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偽装の結婚  作者: 琴乃つむぎ
第二部(暫定版)
38/64

第四章・四

 商館の浴室は広めに作ってある。洗い場と浴槽があり、硝子ガラス製の、しかも開閉式の窓が二つ付いている。

 飛び抜けてと言うほどではないが、硝子は高級品には違いない。浴室の窓など四角く小さく切って済ますか、折り返し式の天井を付けて終わらせるのが普通なのに、メルサリス商館の窓は、公衆浴場カラシュハルのように硝子製であった。

 窓は結構大きめに作ってあり、おまけに高さもそれほどない所にあった。

 これだと内部からの開閉は楽だが、外からも同じように楽に開閉できることになる。

 通常、浴室の窓は外光の取り入れや、空気の入れ換えの為にあるが、外からの覗きや侵入防止のために高さのあるところに、小さく切るのが常なのだ。

 だからメルサリス商館の浴室は異例の作りと言える。これはファナウスとその妻エリーデの好みによる物で、一応外からの視線をさえぎるために、硝子にはり硝子が使われていた。

 浴室の外側も商館の敷地内なので、じかに通りに面しているわけではないし、しかも風呂の外側には、入浴中の世話を焼くために釜焚きの使用人などがちょくちょくやって来るので、安全の方も確保されているとは言えた。

 浴室の床は全て薄い桃色のタイル張りで、浴槽の下も同じタイル張りだった。

 壁は大理石だが、一面だけがやはり彩色タイルで飾られており、魚達に取り囲まれた女神トリュナイアが描かれている。ちゃんとした画家が下絵を描いたのだろう。線画が詳細で美しいものだった。

 画面のはしの方には何故か数匹のたこが描かれており、その蛸達がやけに幸せそうと言うか、なごんだ雰囲気を感じさせた。

 天井はやはり大理石の円柱で支えられていた。

 壁も円柱も、使われている大理石は高級なカラトヤヌの物だったが、薄く桃色が付いた石が使われていた。床と浴槽のタイルはこの円柱と壁の石色に合わせたものだろう。

 一般に大理石は白を最上とするが、綺麗に色の付いた物も人気がある。この浴室の石は一見して高級品だと判るものだった。

 天井は意外にも木製だった。木は湿気に弱いので、ローゼンディアでは浴室の天井は、通常は石組みで作られる。そして落下水滴対策のための溝などが掘られるのだ。

 ところがここでは木製の天井が組まれていた。

 当然、湿気避けの対策はしてあるだろうが限度がある。

 よく見るとこの天井は、通常の家屋の天井とは違った構造で組み上げられており、駄目になった時すぐに取り替えられるようにとの配慮が感じられた。

 つまり天井の交換を前提とした設計になっているのだ。

 要するにかなり贅沢な浴室なのだった。浴室自体が贅沢品だと言ってしまえばそれまでだが、ここまで凝るのは風呂好きのローゼンディア人とはいえ、中々のものだと言えるだろう。

「相変わらず馬鹿なことに対して、馬鹿げたお金の使い方をしますね。やはりあの子は馬鹿ですね」

 しかし大伯母イネスの評価は散々だった。

 一つの発言の中で三回も馬鹿と言われると、ひどいのを通り越して何やら文辞めいた物さえ感じられるが、それほどに本人の居ないところで父ファナウスは馬鹿にされていた。

「折角商才を持って生まれても、築いた財産の使い方にまで知恵が回らぬようでは話になりません。アイオナ、お前が良くていて、あの子が馬鹿なことをしでかさないように注意するのですよ」

「はい。大伯母様」

 返事はしたが、その指示を守るのは難しいとアイオナは思った。何せ母のエリーデが、やはりこの大伯母からよくファナウスを監督するようにと言われているのだが、一向に上手く行かないのだ。

「馬鹿というものは常にこちらの予測を超えていきます。しかも素直に予測の上を行くのではなく、少し斜め上の方向に行きます。放っておくとろくでもない結果を生むことになりますから注意するように」

「はい。大伯母様」

「人間の行為には、する、やる、やらかす、の三つがあるという事です。これは先だって観た芝居の中の言葉ですが、芝居とはいえ中々面白い意見だと思います。あの子はまさにこの中の、やらかす、という事を好んでやります」

 好んではいないと思った。結果的にそうなるだけだ。それだけに始末が悪いとも言えるが。

「しかしまあ……」

 大伯母はそこで言葉を切った。

「必要以上に手間をかけて、華美にしてあるとはいえ、良い浴室であることは認めぬわけではありません。北壁に我らが祖神様を描いてある所など心憎いではありませんか」

 大伯母様。それは母様の発案です。祖神様の御加護を常に忘れないようにという母様の発案でその彩色タイルになったのです。父様の発案では、わにの着ぐるみを着た道化師が三叉銛で鰐と戦っている絵柄になるはずだったそうです。

 アイオナはそう思ったが、父親のためにその真実は口にしなかった。

 浴室にはアルサム油と香水と垢擦り、ダルメキアの石鹸と糸瓜、桶に入った泥まであった。

 灰色の泥はほとんど液体のような粘土である。これで肌を洗うとつるつるになるが、非常に洗浄力が強く、使うにはちょっとした注意が必要だ。

 更に洗髪後に使うためのティモネも底の浅い容器に入れて置かれていた。

 ティモネは柑橘類の一種であり、ローゼンディアでは一般的な果実である。

 鮮やかな黄色い実の果物だが、酸味が強いのでそのまま食べることはほとんどない。

 薬や食材として重宝されているが、浴室に置いてあるのは整髪のためである。

 石鹸で洗うだけだと髪がきしみ、ごわごわになってしまう。くしの通りも悪くなる。

 そこで髪を洗った後、水を溜めた桶にティモネの汁もしくは酢を少し垂らし、そこに髪を浸すのだ。そうすることで髪がつるつるさらさらになるというわけである。

 それらがきちんと区画を用意されて置いてあるのだった。

 明らかに女性が使うことを考えて色々な物が並べられているのが判る。

 男性用だったら垢擦りとアルサム油だけとか、糸瓜と石鹸だけという風になる。

 アイオナ以外の二人は泥を使った。船旅の汚れを根刮ねこそぎ落とすためだろう。

 頭と体を洗って、一足先にアイオナが湯に入った。温かい。心と体がほどけていくようなゆったりとした心地よさがある。

 足を伸ばして待っていると、大伯母とシフォネが入ってきた。

 二人とも爪先から頭の天辺まで綺麗に洗って満足そうだ。

 三人は浴槽に香水を垂らしてゆっくりと浸かった。

 あたたかでかぐわしい湯に浸かりながら三人が恍惚としている時、治療と称する技によってダーシュは悲鳴を上げていたのだが、そんな事はアイオナには知るよしもなかった。

「……それでお前は、彼の無実をらすために協力している内に親しくなったというわけなのですね?」

「はい、大伯母様」

 焦らずに時間を掛けて、アイオナはあらかじめダーシュと打ち合わせておいた筋書き通りの説明をした。

 さすがに地上の極楽にいると大伯母の攻撃もやわらぐようで、話はダーシュとの出会いや、何故結婚するかに致ったかに移っていた。

 激烈な海上戦ならぬ、風呂場戦を恐れていたアイオナは、内心胸を撫で下ろしていた。

「それで彼の命を狙っているというのは、ザハトと言いましたか? 実の従兄弟なのですね?」

「はい。知勇に優れた恐ろしい人です」

 アイオナはあの鋭い面差しを思い出した。一度しか見なかったが、印象深い男だった。

 大伯母は溜め息を吐いた。

「アウラシール人というのは激情家が多いと言いますが、同じ一族でさえ殺すか殺されるかという問題にまでいさかいが発展するというのは、珍しいのではありませんか?」

「さあ……それはわたしには判りかねますわ」

 実際そうだった。殺すか殺されるかという事を日常的に考えているという氏族ならローゼンディアにもいる。というか、かつてはそうだったらしい。

 今では随分と角が取れて丸くなったと聞くが戦神の末裔(イスタリヘーレイ)と言われるセウェルス氏族がそうであったと聞く。

 ただ王国騎士団や、東方騎士団に多くの人材を出すセウェルス氏族は、実は今でも古代の慣習そのままに、イスターリス戦士団を持っているとも聞く。

 何でも騎士の枠に収まりきれなかった連中の吹き溜りらしく、王の命令すら聞かぬとか、超人的な戦士達だけで構成されているとかいうが、アイオナはその噂をちらりと聞いたことがあるだけで実際のことは知らない。

 古代セウェルス氏族のイスターリス戦士団はと言えば、その余りの強さと獰猛さで、ナーラキアの帝王達も手を焼いたらしい。彼らから税役を取り立てることをあきらめ、代わりに税役免除令を出していたと歴史書に書いてある。

 古代イスターリス戦士団は本当の意味での専門の戦士団だった。

 生産にたずさわらないだけでなく、祭祀階級ですらなかったようだ。これは氏族を代表するような上級の戦士としては異例の事と言える。

 要するに朝から夜まで、ただひたすら殺し合いのことばかり考えていた連中であったらしく、皆一騎当千の化け物揃いだったようだ。

「それでは彼は今は全ての資産を失って、しかも体の方もまだ快復しきっていない状態なのですね?」

 ダーシュは従兄弟のザハトと争い、敗れて殺されかけ、全ての商売上の資産を失ってここにいる、という事にしたのだった。

 さすがにそれだと立場が弱すぎるのではないかとアイオナは思ったが、ダーシュはそれくらいで丁度良いと言う。

「それでお前の親族が、俺をごく潰しと追い出すようだったら、考えねばならんことになるな」

「わたしの親族を試すの?」

「そうだ」

「それって失礼なんじゃないの?」

「あのな。俺は命が懸っているんだぞ? そんなことを気にしていられる状況じゃないだろう?」

 確かに、ダーシュはザハトに狙われ、暗殺者ガズーに狙われ、身の置き所がない状況だ。

「それにローゼンディアでは夫婦は助け合うんだろう? 『病める時、飢える時、苦しき時、いかなる時も互いを思い、助け合うべし』そうじゃなかったのか?」

「それは……そうだけど……」

 だからといって納得できるものではない。自分の問題に親族を、父母を巻き込みたいとは思わない。

「それにな。この話は実は、お前の親族が俺に同情した場合の方が問題なんだ。本当はそれを見極めるためにある」

「どうして?」

 困っている人を助けるのは良い事だ。神官様からもそう習ったし、大伯母様もそう言っている。

 迂闊うかつに人を助けるなと言ったのは父親のファナウスだけだ。

 人の運命に関わるには勇気が要ると。運命に関わるのは、やはり運命だけなのだと。

「あのな……俺の味方をするという事は、ザハトの敵になるって事なんだぞ?」

「あ……」

 ダーシュはやれやれというように肩を落とした。

「お前達はどうか知らんが、アウラシールでは敵と味方ははっきりと区別する。そして敵には容赦しない。なまじ敵味方が常に入り乱れているだけにな」

 あのザハトが父や、母や、大事な親族に牙を剥く。それはとても恐ろしいことだった。

「ザハトは無関係な人間には手を出さない。これは断言できる。だが敵には容赦しないぞ。これも断言できる」

 アイオナはザハトを危険な男だと感じている。

 暴力的であるとかそういう意味ではない。あの男には鋭利な知性を感じた。猿が棒でも振り回すように暴力をもてあそぶ男ではないだろう。

 上手く言えないが、危ういのだ。ザハトは。

「じゃあどうするの?」

「お前の親族が俺をかばい立てするようだったら、適当な理由を付けて商館を出る」

「えっ?」

 アイオナは思わず声を上げてしまった。

 それでは、それでは延長した偽装結婚は……。

「何て顔をしているんだ」

 ダーシュは笑ってアイオナの額に指先で触れた。

 不意を突かれて、アイオナはどきりとしてうつむいた。顔が熱い。

 一体、自分はどんな顔をしていたのだろう。

 そう思うとますます顔が熱くなる。顔を上げることができない。

「心配するな。お前の父親をやり過ごすまでは離れない。ちゃんとお前の立場がまずくならないように振る舞うさ」

 ダーシュはそう言ってくれたが、どのような方法を考えているのかまでは話さなかった。

 隠したのかも知れない。いや隠したというのは考えすぎか。あまり話したくない内容だったのかも知れない。

 何にせよダーシュを信じてはいる。信じてはいるが、ダーシュにも何となく……そう、危うさを感じる。

 そしてその危うさはザハトのそれと似ているのだ。

 何だろう。この感じは。

「我々ローゼンディア人とは風習も歴史も違う異国の人達ですからね……こちらが好意で関わろうとしても、かえって問題をこじらせてしまうかも知れません」

 大伯母の言う通りだと思った。

「あまりそのことには触れない方が良いかも知れませんね」

「はい。わたしもそう思って彼とはそのことは話していません」

「ですがアイオナ、アウラシールの男性は非常に我が強いというか、あそこは男性に優位性があるという社会です。夫は妻の意見など、ものともしないで何でも自分で決めてしまうはずです。そこは大丈夫なのですか?」

「はい。彼は広く外国人と商売をやっていた人ですから……」

「我々ローゼンディアの風習や法律に対しても理解があると?」

「はい」

 アイオナは頷いた。大伯母は溜め息を吐いた。

「お前がそう言うのならそうなのでしょう」

 仕方がない。そんな諦めが感じられた。

「でも意外だわ」

 シフォネが会話に参加してきた。

「アイオナが外国人と、それもアウラシールの人と結婚するなんて」

「たしかにそうですね。快活でさといお前が、どうしてわざわざアウラシールの人と? 苦労するのは目に見えているでしょうに」

「それは、その……」

「その?」

 大伯母が不思議そうな顔をする。

「その?」

 シフォネが何だか目を輝かせて笑みを浮かべている。

 さあ言え、言ってしまえ、そんな感じの顔をしている。

「そのう……」

 アイオナは口籠もった。湯に沈んでいく。薔薇の良い香りがする。

 あれ? 何だか妙な感じだ。後頭部にかぎを掛けられて、釣り上げられるような感じがしてきた。

「アイオナ。どうしました? のぼせたのですか?」

「お祖母様。今が大事なところです。アイオナの話を聞きましょう」

「何を言ってるんです。沈み始めているではありませんか!」

 二人よりも先に湯に入った所為だろうか、それとも湯に浸かりながら長く話をし過ぎたのだろうか。湯煙ゆけむりの向こうに祖神様のお顔が見える。

 微笑んでいらっしゃるわ……アイオナはそう感じた。

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