第四章・一
取り敢えず一行は商館へと移動することになった。
ただしゼルヴィスとその供の者たちは別だ。彼らにはアナクシス家の館がある。
ファナウス達がメルサリス商館へ戻るように、彼らもまずそこへ戻るのだ。
「では我々は後で参ります」
ゼルヴィスはそう言うと、アイオナの方を意味ありげに一瞥してから、供の者を連れて去っていった。
それがダーシュには何となく不愉快だった。
メルサリス商館へ着くなり、公衆浴場へ行くとファナウスが言いだした。
なんと今到着した全員を引き連れて風呂に入りに行くのだという。
まだ荷物すら館に届ききっていない。人足や召使いが仕事をする中、ファナウスは手を叩いて今ディブロスに着いたばかりの商会の者達に注目させた。
「風呂に行くぞ!」
ファナウスの大声に応じるように歓声が上がった。
潮風でべたつく体をさっぱりさせたいらしい。その気持ちはダーシュとしても解るような気もするが、それにしても無事到着の宴を催すのが先だろうと思う。
ところが到着した面々はもちろん、いわば仕事を押しつけられる恰好になるディブロス在住の商会の者すら、誰もファナウスに異論がないようだった。
それでいいのだろうかとダーシュは思っていたが、
「そうですね。私も同感です」
最高位にある大伯母イネスがあっさりと頷き、話は決まった。
「伯母上は館の浴室をお使い下さい。その方がお楽でしょうからな。アイオナ、準備を任せてもよいな?」
「はい父様」
「ダーシュも一緒に来なさい」
突然ダーシュに笑顔を向けてファナウスは言った。
「私もですか!?」
「君だけ仲間外れにするわけにはいかんからな」
そこはむしろ仲間外れにして欲しかったが、初対面の婿という自分の立場を考えると、そうもいかないのが辛いところだった。
「ええ、喜んで」
仕方なく笑顔でダーシュも応じた。
視界の端でアイオナが拳を握りしめて、何やら通しの合図をこちらに送っている。
頑張れという事なのだろう。しかもその通しが、大伯母と、はとこのシフォネに思いきり見られている。
お前こそ頑張れとダーシュは言ってやりたかったが、笑顔を向けるだけに留めた。
ディブロスはローゼンディアの都市であるから、当然のようにあちこちに公衆浴場がある。小さなものから大きなものまで様々だ。ほとんどはローゼンディア式の施設だが、中にはアウラシール式のものもあるらしい。
大概は建物自体や入り口の感じが少し違うので、どの様式なのかの区別が付くようになっている。
呼び名も違っていて、アウラシールでもリムリク地方では公衆浴場のことをハルサブルと言うし、ジルバラの方ではハラーラサブールと言う。
それぞれ同じ公衆浴場だが、雰囲気は違うし、中の造りにも違いがある。ローゼンディアのものが最も優れていると言われる。
貴族や富豪は自分の邸宅に個人用の浴室を持っていることが一般的だが、庶民は公衆浴場に行くしかない。
そしてそれなりの規模の公衆浴場であれば、併設して娯楽や癒しの施設がある場合が多く、そこが一種の社交場になっているのが常だった。
公衆浴場が社交の場になっているというのはアウラシールでも同様だが、どうもローゼンディアのそれは桁が違うらしい。
自宅に浴室のある貴族や富豪までが、それを目当てに公衆浴場へ来ることがあるというから、ローゼンディア人にとって公衆浴場は不可欠的生活必需施設と言える。
そもそも入浴文化はローゼンディアからアウラシールにもたらされた観があるので、この点に関しては後塵を拝しても仕方あるまい。
一行はかなりの人数なので分割して行く事になった。
皆、勝手知ったる風であり、三々五々人数が集まってあちこちの公衆浴場へと向かっていく。
ダーシュはファナウスと、そしてファナウスに近しい商会の面々と一緒になった。
港近くの商会からそれほど離れていない、大通りを歩いて行く。
程無くとても大きな公衆浴場が見えてきた。
ダーシュもよく傍を通るので、知っている公衆浴場だが、入ったことはない。
今も煙突から煙が出ている。あれで湯を沸かしているのだ。ダーシュの見たところ、大概は煙が出ているので、おそらくいつも湯を沸かしているのだろう。なんという無駄な労力かと思う。
公衆浴場は幾つもの建物が連なって出来ており、天井に沢山ある硝子窓が日を受けてきらきらと光っているのでよく目立つ。
おそらくは浴室が分割されているのだろう。あちこちから湯気が出ている。
あまり大きくない入り口を入って少し歩くと、左手に廁が並んでいた。
その先を曲がると急に視界が開けた。大きな柱に支えられた屋根付きの回廊に出た。
回廊の中心には中庭があったが、広場と言っても良いほどの広さがあった。
そこは人々が寛いだり散策したりする為の場所のようだったが、ガヌーンをしている者達もいた。
ガヌーンは元々は戦場での組打術であり、ローゼンディアでは確かグラティオンと言うのだったか……そんな事を思いながらダーシュは辺りを見渡した。
柱の側ではそれなりの身分と思える男性二人が立ち話をしており、そこから少し離れたところを子供たちが走り回っている。
石の台座には召使いと思しき者達が並んで坐っていた。召使い同士で会話をしている姿も見えた。
おそらくは主人が入浴を終えて出て来るのを待っているのだろう。
色々な会話と、子供達がはしゃぐ声が混じり合ってダーシュの耳に届いてくる。騒々しいという程ではないが、何だか落ち着かない。
多分、公衆浴場での休憩室がこの場所に該当するのではないかと思えたが、噴水盤もないし、しかも屋外である事もあり、何か違うと言うか……違和感がある。
何というか、ダーシュの目には渾沌とした場所に見えた。
渾沌としていると言えばまず第一に市場が思い浮かぶが、ここは市場などとはまた少し違った類いの雰囲気があって、何だか脱力加減の渾沌さとでも言いたくなる空気が漂っていた。
公衆浴場では休憩室を談話室とも言うのだが、そこは大人の男の寛ぎ空間である。幼い子供はあまり見られない。子供は大抵、女が連れて行くので女風呂の方に入るのだ。
そういう感じがここには無いのだ。つまり談話室では無いということになる。
編み籠を持った男が歩きながら硬貨を徴収していた。どうやら入浴料らしい。
アウラシールでは出る時に、浴場の主人である親方に料金を支払うが、ここでは事前徴収のようだった。
「ローゼンディアの公衆浴場に来るのは初めてかね?」
ファナウスに尋ねられた。
敢えて「ローゼンディアの」という言い方をしたのは、ダーシュがアウラシール人であることを考えてのことだろう。
「はい。いつも商館の浴室を使っていましたので」
「それは勿体無いな。公衆浴場は楽しいぞ。風呂なくしてローゼンディアはありえん。風呂こそローゼンディアの魂なのだ。ダーシュも何度か来ればきっとその良さが解る」
「はあ……」
商会の者が編み籠を持った男と話をして、全員が中に入れることになった。
ファナウスは著名人なので、後で商会の方で纏めて料金を払うという事になったらしい。
こちらは人数も多いし、いちいちここで支払うよりもその方が楽なのだ。
中庭の一角には告知板とでも言うべき壁があって、そこには色々な広告が掲げられてあった。
「ほう。世界座がディブロスに来るのか……」
芝居の広告を見ながらファナウスが呟いた。
「世界座ってえと商会長や、お嬢さんの御贔屓ですよね?」
横から覗きこんだ商会の男がファナウスに尋ねた。
「ああ。しかし……座長のデトレウスは確か監獄に入っていたと聞いていたが……」
「芝居小屋の座長が何でまた?」
「王都で不謹慎な芝居を打ったらしくてな。神殿からお叱りを受けたらしい」
「それだけで監獄行きにはならんでしょう」
「いや、芝居の方は出来が良かったらしいんだがな。とにかくそれが理由で、借金の返済が出来なくなったらしい。大方、金主が神殿の不興を恐れて資金の急激な引き上げでもしたんだろう」
「つまり掻き集めた金の返済の都合が付かなくなって訴えられたわけですな」
「聞いた話だがそういうことらしい」
「運の悪い男ですな」
「あの男はいわゆる天才でな。天才というのは妙なところでヘマをして、とんでもない目に遭う事が多い……巻き込まれる周りは堪らんがな」
「ははあ……」
「何故儂の方を見る?」
「いや、もっともな話だと思いましてな」
「そうか? とにかく中へ入ろうではないか」
商会員の皮肉を流したのか、それとも気付いてないのかは判らないが、ファナウスは中庭を抜けて奥へ入っていく。ダーシュもとにかく付いていく。しかし外から見た時も思ったが、想像以上に中は広い。
単に風呂というだけでなく色々な施設が併設させてあるようだ。
中庭の先はそれを取り巻く天井付き回廊であり、柱で支えられた高い天井が奥へと続いていた。その先が脱衣所だった。
当然だが、居るのは全員男達だった。教えてくれた商会員によると、女性客は別の入り口があって、そちらが女性用の浴場へ続いているのだという。
入浴施設は男女完全に別になっているわけだ。中庭と、娯楽や癒しの施設は共通という作りだった。
アウラシールの公衆浴場では男女が顔を合わせることは一切無い。
入り口どころか、公衆浴場自体が男性用と女性用に分けられているか、曜日で男女を分けているかしている。
だから同じ敷地内に女性用の公衆浴場があって、しかも同時に営業しているというのは、ダーシュにとって凄く奇妙な気がした。
「一度も入ったことがないから中の構造がどうなっているかはわからんがな」
商会員が笑って言うと、
「両方の浴場に出入りできるのは我らが偉大なる主神様のみよ!」
「違いない!」
話を聞いていた周りの男達も笑った。
ローゼンディア人の主神ヴァリアは両性具有とされているからだ。
――確かに男でもあり、女でもあれば、どちらの風呂に入っても構わないかも知れないが、逆にどちらの風呂にも入れないのではないか?
ダーシュはそんな風に思ったが言わないでおいた。
脱衣所の中央にはそのヴァリアの像が立っていた。何と手に垢擦りを持っている。
主神に垢擦りを持たせて風呂場に立たせるなど、ローゼンディア人ならではの発想だと思った。これは不敬ではないのかとダーシュは真剣に悩んだ。
しかも主神の足元には石版があり、空いた手でヴァリア神はその石版を指さしていた。
そこには『入浴は健康に良い。百薬の長入浴。入浴は人生の友』と彫り付けてあった。
……風呂に対する情熱も、ここまで来ると偏執狂めいたものを感じてしまう。
脱衣所はまるで地下墓地のような作りになっており、壁には整然と並んで穴が切ってあった。薄気味悪いと思ったが、見るとその穴に四角い編み籠が入っていて、衣服はそこに脱いで入れるのだ。
衣服など鉤に掛けて吊るしておけば良いと思うのだが、こうすればより沢山の客の衣服を効率的に収納できるわけで、ダーシュは感心した。
ここは単純に服を脱ぐだけの部屋であるらしい。噴水盤も横になれる寝台もない。つまりここは休憩室ではないわけだ。
皆手慣れた風に服を脱ぎ、編み籠に入れていく。
見ていると客の何人かが、脱衣所の入り口にいる男に近寄って物を渡している。
腕を組んだごつい男だ。男の隣には籠を載せた台が、後ろには棚があって、物を入れられるようになっている。
ごつい男は客から何か受け取ると、代わりに籠の中から紐の付いた金属の小片を取って渡している。
「あれはなんですか?」
「脱衣所の管理人さ。貴重品はあそこに預けておくことになってるんだよ。客には手癖の悪い奴もいるからな」
「なるほど……」
良く出来た仕組みである。
「あの金属片は何ですか?」
「引換証さ。あれに番号が彫ってあって、それで自分の物が返ってくるって寸法さ」
「なるほど……」
良く出来た仕組みである。見張りを置くより安全かも知れない。
とはいえそれでも盗人は出るだろうが。
公衆浴場は物盗りの仕事場になることがよくあるが、それはローゼンディアでも同じだということだろう。
「ダーシュも何か貴重品があれば預けておいた方がいいぞ」
既に裸になったファナウスが言った。服の上からでもがっしりした体格が見えていたが、裸になると想像以上に筋肉があることが判る。
いい案配に腹の出た体型だったが、相当に力がありそうだ。まるで鍜治屋のような肉体だった。
だが問題はそこにはない。ファナウスは全く自分の体を隠そうとしない。
生まれたままの姿で堂々と立っていた。
――?
不思議に思って辺りを見回すが、そういえば腰巻きを配る男が居ない。
「何で服を脱がないんだ?」
これも裸になった商会員が不思議そうに言った。
「はあ……」
別に恥ずかしいわけではないのだが、ダーシュは戸惑っていた。
公衆浴場には何度も行ったことがある。
だから多人数で風呂に入るという感覚はわかるが、どうも勝手が違う感じなのだ。腰巻きを貸してくれる様子も無い。
それに公衆浴場なら入り口で腰巻きを貸してくれるものだが……まさか丸裸になれというのか?
しかしこのままやり過ごせるわけでもない。ダーシュは諦めて服を脱いだ。
注目されたら嫌な感じだと思っていたが、誰も注目しない。
誰もがごく平然と裸になり、裸の連中が目の前をうろうろしているのを受け入れている。
これが文化の違いかとダーシュは思った。
ただ腰巻きを巻いている男もいる。自前の物か、それともどこかで貸してくれるのだろうか? だとしたら自分も一枚欲しいなとダーシュは思った。
――ローゼンディア人は裸に鷹揚だと聞いていたがその通りだな。
誰も誰かをじろじろ見たりしない。下品な笑いや、揶うような仕草も見られない。
腰巻きすらなく、ここでは誰もが生まれたままの姿だ。だからだろうか?
開けっ広げだが、のんびりしていて穏やかな雰囲気が、ここには漂っていると感じた。
悪くない。そう思った。
脱衣所からは複数の通路が延びていて、客は銘々が好き勝手に通路を選んで入っていくように見える。アウラシールでは入浴の順路のようなものがあるものだが、ここには無いらしい。自由過ぎると思った。
初めてのダーシュにはどの通路を行けばよいのか判らない。
商会員も全員が同じ通路を進むわけではなく、行き先が違う者達がいるが、誰も気にも止めない。
「儂についてきなさい」
ファナウスが気を利かして言ってくれた。
通路の一つを選んで入っていくと、暖かい空気に包まれた空間に出た。
円い天井のある広い空間だ。しかもその天井を支える柱がない。ダーシュは驚いた。
これは非常に高度な石積みの技法をもってして、初めて可能になる建築様式であり、あまり見られるものではない。
これが組める職人は限られているし、そうした建築は神殿などの特別な建物に限られるからだ。
それが風呂場に使われている。まさにローゼンディアだと思った。
そこは水色のタイルが張られた円形の部屋だった。
天井にはいくつもの丸硝子が嵌め込まれており、そこから自然光が上手く取り入れられていた。
タイルの所為もあって、部屋全体が薄青白い光に優しく包まれているように感じる。
部屋自体は結構な広さがあり、石で作られた幾つかの卓と椅子、そして部屋の端の方には、運動用の設備があった。ぶら下がり用の金属棒や、重量挙げの道具などが置かれている。
十数人ほどの裸の男達がいて、それぞれ椅子に坐って休んでいたり、重量挙げをしたりしている。
のんびりとした空気が漂っていた。噴水盤こそ無いが、どうやらここが休憩室のようだった。
休憩室と違うのはここが浴室内である事だ。だから皆裸だし、食事や宴会をしている者はいない。
「今居るのは微温浴場でな。そちらが水浴場。あちらが温浴場だ」
ファナウスは部屋から延びている通路をそれぞれ指し示した。
商館にあったのは浴槽と洗い場だけだったので、ダーシュにはいまいち意味が解らなかった。
「それぞれどのような違いがあるのですか?」
「微温浴場は風呂に入る前に運動をしたり、風呂の間を行き来する間に休憩したりする場所だな。水浴場は汗を流したり、泳いだり、高温浴場から出て体を冷ましたりするのに行く場所だ」
「高温浴場?」
「ああ、ここで一番高い温度の浴室だ。蒸気風呂とも言ってな。あとで一緒に行こう」
おそらくは蒸し風呂のことであろう。アウラシールで言う「風呂」とは普通は蒸し風呂のことであるから、それならばダーシュにも想像が付いた。
「温浴場は君も判るだろう。湯を張った浴槽のある部屋だよ。商館にもあるしな」
「はあ……」
何で風呂に入るのにそこまで手間を掛けて凝らなくてはならぬのだ?
蒸し風呂だけでいいではないかと思う。
「どうしていきなり温浴場へ行かないのですか?」
「行っても構わんさ。実際、脱衣所から温浴場へ向かう連中もいるしな。儂がこっちへ来たかっただけだよ」
ファナウスは言って、ぶら下がり用の金属棒のあるところへ歩いて行った。そして棒を両手で掴むと懸垂を始めた。
一、二、三……七、八……まだ続く。ダーシュは驚いた。あの体格でよくもあれだけやれるものだ。
結局三十回の懸垂をしてファナウスは懸垂を止めた。
そして近くの石の長椅子に坐って、隣の男と話し始めた。
ダーシュを呼ぶ気配はない。ダーシュは勝手にここで運動するなり坐るなりすればいいという事だろうが、困ったことになったと思った。
何分初めてなので好きにしろと放置されても、何をしたいのかすら浮かんでこない。
さてどうするべきかと思案していると、
「おお、そこにいるのはダーシュじゃないかね?」
声のした方を見ると痩せた老人が手を振っていた。柔かそうなふわふわした白髪と、長い顎髭をしている。
ジビノス・サンタロスという内科医だった。
手招きに応じて傍に行くと、ジビノスは『王の遊技』を指しているところだった。
――確かローゼンディアでは将棋と呼ぶのだったな。
『王の遊技』というのはアウラシールでの呼び名である。賽子を使う物と、使わないで行なう物とがあって、アウラシールではごく一般的な、と言っても知識階層向けの遊技だった。
ダーシュも多少の心得があるので盤上を見たが、よく判らなかった。
盤自体の線引きの仕方がダーシュの知らないものだったのだ。なんと盤上に水が張ってある。
時々その水が盤上をさーっと流れて横から落ちる。一種の絡繰りらしい。しかし何の為なのかは判らない。
「元気そうじゃないか。浴場に来られるくらいに快復したのかね?」
「はい。先生のお蔭で一命を取り留めることが出来ました」
ダーシュが暗殺者の毒にやられた時、アイオナが呼び寄せたのがこのジビノスという内科医だった。
ディブロスでは名医で通っていて、医学校での教授もしているという。
ダーシュが倒れてから暫くの間通って、煎じ薬を作り、瀉血をし、治療を施してくれたが、何分多忙なため、ダーシュが危険な山を越えたと見るとアイオナに治療の指示を与えて、あとは週に一回の往診だけになっていた。
「うん。風呂はいい。毎日入りなさい。悪い汗を出さなくてはいかんからな」
ジビノスの向かい側には将棋の相手であろう初老の男が坐っている。なかなか体格のいい男で、力がありそうだった。肉体労働者だろうか?
その男が腕を組み、先程から無言でダーシュを見ている。何やら気になった。
「ああすまんね。こちらはハドルメニス・アプティオス。儂の友人の接骨医じゃよ」
「初めまして。ハドルメニス先生」
「こちらこそよろしく」
ダーシュは握手をした。ハドルメニスはしっかりと握り返してきたが、力の割りに凄く柔かい手をしていると感じた。意外だった。
「専門は接骨術じゃが、内科も修めている。体液の循環に関しては儂よりも詳しいぞい」
名医と言われるジビノスにそう言わせるのだから、かなりの技術を持った医者なのだろう。そんな風には見えないが。
ハドルメニスはダーシュの手を握ったまま今度はその指を見ている。
「ちょっといいかね?」
そう言ってダーシュの顔を覗きこんできた。彫りの深い気難しそうな顔が近づく。ごつい男だったが、これまた意外にも石鹸の良い香りがした。
「お前さん、まだ大分内臓をやられてるね」
「そうなんですか?」
「儂が治療したんじゃ」
ジビノスが口を挟むと、ハドルメニスは頷いた。
「このままでも元に戻るがそれだと時間が掛かる。俺が診てやろう」
言って立ち上がった。ジビノスに比べて遥かにしっかりした体をしている。言い方は悪いが、やはり医者には見えなかった。
「ちょっとそこに横になりな」
言われて示された石の長椅子に横になると、微温浴場にいた男達が集まってきた。
その中にはファナウスもいた。ジビノスと挨拶を交わしている。
「おうお前ら、悪いがちょっと手を貸してくれ。この兄さんを押さえていて欲しいんだ」
ハドルメニスは集まった男達を見渡して言った。
言われるままに男達がダーシュの手足を押さえに掛かった。ダーシュは慌てた。
「ちょっと!? 何をするつもりなんですか!?」
「治療だよダーシュ」
右手を押さえているジビノスが言った。
「最初に言っておくが婿殿に他意はないぞ?」
肩を押さえているファナウスが言った。
「兄さん気張れよ! ちょっとガマンすりゃあグンと具合が良くなるぜえ?」
見知らぬ男がそう言った。身動き出来ないことも相俟って不安になる。
「頑張れよ」
最後に男達が声を唱和させて言った。皆笑顔だった。ダーシュは猛烈に不安になった。
「さて、と……」
ダーシュの足を触っていたハドルメニスが足の甲を両手で掴んだ。
直後激痛がダーシュを襲った。
「ぐわあああああああっっっっっ!!!!!!!!」
「ほ! 案の定凄い痛がりようじゃのう」
「この兄さん肝臓と、あと腎臓をやられてるな……悪い血や、体液を全部出さないといかんぞ」
逞しい指がぐりぐりとダーシュの足の裏をえぐる。ダーシュは悲鳴を上げ、呻いた。
常に痛かったが、時々脳天に杭を打ちこまれたような強烈な痛みがあった。
ダーシュは自分が痛みそのものになったような気がした。痛い痛いとイデラ語で叫んだが、止めてくれない。
治療と称するその拷問がどれくらい続いたのかはダーシュには判らなかった。
解放された時には、ダーシュは石の長椅子に死んだように横たわっていて、全身に粘着く嫌な汗をたっぷりと掻いていた。
「いい汗を掻いてるじゃないか。儂の薬だけではこうはいかんな」
のんびりとした声でジビノスが言った。文字通り他人事という感じだった。
「あとでファナウスから俺の家の場所を聞いておくといい。週に一回来てくれれば、今日と同じ治療を施してやる」
……今日と同じ治療だと!? 冗談じゃない!
ダーシュは強くそう思ったが、言葉を発する気力が湧いてこなかった。
「ハドルメニスの治療と合わせて儂の煎じ薬を飲めば、一年も経たずに君は元気を取り戻すことができるじゃろう」
煎じ薬ならば今も朝夕飲んでいる。苦いが、耐えられない程ではない。
何より忙しい合間を縫ってアイオナが自分で煎じてくれるのだ。感謝して飲んでいる。
だがこの拷問はお断りだった。
ジビノスの助言は有り難かったが、この拷問に何度も耐えるのは嫌だった。冗談ではない。嫌だった。
「さて、では温浴場へ行こうか」
ファナウスがダーシュの肩を叩いて促した。だが起きあがる気力がない。
「汗を掻いた後は風呂だ。生き返ったような気分になるぞ」
既にほとんど死んでいる自分には効果がないとダーシュは思ったが、岳父殿がそう言うのだったら付き合わないわけにはいかなかった。枯渇した気力を振り絞って上体を起こすと、何とか椅子の上に坐る恰好を作った。そこで溜め息を吐いた。
「きつかったかね?」
「……はい、かなり」
その答えにファナウスは笑った。
「段々楽になるさ。儂の知り合いでも落馬の怪我をハドルメニス先生に治して貰った男がいる」
その男も岳父殿に押さえつけられたんですか? と嫌みを言ってやりたかったが、ダーシュは我慢した。
「落馬の後から肩や背中の痛み、それに時折襲ってくる頭痛が酷くてな。とても仕事にならんというのでハドルメニス先生の所へ行ったところ、今の君と同じ目に遭ったというわけだ」
「その人に同情します」
ダーシュの言葉にファナウスは又笑った。
「最初の二ヶ月くらいは地獄だったと言っていたな。痛くて痛くて脂汗が出たと。しかしその山を超えると急激に楽になってな。半年もすれば逆に気持ち良くなったと言っていたぞ」
本当だろうか? 本当とは思えないが、本当なのだろうか。
「疑わしそうだな? だがハドルメニス先生は名医だぞ。医学校では接骨術や、捻挫、筋違いなどの講義を持っているし、儂の知り合いも何人も世話になっている。王都でもその名を知られている程だ」
それでは確かに名医なのだろう。そんな感じは全然しなかったが。
「あとで商会の者に道順を案内させよう。これから通いなさい」
ダーシュは答えなかった。ファナウスの言葉を聞かなかったことにしたかった。
返事のないダーシュを見て、ファナウスは怪訝そうに片眉を上げたが、すぐに風呂に意識が戻ったのか、温浴場に向かって歩き出した。
「おおい! 兄さん!」
ハドルメニスがダーシュに呼びかけてきた。
「今日の日替りは薬湯だから入っておけよ!」
薬湯? 何を言ってるんだこの拷問吏は?
ダーシュにはハドルメニスの言う事が理解できなかった。
少し考えて、煎じ薬の事を言っているのならば、きちんと飲んでいるので問題はないと判断した。
あの痛みを思い出すとぞっとしたが、ダーシュはおそるおそる立ち上がった。
――おや?
不思議だった。あれだけ痛かったのに、足の裏には若干の違和感があるだけで普通に立てた。
とにかくファナウスの後を追わなくてはならない。温浴場へと多少ふらつきながら歩いて行った。




