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偽装の結婚  作者: 琴乃つむぎ
第二部(暫定版)
36/64

第四章・二

 商会で雇っている人間には、仕事のための商会員だけではなく、商会館を維持する為の使用人たちも含まれている。

 アイオナはその使用人達に命じて風呂の準備をさせた。

 三階の客室は今はダーシュの部屋になっているので、人を上げるわけにはいかない。

 自室へ通すのが一番良いだろうと判断して、大伯母とシフォネには四階に上がって貰った。

 大伯母の召使い、ケルスは商館の二階で待たせることにした。メルサリス家には急な来客があった場合に備えて、ディブロス市内に家を三軒確保してある。

 そちらの別邸には当然召使いの為の部屋も用意されてあり、後で大伯母とシフォネがそちらに移る時に一緒について行くのだ。

「準備が出来るまでこちらでお待ち下さい。客室は今は――」

 そこで言葉が詰まってしまった。

「今は、夫が使っているので、その、散らかっておりますが、わたしの部屋で……」

 くすぐったいような恥ずかしさを感じつつ、アイオナは自室の扉を開けた。

 言う程散らかっていないのは判っている。というより自分の部屋には、あまり物がないのだ。机と本棚、来客用の卓と椅子くらいしかない。

 その机も頑丈さを第一に作らせたので無骨な外見をしていたし、本棚は巻物や、高価な本を入れる為だけのものなので、やはりこれまた頑丈さを重んじた、ただの仕切りのある棚に過ぎなかった。

 小物用の箪笥たんすも一応あるが、ダルメキアの古い品物であり、綺麗であるとか可愛いと言うよりも、渋い、味がある、といった形をしていて、要するに古民具というやつだった。

 このあたりは父親の趣味を見事に引き継いでいるのだが、アイオナ本人に自覚はない。

 しかも今、机には商会の仕事で必要な書類が積み上げてあり、卓の方にはダーシュの煎じ薬を作る為の乳鉢やら、薬草やらが置いてあった。その意味では散らかっていると言えなくもない。

 どちらにせよ、どう見ても若い娘の部屋ではなかった。一言で言えば学者の部屋である。

 それでも何とか、メルサリス商会の次期商会長であり、年頃の娘らしさを感じさせているのが、机の上にある夜光燈やこうとうで、これだけがこの部屋で唯一華美と言える調度品だった。

 夜光燈とは油燈に外装を付けた物であり、言ってしまえば、中に火皿や蝋燭を入れるためだけの道具である。

 いわゆる金持ち向けの調度品であり、アイオナの物は火を入れる部分が、薄く霧を吹いたような六角形の硝子ガラスに仕切られていて、とても優美で異国的な外見をしていた。

 これはアウラシールで作られた年代物で、元はファナウスの物だったのだが、アイオナが譲り受けたのだった。

「いい部屋ね」

 入るなりシフォネはそう言ってくれた。

「質素ですね」

 大伯母はそう言った。微妙な感想だと思った。

「衣装部屋はあの扉ですか?」

 何故か大伯母がそんな事を聞いてきた。どうして衣装部屋のことなど聞くのだろう? アイオナは不思議だった。

 一応壁の中には衣装部屋もあるにはある。あるが、とても豪華と言えるほどのものではない。

 必要な最低限の訪問着と、日常用の衣服が入っているだけで、服を下げる為の横木にはまだ半分以上の空きがある。

 靴や編みサンダルも全部足しても十足には足らない有り様で、大店の跡取り娘、それも年頃の娘の持ち物としては倹約を通り越して危険な水準だった。

 しかし大伯母にはよく倹約をするように教えられてきたので、服の数が少ないことで、別に怒られることはないだろうと思えた。

 中を見せてくれと、これも意外なことを大伯母に言われたが、アイオナは抵抗感無く衣装部屋の扉を開いて見せた。

 大伯母イネスは中に入り、下げられている衣服を見て、そして足元の靴や編みサンダルを見たが、

「……数が少ないですね」

 と呟いた。やや残念そうな口調だった。アイオナは驚いた。

「でも、いい服を選んであります。そこは褒めてあげます」

「ありがとうございます!」

「衣服という物は常に他人の目を意識しなければなりません。つまり世の中の規範に合う必要があり、そうした水準が明確に存在するのです」

「はい」

「流行を追うなとは言いません。あなたも年頃なのだから華美なものに心惹かれることはあるでしょうし、それは自然なことです。ですが流行物を追えば服は際限なく増えていきます。それは忘れないように」

「はい」

 アイオナは返事をしながら頷き続けた。別に怒られているという意識はなかったし、辛くもなかったのだが、見かねたのかシフォネが話に入ってきた。

「お祖母様それくらいで……」

 そこで大伯母は何かに気付いたようにはっとした。

「ああ、申し訳ないわねアイオナ。説教をするつもりはなかったのですよ」

 どうやら他に言いたいことがあったらしいが、何となくこうした感じになってしまったらしい。

 アイオナとしては、大伯母様は今日も通常営業だなという印象だったので、別に違和感を持たなかったのだが。

「お祖母様、お風呂の準備が出来るまでまだ大分あると思いますし、今の内にアイオナにお話をしておいた方がよろしいのではないしょうか?」

「そうですね」

 大伯母イネスは頷いて近くの椅子に坐った。

 アイオナは慌てて卓の上にある薬草や、乳鉢、その他の煎じ薬の材料、つまり不気味な虫の死骸や、干物になったトカゲ、甲殼獣のとげなどの怪しい品々を、両腕で抱えるようにしてどかした。

 どかしたのはいいが、異動先の机の上は、商会の書類が積み上げてあって、新たに物を置く場所がない。

 アイオナは両腕に奇怪な薬の材料を抱えたまま、しばらく部屋の中をうろうろと彷徨さまよった。

 その哀れな姿を見ていたシフォネは、すぐに立ち上がって机の上の書類を纏め、本棚へと移動させた。

「ありがとうシフォネ」

 首と右肩で乾燥させた薬木皮紙を押さえながら、アイオナは何とか笑顔で礼を言った。

「先にそれを置いた方がいいわ。大切な物なんでしょう?」

「ええ、ありがとうシフォネ」

 言いながら机の上に煎じ薬の材料と、乳鉢やらを置いていく。これもシフォネは手伝ってくれた。

 最後に卓の上に散った、薬草やその他医薬品の細かな破片を羽帚はぼうきで床に落とした。

 すると煎じ薬の材料達が出す、とても健康に良さそうだが、一種複雑な臭いがわずかの間辺りに漂った。

 アイオナと大伯母イネス、シフォネの三人は同じ卓を囲んで坐った。

 ふっと沈黙が落ちた。別に誰かが話すのを待っているという感じではなく、場が静まったのだ。

 あ、これから何か大切な話が始まる……アイオナがそう感じた時、

「奥さま。お茶をお持ちしました」

 スィサの声だった。ローゼンディア語だった。

 彼女は現在、ローゼンディア語と並行して商人の基本を勉強中だが、手の空いた時はこうして使用人の仕事をしてくれるのだ。空いた時間は別に休むなり遊ぶなり、自由にして良いと言ってあるのだが、何か仕事をしていないと本人が落ち着かないらしい。

 実際、掃除でも買い物でも何でも、家事手伝いの能力は高いので、スィサは使用人達にも重宝されているようだ。

 ずるい使用人に都合良く使われることがないようにアイオナは目を配っているが、今のところそんな事はなく、働き者の新米という感じで可愛がられているようだった。

「入っていいわよ」

 扉が開き、スィサが丸盆に茶器一式を載せて入ってきた。

「失礼します」

 今度はイデラ語で言いながら、スィサがアイオナ達の前に茶を準備していく。

 手慣れた動きだったが緊張しているのがアイオナには判った。

 多分、店の者達に大伯母の話を色々と吹き込まれたのだろう。

 商会の長であるファナウスですら全く頭が上がらないとか、アイオナを教育していた時期があるとか聞けば、スィサの身はこわばってしまうに違いない。

「可愛らしい使用人さんね」

 シフォネがスィサに微笑みかけた。その優しい笑顔に安心したのだろう。スィサも笑顔を見せた。

 それで少し緊張が解けたのか、動きがなめらかになった。

 用意してきたのは藍トラナ茶で、小さな白磁の器に危なげなくお茶を注ぎ、干し葡萄、小皿に入れた小さな焼き菓子などを各人の前に準備すると、スィサは一礼して部屋を出て行った。

「奥様、なのですね……」

 扉が閉まると大伯母がつぶやいた。

 何だろう。どうも先程から大伯母の様子が奇妙おかしい。

「いったいどうしてお前は結婚したのですか? 私の紹介する縁談はことごとく断ってきたではないですか」

「え? ええ? それは、その……」

 いきなりの質問にアイオナは混乱する。何か重大な話が始まると感じていたのに、文句のような事を言われて焦った。

「私もアイオナがどうして急に結婚する気になったのか知りたいわ」

 シフォネがいかにも興味がありますという風に笑顔で聞いてくる。

「しかも、私達親族に何の報せもなかったばかりか、父親のファナウスにさえ相談もしなかったのでしょう? いったい何を考えているのですか?」

「ああ、ええ、それには事情がありますので……」

「アイオナ、私達は親族だし、それにお友達でしょう? せめて結婚するわの一言くらいあってもよかったと思うの」

「何か事情があるのは私にもわかります。わかりますが、それにしたって、多少落ち着いた時点で一報を入れるのが常識というものです」

「それとも何か言えない理由があるのかしら? まさか……」

「何か大きな厄介ごとに巻き込まれたのならば相談なさい。ファナウスが信用できないのはわかります。あの子は昔からどこかすっぽ抜けておりましたから」

「そもそも彼とのめはいつ、どこでなのかしら?」

「いいですか? アイオナ。結婚というものは個人の関係でありながら、一族や周囲にも深く関わる性質のものです。そこでは個人の事情と、集団の事情が均衡していなくてはなりません。どちらが犠牲になることも望ましくないのです。しかし往々にして一族の体面や利益の為に結婚はなされることが多い。私はかねてからそうしたあり方には疑問を持っていました。だからこそお前の意思を尊重し、意に染まぬ縁談を押し付けようとはしなかったのです。お前が出来るだけ選択肢を持てるように、私は色々な経歴や個性を持った男性を紹介してきたつもりです。それを――」

 大伯母とシフォネの声が左右から降ってくる。

 右と左から同時に次々と矢を射かけられている気分だった。

「あの方はアウラシールの商人よね? どちらの都市のご出身なのかしら?」

「もちろん多くの男性に会えばよいというものではありません。ナーラキアの古典にもあるでしょう? 『染まり過ぎた亜麻布は汚れているのと区別が付かない』と、ですがこの警句には下の句があります。言ってみなさいアイオナ」

 いきなりそう求められ、アイオナは慌てて記憶の抽斗ひきだしあさった。

「ええ? あ、『亜麻布は象牙色で美しいが汚れやすい』でしたか?」

「違います。きちんと勉強なさい。いいですか? 『だが素地の亜麻布は汚れやすい。白ならば尚更なおさらだ』です。元々これは学問における警句でしたが、後になって男女のことにも転用されるようになりました。私はそのことを上品だとは思いませんが、そこに一定の真理が存在することを認めないわけではありません。比較には優劣が、優劣には尺度という問題が必ず付いて回るからです。そのことに無自覚になった時、惰性が人の精神をむしばむのです」

 素晴しい学識に裏打ちされた大伯母の有り難い説法は、終わる気配が全く見えなかった。

 一方シフォネは上品に、しかし強い興味を持った様子でダーシュについて聞いてくる。

 こちらも質問が終わる気配は全く見えなかった。

 そういえばシフォネはこういう時、場の状況を察する感覚がにぶい娘だった。

 今もあれこれとダーシュのことを想像しているようで、アイオナの顔色がいい感じに駄目な色に変わりつつあるのに全然気付いていない。こういう時こそ、シフォネはいつもの優しい気配りを発揮して欲しいものだがその気配はない。

 ――ああダーシュ。助けて……。

 アイオナは何だか頭がくらくらしてきた。

「聞いていますか? 聞いていますか? アイオナ!」

 矢を射かけるだけでは飽きたらず、ついに大伯母は接近戦を挑んでくる気配を見せた。

 アイオナは死を覚悟……しはしなかったが、早くこの時間終わってと心の中で祈っていた。

 それからも二人は左右からアイオナに話し続けたが、いきなり古典の暗誦を求められることなどはなく、取り敢えず言葉を言葉として聞いておくだけでしのぎ続けた。

 何でも言葉を言葉として単に聞いているだけというのは、修道院の行法の一つであるらしい。それも中々に難しい修行だと聞く。

 左右から締め付けられて糸のように細くなった理性の、その更に一部で、実はわたしってちょっと凄いかも? とかアイオナは思った。

 だが耐えた甲斐あって、約束された助けの船がやって来た。

「お嬢さま。ご入浴の用意が出来ました」

 使用人の声が聞こえた途端、アイオナはすっくと立ち上がった。

「どうしたのですか?」

「大伯母様」

 そこでアイオナはにっこりと微笑んだ。

「お風呂の準備が出来たようですわ。まずは船旅の疲れを御入浴で瘉されるのがよろしいかと思います」

「ふむ……」

 説法の途中だけあって、大伯母イネスは少しだけ思案したが、やはり風呂の魅力に勝てるローゼンディア人はいないらしい。

「そうですね。まずは旅の汚れを落とすとしましょう。良い機会です。アイオナ、お前も付き合いなさい」

 これで大丈夫と安心したのも束の間、大伯母はアイオナに向かってそう言った。

 海の女神の一族だけあって、戦いは海戦ならぬ風呂場戦に移行するらしかった。

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