第四章・三
温浴場には大きな浴槽と、それに併設して寝台が並んでいる区画と、洗い場とがあった。
洗い場は商館の浴場にもあったし理解できるが、寝台が並んでいる区画にダーシュは感心した。
そこでは体にアルサム油を塗った男達が、ある物は自分で、またある者は専門の職人に垢を掻き落として貰っているのだ。
浴場の下男に按摩や、除毛をして貰っている者もいた。
中には専門職と思える垢擦り士や按摩士の姿も見られた。
こうした人々はアウラシールの公衆浴場にもいるが、彼らが仕事をするための、こんな専用の区画はない。
温浴室でそのままやるか隣接の個室に入ってやってもらうかだ。
ところがここでは、まるで病院のように寝台が整然と並んでいるではないか。
「それだけ汗を掻いたんだ。石鹸で洗った方がいい」
ファナウスの勧めを聞いて洗い場に目を遣ると、石鹸売りの小僧が歩き回って男達に石鹸を売っている。ダルメキア産の石鹸で、ミスタリア海沿岸地域では広く知られた物だ。
これはアルサム油を使って作られる石鹸で、とても質が高く、ダルメキアの重要な交易品の一つとなっているが、何でもその消費者のほとんどはローゼンディア人であると言われている。ダーシュもそうだろうと思う。
洗い場ではその石鹸を使って泡立てた糸瓜などを使って、男達が自分で体を洗っていた。
ファナウスは小僧から石鹸を受け取って、糸瓜を使って泡立て始めた。ダーシュにも糸瓜を渡してくる。十分泡立てると石鹸もダーシュに渡してくれた。
「使い終わったら小僧に渡すんだ」
「買ったんじゃないんですか?」
「ああ、体を洗う分だけな。そもそも体を洗うだけで一個丸ごとなんて使わんだろう?」
確かにそうだ。馬でも洗うのでない限りは石鹸の使用量など高が知れている。
「それにそうすれば一個買うよりずっと安くなるし、小僧も売った物をまた売ることが出来るし、みんな助かるのさ」
「石鹸の代金は後払いですか?」
見たところ、誰も硬貨を渡さずに石鹸を受け取っては、使い終わると小僧に返しているので聞いてみた。
「入浴料に含まされているのさ。アルサム油や垢擦り、糸瓜なんかもそうなってる。後で小僧の方から浴場の管理人に売った人数を届け出ると、その分の代金が支払われるのさ」
良く出来た仕組みである。
ファナウスは楽しげに体をごしごし洗い、桶を使って湯で流すと、浴槽に向かった。
見ていると足先からゆっくりと入った。ファナウス以外の男達もそうしている。
時折湯に浸かっている男が呻くような低い声を出す他は、湯が流れる音がするだけだ。
その他には何も聞こえない。静かな空間だった。
公衆浴場というのだし、中庭も人が多く、活気があったしで、もっと騒がしい場所だろうとダーシュは思っていた。
しかしこの温浴場は全く逆だった。静かな、落ち着いた秩序があり、実に良い雰囲気なのだ。
公衆浴場でも温浴室は大体静かであるから、やはり入浴は安らぎを齎らすのかも知れない。
そして浴槽の湯がきれいである。公衆浴場なのになんでこんなに湯がきれいなのか。
おそらくは繁茂に入れ替えているのではないか。
それを考えるとダーシュは目眩がした。莫大な水をそんなことに惜し気も無く使うとは……。
ダーシュが泡を洗い流すと、ファナウスが軽く手招きした。
出来るだけそっと浴槽に入るようにした。それが作法だと察したからだった。
「こんなに静かな場所とは思いませんでした」
「温浴場で騒ぐ奴はおらんさ。ここは寛ぐべき場所。肉体と魂を癒やすための場所だからな」
「なるほど」
感心していると、湯の心地よい温かさがダーシュに染み入ってくる。
じわじわと全身を包囲するように、温かさと心地よさがダーシュを侵略してきた。
「おお……」
思わず声が漏れる。心地よかった。
いつも商館で使う風呂も心地よいが、何というか体への滲み込み具合が違う。
湯の温度は高く感じた。だが辛くはないし不快でもなかった。
「うーむ……」
ファナウスが呻いた。おそらく余りの心地よさが、こうした呻きになって口から出るのだろう。
周りを見ると、そこかしこに目を瞑って唸っている男達がいる。皆同じ顔をしていた。
「そういえば、ハドルメニス先生が薬湯を飲むようにと仰っていました」
「薬湯? たしかに飲む奴もいるが健康法みたいなものだぞ?」
「はあ……」
どうやら自分は正しく言葉を理解できていないようだとダーシュは思った。風呂の文化がアウラシールとは違いすぎるのだ。記憶を探って手懸りを探した。
「日替りがどうとか……」
「ああ、なるほどな。そういうことなら行こうか」
言ってファナウスは立ち上がった。ダーシュに付いてくるように促すと歩き出す。
またもダーシュは慌てて後を追った。どうも振り回されている。しかしあらかじめアイオナから岳父殿は奇人だと聞いているので仕方ないとも思っていた。
微温浴場へ再び戻り、水浴場を抜けて更に先へ進む。
日替りの浴場には誰も入っていなかった。
ダーシュとファナウスの他に人はない。二人きりだった。
だがそれも判ろうというものだ。
廊下を抜けている最中からその妙な臭いはしていたが、浴場へ入ると同時に、強い臭いがダーシュの鼻を襲ったのだった。
「……なんですかこれは?」
「薬湯だよ」
ファナウスの返答は素っ気ない。しかし目の前のものはそれで済まされる類のものではないと思った。
浴槽には黄土色の液体が、湯の代わりに波々と満たされていた。
しかも所々から、ぼこぼこっという音と共に泡が上ってきている。
良く見ると液体の表面には草のような物が浮いている。
しかし凄い臭いだ。だがアイオナの作る煎じ薬の臭いに似ている気もする。
「まさか……」
「そうだよ。これが日替りの浴場だ。温度的には温浴場と同じくらいだろう」
「でも洗い場がありませんよ?」
「洗ったり垢を掻き落とすのは温浴場の方でやるのさ。高温浴場と同じだな」
そういうものなのだろうか。一々移動が面倒臭くはないのか?
そう思っているとファナウスがとんでもないことを言った。
「さあ入りなさい」
ダーシュはきょとんとした。入る? これに?
いや、入れないでしょう。この色を見てくださいよ。
「……これは飲むものではないんですか?」
絞り出すように言うと、ファナウスは笑った。
「違う違う。これは浸かるんだ。薬草の種類によって効果が違うんだが、ハドルメニス先生が入れと言ったのならダーシュに有効なんだろう」
そしてまた浴槽の方を手で示す。
「さあ入りなさい」
だがファナウスは自分では入ろうとしない。見るからに腰が引けている。
「岳父殿は……」
「儂は高温浴場の方を見てこよう」
言いながらさっさと日替り浴場から出て行ってしまった。
「すぐに戻ってくるからそれまで先に浸かってなさい」
廊下に消える直前に顔だけ出してダーシュに命じた。
逃げたのだとダーシュは思った。
泥水のような薬湯を見ているとズィームの町のことを思い出す。
ザハト達と東に行った際のことだ。ズィームの町はハルジット地方の小都市だが、そこの公衆浴場が実に酷かった。
一体いつから浴槽の水を取り替えていないのか、人の垢や脂が浮いていて、凄く嫌な臭いがした。
それが温浴室の薄暗い光の中、玉虫色に輝いているのだ。ぞっとする光景であった。
地元の連中は平気でその湯に浸かっていたが、ダーシュもザハトも近寄らなかった。視界に入れたくもなかった。
目の前の薬湯とやらはそんなことはない。臭いも嫌な臭いではなく、文字通りに薬の臭いだし、不潔さも感じられない。
代わりに得体の知れない危険を感じさせられるが。
――煎じ薬を飲まされるだけではなく、自分が煎じ薬になるのか……
ダーシュは覚悟を決めた。よもや死ぬことはあるまいと思って浴槽に入る。
すると皮膚の表面を焦すような感触と、強烈な臭いがダーシュを包み込んだ。
だが我慢して中にまで入り、肩まで浸かった。ちりちりと熱い……いや滲みると言うべきか。
まるで串焼きの肉のように、自分の体に香辛料で匂い付けをされている気分だった。
それから痛みのような感覚が襲ってきた。
この黄土色の液体の温度が高いわけではない。だが痛みというような、ちりちりした感覚がある。さっきの温浴場の浴槽とは明らかに違う。
まさに串焼きの肉になった気分だった。焙り焼きにされているようだ。
――うぐぐ……何なのだこれは。
その焦されるような感覚に暫く耐えていると、突然ふっと楽になった。
「おお……」
骨にまで何かが浸透したような感じが有った。体の内側から熱が出て来る。
「うーーーむ……」
快感だった。今までに感じたことがない種類の、痺れるような心地よさがダーシュを包み込んでいた。
唸っていると手拭いを提げた小柄な老人が一人入ってきた。ダーシュに気付くと無言で頭を下げる。ダーシュもぺこりと頭を下げた。
老人は桶で黄土色の薬湯を一度被ると、ゆっくりと浴槽に入ってきた。
「若いの。どこか悪いのかね?」
「はい。体の具合を悪くしまして。医者の先生からは悪い毒を体から出すようにと言われています」
「そうかい。ならこの薬湯がいいな。じっくり浸かっていくといい」
「誰でも入れるというものではないんですか?」
先程のファナウスの態度が気になって聞いてみた。
「そうさなあ。若いのは薬湯は初めてかい?」
「はい」
「薬湯ってのは元々が病人とか怪我人向けのもんだからね。合う合わないがあるんだよ。病人にとっちゃ天国でも、元気な奴が入るとひどく痛くなったりすることがある。だから気を付けなくちゃいけないねえ」
それで理由が解った。だが同時に自分は薬湯が安全かどうか試すのに使われたのではないかとも思った。
ほんのりとした怨みのような気持ちがダーシュの中に湧いてきた。
すると呼応するように、ダーシュのすぐ横で泡が一つぽこんと弾けた。
そんな感じで暫く浸かっていると、日替り浴場にファナウスが戻って来た。一緒にハドルメニスを連れている。
「おお、入ってるな」
「岳父殿。大丈夫です。この湯は入れます」
微かな悪意を込めてダーシュが言うと、ファナウスは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「そうだろうそうだろう!」
言いながら浴槽に入ってくる。しかしファナウスはどこも悪くはないようだし、危険ではないのかと思った。
「入れる」というのは自分が、という意味でしかダーシュは使っていない。
つまりは怨み言と嫌みを混ぜた発言だったのだから。
だがファナウスは何ともないようだった。それがダーシュには少し残念だった。
ハドルメニスも入ってきた。
「この湯は効くだろう?」
「ええ、とても」
ダーシュはハドルメニスに答えた。
「ただ薬湯は症状がないと逆に体に悪かったりするからな。そこは気を付けないといかん。今日の湯は大丈夫だ。誰でも入れるよ」
そういうわけか。そしてそれを確認しにハドルメニスの所に行ったわけか。
二人が一緒に現れたわけをダーシュは理解した。
「ハドルメニス先生こんにちは」
「ああノモンさん。こんにちは。その後どうですか?」
「先生のお蔭ですっかりいいですよ」
「それはよかった」
「先生こちらは?」
「おお、申し遅れました。儂はファナウス・メルサリス。ここで商売をやっているものです」
「ああメルサリス商会の方でしたか」
「ご存じでしたかな?」
「もちろんですとも」
ダーシュの周りで中高年世代で会話の花が咲き始めた。
黄土色の水面に咲く湯の花だ。美しいとは言い難いかも知れないが、和やかなことは確かだろう。
「この若者は儂の娘婿でしてな。名前はダーシュ。ダーシュ・ナブ・ナグム……イビヌという」
二つ目のケザムが省略されたが、どうせ偽名だし気にはならなかった。
外国人からすると、どうもアウラシールの名前は長すぎるらしい。おそらく最初の名告りをファナウスは憶えられなかったのだろう。
「よろしくダーシュ」
ノモンが細い手を差し出してくる。
「こちらこそよろしくお願いします」
ダーシュもその手を握り返した。
「儂はノモン・ペルス。今は隠居の身だが、若い頃は交易商人の案内と護衛をやっていたんだよ」
小柄な外見からは想像できないような経歴だった。かなり危険のある仕事だと思うのだが。
「そうだったんですか。どちらの方面へ」
興味を持ったファナウスが尋ねる。
「儂は西の方の出身でしてな。主にロスメニア地方を中心に、西の方と交易をする商人を相手にしておりましたよ」
「するとレメンテム帝国や、ヴァルゲンの諸侯国ですか」
「そうです。レメンテムはともかく、ヴァルゲンは……とにかく食い物がひどくてね。旅は暑さ寒さもきついですが、やっぱり食べ物が合わないと一番苦労しますなあ」
「わかります」
「食べ物はもちろん、あの辺りは医者がおりませんからなあ。ヴァルゲンはまあ、まだ我が国に接しておりますからね。食事はひどいが、捜せば医者はおります。けれどレメンテム帝国の方がね……簡単な怪我や病気でぽろぽろ人が死んでいく。ひどいもんですよ」
「ああなるほど。アラトナ教ですか」
「そうです」
ノモンとファナウスの会話がダーシュには解らなかった。アラトナ教と言えば遥か西の彼方の宗教だ。何でも唯一絶対なる神とやらを信じるという。その位しか知識がない。
そもそも神が一つという感覚自体が解らないので、全く異質な教えだと思っていた。
「どうしてアラトナ教が関係しているんですか?」
「アラトナ教には医者がおらんのだよ」
ダーシュの疑問にノモンが答えた。薬湯を手で掬って顔を撫でる。
「アラトナ教では神官達が医者の仕事をやっていてな。いわゆる内科医はおらん」
「医者がいないのですか?」
「ああ、おらん。床屋はおるがね。床屋が簡単な怪我とか、そういうのを診てくれるが、そんなに医術に精しいわけでもない。怪しい連中が多いし、アラトナ教の教会に目を付けられたら、たちまち裁判にかけられて殺されちまうんじゃよ。だから床屋の連中も目立って仕事をすることはないし、普通は定住しないで生活しとる」
なんだそれは。
「唯一絶対なる神の教えとやらで、神官達だけが地上における神の仕事を代行することを許されているっていう仕組みなのさ。だから神官が医者であり、教師であり、あらゆる事を支配している。俺に言わせりゃ単なる詐欺の犯罪だがね」
ハドルメニスが口を挟んだ。
「あの神官どもに医学の知識なんかありはしないさ。しかも連中、解剖を禁じているからな。この先医学が発展することもないだろうよ。もっともその方が自分たちの利権や立場を守るためには都合がいいんだろうが」
軽蔑を込めた口調だった。
「解剖とはなんですか?」
「アウラシールにも医者はいるだろう? 死体を解剖して人体の仕組みを調べることさ」
ああ、なるほど。腑分けとか言ったか。ダーシュも聞いた事があった。
「連中に言わせれば人間の体は神が作った神聖なものであり、それを調べることは神の創造の御業を犯す重大な不敬行為なんだそうだ。ま、たしかに理窟は解るが、自分たちの薄汚い利権を守るためだけに、よくもそこまで神の栄光を貶しめたものだと思うよ。自分たちの崇めるべき神なのにな。大した神官どもさ」
ハドルメニスはアラトナ教に相当な反感を持っているようだった。
「しかもあの神官ども、自分の具合が悪くなるとローゼンディア人の医者にかかろうとするんだ。なんて野郎どもだと思うよ」
「レメンテムと言えば、どうも軍部と教会の間で反感が高まっているようですな」
ファナウスがそんなことを言いだした。
「ほお? たしかに軍制と教会は独立しておりましたが、今はそんな事になっておるのですか?」
「ええ、儂もじかに西方に行ったわけではないので人から聞いた話ですが」
「それじゃあまた連中、戦争を仕掛けてくるかも知れませんなあ」
ノモンが溜め息を吐いた。
「どうしてレメンテムが戦争を仕掛けてくるんですか?」
「あの国は政治が揺らぐとローゼンディアに外征してくる事が多いのさ。いつものことだがこっちは堪ったもんじゃない」
またハドルメニスが答えた。
「あの国も大国だからな。皇帝はいるが、軍部と教会も大きな権力を持っていて、いつも争っている。どんな案配でそうなるのか知らんが、ローゼンディアはそれで何度も攻められているのさ」
「ローゼンディアから戦争を仕掛けたことはないんですか?」
「そりゃあ、あるさ」
だったらお互い様ではないだろうか。そうダーシュは思った。
「なあに攻められても、またベルガイアの戦いみたいに返り討ちにしてくれるでしょうよ。我が軍は強い。儂は信じておりますよ」
ノモンが握り拳を作って言う。
ベルガイアの戦いは今から百年以上昔にあった伝説の大戦である。
ダーシュは詳しくは知らないが、この戦いでレメンテム帝国が歴史的な敗北を喫したのは有名であった。
そしてこの戦いでローゼンディアの指揮を執ったのがゼメレス公クレオラである。
アウラシールで魔物のように恐れられた西の魔女だ。因みにレメンテム帝国では東の森の魔女と言われているらしい。自国からの位置関係で勝手に呼ばれているわけだが、どちらにしろ魔女には変わりない。
クレオラ・ゼメレスは悪魔的な軍才で数々の戦いを勝ち抜いたが、その最初の戦いがベルガイアの戦いだったという。
この戦いで彼女の名前は広く周辺諸国に知られることになった。しかしアウラシール諸国にとっての本当の恐怖はその後の話になる。
アウラシール都市国家連合軍が北伐と称してナバラ砂漠を北上した時、その真の恐ろしさを思い知らされる事となったのだ。
レメンテム帝国同様に膨大な軍勢を送りこんだアウラシール連合軍ではあったが、やはりレメンテム帝国と同じように徹底的に叩かれ殲滅させられたのである。
ナバラ砂漠の北で、まるで霧のように連合軍は消えてしまった。今でもそう言われている。
「すまんなダーシュ。気分を悪くしたか?」
ファナウスが気遣って聞いてきた。アウラシールの北伐の事を知っており、しかもダーシュのことをアウラシール人だと考えているということだ。
確かに初めて船上で挨拶した時にも、ファナウスは名前をちゃんと呼んできたし、アウラシールの礼法を見せても通じていた。
あの時にも思ったが、何せアンケヌに大きな支店を構えるほどの大商人である。アウラシールに限らず異国の風習に通じていない方が怪訝しいのかも知れない。
「いいえ」
ファナウスの気遣いにダーシュは微笑んで答えた。意外と、細いところに気の回る男だなと思った。
侵略を先に仕掛けたのはアウラシールだ。レメンテムとの戦いで国力が疲弊しているだろうという読みの元、都市バハラクの王、センケレ・エリヤバル三八五世を総大将にローゼンディアに戦争を挑んだのだ。
センケレ・エリヤバル三八五世は、古代の英雄王エリヤバルの名前を持つだけに、暗愚な王ではなかったというし、自身も勇猛であったらしい。
準備も万端整えたろう。巨獣も四百以上も用意した歴史的な大軍勢で挑み、そして空前の大敗という歴史的な負け方をしたのだ。
アンケヌからもかなりの犠牲を出した。ダーシュは歴史の教師からそのことを学んでいる。
「たしかに私の一族からも戦死者は出ていますが、仕掛けたのはこちらから。しかも今となっては随分昔のことではありませんか」
「アウラシールの人に昔の話と言われるのも妙な気がするな」
「含みはありませんよ」
ダーシュは微笑んだ。ゼメレスという名前には好意を持てないがな、と胸の内で独りごちた。
「ほほう。若いのはアウラシールの人かね?」
「はいナデフの出身ですが、アンケヌで育ちました」
嘘である。最初からアンケヌの生まれ、アンケヌの育ちである。
アンケヌ育ちを隠そうとしても、おそらく言葉の訛りで見破られるし、そもそもアンケヌに居たことにしないと、アイオナとの出会いの説明がしにくくなる。
ただ出身地だけは他にしておきたかった。
「随分南の方だな」
「ええ。ですがあの辺りがアウラシールです」
「ははは。ジルバラの人は皆そう言うな」
ファナウスが笑った。ノモンとハドルメニスは解らぬらしい。場所が遠すぎるからだろう。
ジルバラ地方はアウラシールの最南方地域であり、アウラシール文明発祥の地なのだ。
「大きな町なのかね?」
そんなことをハドルメニスは聞いてきた。
「はい。大きいですよ。と言っても私は七歳までしか居ませんでしたが」
「アウラシールの南の方というと、歴史の古い町なんだろうね」
「はいとても」
「アウラルには行ったことがあるかね? 儂も一度あの噂の城壁を見てみたいんだが」
七色の城壁のことである。都市アウラルには七色の七つの門があり、その門に対応した区画の城壁は門と同じ色で作られているのだ。
「正直に言って、荘厳と言うより派手ですね。かなり派手な感じですよ」
「ほう? そうかね」
「そういえばダーシュは何を商っているのかね?」
ファナウスが不意にそんな事を聞いてきた。
――来たな。
そう思った。
「はい。私は塩と油を主に取り引きしてきました」
手堅い商品の名前を挙げる。しかも油は種類があるので話を変えやすいと判断してのことである。
それに何より、ダーシュには実際にこの二つの商品の取り引きに関わった経験があった。
「塩と油か。それじゃあうちとは商売が被るな」
「それはお互い様ですよ」
「違いないな」
ファナウスは笑った。
「しかしそれじゃあ、うちの娘とは、そんなにいい出会い方はしなかったんじゃないのかね?」
「どうして判るんですか?」
ダーシュはわざと意外そうな顔をして聞いた。そうすることでファナウスの予想は当たっているぞと答えたつもりである。
「あれの親だからな。想像は付くよ」
「なるほど」
今度はダーシュが笑った。微笑むだけのつもりがつい笑ってしまった。
確かに、理想的な出会いとは言い難い状況だったのだ。
「君の一族も同じように塩や油を扱っているんだろう? 君の父上も。それと兄弟はいるのかね?」
「残念ながら父も兄も他界しております」
「……そうか。悪いことを聞いたかな?」
「いえ」
「では君には直接の親族はいないのかな?」
直接の親族というのは親兄弟を表している。
部族単位で社会が構成されているアウラシールでは、直接の親族である親兄弟を失うことは非常に大きな損失となる。
生きていく上で様々な不利益を、差別を受けることになるのだ。
ダーシュは自分は恵まれていたと思っている。王族であったという特殊な立場もあるだろうが、あの年齢で親兄弟や一族の後盾を失えば、奴隷の身に落ちるのが普通だ。
「ええ……ああ、いや、従兄弟が一人います」
「ほう。その人も商人かね?」
「はい。元々は神官になりたかったようですが」
そうだ。ザハトは気性が激しいわりに学究肌な所があった。子供の頃は生真面目に聖典を読み、古代法の解釈学などを勉強していた。
もしも何も起きなかったとしたら。
あの恐るべき政変が起きなかったとしたら。
――ザハトは神官になっていただろうか。
ふとそんな事を考えた。
「苦労したのかね」
「そんなことはありませんよ。私は恵まれていました」
ダーシュは目を閉じた。兄の近侍だったホイヤム、近衛のギジムとウルバ。忠実で勇敢な男達に守られて生きてきたのだ。ダナン族だって自分たちを受け入れてくれた。
苦労はした。したが、耐えられないという程ではない。
この世は地獄だ。
それを目の当たりにして見てきた。自分は、ザハトは恵まれていたのだ。
「その従兄弟と、今は一緒に塩と油を商っているのかね?」
「いや、実は今、私は無職なのですよ」
「なんだって?」
ファナウスが目を丸くした。その顔を見て、してやったりという気持ちがダーシュに芽生えた。




