第五章・一
「これはお前には必要のないものだ」
ザハトの言葉は意味が解らなかった。だがそれも一瞬のことだ。すぐにイシュタトにはそれが己の肩にある奴隷の焼き印を示しているのだと解った。
「すぐに穢れを落とさせよう。そしてお前は胸に陽翼盤を抱くのだ。お前の父がそうであったようにな」
何故父親の話が出て来るのだろう? 陽翼盤とは何だ? イシュタトの頭に疑問が浮かんだが、すぐにそんな事はどうでもいいと思った。
そういう事ではないのだ。自分と、この貴人の間にあるものは。
そんな風に簡単に、軽く言葉を交わすことで通じ合えるようなものではない。
イシュタトはそのことをほとんど本能的に悟っていた。
だが何か言わねばならない。目の前の貴人に、イシュタトは何かを言わねばならない。
しかし何を言うべきなのかが判らない。
そして判らないながらも、その口は自然に言葉を紡ぎ出した。
「……腰の物をお貸しください」
掠れた声でイシュタトが呟くと、ザハトは怪訝な顔をした。
だがすぐに腰に差していた剣を抜き放った。抜き身の鋼が陽光を反射して鈍く光る。
イシュタトの左右に並ぶ奴隷から恐怖の気配が伝わり、彼らがイシュタトから少しでも離れようとするのを感じた。
だが並べと命じられた以上、列を乱すことは出来ない。それが奴隷の悲しさだった。
剣の下から逃れることは出来ないのだ。
柄を先に差し出された剣に手を伸ばすと、堪り兼ねたようにグヌグが叫んだ。
「摂政閣下っっ!! 危険でございます!! そやつは特に性根のねじ曲がった卑しい奴隷でございます!!」
ザハトはグヌグを一瞥したがすぐにイシュタトに向き直った。
「摂政閣下あっ!!!!」
両の手を握り締めて叫ぶグヌグに、ザハトは再び冷たい眼差しを向けた。
「黙れ。お前はこの私がどうにかなると心配しているようだが、そんな事は起こりはせん。それよりもお前は我が身の心配をしろ」
「摂政閣下……?」
グヌグはきょとんとした顔になって黙り込む。奴隷達は元より動かない。ゴーサの傭兵達は幽霊のようにザハトの周囲に佇んでいる。
静かだった。それで我を取り戻したのか、それまで状況についていけなかった大男の奴隷が、慌てて駆け寄ってきてザハトの上に日傘を差し掛けた。
イシュタトはザハトの目を見た。それから剣の向きを返して刃を右肩に当てた。
そして注意深く自分の右肩にある奴隷の焼き印を削いでいった。
刃が皮膚に滑り入った瞬間、血が流れ出した。鮮やかな赤い色をしていた。
イシュタトは歯を食いしばった。目から炎が出るような気がした。耳の奥が痺れた。
痛みはほとんど炎で焼かれているようであり、溢れる血が腕の上を流れ落ちた。
でも大した傷ではないのだろう。それは解っている。ただ皮膚の一部を削り取るだけだ。
このぐらい何でもない。
夜盗が五体をばらばらに刻まれて、城門や街道脇にあるのを見た事がある。手を落とし、足を落とし、最後に腰を二つに割るのだ。どれほどの痛みだろうか。
物盗りが罰として腕を落とされるのを見た事がある。奴隷が背中の皮を剥がされるのを見た事がある。どれほどの痛みだろうか。それに比べればこんなものは何でもない。
そう思った。思おうとした。だが信じたい事と現実の痛みは別だった。
焼けつくような痛みに痺れが混じり始めた。手の感覚が無くなってきた。大した傷ではない癖に、生意気にも血は筋を作って流れ出る。
痛みは燃える熱さと痺れを伴っていたが、冷たいとも感じた。
熱さと冷たさの本質は実は同一なのだ。目も眩む痛みの中で初めてそれを悟った。
それでもイシュタトは刃を止めようとはしなかった。
苦鳴も上げなかったし、呻きも漏らさなかった。ただ意志とは無関係に頤が震え、食いしばった歯が、かちかちと小さな音を立てるのは止められなかった。
誰も何も言わなかった。微かな歯の音と、荒い息遣いの他は、ただぞりぞりと鞣し革の上を剃刀が撫でるような音だけがしていた。
これは憎しみなのだとイシュタトは思った。屈辱なのだとも思った。もはや涙すら流れなくなった深い怨念なのだとイシュタトは思った。
そしてこの痛みと憎しみは自分一人の物ではないのだと思った。これは一族の痛みだ。
己の一族は、おそらくもうイシュタト以外は誰も残っていない。死した者達の怒りと悔しさ、悲しみに比べれば、こんなものは何でもない。
弟はまだ生まれたばかりだった。母は槍で何度も突かれて死んだ。病を持っていた祖父は売り物にならぬとその場で叩き殺された。娘を守るために剣を取った叔父は袋叩きにされた挙げ句に油を掛けて火を放たれた。
美しかった従姉は暫く悲鳴を上げていたが、ヤンギルの男達が従姉の手や足を持って部屋から出てきた。血に染まった手足の断面には白い骨が見えていた。男達は笑いながら従姉の手の指輪を見、足の装身具を見ていたのだ。
多くの者がヤンギル族の男達に殺された。そして生き残った者は奴隷として売られたのだ。
最後に一息、口から吐くと、イシュタトは肩の皮を左手で千切り、地面の上に投げ捨てた。濡れた音がした。皮の裏側には血と、黄色みがかった皮膚の中身が見えた。
「――長く、苦しい日々であった」
ザハトの口調は静かだった。その顔からは普段の鋭さは消え、祈りにも似た静謐さが表れていたが、イシュタトにはそれは解らない。
「獅子の子は羊にはなれぬ……やはりお前は獅子の子であったな」
ザハトの声は震えた。だがイシュタトにはもう、何を言っているのか聞こえなくなっていた。未体験の急な出血と、大きな苦痛に耐えてきた肉体が限界を迎えたのだ。
イシュタトはその場に倒れ込んだ。
*
岩山は取り囲まれていた。足元ではシュリヤとクメラ、二人のダナン族女性が抱き合って顫えていた。
周囲にはヤンギル族の戦士達が陣を張りつつある。時間が経つほど危険になるのは解っていたが、こちらはダーシュと自分の他には戦える者がない。打つ手がなかった。
岩陰から外を見ていると、動き回るヤンギルの戦士達がちらちらと見える。
ぞっとした。この後の展開が予測できるだけに現実的な恐怖を感じた。
目をダーシュに転じたが、いつもながら怯えの色はない。こういうところは大した奴だと思う。
そう思って見ていると、何とシュリヤに水を飲ませている。この非常時に何をやっているのか。
「ダーシュ」
「何だ?」
「そんなことをやっている場合か。お前もここに来て外の様子を見ろ」
そして何か知恵を撚り出せ。生き残るための知恵を。
この死地を切り抜けるための知恵を。
「解った」
ダーシュはシュリヤの手に水の碗を押し付けて少しだけ微笑んだ。シュリヤが釣られたように微笑む。ただシュリヤの笑みは少し引き攣ってはいたが。
それを見てザハトは苛つくよりも呆れを感じた。
漸く傍にやって来たダーシュが辺りを見ていく。
やはり緊張は見られない。王宮を、アンケヌを出たあの夜に、ダーシュは変わったとザハトは感じている。
変わって当然だと思う。ザハト自身、あの夜に自分は変わったと感じているのだから、ダーシュがそうでないと考える方が怪訝しいのだ。
とにかく生きねばならない。それは確定事項だ。どんな手を使っても生き延びる。
しかし交渉が可能な相手ではない。ヤンギル族は何としてもラムシャーン王家の血族を皆殺しにしたいはずだし、そうしようとするだろう。
それは欲求というより使命であり、もっと言えば恐怖に近い圧力なのだ。
やられたらやり返す。
これがアウラシールでは絶対の法則だ。だから手を出す時は皆殺しが原則となる。
復讎を恐れるがゆえの風習だが、それをアウラシールでは気が遠くなるくらい昔から続けて来ている。
諸外国にも知られたそれが、古来より血の復讎と呼ばれるアウラシールの伝統なのだ。
アウラルの王、王の王、四方世界の王を称した伝説のグザルハビヌ王も、血の復讎の連鎖を断ち切るために法を定めた。
則ち『目には目を以て贖い、歯には歯を以て贖い、それ以上の贖いを求める不可』である。
だが王がこの世を去ってより一万年以上が過ぎてなお、アウラシールでは復讎の無限連鎖が人々を縛っている。断ち切られていないのだ。
そしてそれは大いに結構なことだとザハト自身は考えている。
好きなだけ攻めてくればいい。好きなだけ殺せばいい。だが必ず己は生き延びて、復讎してやる。
もう取り戻す事も出来なくなった輝ける日々をザハトは忘れない。大切だった人々、尊敬していた人、愛していた自分の家族を、一族を忘れない。
彼らが血の復讎を望むかどうかは問題ではなかった。
大事なのは自分がしたいかどうかだ。体の中を満たす溶けた鉛のような泥を、全て、全て吐き出してしまいたい。
匡す。
あるべき姿に匡す。その一念だけが、今のザハトを支えている。
「どうやって逃げるつもりだ?」
「今思案している」
答えながらザハトは頭を回らせていた。一つ良い手があるが、それは自分にとっては最後の手段だ。余り現実的ではない。
その手を使うのは最後だ。最後の仕上げに使う。そう決めてある。
となると別の手を考えなくてはならない。しかしその場合、使える駒がない。
足元で顫えているシュリヤとクメラは、ダナン族の女性であり、今のところはこの問題に関わりがない。そのことをどう考えるか。
可能性の分岐を検討していく内に、やがて思考が一つの線の形に收斂し始める。出てきた結論は正直、おぞましい考えだった。
他に手はないか。ザハトが再び考え始めた時、背後で物音がした。
すぐさま振り向いて小剣を抜いた。思考が閃く。応戦しなくては。だが同時に殺されるとも思う。
ここまで来られてしまったら、もはやどうする事も出来ないのだ。
おそらく敵は一人ではない。殺される。そんな考えが脳裏をを掠めるが、それでも小剣を構えた。
ザハトもダーシュもまだ子供なのだ。大人の持つ剣は重すぎる。だから取り回しを考えて武器を選ぶ必要がある。その結果の小剣であった。
だが武器は長い方が有利だ。小剣よりも剣、剣よりも槍の方が有利になる。
その不利を認め、しかも活用して戦わねばならない。
それに剣は、刃物は容易に人を殺す力を持つ。場所によっては三デフも切り込めれば人は死ぬ。
デフはアウラシールで広く使われている長さの単位であり、一デフの長さがおよそ大人の親指幅一本分の長さになる。
二人の持つ小剣は長さが十二デフある。要するに先端部が少し深く切り込めば、それで人は殺せるのだ。
ただし通常の剣の刃渡りは、ほぼその倍の長さがある。しかも大人はその体格も膂力も二人を圧倒する。
つまり二人が大人を相手に戦う場合、絶対に退がってはいけないのだ。
退けば押し込まれて殺されてしまう。前へ前へ出ながら小剣の間合いを保ち、戦わなくてはいけない。
「小剣は退がってはならない」
二人は王室近衛の剣術指導をしていたマグヌハヌ・シュガヌ師匠から、繰り返しそう言われた。
これは理窟としては完璧に正しいが、実行するのは至難の業であった。本当の勇気が必要だからだ。
師匠からはその理合いを学び、繰り返し実伝を受けてはいる。
だから出来るはずだった。ヤンギルの戦士などに後れは取らぬ、勇気を奮い起こせば必ず出来る……そう信じようとした。
しかしそこには重大な条件が付くのだ。
『本当の殺し合いで練習通りに動ければ』という条件が。
その事実がどうしてもザハトの足を竦ませる。
怖いのか? そうだ。確かに怖い。
死ぬことが怖いのではない。己の目的が、執念が途絶することが恐いのだ。
ザハトは恐怖を捩じ伏せるようにして小剣を構え、半歩前に出た。
「お待ちを」
ところがそう言いながら現れたのはギジムだった。敵ではなかった。ギジムは間違って攻撃されぬように手を前に翳していた。
助けが来るなどと考えてはいなかった。予想もしなかったのだ。自分達がここに居ることを特に誰かに報せたわけでもない。
それでもギジムは来てくれた。
ザハトは力が抜けるのを感じた。安堵したのだ。そして安堵している自分を恥じた。
「急ぎましょう。駱駝が用意してあります」
「解った」
ザハトは答えてダーシュに向き直った。
「急ぐぞ」
「待て。この二人はどうする?」
いかにもダーシュが言いそうな事だと思った。しかし命を狙われているのはシュリヤとクメラではない。俺達なんだぞとザハトは言いたかった。
「置いていくしかないでしょう」
ギジムがそう言った。言いにくい事だと思って、自分で言ってくれたのだろう。
その言葉を聞いたシュリヤとクメラは顔を硬ばらせた。
「連れて行けないのか?」
ダーシュがギジムに尋ねた。
「無理です」
ギジムは短く答えた。シュリヤとクメラが呻く。そして怖れを打ち消そうとするように、また抱き合った。
可能ならば助けてやりたいとザハトも思う。
しかしそれは無理だ。今この時に我々と一緒に居た事を、不運と思って貰うしかない。
だがそれでダーシュが納得するとは思えない。
どうやってダーシュを動かすか。ザハトの思考はそこに移っていた。
時間はない。急がなければ。ところが先程考えていた内容と、今の状況を繋ぎ合わせると名案が浮かび上がった。
「二人を助けたければここに置いていくのが一番いい」
「どうしてだ?」
ダーシュの問いかけには怒りが含まれていた。予想通り過ぎて失笑しそうになる。
「二人はダナン族だ。二人に手を掛ければダナン族が黙ってはいない。ヤンギルの狙いは俺達だ。俺達が急いでここを離れれば、おそらくヤンギルは二人を無視して俺達を追ってくる」
「その保証はあるのか?」
今度こそザハトは失笑した。鼻で笑ってしまう。ああ、やはりダーシュも見た目ほど落ち着いてはいないのだ。怖いのだと。
落ち着いているように見えても、やはり恐怖はあるのだ。そしてその恐怖を隠そうとしているのだと。
何故隠そうとするのか。決まっている。自分の立場を解っているからだ。
この場に居るザハトやギジム、そしてシュリヤとクメラ、この場には居ないホイヤムとウルバ、そうした皆の事を考えているからだ。
それが解った。解るだけにどうしても笑ってしまう。
――お前はいつも……
「何を笑う?」
「すまん。赦してくれ」
ザハトは謝った。人の優しさは滑稽だ。だが滲みる。
「保証はない。だが連れて逃げようとすれば俺達と一緒に攻撃の対象になるぞ。その方が危険が大きい。ここは身を隠して俺達と別れた方が助かる公算は大きくなる。それだけは確かだ」
「連れて逃げるにも駱駝が足りません」
ギジムが補足してくれた。
「それにシュリヤとクメラは連中に姿を見られていないかも知れん。だとしたらこのままこの岩山に息を潜めていれば、奴らは気付かず通り過ぎるだろう」
ダーシュは考えているようだった。
後一押しでダーシュを動かせるとザハトは思ったが、そのための言葉はまだ言い出せなかった。
危険が余りにも大きかったからだ。
「もう時間がありません」
外の様子を窺っていたギジムが振り返る。焦りが感じられた。相当にぎりぎりの状況なのだろう。
「俺達が目立って逃げればいいのさ」
ザハトは覚悟を決めた。
「俺達が逃げている。それがはっきりと奴らに見えれば、奴らはこんな岩山など無視して追ってくると思うぞ」
そうは言ったが確証はなかった。無駄に目立つ逃げ方をして、命の危険を大きくするだけかも知れない。
ヤンギルの戦士達を将いている奴が誰なのか判らないし、どれくらい知恵が回る奴なのかも判らない。
自分だったら己とダーシュが逃げた後もこの岩山を捜索させるし、シュリヤとクメラを見付ければ捕虜にするだろう。捕虜は使いようがあるのだ。
だが今ダーシュを納得させるにはこれしかない。
「解った」
ダーシュは頷いた。よし脱出だ。ザハトはギジムの方を見た。
「駱駝は三頭あるのか?」
「いえ二頭です」
片方が二人乗りか。すると速度に関して問題がある。追い付かれる可能性がある。
ザハトは又思案した。駱駝は一ヶ所にあるはずだし、岩山を出るのは三人同時でなくてはならない。
三人共に同じ駱駝に向かう以上、ばらばらに出る意味は無いし、かと言って時間差を置いて出るのも危険に思えるからだ。皆が同じ経路を動く以上、似たような動きをする事になる。それは敵の射手を利することはあっても自分達の得にはならない。
狙う側の機会が増えれば、それだけ矢を合わせ易くなるからだ。
だから同時に飛び出して一気に駱駝に向かうしかない。
しかしどうしたところで弓に身をさらすことになる。博奕であることには変わりなかった。
目立つ逃げ方をするとダーシュには言ったが、そんなつもりはない。あれはダーシュを動かす為の方便だった。
岩山という高所から低いところへと降りていくのだ。何もせずとも嫌でも目立つ。
むしろヤンギルの連中がギジムの登ってきた経路に全く気付いていず、無警戒であってくれる方が望ましかった。
とにかく迅速に駱駝に向かい、逃げねばならない。
「……ダーシュを真ん中に、先頭はお前が、殿後を俺が務めよう」
「いえ、殿後は私が」
案の定ギジムがそう申し出た。隊列は最後尾が最も危険であるからだ。
先頭は最初に動くので狙いにくく、真ん中は前後に守られている。最後尾が一番危ないのだ。
だがザハトは取り合わなかった。普段ならばギジムに任せただろう。ザハト達よりも遥かに能力があるのだから。今回はそう出来ない理由があった。
「何を言っている。駱駝の場所を知っているのはお前しかいない。真っ直ぐに駱駝の所へ行って貰わねば困る」
「しかしそれではザハト様が……」
二人がそんな会話をしている間に、ダーシュはシュリヤとクメラに事情を説明し、ここに隠れているよう言い含めていた。面倒見の良い事だとザハトは思った。
ここで三人とも死ぬかも知れない。
ふとそんな事を考えた。アルシャンキのお示しになる判断がそうならば、仕方ない。そう思う。
そもそも神はヤンギルがアンケヌを奪う事をお許しになったのだ。そうであっても不思議はない。
不満はある。だが人の身で神の計画を推し量る事など出来ないとも思う。
信仰とは心の全てを以て神と向かい合う事だと神官に学んだ。
清廉な心で祈るだけが信仰ではないのだ。神は全てを知っておられるのだから、己が心を隠そうとしても意味が無い。
そのままでよいのだ。祈りも願いも。憎しみも悲しみもそのままでいい。
神と繋がり続ける事こそが信仰なのだから。それが今ならばよく解る。
「行くぞ」
ザハトは静かに宣言した。もう覚悟は決めている。ギジムの登ってきた道を見下ろす。
振り返って今ヤンギルの連中が布陣している辺りを見る。確かにまだこちらまでは廻り切れていないようだ。
ギジムの来た方へ向かうには、途中でこの岩山に続く起伏を登る必要がある。その行動はこの岩山から丸見えになる。
敵はこちらが弓を持っているのではと警戒しているのだ。ならばそう思わせておけばよい。
「急ごう」
二人を促して先に立つ。ギジムがザハトの横を通り先頭に出た。ダーシュが続く。最後にその場を離れる前に、ザハトはシュリヤとクメラに振り返った。
「案ずるな。ダナン族がお前達を守ってくれる。もしもヤンギルの男達が来たら、自分たちは劫されていたのだと言え」
その位の知恵を付けてやる事しか出来ないのが歯痒かった。
「巻き込んですまなかった。お前達が無事に戻れる事を祈っている」
そう言ってザハトは岩山を降り始めた。
三人は小石を落としながら急いで駆け下りた。普段ならば足を取られる危険を考えて、出さない速度である。だが今は非常時だ。三人は転ばないぎりぎりの勢いで進んだ。
下まで来ても油断は出来ない。岩山の裾は緩やかだが起伏があり、素早く移動する事が難しかった。うねる岩肌を、木の根でも跨ぐようにして歩く必要がある。
「あそこです」
やや息を乱しながらギジムが指差したのは少し離れた岩塊だった。
駱駝の影が見えている。この辺りは普段はよく風が吹いているのだが、どういうわけか今は無風だった。
嫌な感じがした。
ザハトがそう思った時、弦音が連続で鳴り響き、矢が降ってきた。
「走れ!」
言いながらザハト自身も走る。走ると言うより大股で歩く感じに近い。
前を進むダーシュとギジムの背中だけを見て必死に足を運ぶ。あと少しで足場の悪い所を抜ける。あと少しだ。
「あぐっ!」
悲鳴を上げてダーシュが倒れた。脛に矢が立っている。
「ぐうう……!」
ダーシュが呻いて丸くなる。
ザハトの思考が止まった。まずい。極めてまずい。
「ダーシュ様!」
ギジムが鋭く剣を振った。枯れ枝を折る音がして一筋の矢が弾け飛ぶ。
その音がザハトに理解を齎らした。何故こうなったか瞬時に納得した。
最初からこう仕向けることが狙いだったのだ。
おそらくギジムが登ってくるのも、奴らは北叟笑みながら見ていたに違いない。こちらに気付かれぬ内に既に弓手を配置していたのだ。
おそらく岩山からは見えぬ道筋があるのだろう。それとも最初からこの岩山自体が罠として用意されていたのか。
いずれにしても奴らはわざと逃げ道を用意していた。始めからそこに我らを追い込むつもりだったのだ。
ここで終わるのか。
血の気が引いていくのを感じた。あの夜以来もう何度も感じた感覚だった。
嫌な感覚だ。吐きそうになる。
再びギジムが矢を叩き落とした。達人の技と言っていい。おそらく当たりを付けて防いでいるのだろう。飛翔する矢を肉眼で捕らえることは出来ないからだ。
「お早く!」
ギジムは叫んで駱駝の方を指し示した。それで我に反った。
ザハトは弾かれたように動き出した。転びそうになったがその勢いのまま跳躍した。手を突いて着地して、腰を屈めたまま走った。何も考えなかった。足場の悪い所を抜けて平地に出ると、すぐに駱駝が繋いである岩塊だった。
駱駝に飛び付くようにして手綱を取って跨がった。こちらにも矢が飛んでくる。
振り返るとギジムがダーシュを抱くようにして守っていた。あの足場では走れない。そう考えての判断だろう。
既にギジムの背中には四筋矢が立っていた。
「ギジム!」
ザハトは叫んだ。
ダーシュを抱えてギジムが立ち上がった。大股で歩いてくる。更に二筋の矢がギジムの肩と足に突き立った。
ギジムは蹌踉めいた。だが倒れない。こちらに歩いてくる。
二人は何か話しているようだがザハトには聞こえない。
「ギジム!」
ザハトはまた叫んだ。視界がぼやけた。顔のすぐ傍を矢が掠め、別の矢が近くの岩塊に硬い音を立てて当たっても何も感じなかった。岩塊に当たった矢は少しだけ石を毀れさせたが、そのまま弾け飛んだ。
岩地を抜けると同時にギジムは走った。どこにそんな力があるのかという猛然とした走りだった。また矢がその背中に立った。
ザハトは目元の涙を腕で拭うと、もう一頭の駱駝を引いて二人の傍に向かった。
僅かな距離だったがそれは死の距離だ。だがそんな事は思考から去っていた。
矢が周囲に降り注ぐ。また一筋ギジムの体に矢が立った。
それでもギジムは駱駝に取り付くと、ダーシュの体をその上に押し上げた。
「ザハト様……」
何かをザハトに言おうとしていた。しかしもう話せる状態ではなかった。ギジムの唇は顫えるように動くが言葉を紡ぎ出せない。
だがザハトにはギジムが何を言いたいか解っている。解っていると思った。
「必ず! この命に換えても!」
ザハトが叫ぶとギジムは微かに頷いたように見えた。そのまま崩れ落ちた。
「ギジム……!」
痛みに耐えながらダーシュが手を伸ばした。ギジムは俯伏せに倒れたまま動かない。もう動くことはない。
「行くぞ!!」
ザハトは己の駱駝を蹴った。ダーシュの駱駝を引いて走りだした。
*
イシュタトが目を覚ますとそこは屋内の一室だった。自分は寝台に寝かされているのだと判った。左手に切られた窓からイードの葉が見える。おそらく庭木だろう。
「気が付いた?」
メニエフの声がした。目を向けると熱冷ましの手拭いを持ったメニエフが、寝台の傍らに膝を着いていた。
右肩が熱かった。何かが当てられていると感じて見ると、右肩には包帯が巻いてあった。
包帯の下には薬草とか湿布のような感触がある。
「ローゼンディア人のお医者様が手当てして下さったのよ」
ローゼンディア人が? 確かにローゼンディアには名医が多い事で有名だ。このアンケヌにもそうした医者が居ることは予想が付く。
しかしそんな高級な医者が自分などを手当てするはずがない。
「どうして……」
「摂政閣下がお呼び下さったのよ。あれから一日経っているわ」
丸一日寢ていたのか。しかしあの後何があったのか。
いや、そもそもあの貴人との出会いは何だったのか。何故自分はあんな行動を取ってしまったのか。イシュタトには解らなかった。
「休んだ方がいいわ。後で摂政閣下がご自身でこちらにお見えになるそうよ」
メニエフが水差しを口元に運んでくれた。
「ありがとう」
礼を言ってから水を飲んだ。それで咽が凄く渇いていることが判った。
咽を鳴らして水を飲んだ。全部飲み尽くすとメニエフはすぐに再び水を入れて、飲ませてくれた。
それで少し活力が湧いてきた。身を起こそうとすると痛みと言うか、締め上げるような、砕けるような感じが右肩に生じた。
「あっぐうう!!」
「まだ起きあがるのは無理よ!」
メニエフに介助されてまた寝台に横になった。額に濡れた手拭いが載せられた。
「きっとまた熱が出るわ……」
心配そうなメニエフを見ている内に、イシュタトは頭が働き出すのを感じた。
そもそも自分が寝台に寝ていること自体有り得ないのだ。それもかなり良い寝台のようである。
奴隷に寝台など無いのだ。医者の前にまずそこが異常な点だった。
だがこれが夢とも思えない。一体何があったのか。
「……あれから何があった?」
イシュタトが尋ねると、メニエフは静かに目を外らした。
「……ご主人様は牢に送られたわ。御屋敷の周りは兵隊が見張っていて、ご家族は誰も外に出して貰えないそうよ」
「どうしてそんな事になったんだ?」
イシュタトが尋ねるとメニエフは迷いを見せたが、結局口を開いた。
「原因は……あなたみたい」
「僕が……?」
イシュタトが不思議な顔をしているとメニエフは頷いた。
「摂政閣下がご自身でイシュタトに話があるって……それまでのお世話をあたしが任されたの」
「他の、みんなは……」
「あたし達奴隷はみんな王宮に召し上げになったわ」
「王宮に!?」
「そう」
そこで頷き、更にメニエフは驚くべき事を口にした。
「ここは王宮よ」




