったが、師匠に悪意が無いのは想像が付くので腹は立たなかった。
「なんだか大きくなっていい奴になったな。もっと鼻持ちならない奴になるかと儂は思っておった」
「それは予想に違えてしまい申し訳なく思います」
さすがにありがとう御座いますとは返せなかった。
「お前がこんな風になるとはなあ」
シュガヌ師匠は感慨深げだった。また天井を見て、それから床に置いた石榴を手に取って食べ始めた。
「……美味い」
「ありがとう御座います」
「石榴が食える季節になったか」
「はい」
「ここに来てからは季節のことなど余り考えなかったがなあ……」
そうでしょうな、とザハトは胸の中で答えた。そんな余裕のある生活はできまいと思った。
「こんな美味い石榴を食うのは久しぶりだ。礼を言うぞ」
「ありがとう御座います」
「さて」
シュガヌ師匠は膝を軽く叩いて立ち上がった。
「ハミ瓜と石榴の分は働かなきゃならん」
「それでは!」
ザハトの顔に期待と喜びが表れる。余り表に上ることのない、珍しい表情だった。
「ギジムの息子に剣を教える役目引き受けよう。ただしその前に儂がどれくらい衰えたかを、お前に知って貰いたい」
中庭に出ていく。ザハトも付いていった。
あの井戸のある中庭だ。家の中庭出口の横には土の壺があって、そこに木の棒が何本か差してあった。
シュガヌ師匠はその中から一本を手に取った。
「どれでも好きなのを取れ」
そう言われてもどれも同じようなただの木の棒だ。
元は柵とか家具とか、何かの材料だったであろう木片を大雑把に棒に仕立てたようだった。
取り敢えず使い易そうなのを手に取って外に出た。
「さて」
シュガヌ師匠がザハトの方を振り返る。
「誰からでもいいぞ」
「わかりました」
ザハトはゴーサの傭兵達を振り返った。
「誰も希望がなければまず私から行くがどうだ?」
「………………と言いますと?」
やけに長く間を置いた後、ゴーサの傭兵の一人が答えた。
彼の名前はナッハという。
「失礼ながらザハト殿」
別の傭兵が前に出て来た。彼はザブラムという。
「何だ?」
「お師匠様は、その、本気なのですか?」
「あの人に本気かどうかを尋ねるのは無意味だ。多分、そういうことを今まで一度も考えた事がない類の人間だからな」
ザハトの答えにザブラムが嫌そうな表情を浮かべる。あまり内面の動きが顔に表れない連中だけに珍しい。余程困ったか呆れたかしたのだろう。
「失礼ながら我々は付き合いかねます」
また別の傭兵が口を開いた。彼の名前はジュマイールだ。
全て予想通りの反応。ザハトは軽く笑った。
「いいのか? 滅多にない機会なんだぞ?」
「と言いますと?」
「師匠は剣匠だ」
その言葉でゴーサの傭兵達の空気が一変した。
『剣匠』とは『剣の神殿』での階級の一つである。
そして事実上の最高位を意味する。
本当はあと一つ上があるのだが、それは人間の領域の外にあると考えられているため、剣匠が神殿で修行する者の中での最高位なのだ。
剣の神殿に入った者の内、剣匠の位にまで達するのは万に一人と言われている。
「驚いたか?」
「はい」
「昔はともかく、今は右足を悪くされている。そこを上手く突けば良い勝負が出来るかも知れん」
「なるほど」
ゴーサの傭兵の一人、マーレフが頷いた。
彼は剣の神殿の信徒であり、修行して『剣士』の資格も得ている。興味を持つのは当然だった。
「では私から行かせていただく」
マーレフはザハトから木の棒を受け取ると前に進み出た。
「お前からか」
シュガヌ師匠が問うと、マーレフは木の棒を左手に持ち替えてから提げ、一礼した。
剣の神殿での礼法である。
「ほう? どこの教室にいた?」
「私はクドゥリ師に長剣と短剣、小剣を学びました」
「クドゥリ? 知らん名前だな。まあいいか。かかってこい」
「では」
マーレフは右手に棒を構えると前に歩み出した。それに合わせるようにシュガヌ師匠も前に出てくる。
一定の距離で睥み合うかと思いきや、シュガヌ師匠はそのまま無雑作に近づいて行く。
まるで不用心な歩き方である。
マーレフはいきなり自分の距離に踏み込まれて、反射的に切り込もうとしたが、そこで動いてしまうほど未熟ではない。
考えるより先に体が危険を察知して、シュガヌ師匠の一撃を防ごうとした。
しかしマーレフの動きを師匠の剣捌きは上回った。首筋にぴたりと棒が突き付けられて勝負は付いた。
端から見ていると、何気なくシュガヌ師匠が棒を振り、マーレフはあっさりと首筋に棒を付けられて蹌踉めいただけに見える。
だがゴーサの傭兵達の目は節穴ではない。
攻防の実際の内容については当事者でないので察するしかないが、二人が交差する一瞬の間に、剣技を遣う者同士の高度なやり取りがあった事だけは見抜いていた。
「おい」
「ああ」
イェヒムとヴァーファルが剣呑な相槌を交わしている。何だかとても楽しそうだ。
「ザハト殿。次は私が」
ヴァーファルが前に出た。
「お前もどこかの教室にいたのか?」
シュガヌ師匠の問いかけにヴァーファルは首を振った。
「いえ、私は軍団の訓練を受けたのみ。名高き剣匠の技を是非一手ご教授下さい」
「ああいいぞ」
安請け合いという言葉があるが、まさにそれが当て嵌まりそうな返事をすると、シュガヌ師匠は左手でヴァーファルを招いた。かかってこいという事なのだろう。
しかしヴァーファルは応じなかった。両手で木の棒を握り締めると、棒の先をシュガヌ師匠の喉元に向けるようにしてゆっくりと距離を詰めていく。
ぴりぴりとした緊張感がその体から発している。
対照的にシュガヌ師匠には緊張がまるで見られなかった。ただ立っているだけである。
「隙だらけじゃのう」
向き合ってすぐに、シュガヌ師匠はそう言いながら歩みだし、ひょいとヴァーファルの懐に入った。
あれだけ注意して構えていたように見えたのにヴァーファルは全く反応できなかった。
「何ッ!?」
「ほれ」
シュガヌ師匠はヴァーファルの肘を取って転がすように投げた。その時に持っていた木の棒も奪い取っている。
「次。誰でもいいぞ」
呼びかける師匠の横でヴァーファルは呆然と坐り込んでいる。何が起きたのか判らないのだろう。
ザハトにとっては久しぶりの光景である。驚きはしなかったが、師匠はやはり足を大きく使うような動きは避けているのではないかと推測した。
「ザハト殿、複数でかかっても宜しいか?」
アザハンがそう尋ねてきた。
案外と熱くなるのだなとザハトは思った。
「そうむきになるな。相手は足の悪い老人だぞ。それに戦場の働きと剣術の巧拙とは似て非なるものだ。師匠に怪我でもされたら困る」
「……失言でした。どうかお忘れを」
「おーい」
そんな会話も知らぬシュガヌ師匠は、次の相手が来るのを待っている。
「もう結構です。十分に判りました」
ザハトが呼びかけると、納得できぬ様子ではあるがシュガヌ師匠は戻ってきた。
「そうか? お前らも、もっと儂を動かすようにせんと。この通りの足だ。踏ん張りは利かんのだぞ?」
「師匠に怪我でもされたらこちらが困ります」
「それもそうか」
明らかに一対一では自分が圧倒していたのに、ザハトの言葉にすんなり納得したようだ。
「お前ら全員でかかられたら袋叩きにされてしまうわ」
「その前に武器になる棒がそんなにありませんよ」
ザハトの言葉にシュガヌ師匠は軽く笑った。
土の壺に刺さっていた棒の数は確か五、六本で、ザハト達一行の人数よりも少なかったのだ。
「しかし……お師匠様はどうしてこのような所で暮らしておられるのですか?」
マーレフが不思議そうに尋ねた。
「金がないからだが?」
シュガヌ師匠もまた不思議そうに答えた。そんな事も判らんのか? と言いたげだった。
ザハトはマーレフの疑問はごく常識的なものだと思った。
ずれているのはシュガヌ師匠の方なのだが、本人にその自覚がないのだ。
剣の神殿の剣匠ともなれば、いくらでも仕官の道がある。
どの都市に行っても、高い地位と報酬が約束されるだろう。それはこのザナカンダでも例外ではない。こんな貧民窟で暮らす必要はないのだ。
だがザハトには師匠がここでの暮らしを選んだ理由が理解できていた。
「師匠は先々代のアンケヌ王と約束されたのだ」
簒奪者ジヌハヌを除けば、アンケヌ王の王統は先代ムシュタムル王、先々代ナラバル王になる。
ザハトから見れば弑逆されたムシュタムル王は伯父であり、ナラバル王は祖父であった。
「ナラバル王は武を好まれる御方でな。縁あって儂はアンケヌに身を寄せたが、そこで古伝の剣術の存在を知らされたのだ。儂は王のお召しによって特別にその秘術を知る機会に恵まれた。そしてその代わりに一切の他伝を禁じられたのだ」
則ち、アンケヌの剣技を他の都市の人間に伝えてはならぬということである。
他の都市則ち他国であり、他国則ち敵国が常識のアウラシールにあってはごく当然のことであった。
しかしその事は、シュガヌ師匠にとってはアンケヌ以外での仕官の道を断たれることを意味した。
それでは他の剣技を、例えば剣の神殿で習得した剣を教えれば良いではないかと思えるかも知れない。
そういう器用な真似が出来る人物ではないのだ。
だから教えるとなれば全てを教えることになってしまう。
マグヌハヌ・シュガヌは己の体を通して矛盾無く、一つの体系としての剣技を、身体を作り上げてきた。
その中では身心技術全てが溶け合っており、ここからここまでが剣の神殿、ここからがアンケヌの剣術などと区別できるようなものではないのだ。
本人自身、自分の技術がどのように形成されてきたかを考えたことも無いだろう。
確かに師匠自身、いつかは己が技術を客観視して整理する日が来るのかも知れない。
剣の神殿にはそうした歴代の名人達人達の記録が残っているという。
その中にはその技の開祖以外、未だ誰も再現できぬような技もあると聞く。いわゆる神技というやつである。
ザハトにはシュガヌ師匠がそうした伝説の達人達に並ぶだけの存在であるかどうかは判らない。
判らないが、このままザナカンダの貧民窟で暮らせば、遠からず師匠が死ぬであろう事は想像できる。そしてその未来はザハトにとっては耐え難かった。
そしてシュガヌ師匠が貧民窟に暮らすのには、もう一つの理由があるだろうとも考えていた。
おそらく血の復讎を警戒したのだ。シュガヌ師匠はあの政変の日、多くの敵を斬ったはずだった。その一族による血の復讎を警戒して貧民窟に身を隠したのではないだろうか。
これは「儂は死んだと言え」と孫娘のファマヌに命じた事からの推測だが、多分正しいはずだとザハトは考えていた。
しかし、この二つの理由はその気になればどうとでも回避出来たはずだ。
ナラバル王などとっくに崩じているのだ。約束を破って他国で仕官したとしても、アンケヌの王位はジヌハヌによって簒奪されているし、それを責める者もおそらく現れなかっただろう。
いや、そもそもシュガヌ師匠とナラバル王の約束を知っている者自体、数える程しか居ないのだ。あれだけの政変があった後で、約束を知る者、その全てが死に絶えたと師匠が考えたとしてもそれは自然な事だったろう。事実今日ザハトは「生きていたか」と言われたのだから。
もう一つの血の復讎にしても、シュガヌ師匠はラムシャーン族ではないので言い逃れの方法はあるし、剣匠ともなれば社会的な地位もある。どこかの都市で高い地位に就けばおいそれとはヤンギルも手を出せない。
つまりその気になれば師匠はこんな暮らしをする必要はなかったのだ。
いくらでも『賢く』生きられたのだ。だが師匠はそうしなかった。
変わった人ではあるが愚かではない。気付いてはいたはずだ。
だがやらなかった。ここで暮らし、そして朽ちていくことを選んだのだ。
「仕官できぬのだからここで暮らすより他はない。まあ住みよいとは言えんがな」
自嘲するようにシュガヌ師匠は笑んだ。
「では早速ですがアンケヌにお越し下さい」
この人を相手に長々と会話をする気はなかった。
十分なのだ。会えば十分。それで気持ちは通じる。
ザハトはそう思っている。
「随分と気が早いな……ここにそのイシュタトを寄越しても良いではないか」
「確かにそれでもよろしいですが、そうなるとファマヌはどうなります?」
「う」
シュガヌ師匠は渋い顔をした。
「彼女の将来のことも考えてやるべきです。師匠だって仰ったではありませんか。あいつには苦労をかけると。お二人でアンケヌにお越し下さい。この私の命に懸けても不便はさせません」
「随分気軽に命を懸けるな。長生きできぬぞ?」
その言葉にザハトはふっと笑った。
長生きできぬか。そうかも知れぬ。
「さて、それは判りませんよ? もし興味がおありならば是非私と一緒にアンケヌへ」
「ふうむ。興味あるな」
シュガヌ師匠は腕を組んだ。
「今は棗椰子が採れる季節。アンケヌには多くの棗椰子がありますぞ」
「むむむ」
「多くの豪商、貴族などがおります。ファマヌも年頃でしょう? ここにいるよりはずっと良い縁談が用意できるかと思いますが」
「うー」
「もう考えるまでもないでしょう。今すぐに荷物をお纏めになって下さい」
「ファマヌ!」
「はっ、はい!」
中庭口の壁蔭から慌ててファマヌが飛び出してくる。
「聞いていただろう。荷物を纏めろ。ここを離れるぞ」
その言葉にファマヌが大きく顔を動かした。
この時の表情の動きをザハトは一生忘れないだろうと思った。
驚きと、それをみるみる喜びが塗り替えていく様を。
この顔が見たかった。自分の周りに居た人達が、愛する者達がこういう顔をするのをずっと見たかったのだ。
もはやその願いの叶うことが多くないのは判っている。それだけに一層、ファマヌの喜びを尊く感じた。
ぶっきらぼうな師匠の言葉によって生じた喜びであり、幸せだった。
その中に自分もいるのだと。それをザハトは胸の中で噛み締めていた。
「ザハト殿」
ナッハが話し掛けてきた。彼がザブラムと一緒に、静かに中庭から外に出て行くのをザハトは見ている。その時点で薄々勘付いてはいた。
「来たか」
「はい」
ザブラムが頷く。
「準備しろ。他の者達も問題ないな」
「全てご指示通りに」
ザブラムの言葉にザハトは悽絶な笑みを見せた。
「始まるのか?」
シュガヌ師匠が何でもないように軽くそう口にした。
「はい。通りの方を使いますのでご心配なく。家の中でお待ち下さい。すぐに済ませます」
「ザハト様何を……」
「お前は知らんでいい」
シュガヌ師匠はファマヌの質問を切り捨てた。さすがは剣匠、全て判っているのだ。
ザハトはシュガヌ師匠が孫娘の肩を抱いて家の中に戻るのを確認してから、ゴーサの傭兵達を連れて中庭を離れた。
ただし三人はその場に残した。シュガヌ師匠とファマヌの警護のためだ。
ザハトは四人の傭兵と共に外に出た。
ナッハ、ザブラム、マーレフ、アザハンの四人である。
シュガヌ師匠の家から離れるため少し歩いた。
しかし最初の路地が切れて、分かれ道に入る所の少し開けた場所には、もう八人の男達が待ち構えていた。
ちょっとした広場だが、広場というには狭すぎる場所であり、路地の分岐が結ばれる所だった。
そこから右手に延びた細い路地からも三人の男達がやって来る。
もちろん全員武装していた。
「その人数で私を斃せると思ったのか?」
あからさまな嘲弄を籠めてザハトは指導者と思しき男に話し掛けた。
「ほざけ! 百の肉片に刻んでくれるわ!」
「ほう? それがお前の趣味か? その気持ちに報いてやりたいところだが、ここはザナカンダなのでな。悪いが手早く済ませるぞ」
ザハトが言うと、それを待っていたように弦音がして八人の男の一人が仰け反った。
胸に矢が立っている。矢は貫通して背中から飛び出していて、男はそのまま倒れて痙攣し始めた。
「私が何も準備しないとでも思ったのか? ヤンギルの者共よ。ジヌハヌを見習え。お前達のジヌハヌをな」
「かかれっ!!」
指導者と見られる男の号令によって、ヤンギルの男達が一斉にザハト達に襲いかかる。
ザハトは一歩後ろに下がった。それだけである。
何も命じなかったが音もなく三人の傭兵が前に出て、一人が右手の路地に入っていく。
それからは一方的な殺戮であった。
前に出た三人は長剣を振るって目の前のヤンギル族を切り刻んでいく。
全く戦いになっていない。つまり斬り合いが成立していないのだ。
太刀行きの速さも、一撃の重さも大人と子供のような差があるために、ヤンギルの男達は受けることも躱すことも出来ずに、まるで鉈で刻まれる細木のように手足や頭蓋骨、臓物などの、血と肉片をばらまきながら弾き飛ばされていく。
そう。弾き飛ばされていく。それほどの力の差があった。
しかも逃げようとする者も次々と射殺されていく。
矢を射ているのは別行動を取っていたゴーサの傭兵達だ。
襲撃の情報を掴んだ時点でザハトは一計を案じ、殺戮の場所と方法を決めてあったというわけだった。
結果、小さな広場は一方的な虐殺の現場となったが、ほとんど時を要さずにそれも終わった。
そして辺り一帯、髪の毛の付いた頭蓋骨の一部や、腸を撒き散らして倒れた屍体や、吹き飛んだ手足、そして足首までが浸かる程の血の海になった。
「ザハト殿」
マーレフが長剣の血脂を拭いながら声を掛けてきた。
「一応、生かしておきました」
「ほう? すまんな」
軽く笑いながら血と臓物を足で蹴散らかして、ザハトは男に近づいた。
「かっ! かっ! かっあ!」
切断された右腕の傷を左手で押さえながら指導者の男は喘いでいた。
「計画は綿密に、行動は大胆にと言うが、お前達には綿密さが欠けていたようだな」
「ぐっ! かっ! はあはあ!」
「その様子では長くはあるまいが、先程も言ったようにここはザナカンダ。他の王の支配する地だ。お前の希望通りに百の肉片に刻んでやりたいが叶えてやれぬ。赦せよ」
ザハトは嗤った。心からの嗤いだった。
おもむろに腰に差していた長剣を抜き放つと男の眉間目懸けて鋭い一撃を加えた。
ぼこんと爆ぜる音がして男の頭が瓜のように割れた。
血と灰色の脳味噌が吹き出したが、ザハトはそれを汚れたもののように左手で防いだ。
「……廁の糞尿の如き血よ」
呟いて血と脳漿を屍体の長衣で拭った。
「全て片付きまして御座います」
死にきれなかった連中に止めを刺し終わったのだろう。何ごともなかったようにザブラムが報告に来た。
「そうか。だがさすがに放置するわけにもいくまい。付近の貧民に金を握らせて片付けさせよ」
「はい。しかし市当局の巡回兵などが嗅ぎ付けたときは如何がなさいますか」
「案ずるな。すでに話は通してある」
「なるほど」
「俺にとっての不安はな。こやつらが今日ここへ来てくれるかどうか、この俺を襲ってくれるかどうかという事だけだったのだ。正直来ないのではないかと冷や冷やしたぞ」
「さすがはザハト殿」
にこりともせずにザブラムは世辞を言った。ザハトはザブラムに微笑んだ。その美しい顔には返り血が付いていた。中々に凄みのある状態だったが、ザブラムの方も血まみれなので大差ないとも言えた。
「しかしこれでは師匠の家を再び訪うわけに行くまいな。返り血を浴びていない者を向かわせろ。向こうには三人残してある」
「はっ!」
ザブラムは軍陣中にあるかのように軽く礼をした。
「我々は最初の隊商宿に向かう。アンケヌ行きの隊商の方も都合は付けてある。師匠とファマヌが合流した時点で全員でアンケヌへ帰るぞ」
「畏りました」
ザブラムが再び一礼して、他の仲間に指示を伝えようと振り返ったところで動きを止めた。
シュガヌ師匠が杖を突きながらこちらへ歩いて来ていたからだ。
「構うな。この程度で驚くような御方ではない」
ザブラムに言って、ザハトは自分からシュガヌ師匠に向かっていく。
その跡には血の足形が点々と続いた。
「派手にやりおって。どうする気だ?」
「全て計画通りです。何も問題は起こりませぬ」
「まさか儂らを餌にしたんじゃあるまいな?」
「まさか」
ザハトは首を振った。
「心外です。そんな風に思われていたとは」
「こんな風に襲ってくれば誰でもそう邪推するわ。ザハトよ、誰もがお前のように頭が回るわけではないのだぞ」
久しぶりに聞く言葉だった。しかしシュガヌ師匠から言われるのは初めてだ。
この言葉をいつも言ってくれた人はもういない。
瞬間、ザハトの意識が過去へと戻った。
「ザハト、お前は賢い。だが誰もがお前のように頭が回るわけではないのだぞ。その賢さに足を取られぬよう気を付けよ」
ザハトがやり過ぎてしまったとき、ジュダル王子はいつもそう言って注意してくれたのだ。
「……何か、儂は妙なことを言ったか?」
「いえ……なんでもありません」
ザハトは苦笑して首を振った。
「確かに少々やり過ぎたかも知れませぬな。始末するならもっと他の場所で、目立たないようにするべきでした。お詫び致します」
シュガヌ師匠は呆れたように息を吐いた。
「荷物は纏めたよ。いつでも出られる。もっとも荷物なんぞ大してありはせんがな」
「どこか挨拶などお寄りになりたいところは御座いますか?」
「そうだな……剣の神殿に寄っておきたいかな」
「こちらの剣の神殿に?」
「ああ、ザナカンダに来て少しの間は世話になっておった」
「わかりました。お供してよろしいでしょうか?」
「その恰好でか?」
シュガヌ師匠は嫌そうな顔をした。
「まさか。清めますよ。ついては中庭の井戸をお借りしたいがよろしいですか?」
「いいぞ。うちだけの井戸じゃないがな」
相変わらず妙な言い方をする人だ。そう思ってザハトは少し和んだ。
「ああ、剣の神殿と言えばな」
「何でしょうか?」
「新しい聖者が立ったそうだ」
その言葉はザハトの興味を惹いた。
聖者。
それは剣の神殿で最高位に位置する称号である。『剣の聖者』とも呼ばれる。
では聖者が教団の長かというとそうでもない。
そもそも聖者が教団の長であったことなど珍しいのだ。教団の長は普通は剣匠か、または組織運営に長けた剣士階級の神官から選ばれる。
そして教団にも教団の長である祭祀長にも、聖者の任命権はないし、教団の誰一人聖者に対して命令を下すことは出来ない。
何故なら剣の聖者と呼ばれる者を任命するのは剣の魔神ラマシュガ自身であるからだ。
一体どういう仕組みでそれが定まるのかは謎であるが、そういうことになっている。
つまり教団にとって剣の聖者とは、魔神自らが選んだ、いわば現人神なのである。
剣の聖者に対して剣の魔神ラマシュガの信徒たちは最大の敬意と畏れを抱いていると言っていい。
これが事実上『剣匠』が最高位の称号と見做される所以であった。
ある意味、剣の聖者は人ではないのである。人間以上の存在なのだ。
事実歴代の剣の聖者達は伝説に彩られている。中には到底信じられないような話も多くある。
剣匠を達人と言い、伝説的な逸話の主人公とすれば、剣の聖者とは、まさに生きた伝説そのものなのである。
「剣の聖者が現れましたか……」
信徒ではないザハトも感慨深いものがある。
ここでザハトは「現れる」という言葉を選んだ。これはザハトが剣の神殿の信者ではないからであったが、理由はそれだけではなかった。
対してシュガヌ師匠は「立った」という言葉を使っているが、これには大きな意味がある。
アウラシールに限らず、ミスタリア海を囲む諸国にあっては、王ないし皇帝は「なる」ものだとは見做されない。
一応口語として「即位する」という表現はあるが、正式には王とか皇帝とか呼ばれる者はみな、「立つ」と表現される。
これは神に選ばれて立つという意味であって、そこには人為を超えた働きがあるということを含んでいる。
この表現は元々古代アウラシールの史官から生まれた言葉であったが、ローゼンディアや、レメンテム帝国などにおいても踏襲され、正規表現として採用されている。
剣の聖者に対して「立つ」という表現を使うということは、教団では聖者のことを諸国の王と同等もしくはそれ以上だと見做しているということを意味する。
教団の言い分からすれば、剣の聖者は文字通り「神から選ばれて立つ」わけであるから何の問題も無いのだろうが、単純に考えてもそれは不遜であろう。少なくとも諸王達の立場からしてみれば。
だが、歴代の聖者達が織りなしてきた数々の物語には、それを捩じ伏せるだけの力があることもまた事実であった。
現在では慣習的に、剣の聖者は「立つ」という言葉でもって表現される事が多いが、ザハトは敢えて「現れる」という言葉を使った。
それは史学や古代法などを学ぶ過程で身に着いた知識であり、作法であったが、それよりも大きな理由として、
――王とは誰であるか。
ということが胸の中に有るからだ。それはザハトにとって根源的な問いであった。
誰が王なのか。人は何によって王となるのか。王たるべき者とはどのような者か。
いつもそれを考えている。
その事がザハトに言葉を選ばせ、剣の聖者に対して心の距離を取らせたのである。それに気が付いたとき、ザハトは微かな驚きを感じたが、同時にその驚きには哀しみのようなものが含まれているとも思った。
「……してどこの教室に?」
剣の神殿では使う武器によって教室が分けられている。
もちろん武器は全て剣であるが、その種類が多く、非常に変化に富んでいる為だ。
実際は神殿で教授される剣技を、全て『剣』という括りの中で考えるのには無理がある程だが、とにかく教団では全ての武器を『剣』として一括している。
まず大別して剣は正課と変課に分けられる。
どちらが上という事はないが、
「正課は練法に偏し、変課は用法に偏す。成る成らぬの鍵は鍛錬が握る」
古代よりそう言い伝えられてきたように、正課の剣は『直剣』と呼ばれる、ごく一般的な長剣や短剣などが含まれる。
それに対して変課の剣は『曲剣』と言われる。こちらは円月剣や三叉剣などの、癖のある剣が含まれる。
修行者は最低でも正課と変課から、それぞれ一つずつの剣を選んで修行するよう奨励されている。
失伝した剣種を除けば、現在では剣の神殿の教室は以下の八種類に分かれている。
則ち長剣、短剣・小剣、双手剣、双斬剣、弧月剣、円月剣、鎖剣・投剣、三叉剣である。
短剣と小剣、鎖剣と投剣は同じ教室になる。
そして全ての教室にいつの時代にも聖者がいるとは限らない。
教団全体で見ても、一つの時代に聖者が三人いれば多い方なのだ。
だから新たな聖者が立ったというのは大きな事件だった。
「短剣・小剣の教室だそうだ。お前は知らなかったのか?」
「そちらの方面に気を払っていなかったので……して一体どのような者が?」
「それがな、ローゼンディア人の女らしい」
女で、しかもローゼンディア人。
ザハトの脳裏に不快な記憶が頭をもたげてきた。
あからさまに不満そうな顔をして、こちらを見ていたローゼンディア人の女を思い出したのだ。
確かに聖者に選ばれるのは剣の神殿の信徒とは限らない。
どういう仕組みでそうなるのかは判らないが、全くの部外者や、外国人が選ばれる事もある。
しかしさすがのザハトも一瞬思考が止まってしまった。
「どうした?」
不審げにシュガヌ師匠が聞いてくる。
「……それは本当ですか?」
ザハトは思わず聞き返してしまった。
ダーシュが結婚したと聞いた時以来、本当に驚いたのだ。




