第四章 書斎
思ったよりも広い屋敷だ。二区画あるが、両方とも同じ敷地になるらしい。ローゼンディア人の豪商と言うところだった。
二人を送り出した後、ダーシュは屋敷の中を歩いて回って、大まかな配置を頭に入れてしまっていた。
これで何かあっても、屋敷の中では混乱することはないだろう。
尤も連中が警吏を引き連れて戻ってくれば、すべてはお終いだが。
そうならないことを祈るだけだった。
あのヒスメネスとかいう家宰と一緒に出て行く姿を思い出した。緊張している様子だった。おそらく父親に会いに行くというのは口実だろう。
それでも二人を行かせたのは何故か。ダーシュには判らなかった。
――あいつを試したいのかも知れぬな。
そう考えてみる。らしくないと思う。
相手は女である。しかも外国人である。理解しようと考える方が奇妙しな話だ。
取り敢えず、数日間だけ匿ってくれればいい。
あとは自分の仕事だ。
門の方が騒がしくなった。帰ってきたのかも知れない。
ダーシュは足早に玄関に向かった。
玄関に出ると予想通りだった。異国風の盛り土を回り込んで、馬車が屋敷に寄せて停まっていた。
盛り土は車回しと言うらしい。元はローゼンディア人の様式だと言うが、アンケヌでは真似をしている者も多いと聞く。確かに、馬車で訪れる者が多いような屋敷では便利だろう。
丁度召使いたちが働く中を、アイオナとヒスメネスが馬車を降りてくるところだった。
日はまだ高い。召使いが二人の上に日避けを翳している。
本来ならば奴隷がやる仕事だが、ローゼンディア人は奴隷を持たない習慣がある。
古代ナーラキア帝国は奴隷の叛乱によって滅んだ。
その末裔を自負するローゼンディア人らしい禁忌だと思った。
アイオナと目が合った。ダーシュは手を挙げて挨拶をした。アイオナは少し微笑んだ。
何気ない仕草だったろうが、何故かその姿がダーシュの胸に迫った。
ヒスメネスが足早に近づいてきた。
「よろしいですか?」
「なんだ?」
「あなたに少しお話があるのです」
「俺の方でもお前と話したいと思っていた」
ヒスメネスは口を噤み、じっとこちらを見てきた。理知的な青い瞳。朝の時にも思ったが、この男は切れ者だ。少なくとも彼の女主人よりも三倍は賢いだろう。
「では私の書斎に行きましょう。そこならば邪魔は入りませんから」
「解った」
書斎というのは言い過ぎだろうと思っていたのだが、案内された部屋は確かに書斎というに相応しい部屋だった。視界に本の山が飛び込んできたのだ。
案の定、室内に入るなり独特の臭いが鼻を衝いた。子供の頃、書庫でよく嗅いだ臭いだ。
パラム紙の臭い、獣皮紙の臭い、紙の臭い……それらが渾然と混じり合った臭いだ。不快ではないが、心地好い類いの臭いではない。
学者や神官、法官ならばこの香りも馴染み深いものと喜ぶのかも知れないが、ダーシュはそのどれでもないのだ。
ただ、それだけ書物があっても粘土板は無かった。粘土板が無いのは、ここが単なる書斎だからだ。
壁際には大きな本棚があり、パラム紙であろう巻物や、革で装幀された大きな本がぎっしりと詰められている。
巻物の中には木片を綴り合わせた物もある。
薄い木片を板状に切って紐で繋いだ物だが、なんでもローゼンディアで昔用いられていた形式だという。ダーシュも目にするのは久しぶりだった。
とにかく本が多い。さすがに粘土板こそないものの、重厚な革表紙の本と、それと巻物がかなりある。
――今時巻物とはな。
パラム紙はアウラシールで古代から使われてきた筆記媒体である。パラム草から作られる。
アウラシールで本と言えば、元々はこの巻物形式のものを指していた。
現在の形式の、つまり装幀された冊子形式の本が登場してからまだ二千年も経っていないのだ。歴史の古さではパラム紙の巻物の圧勝である。
逆に筆記媒体としての性能となると、全ての点でパラム紙は紙に及ばない。
ローゼンディアから渡来した紙によってパラム紙は駆逐されたのだ。
アウラシール全域において、パラム紙が紙に置き換わるまでにかかった時間は百年程度だったというから、急激に変化が進んだのだと判る。
それだけ紙は筆記媒体として優れていたということでもある。
今ではパラム紙など余り見かけることはないが、それでもこうして目にすることがあるのは、何らかの事情がある場合と思われた。
例えば何かの理由により著述者が紙を入手できなかったとか、どうしてもパラム紙を使いたい個人的な理由があるとか、その辺の事情だ。
どんな理由があるにせよ、今時パラム紙の巻物とは恐れ入る。おそらくはかなり年代物の本ではないだろうか?
脆弱なパラム紙の保護のため、巻物の外装には獣皮紙が使われる。
これは山羊や羊、あるいは牛などの皮から作られる。筆記媒体としても使えるが、容易に書き直しが可能なので公文書や契約書には使えない。
だからといってパラム紙では文書の改竄が不可能というわけではない。パラム紙も容易に改竄しうる。この点獣皮紙と変わらないが、問題は別にあった。
作成のために山羊なり羊なりを殺さなくてはならない獣皮紙と違って、パラム紙は簡単に材料が入手でき、作成の手間も獣皮紙よりはかからない。
しかもパラム紙は紙ほどではないにせよ、獣皮紙よりかは安いのだ。
だからこそ紙が流通するまで、アウラシールではパラム紙が隆盛を極めたのである。
それにしても本が多い。これでは室内に書庫のような臭いがするのも仕方ないと思える量である。
本棚に収まりきれなかった分であろうか。大判の本が頑丈そうな台の上に平積みになっており、その高さはダーシュの胸近くにまで達していた。
これでは家宰の部屋と言うより学者の部屋ではないか……そんな風に思いながら別の壁に目を転じると、そこにはナバラ砂漠を中心にした大きな地図が貼られていた。
地図上にはいくつもの目印が打ってあり、隊商の経路が細かく書き込まれている。
部屋には大きめの丸卓が一つと、来客用の椅子が三脚あった。
ヒスメネス自身が使うのであろう机は、ローゼンディア風の頑丈そうな木製であり、窓から少し離れたところに配置されてあった。
机の上には筆記用具が置かれてあるが書類はなかった。
商家の家宰なのだから、商品の細目やら契約書類などがあっても不思議はないのだが見当たらない。
用心深い性質なのだろう。おそらくは机の中に鍵を掛けて入れてあるのではないか。
そういえば粘土板にも契約用の物があったのを思い出した。
思い出したが、仮に粘土板の契約書をこの男が持っていたとしても、やはり目に付く所に置いておくとは思えない。
この用心深そうな男が、重要な物をそこらに放置する事などあるはずもない。
アウラシールでは粘土板の契約書は最高度の格式を持っている。ただし一般的ではない。
今ではアウラシールでも契約書は紙が普通で、粘土板の物は国同士の協定などに使われるのが普通だからだ。
片付いていると言うよりもむしろ、ほとんど何も置いていないその机は、壁際の本や巻物の山を考えると殺風景に過ぎる感じがした。
一応、机の角には手鉤と受け皿の付いた棚があり、古風な細工を施された硝子張りの夜光燈が置かれてある。
夜光燈とは、油燈に外装を付けた物で、火皿や蝋燭を入れる為の容器だ。
贅沢品の部類に属するので、それなりに金や身分のある家でないと置いてない……が、この部屋の感じから察するに、これとて燈りを供給するためだけの物であるようで、殺風景には変わりがないと思えた。
そんな印象を勘定に入れても実に立派な部屋だった。家宰とはいえ、使用人が使うような部屋ではない。それがまたヒスメネスの屋敷での立場を物語っていると思った。
ローゼンディア人の趣味だろうか、窓は多少大きく作ってあり、その分、光が多く入ってきている。
「そちらにお掛け下さい」
言われて示されたのはやはり来客用だと考えた椅子であった。シュリで出来ている。シュリは軽く丈夫で、加工しやすく、日用品に多く利用されている植物である。
この椅子は一見簡素な品ではあるが、丁寧な仕事がしてあり、高級品なのは明らかだった。
「まるでお前がこの屋敷の主人のようだな」
「私は主人ではありません。この屋敷と店を預かり、切り回しているだけです」
「なるほど」
ものは言い様だと思ったが、その言葉は胸に収まっておいた。
「それよりもあなたこそ、腰の剣はどうされたのです?」
「部屋に置いてある。自分の家の中で剣は必要ないからな」
「確かに。ですがそれは早計というものでしょう。この屋敷は旦那様のものであり、仮令お嬢さんの夫となられたからといって、あなたの物にはなりません」
「ほほう。それがローゼンディアの仕来りというやつなのかな?」
「そう考えていただいて結構です」
「それで? お前はどうしたいのだ? まだるっこしいのは嫌いだ。話を聞こうか」
「では単刀直入にお聞きします。お嬢さんと本当に結婚なさるおつもりなのですか?」
「それはあいつ次第だな」
自分から言い出したことだ。遠回りな答え方はせずに、はっきりと言ってやるつもりだった。
それに、この男にはその方がいい。朝の時にも思ったことだが。
「あなたはお嬢さんに決して損はさせないと言ったそうですが」
「あいつはそんなことまで話したのか?」
「ええ、まあ」
ヒスメネスは苦笑するような顔になった。
「随分信頼されているんだな」
「付き合いが長いですからね」
「お前、この屋敷の主人の下で商売をしていると言ったな。かなり長いのだろう?」
「はい。十歳の時からになります」
「なるほど、すると我が妻とは幼馴染みというわけか」
「そういうことになりますね」
ダーシュは声を出さずに笑った。
「では俺が邪魔ではないのか? いろいろとな」
「ええ。いろいろと」
ヒスメネスは微笑みかけてきた。なるほど、この男は厄介だと思った。
「あなたの作り出した状況はなかなかに複雑でしてね」
「すまんな。深く考えたわけではないんだ」
「そうでしょうね。ですが咄嗟の思い付きにしては、良い結果を生んだと言えるのではないでしょうか」
「俺もそう思う」
「取り引きをするつもりはありませんか?」
「お前と? なんのだ?」
ダーシュは興味を惹られた。この男が何を提案してくるのか気になった。
「あなたを無事にアンケヌから脱出させて差し上げましょう。その代わりに、あなたがお嬢さんに提供するつもりだったものがなんなのか、話していただきたい」
やはりそう来たか……この男なら当然そこに気付くだろうとは思っていたが。
「……俺はあの女の生命を助けると約束したんだ。あの女が契約を守る限りにおいてな」
「では、契約は現在実行中ということですか?」
「そういうことになるな」
答えた瞬間、ヒスメネスから射るような眼差しが向けられてきた。驚くほど強い眼差しだ。
「ほう……お前ただの商人じゃないな」
「交易商人ですからね。職業柄いろいろなものを見聞きしてはいます」
「ふん」
ダーシュは立ち上がった。ヒスメネスの傍に行き、その腕を取った。しっかりとした腕だった。上から差配している商人にしては立派過ぎる。
「戦いの経験もあるようだな」
「言ったでしょう? 交易商人だと。道中、危険は付きものですよ」
よく言う。護衛に隠れてがたがた顫えているだけの者もいるのだ。
「まあいい……とにかく怪訝しなことは考えないことだ。生命が惜しければな」
「それは脅しですか?」
「いや忠告だ」
ダーシュは手を放した。
「俺としてもお前たちを殺したくはない。なんと言っても生命を助けられた恩があるわけだからな」
そうだ。自分がここに居れば助けることが出来る。
「安心しろ。お前たちに危害を加えるつもりは無い。信じてはもらえんかも知れぬがな」
「あなただけならば今日にでも逃がして差し上げられるのだが」
「遠慮しておく。悪いが俺の方ではお前をそこまで信用は出来ない」
本意は違うところにあるのだが、そうとしか言えなかった。
今の時点でこの男に真意を悟られるわけにはいかない。
「そうですか。そのくせ私には御自分を信じろと仰るわけだ」
「そうさ」
ダーシュはからからと笑った。
「諦めろ。これもアルシャンキの思し召しだ」
ヒスメネスの書斎を出ると、ダーシュは自室に向かった。新たに割り当てられた部屋だが、客室であるらしかった。アイオナの居室ほど広くもないし、見た目も豪華ではないが、よく見れば家具や調度は良いものを使っている。落ち着いた趣の部屋である。
とはいえダーシュの感覚では、己の立場に相応しいとは思えぬ部屋であった。見窄らしいとは言わぬまでも、これではただの客人扱いである。
アイオナの夫たる自分は、それなりの扱いを受けてよいはずだった。新たな血縁として尊重されて然るべきだ。
今はこの屋敷にアイオナの父親、つまり家長は暮らしていないようであるし、どうもアイオナには男の兄弟は居ないらしい。
となると娘婿である自分が家長代理を務めるべきなのである。その責任があるのだ。これがダーシュの、アウラシール人の感覚なのである。
ローゼンディアではそうではない、ということは知っている。しかしとても理解出来るようなことではない。
奴らは男と女を同等に扱い、男の仕事を女にも任せている。女が家長を務めるだとか、女が戦場に立つだとか、まったく気狂い地味たことをしている。女にそんな仕事が務まるわけがないだろうに。
もちろん、物事には例外が付きものであることは承知している。そういう例を幾つか聞き知ってもいる。
しかしそれと長年の仕来りとは別である。ローゼンディアの仕来りはそうであるのかも知れぬが、アウラシールはそうではない。
そしてここアンケヌはアウラシールである。
今更道義常識を説くつもりは無いが、これから先のことを考えると、この屋敷の連中には不利な面が多いと考えざるを得ない。
然りとて自己主張をする気にもなれない。主人面をしたところで勘違いをされるのが落ちだ。
――大人しくしている外無いか。
どのみち、数日内に動きがあるだろう。そうなれば否が応でも動かなければならない。
今は客分としてこの屋敷で暮らすのも、悪くないことなのかも知れなかった。