第三章
中庭には風が吹いていた。
強い風ではない。柔かい、優しい風だ。
だから風があるというよりも空気が動いていると言った方が良いかも知れない。
ゼメレス族の館はどれもディブロスの中では南側の陰、それも海が側面に来るような位置にあったから、初めて見たときには立地条件が悪いと感じたものだが、今では逆に良かったのだと思っている。
潮風を直接には受けないで済むし、強烈な日射しに晒される部分も少ない。
さすがに湿気はかなりのものがあったが、元々がゼメレス族は湿気対策は心得ている。
ゼメレス族の領地は大部分がドラステリオンとテラモンの大森林であり、しかも北はフェルシナ大内海に面しているので、乾燥とは無縁の土地なのだ。
それに南の岩山のお蔭で、一日に何度か強い風が屋敷の上を吹き抜けていく。これが湿気を飛ばしてくれるのだ。
季節によるがこの風は決まった時間帯に吹く。今はその風もなく、中庭を散策するには良い時間帯だった。
この中庭は本国の領地から呼び寄せた職人達が、手間を惜しむことなく作り上げた庭園である。
本国のゼメレス様式を踏襲した、乱雑でありながらどこか暗く、秘やかな秩序と美しさを持った見事な庭園だった。
見ていて飽きない庭であったし、事実見て歩くのも好きだったが、今はそんな気分ではなかった。
正直なところを言えばルキアは苛つきを感じていた。
どうしてこういつもいつも問題が起きるのか。しかも問題の起こり方は大抵似たような経路を通るのだ。いい加減うんざりする。
ディブロスのゼメレス族の館は、本国と同じく、全体で一つの建築となるような様式が採用されていた。
つまりそれぞれの建物が通路などで結ばれているのではなく、用途に応じてそれぞれの場所があり、それが通路で結ばれているのだ。
全体が一つの屋敷であり、家のような作りになっているのが特徴だった。
ディブロスの執政館を別とすれば、ルキアは他の宗族の館をじっくりと時間をかけて見たことはない。だから確信はないが、館を建てる際にこのような作りをするのはゼメレス族だけではないかという気がする。
慣れ親しんでいる点を差し引いても、こういう作りは嫌いではないし、どちらかというと好きだったが、人を捜して移動をするとなると別だった。あちこちを歩き回らなければならなくなる事が多いのだ。
今はこの屋敷に滞在しているゼメレス族は鉄弓家が二家、それも家長ではなくルキアとクリュスタの二人だけだ。
それに随う供回りの者達と、家中の戦士に使用人を加えても、この館の規模に比して考えれば決して大人数ではない。
他の氏族ならば、ここを館とは呼ばずに城塞と呼ぶだろう。
この十倍の人間でもこの館は、充分に余裕を持って運営していけるだけの大きさがあるのだ。
人気の少ない広大な館の中をルキアは歩いていく。
その歩みは優雅であり、内面の苛つきやうんざりした気持ちなどは一切表れていない筈だ。
長い時間をかけて、その言葉や立居振舞、声や表情、そうした全てを自己の意志の元に完全に支配するようルキアは心掛けてきた。
だから誰も自分の内面を読み取れる筈がない。読み取らせはしない。
柔らかな風を受けながらルキアは今向かっている建物へと目を上げた。
正確には今歩いている中庭も同じ建物の内部なので、外部から別の建物に向かっているわけではない。
ただ中庭からは、周りよりも高い独立した区画として見えているのである。
その場所はいくつかの広間を持った部屋を、縦に重ねた作りをしていた。
他の氏族では塔とでも呼ぶところだが、ゼメレス族には塔という建築物がない。代わりに楼閣というのだった。
基底部の土台だけを石組みで作り、その上に、木と土で組み上げた楼閣が建てられている。
楼閣には単層のものと重層のものとがあり、円形のものと四角いものがある。
それぞれが用途によって形や高さが決められているので、ゼメレス族の者なら外観を見ただけで、どの楼閣が何に使われているのか判るのだ。
ここで一番高いものは四重層だが、間に飾り屋根が付いているので六重層に見えるのが特徴だ。
その建物が主にここディブロスでの政務を行なう場所ということになる。今はルキアからは背後の位置になる。
楼閣が廊下によって連なるというのはゼメレス族ではよく使われる様式であるが、他の宗族では守備上の脆弱さからあまり採用されることはないと聞いている。
とにかく地勢上の条件や歴史的な経緯などが重なって、ゼメレス族の暮らすトラケス地方ではこの様式がずっと踏襲されてきた。
ゼメレス族はローゼンディア建国にも関わった大族であり、偉大なる狩猟神の末裔である。
狩猟神ダルフォースの血を引く氏族は、王国の西と東にそれぞれ存在し、ゼメレス族は東の一族であった。
そして王国貴族の頂点を占める『七宗家』の一つでもある。
トラケス地方もその大部分がゼメレス族の支配下にあり、概ねトラケス地方はゼメレス族の土地と言ってしまって差し支えない。
それにしてもディブロスの館は、故郷の楼閣と違って神木を使っていないのが残念なところだ。ルキアは常々そんな事を思っている。
もちろんそれは「主な建材が神木ではない」という意味であるが。
ここでも要所要所では神木を船で持ちこんで使用しているのだ。
神木とはシトロリオンと呼ばれる樹木であり、トラケス地方にしか生えていない。
古代より珍重されてきた樹木であり、主に建築の材として使用されてきた。
伐り倒してから何十年という長い年月を寝かせることで、初めて本来の特性を表すこの樹木は、加工しやすく強靱で、湿気にも乾燥にも強く、何より能も言われぬ芳香を放つことで知られる。
古代ナーラキアの帝王達が皇族以外の使用を禁じたほどの樹木である。
今では南方のイビドシュ杉と並んで最高の建材として、法外な値段で取り引きされているが、ゼメレス族にとっては年間の伐採数の範囲でなら、ほぼ自由に手に入る木材だった。
とはいえここは本国より遠いディブロスである。
氏族の館を建築するといっても、神木を自由に使えるわけではない。
ローゼンディア王家の館でさえ特別な場所にしか使えぬ神木を、ゼメレス族の本国領地では贅沢に使って建築が行なわれているのだ。
宗家の館などはほぼ全ての建材が神木で出来ており、アウラシールの王侯ですらその話を聞くと溜め息を漏らすという。
ゼメレス族の暮らしは神木に囲まれている。そう言っても間違いではないのだ。
そのために神木が漂わすあの芳香を、生活の中に含まれる当然の一部と考えてしまうきらいがある。
ゼメレス族の貴族では香を嗜む者が多い。
良い香りなしには生活が味気なくなってしまうからだ。
その考え方自体がすでに他の宗族とは違うことに気付く者は少ないが、ルキアはその数少ない一人だった。
それでも「残念なことにこの中庭には匂いがない」そう感じてしまう。
神木は館の重要な部分にしか使っていないから、建物の中のそれも特定の場所でないとあのシトロリオンの芳香を楽しむことはできないのだ。
中庭の中央には青銅の大祭器が置かれている。
これはゼメレス族の最高の宝物である『大釜』を模したもので、骨占いのためのものだ。
骨占いは東のゼメレス族が始祖神ダルフォースより授かった神聖な祭儀であり、異能である。
だからゼメレス族の重要な拠点には、必ず骨占いのための大祭器が設えられている。
大祭器の周囲の柱には香を入れた金籠を掛ける鈎が付いているが普段は空だ。
それに一日に何度も、この中庭を強い風が吹き抜けていくので、せっかく香が焚き込めてあっても吹き飛ばされてしまう。
ただ残念なことばかりでもない。ここディブロスではローゼンディアにはない、様々な香がアウラシールの商人達によって持ちこまれている。
それを試したり購入することは、ゼメレス館の貴族達にとっては大きな楽しみだった。
突然、皿か何かが割れる音がルキアの耳を襲った。思考が断ち切られて思わず首筋に緊張が走る。
それですぐに嫌な予想が当たったことを理解した。解決すべき問題が増殖したのだ。
向かうべき方向が判ったのは助かるが、起きて欲しくない嫌な事態がまさに生じたことを知るのは、良い気分ではない。
軽くため息を吐いてルキアは少し足を速めた。
中庭から屋根付きの廊下に入り歩いていく。廊下にはイビドシュ杉の柱が並び、その上には廊下の屋根を支える弓形をした、交差する木製の梁がある。
柱には花と蔓草を図像化した紋様が飾り彫りになっている。柱や梁の表面は楼閣に合わせて朱色と焦げ茶色で塗装されていて、落ちつきを感じさせる意匠だ。
今度は金切り声がルキアの耳を打った。
目指すべき場所は二階層上だと判った。建物に入り階段を上がる。
また叫び声。
階段を上がって上の階の廊下を少し歩いた先の部屋なので近い。脳天に突き刺さるかのように聞こえる。
うんざりする気持ちを抑えてルキアは部屋に足を踏み入れた。
「クリュスタ」
叫び声を上げていた犯人に声を掛ける。
クリュスタは大皿を頭上に持ち上げている姿勢のまま固まった。
まなじりをつり上げた怒りの形相がたちまち崩れて不安げな表情になった。
間違いなくあれを床に叩きつけるつもりだったのだろう。危ないところだった。
「その大皿を卓の上に下ろしなさい」
部屋の中では侍女のフィナが床に膝を突いて顔を伏せている。その近くには叩きつけられた盃の破片が散らばっており、先ほどの音の正体はこれだろうと推察させた。
「お姉様……」
怒りから一転してクリュスタと呼ばれた少女はおろおろとし始めた。
言われた通りに大皿を近くの卓の上に置く。
ルキアは足元のフィナに眼をやった。伏せられたその面が、どんな表情を浮かべているかと思うと気が滅入ってくる。怒りか、憎しみか、それとも安堵や、これからルキアが窘める事を期待してのクリュスタへの嘲りか……いずれにしても碌なものではない。
「フィナ、面を上げなさい」
ルキアが優しく命じると侍女のフィナはすぐに顔を上げた。助かった、という色がその黒い瞳の中に見える。
そのことは良かった。問題はフィナの右の額にある傷の方だった。
うっすらと赤くなり、痣になっている。明日には青黒くなるだろう。
「フィナに盃を投げたのね?」
自分でも声が冷えるのを感じた。クリュスタとの付き合いは長い。癇癪持ちなのもよく判っている。扱い方も心得ている。
けれどこれだけは赦すことができない。
「ぶつけるつもりはなかったんです!!」
クリュスタが叫ぶように弁解するが、ルキアは赦す気は全く無かった。
「……すぐにペレネウス先生の所へ行って治療を受けてきなさい。そして今日はもう何もしなくていいわ。自分の部屋でゆっくり休みなさい」
ペレネウスはゼメレス館に一室を与えられて住み込んでいる医者だ。
「あなたは何も気にすることはありません。ゆっくりお休みなさい。そして部屋に戻る前に誰でもいいから、この割れた盃を片付ける人を寄越して下さい」
「は……はい、ですが……」
躊躇いを見せるフィナにルキアは微笑みかける。
小さな頃から何度も、繰り返し繰り返し使ってきた得意の貌だ。
「いいのです。あなたに落ち度がないことは判っていますから」
そう告げるとフィナの表情が明るくなる。
「ありがとうございます」
深く頭を下げて感謝するフィナをルキアは冷静に見ていた。
「もしも後になって気分が悪くなったり、吐き気を感じたりしたら、いつでもペレネウス先生を呼びなさい。私がそう言っていたと、ちゃんと先生に伝えるのですよ」
「かしこまりました。ルキア様ありがとうございます!」
感謝の言葉にルキアはもういちど微笑みで答える。
フィナは去っていった。部屋はルキアとクリュスタだけになった。
「お姉様……も、もうしわけ……」
引きつった顔で謝罪の言葉を言いかけるクリュスタ。
恐がらせるためにわざとルキアは無表情になってクリュスタに歩み寄った。
「あなたが謝るべきはフィナに対してなのよ。それはわかっている?」
「もうしわけ……」
駄目だった。クリュスタはルキアの登場に完全に混乱してしまっている。身を縮こまらせるようにして怯えている。
ルキアはため息を吐いた。今日は二度目だ。
クリュスタの肩に手を置く。細い肩がびくりと動いた。
これからの叱責を予想して怯えているのだ。
ただしルキアは一度も暴力を振るったことはない。クリュスタに対してだけでなく、侍女や召使いを打ったこともない。
そんなことをしていたらルキアは今の立場を獲得することはできなかっただろう。
「いいこと? クリュスタ。よく聞いて」
注意を喚起するために怯えるクリュスタの眼を覗きこむ。
震える黒い瞳がルキアを映し出す。フィナと同じ黒い瞳。
狩猟神の末裔、ゼメレス族の特徴である黒い瞳。
ルキアにその瞳はない。彼女の瞳は海のように青く、ゼメレス族ではまず見られない色をしている。
髪の毛も明るい茶色で、牛乳を垂らした紅トラナ茶のようだ。
トラナ茶はローゼンディアでは広く飲まれる飲み物で、トラナという植物の葉から作る。
この葉を加熱したり発酵させたりする事によって茶葉を作るのだが、大きく分けて藍、紅、緑、三種類の製法がある。茶の種類自体は七種類に分けられるのが普通だが、製法の違いは大まかに言って発酵の程度と、させ方の違いで、こちらは三種類とされている。
どの製法の茶を好むのかは、地域によって違いがあるものの、一般にローゼンディアでは藍または紅の茶が、最も広く好まれているようだ。
藍とか紅という名前は、茶を淹れた時の水色から来ている。
例えば紅は熱湯で淹れると澄んだ紅色の茶となる。これに更に牛乳を加えると、明るい柔らかな茶色になるのだった。
通常は砂糖や蜂蜜、そして牛乳を加えて飲むが、ルキアの髪はちょうどそんな色をしている。
だがゼメレス族の、それも貴族ならば黒髪が普通である。
ルキアは鉄弓の守護家、それも第一守護家の人間だ。
狩猟神の末裔、には『大釜』と『鉄弓』という二つの聖遺物が伝えられているが、『鉄弓』を守護するのが『鉄弓の守護家』と呼ばれる家柄だ。
ただし鉄弓がその守護家の数だけあるわけではない。
鉄弓は狩猟神の末裔西方の宗家たるヘカリオス家の聖遺物だ。
ゼメレス宗家の大釜がそうであるように、この世に一つしか存在しない。
鉄弓の守護家というのはその役目を担うという意味であり、名誉称号のようなものである。
西と東にそれぞれ守護家は存在するが、東のゼメレス族には六家がある。
ゼメレス族では家督は普通、女性が継承するものであり、ルキア・ゼメレスは東の筆頭鉄弓守護家、それも本家の女子であるため、本来ならば当然にその跡取り娘となるはずなのだが、それがすんなりとはいかない事情があった。
理由は彼女の外見だった。
父方の血を色濃く受け継いだルキアは、一族でも宗家に並ぶほどの名門でありながら、とても貴族らしくない容貌をしていた。
黒い髪と黒い瞳はゼメレス貴族にとっては常識のような外見的特徴である。
それを持ち合わせないことはルキアにとっては大きな弱点であり、生きていく上での障害でもあった。
『平民姫』。そう後ろ指をさされて生きてきた。
ルキアがどんなに才覚を、能力を示しても、その髪と瞳の色だけで敵対者は彼女を否定することが出来たのだった。
美しくは生まれてきた。目鼻立ちは整い、すらりとした肢体は美しく、柔らかな髪と目の覚めるような青い瞳をしている。
優しげな、暖かい印象を人に与える素晴しい美人なのだ。
それでもルキアの眼と髪の色は、彼女が生まれた状況にあっては致命的な欠陥であり、常に彼女に立ちはだかる障害としてあるのだった。
一方、まるでその事実を、ルキアを否定するその正当性を代弁するかのようなクリュスタの容姿がある。
首筋の辺りで切り揃えられた真っ直ぐな黒髪と、同じく夜のように黒い瞳。
クリュスタはゼメレス貴族らしい外見をしている。
それをただ羨むような無邪気さはもはやルキアにはない。
そんな時期はとうに過ぎ去っている。自分の外見を恥じて、悲しんで、自分を憐れんで泣くのは小さな子供のすることだ。
人として生まれてきた以上、与えられた条件で生きるしかない。
配られた札で勝負するしかないのだ。勝負を諦めれば待っているのは慘めな敗北しかない。
ルキアはそれだけは絶対に嫌だった。
「……あなたは決して自分に逆らうことのできない相手に暴力を振るったのよ。それはとても恥ずかしいことです」
恥ずべきと言うよりも、それはむしろ危険なことだ。胸の中でそう独りごちる。
常に身辺に仕える侍女や召使いは、敵に回した場合極めて危険な相手になる。
それは色々な意味でだ。風聞の問題、命の危険、そして求めるべき目的への障害……身辺に侍る者達がその主に対して害意を持てば、その損害と危険性はそれこそ考えていたらきりがないという話になる。
何せ相手と自分を隔てるのはただ身分の差のみ。
そんなものはどこに生まれたのかという問題でしかなく、人間の能力とは全く関係がない。
人間の能力を決定するのは何よりもまず意志の力、強靱な、決して屈せぬ意志の力、自己を律し、世界と関わっていく精神の働きにある。
ルキアはずっとそう信じてきたし、今でもそう考えている。
尊貴とされる血筋を尊ばないわけではない。
だが尊貴とされる血筋を自分自身の価値と履き違えたときに、人間がどれだけ愚劣になるのかをルキアはよく理解している。
治めるべき民、支えてくれる領民、彼らを愛し、守り導くことが貴族の務めであると教師達は言う。神官達もそう語る。
しかしそれは半分しか真実を表していない。
貴族として清くあろう、領民を慈しもうと思うだけでは、その領民達が寄せる期待、望む要求に対して応えることはできない。
情愛と清廉さだけで乗り切れるほど王侯貴族の務めは甘くないのだ。
なぜならば王侯貴族とは、その在り方からして悪であるから。
自分たち王侯貴族、そして神官達が拠り所とする権威、支配の力とは、神の下にあってはじめて善となるものなのだ。
権威とは定命の人の身にあっては過ぎた輝きであり、人間に扱いきれるものではないのだ。
必ず、地に落ちて泥濘に塗れることになる。そして落ちた権威は悪でしかない。
だから王侯貴族の本質は悪でしかない。
そしてその悪の座にありながら当然のように振る舞う、ふてぶてしさが必要になる。
人は神にはなれない。
神々の如く振る舞う事など出来はしない。だから悪となるのだ。
悪として領民を支配する。彼らの生活と幸せを守る。それが権力を握るということの本質だ。
人は神にはなれない。
あの『剣の守護者』ケルサイオンですら神にはなっていない。
人の身から神の座に昇ったのは、伝説の英雄メーサートゥエーンただ一人。それ以外は聞いたこともない。
彼は償いのために生き、未だ嘗て誰もできなかった偉業を為し遂げた。
そして死してなお蘇り、神々の座に加えられたのだ。
だが神となったメーサートゥエーンに対して、ケルサイオンは人として生き、人として死んでいる。
――もっともケルサイオンが神になることを望んだとは思えないけれどね……。
ルキアはケルサイオンの生涯に、伝説と教典で美々しく語られた内容でなく、その真実の姿に強く惹かれている。
彼は何を思い、何を望んであれほどの難行に挑んだのか。
伝説は美しく、華々しく彼の業績を讃え、歌い上げる。
だがそれは真実ではない。歴史の真実は全く別に存在するはずだし、それは今では失われた闇の中にあるのだ。
全く一介の土着民であり、名族でも何でもない人物が、あれほどまでの偉業を為し遂げるには尋常ではない精神力、意思力が必要になる。
それは間違いなく狂気。異常者と呼ばれる程のものであったはずだ。
ルキアはどす黒い血のような闇をそこに感じる。
その闇にどうしようもなく惹かれるものを感じる。
彼の真実を、ケルサイオンの魂の声を知りたいと思う。
王都の大神殿にある壁画にも、教典の中の物語にも興味はない。
真実を知りたいと思う。メーサートゥエーンはその伝説からして、すでに神の如き英雄だが、ケルサイオンは違う。それを知りたいと思う。
それはきっと叶わぬ願いであるのだろうが。
歴史の真実は、遥かな時の彼方にあるのだから。
わずかに縁と言えるものがあるとすれば、ここディブロスにはケルサイオン大神殿がある。四年に一度の慰霊祭には競技会も開かれる。
四大競技会の一つ、ジスタニオン競技会だ。
開催は来年だが、来られるものならば観戦したいと思う。
「わざとではないんです! 本当です!」
クリュスタの訴える声でルキアは我に反った。
散漫な思考に精神を捉えられていたようだ。
「……もちろん私はあなたを信じているわ」
フィナを傷つけるという愚劣な行為への怒りと、何度注意しても治らぬクリュスタの癇癖にうんざりしていても、それを表には出さない。
「いつも私が言って聞かせているもの。あなたがそれを覚えてくれていると私は信じているわ」
クリュスタの不安そうな様子を見て、強く怒るつもりだった決心がぐらつく。
きちんと注意して過ちを理解させるのが彼女のためにもなる。そう判ってはいても本当に厳しく叱ることがルキアには難しかった。
そもそもルキアはクリュスタを嫌いではない。単に同じ氏族に属し、血の近い親戚であるからというだけではなく、彼女に対しては親しみ以上の情愛を感じている。
初めに親愛を表したのはクリュスタの方だった。
小さな頃からルキアを姉のように慕ってくれた。理由はわからない。
わからないが、その好意は純粋に嬉しかった。
侮られ続けてきた子供時代に、味方や友人はとても少なかったからかも知れない。
だがそのことだけが、クリュスタのことを好きな理由の全てにはならないとルキアは思っている。
好意は嬉しい、尊敬も嬉しい、だがそれだけでもない。
もっと深いところでルキアは彼女に好意を抱いている自分を感じているのだ。
しかもクリュスタは一度たりとルキアの髪や眼の色のことを嘲ったことはない。
小さな子供の頃から一度もない。
幼児というものは、容易く大人の語る言葉を真似、その価値観を呪文や教典のように口にするものだ。
大人が媚びる者に媚び、侮る者に嘲りを向ける。それは呪いだ。差別も憎しみも、経験を跳び越えて、大人は子供に刷り込むことができるのだ。
だがクリュスタはただの一度もルキアの髪や眼を問題視したことはない。そもそもそんなことは考えたことも無いだろうと思う。
彼女にとってルキアはそういうことが問題になる相手ではないのだ。
そのことが自分に大きな安心感を与えてくれているとルキアは自覚している。
クリュスタは大切な存在なのだ。
味方は増やせる。その気になれば結構簡単に増やすことができる。事実ルキアは長い時間をかけて家中に、一族の中に味方を増やしてきた。
だが友人はそうはいかない。
相手が友人になるかどうかは自分の意志だけでは決められない。そこには運命のようなものが働いている気がする。
クリュスタは友人というには幼すぎるとルキアは考えている。
味方かどうかと言えば、間違いなく彼女は味方だろう。それも最も信頼できる味方であると信じられる。
ルキアが自分の望みを叶えるために、彼女には支えてもらわなければならない。
おそらくクリュスタは重要な役割を担う可能性が高いからだ。
クリュスタもまたルキアと同じく鉄弓の守護家の人間だ。序列は第五位。
決して上位ではないが、名門には違いなく、その支持は是非ともルキアにとって欲しいところだ。
つまりルキアの目的にとって、クリュスタには大きな価値がある。
でもそれを『利用価値』だなどと考えたことはない。
貴族として育つと、損得で判定された歪な人間関係を目の当たりにすることが多い。
利用できるかどうか、自分にとって得か損か、そういう視点から相手を見て、付き合い方を考えるというのは、貴族の子女ならば早い段階で教え込まれる『処世術』の基本だからだ。
これは一見合理的で賢いようだが、実は愚か極まりない発想だ。
この戦略の最も愚かなところは、人間の心や情動を無視しているところと、相手は常に自分よりも愚かであるという前提を無自覚に立てているところだが、そんな風にどこまでも世の中や人間関係を自分に都合良く考えてしまうところが、貴族的であるということの一面なのだろう。
ルキアにとってはそれは唾棄すべき愚鈍さでしかなかった。
そもそもそういうことは意見として他人に伝えるべきではないし、何よりもその戦略は間違っているとルキアは思っている。
大人達はよく「利益になる相手とのみ付き合うべきだ」と口にするし、それを実践しているのを見てきた。
その結果はどうだろう。裏切りと嫉妬が渦巻き、陰湿な自己顕示と潰し合いの見本市みたいな社交界が立ち上がっただけではないか。
誰一人幸せにはなっていない。
誰もが目の色を変えて互いに出し抜こうとし、利益を奪い合うだけだ。
しかも今日の勝者も明日没落するかもしれない。
背後の剣を恐れるあまり誰も信用せず、利益を元として人間関係を組み立てた結果、最も恐れるその剣は、実は背後ではなく正面からやって来るのだ。ルキアはそういう例を何度か見てきた。
相手が自分に利益を齎らさない、今属してる派閥が敗北を喫しそうだ、そういう判断を下した途端に掌を反すような行動を取る、そんな人間が他人に信用されるだろうか?
人間は木石ではない。目の前の相手が幼稚な損得でしか人を見ない相手だと判ったら、好意を抱くはずがないのだ。
むしろ敵意を、憎しみや軽蔑を抱くだろう。
だが人間精神の平等と崇高さを説く神官達もまた、別の意味で愚かだ。
彼らは人間の本性が善悪いずれなのかという問いに取り憑かれている。そのことを延々と論議し続けている。それも二千年以上もの間もだ。
神々が与えたもうた精神が悪であるはずがない、ならばなぜ人は悪を為すのか、そんなことを議論し続けている。
どちらも同じ愚者にしかルキアには見えない。人間というものを単純に考えすぎているのだ。
物欲まみれの貴族達と、神々の玉座だけを見上げ続けている神官達。
この両者に共通しているのは幼稚さと脳天気さだ。
人間は様々だ。賢い者、力強い者、良い者、悪い者、色々な人間が存在して、それらが相互に関わり合いながら人の世界は成立している。
誰もが心地よさを求め、そして死と苦しみを恐れる。
だから大体の傾向において人間というものを考えておけばいい。
あとは個別の事情に応じた対応をその場で立ち上げる。
そういう柔軟さが必要なのだ。なぜなら人は生き物であり、生きるという事は変化していくことだからだ。
変化するものに対して、損得だの善悪だの、決まりきった硬直した答えを用意して臨もうという方が愚かなのだ。
ルキアはそうやって変化してきた人間達をいくつも見てきている。
最初は彼女のことを陰で馬鹿にしていた侍女が、今では逆に熱烈な崇拝者になっていたり、愚鈍さを笑われていた若者が、努力を続けることで見事な職人になったりという例を興味深く見てきた。
『平民姫』はずっと自分の周囲を観察し続けてきたのだ。
その結果得た教訓は、人間は変わるということと、人間の変化は本人の自覚によってのみ生ずるものであり、そこに血筋や生まれの高貴さなどは何の意味もないということだった。
人間の価値を決めるのは周囲の人々かもしれないが、人間の有り様を決めるのは本人の意志の力なのだ。
無論変わらない者もいる。意志の力が薄弱な者達だ。そういう者達は言葉を飾る。
だが意志は行動に表れる。言葉は裏切る。裏切らないのは行動だ。
そして人は温かい方に向かう。だから温かい人間でいようと思う。
自分は悪人だ。それは自覚している。だが温かい人間であろうと思う。
「いったいどうして癇癪を起こすようなことになったの?」
できるだけ優しい声が出るように意識して話しかける。
クリュスタは少し考えるように俯いて、それから呟いた。
「……フィナが、しつこいんです」
付き合いが長いので、それだけでルキアには大体の事情が理解できた。
おそらくあまり気分のよくない状態だったクリュスタに、あれこれと気を遣って奉仕した結果が裏目に出たのだ。フィナにとってはまったく不幸だったと言うしかない。
「何か嫌なことがあったの?」
いつものようにルキアが尋ねると、急に声を張り上げた。
「嫌な奴が! 嫌な奴がいたんです!!」
「大きな声を出さないで」
「あっ! もうしわけありません」
これは話をちゃんと聞く必要がありそうだとルキアは察した。
「話を聞かせて」
言いながら自分で椅子を引いた。こんなことで時間を取りたくないと思ってもいたが、慣れっこのことでもあった。
クリュスタにも促して坐らせる。
「は、はい……」
まだ少し混乱した様子ながらもクリュスタは話し始めた。
先日、市内見物に出掛けた時に嫌な相手に出会ったのだという。
間違いなく、同じ氏族なのにクリュスタに挨拶をしなかったというのだ。
それを咎めると、その女の夫という外国人が出てきて、よく解らぬ理窟を並べ上げた挙げ句に、クリュスタを侮辱して立ち去ったのだという。
その話かとルキアは思った。まさにその話を聞く為にルキアはクリュスタを捜していたのだ。
ローゼンディアは神々の国である。
数多の神を持つという意味では、他の多くの国もそうであるが、ローゼンディアの特徴は、そこで暮らす人々がみな、いずれかの神との血縁的な繋がりを感じているという点が異なる。
ローゼンディア人は誰もがいずれかの氏族に属し、その氏族の始祖である神を、自分の守護神として、先祖として、特に崇めているのだ。そして己の氏族の宗家こそが自分の血筋の大元であると理解している。
例えばクリュスタもルキアもゼメレス氏族であり、ゼメレス宗家から発した分家の人間である。二人とも系図を辿れば明確にそれを確認できるほどの近い血筋であり、当然、尊貴な血筋とされている。
ゆえに他の多くのゼメレス族からは敬意を払われているし、王国でも名門と呼ばれる家柄になる。
ただしそのことが則ち、多くのゼメレス族を臣従させる権利を持つ、ということを意味するわけではない。
宗家は別格だが、それ以外については家格の序列も、人間の歴史とか事情で定まったものであるというのが共通の了解だ。
国教であるヴァリア教の見解も同じである。
だから宗家以外の上級貴族については、敬意は慣習的に払われているものであって、立法で定められたものではないし、強制でもないのだ。
明らかな侮辱や、祭儀の際の不作法でもなければ罰せられることはない。
だが慣習的に、それも二千年以上の歴史を持った慣習となると、それはもはや民族の自明性と言っても良いものになる。
そしてその慣習を、自分の権利と区別できない相手が、今ルキアの目の前にいるのだった。
「……なるほど」
クリュスタと付き合っている内に口癖となった言葉を呟いてルキアは頷いた。
その言い分を全て信じ込むほどルキアは愚かではない。なにせ相手は独自の世界を生きている。そこは重く考慮しなければならない。
クリュスタとの付き合いは長いのだ。経験は十分に積んでいる。
ルキアは話を全て聞いてから、いつものように頭の中で整理、推理、検証を始めた。そして話を聞き始めた時に持った予感は、本格的に調査すべきだと結論した。
「それであなたは政庁に届け出たのね?」
ルキアはすでにその事を知っていたが敢えて本人に確認を取った。
「はい!」
クリュスタは元気よく、はっきりと頷いた。
「そう」
ルキアは微笑んだ。微笑んだだけである。相槌以上の言葉は付け加えなかった。
見た感じ穏やかに微笑んで頷いただけだが、その内面では忙しく思考が働いていた。
そんなルキアの気持ちを一言で表せば「何という事をしてくれたのか」であるが、悲しい事にこうした問題にはもう慣れているので驚きはしなかった。
慣れとは恐ろしいもので、驚くよりも発生してしまった状況の取り扱い、つまりこの現状が生み出す次の展開について考えているのだ。
状況が変化するからこそ手を打てるわけで、その意味で言えば変化は必要条件であり、拒むものではない。ルキアはそう考える事にしている。
慰めのようでもあり、事実慰めなのだが真実を含んでいる。それは盤面の戦いを制する為には必要な慰めであった。
政庁とはここディブロス政庁のことである。クリュスタは件の夫婦を侮辱罪で訴え出たというのだ。
平民が貴族を侮辱すれば罰せられるのが法というものである。
だが重要な点はそれが『明らか』であることだ。
明らかな侮辱であれば、ということだ。
それも『平民』が、『貴族』を侮辱したのであれば、だ。
ルキアもそのこと自体に異存はない。それは成文法になってからでも既に千年以上が経っていて、誰でも知っている常識と言ってもいいものだからだ。
つまり件の夫婦とやらが余程の常識知らずであり、歴史書に出てきた男のように、ローゼンディア副王に馬糞を投げつけたりする位の事をしでかしたのでなければ、クリュスタの言い分は通らない。
もっとはっきり言えば、その点クリュスタを凌ぐほどの、常識などに疎い人物でなければという事だ。
それも悪い意味で、である。
「お姉様?」
「その夫婦の名前は聞いた?」
クリュスタは首を振った。
「いいえ。名前は名告りませんでした。でもすぐに見付かると思います」
どういう根拠があるのか判らないがクリュスタは自信を持っているようだった。
その自信は逆にルキアを不安にさせるのだが。
おそらくクリュスタはその夫婦がディブロス政庁に捕らえられて、罰せられることを期待しているのだろう。いや、むしろそれを当然だと思っているのだろう。
だがルキアの嫌な予感が当たっていればそんなことは起きえないし、逆に予感が外れていたら、そんなことは起きさせてはいけないのだ。
そしてルキアの嫌な予感はとても良く当たるのが常だった。
「この問題、私に任せてくれないかしら?」
ルキアは笑顔でクリュスタに問いかけた。
「えっ? ですが……」
「気になることがあるのよ。悪いようにはしないから私に任せて欲しいの」
クリュスタの手を取り詰め寄って頼む。多分これでこの事件の主導権は握れると踏んでいたが、もしもこれで駄目なら、ルキアは自分で勝手にやらせて貰うつもりだった。
無論そんな本音はおくびにも出さない。
「わ、わかりました……お姉様にお任せします」
躊躇いが感じられるもののクリュスタは頷いた。
何か妙な物でも嚥んだような様子でもあり、ちょっと話が急すぎたかしらとルキアは思ったが、目を瞑ることにした。
既に政庁に届け出たのだから時間はあまり無い。急いで動く必要がある。
頭の中で行動の手順を整理していると、控え目な呼びかけが扉の向こうから聞こえてきた。
「入りなさい」
「姫様失礼致します」
ルキアの許可を受けて侍女が部屋に入ってきた。
「商人のハルラナムが来ております。いかがなさいますか?」
「今日は訪問の予定はなかったはずね」
「はい。なんでも急な報せであるとか。取り急ぎ参上したとか申しております」
ルキアは少し考えた。何かが頭の中で繋がりそうな予感があった。
「……わかりました。準備が出来たら行くのでそれまで待たせておきなさい」
「かしこまりました」
侍女は丁寧に頭を下げて退出した。
「お姉様?」
「ごめんなさいね。そういうわけだから一度自室に戻ってからハルラナムに会うわ。後で時間を作るからその時にまた話をしましょう」
「は、はい。わかりました……」
クリュスタはまだ話し足りなさそうだったが、そう言ってルキアも部屋を出た。
自室へと向かう。ここからは結構遠いのが問題と言えなくもないが、歩きながら考える時間が十分に取れるのだと思えば、この館の広さも長所と言えなくもない。
自室へ続く廊下の入り口では既に側付きの侍女が待機していた。ルキアの姿を見て頭を下げる。
「暫く誰も部屋には近づけないで。準備ができたら私の方で呼びます」
「かしこまりました」
侍女の答えに満足してルキアは部屋に入った。後ろ手に扉を閉めて部屋の中央に歩いて行く。
部屋は寝室と居室の二間続きになっている。今入ってきた入り口の他に、外に出るための扉と、衣装部屋との扉があり、居室と寝室との間には扉はない。
居室の方には、書棚と物書き用の机と椅子、ごく親しい人物と寛ぐための応接用の卓と椅子、身近な道具やら何やらを収めた家具などが置かれている。
寝室には寝台と、ルキアが置かせた書き物用の小さな卓と椅子だけがある。
どれも充分に余裕を持って配置されており、非常に贅沢に空間を使用していた。
それでも本国の館に比べれば狭いと言えるのだが、やはりかなりの広さがある。
個人的にはこのくらいの広さがルキアには居心地が良かった。本国の館は広大に過ぎるのだ。
上級貴族であるルキアにとって、空間の広がりを捉える感覚は、庶民のそれとは大きな隔たりがあるのだが、それでも広さを感じるほどに本国の館は大きいのだ。
部屋にいるのはルキア一人だったが、彼女は人に会うための、応接用に使われている椅子に坐った。おそらくそうするべきだと思ったからだ。
そしてその予感は当たった。
「…………姫様……」
坐るとほとんど同時に、微かな、まるで風で葉が動くような小さな声がルキアの耳に聞こえた。
とても小さいがはっきりと聞き取れる声だった。しかもこの声はルキア以外には聞こえないというのだ。
それなりに付き合いが長くなった今でも、まだ信じられないのだが、当人がそう言うのだからそうなのだろう。
全く恐るべき技術と言わねばならない。
「報告は?」
ルキアの方では意識して声を落とした。今は侍女も誰もこの部屋にいない、自分と、この声の主以外は誰もいないのだと判ってはいても、ルキアは誰にも聞かれぬように囁くように喋る。
これで向こうに聞こえているのがやはり不思議なのだが、意思疏通はいつもこれで問題なく成立していた。
急にすぐ傍に人間の気配を感じた。気配は突然に現れたのだ。これもいつものことだった。
ルキアが気配の方に目を向けると、二人の男が膝を着いて控えていた。
若い男と、年嵩の男だった。
異常な出現をした割りには、二人ともごく普通の服装をしている。
このディブロスでは何処ででも見られるような庶民の服装だが、貫頭衣ではなく、動きやすく騎乗も可能な短袴姿だ。
この者達はルキアが密偵として使っている一族だった。
「男の素性が知れまして御座います」
年嵩の方の男が口を開いた。ルキアが頷くと男は言葉を続けた。
「男はアンケヌの王子。死んだと思われていたラムシャーン王家の第二王子ダーシュです」
「アンケヌの王子?」
アンケヌが都市であるという程度の知識しかないルキアには、ラムシャーン王家と言われてもピンと来ない。
「は、簡単にご説明申し上げます」
男は十年ほど前に起こったアンケヌの政変のこと、その時にラムシャーン王家が倒されて、ヤンギル族の王家に代わったこと、そしてつい最近、又もアンケヌで政変が起こって、今はラムシャーン王家の摂政が支配していることなどを語った。
「殺伐とした話ね」
ルキアはアウラシールらしい節度の無さと野蛮さだと思った。
如何に古い歴史を誇っても、毎日がこう、食うか食われるかでは発展というものがない。
その点多数の神、多数の氏族をまとめ上げ、ローゼンディア建国を導いたリュベイオーンはまさに聖賢と讃えるのに相応しい……そう思って、しかしルキアは考え直した。
いや、真に建国の偉業を為し遂げたのはリュベイオーンではない。
それは王侯でも神官でもなく、特別な生まれでも何でもない、ただの一人の男が為し遂げたのだから。
彼はケルサイオンという名前だった。それ以外は、彼についての本当の真実は、おそらく知られてはいないだろう。
そして知る事も出来ないのだ。
「アンケヌでは支配氏族の入れ替わりが起きたのはこれが初めてで御座います。長きに亘りラムシャーン王家の支配は盤石であったと聞いております」
だからといってヤンギル族とやらが有能であったとは断言できないとルキアは思った。
もし有能であったなら、自分達が簒奪した王位を、再び奪い返されるなどという間抜けな事にはならないだろうからだ。
「どうも複雑な事情がありそうね」
「引き続き詳しい内情を探っております」
男は頭を下げた。ルキアは無言で頷いた。調査の途中でありながら今回報告に訪れたのは、ダーシュという男の素性を一刻も早く知りたいというルキアの希望に応じたためだ。
決して勇み足で報告に来たわけではない。
ルキアは少し考え込んだ。
かなり大きなものを引き当てた感覚があった。
多分、この情報は重大だ。必ず何か大きな影響をルキアに与えるに違いない。
年嵩の男はルキアが口を開くのを待っている。
「……十年ほど前に起こったという政変の内容について出来るだけ調べなさい。そして今の状況を生み出している因果関係を洗い出すのよ」
「因果関係で御座いますか?」
男が顔を上げる。現在のことではなく、過去を調べろと言う指示に疑問を感じた様子だった。
「そうよ。何が起こったのか、なぜ起こったのか、その結果政変に関わった者達がどうなったのか、できるだけ詳しく知りたいわ」
「かしこまりました。しかし……いささか、お時間をいただく事になりまするが?」
「かまわないわ。その政変では多くの血が流れたのでしょう? その血の流れを辿りなさい。血を追っていけば……おそらく私の知りたい事に辿り着くはずよ」
ルキアは少し遠くを見る目をした。その青い瞳は、目の前でかしこまっている二人の男ではなく、その背後にある男達の影を見ていた。
ふと影の中に砂漠を見た気がした。日射しの中で揺らめく砂丘が見えた気がした。
誰も人影は見られない。ただの砂漠だった。
その時ルキアの瞳が誰かの目と重なった。この砂漠を見ている何者かの目と。
揺らめく砂漠を見つめるその眼差しには、息が詰まるほどの強烈な感情が籠もっていた。
尋常ではない怒りと悲しみだった。まるで溶けた金属のよう。
それはルキアの持った思いではない。その眼差しはルキアのものではない。
しかし深い沼に引き込まれるように一瞬で捕らえられた。強烈な魂の引力だった。
頭の中を焼かれるような感覚が忍び寄ってくる。
「姫様?」
ルキアははっとして我に反った。呼吸が乱れているのを自覚した。
「なにか、御覧になられましたか?」
「ええ……少しね」
気を落ち着かせるために少し深呼吸をする。ふうっと口から息を吐く。
ゼメレスの血が身の内でざわめき出すのを感じた。
容貌は全くと言っていい程受け継がなかったのに、こんなところはしっかり受け継いでしまった。だが宗家の跡取りはもっと遥かに血が濃く、これどころではないと聞く。それは難儀なことだろうと思う。
「よろしければお話くださいませんか?」
労りよりも先に内容を話せと言ってくる辺り、この男は本当に仕事一徹だなとルキアは思う。尤もだからこそ雇用しているわけだけれど。
「砂漠が見えたわ。その砂漠を激しい情念で見ている者がいる」
「……」
「おそらく若い男ね。煮え滾るような怒りと、それと……」
上手く言葉に出来なかった。あの激しい渇きのような感覚はなんだろうか。
考え始めた途端、悲しみのような思いが胸に拡がった。ああ、だがこの思いは知っている。これならば知っている。
それはルキアが子供の頃、初めてゼメレスの血に目覚めたときに、王都の大神殿で味わったものだからだ。忘れられる筈がない。
ルキアは神殿の西壁の前で確かに見たのだ。王権の剣を捧げ持ったケルサイオンの前で。
大壁画の前に立ったときに見た、あの夕日を。あの麦畑を忘れられる筈がない。
「……祈りね」
胸に手を当ててルキアは呟くように言った。
「祈りで御座いますか?」
「ええ、でもこれは神に対する祈りではないわ」
年嵩の男は不思議そうな顔をしたが、それ以上聞いてはこなかった。
少しだけ考えるような素振りを見せた後、すぐに話を戻してきた。
「それで、姫様のお知りになりたいということで御座いますが……」
そこでわずかに躊躇ったが、言葉を続けた。
「……よろしければ、それを我らにもお教え願えますか?」
男が好奇心からだけでなく、仕事上の必要性からも言っているのは理解できたが、ルキアは答えられず苦笑した。
それが明確に判っていれば、血を辿れなどという言い方はしない。
何を知りたいのか自分でも解らないのだ。
今見たものといい、自分が感じている予感といい、わからぬ事が多い。
だが頭では、言葉ではわからなくても、心はその奥深いところで答えを知っているのだ。
指が、腕が、糸車の回し方を覚えているように、辿るべき道筋だけは見えている。
知るべきものがそこにあるという事だけは判る。
そして一つだけ言えることがある。
「心よ」
「……心で御座いますか?」
「私が知りたいのは、人の心よ」
誰が誰を殺し、王位を奪い合ったかは問題ではない。
問題なのは、その時、誰が誰の大切な人を殺したのか、誰が笑い、誰が泣いたかということだ。
剣を振り翳し黄金を掴んだ腕よりも、その時に流された血と涙の方が重要だ。
政変があったとき、ヤンギル族とやらは興奮し、快哉を叫んだに違いない。
だがそれよりもごく一般的な市内の人々、アンケヌの市民が何を感じていたかの方が重要だ。
その時に泣いた誰かがいるのは今わかった。そしてそういう人間はおそらく大きな変化を遂げたはずだ。血と涙を贖わせるために。
敵にとって極めて危険な人間になったはずだ。
「人の心の中には炎があるわ。私はその炎を見たいの」
王都の大神殿にある壁画にも、教典の中の物語にも興味はない。
あの日、夕日に輝く麦畑を見た。
今よりも遥かに遠い過去の光景だとすぐに判った。
畑の間を延びている道を歩いていた。その道を歩いたことを男は思い出していた。
誰かが遠くから自分を呼んでいるような気がした。
それは既に失われた景色だった。けれどそこに男の魂があった。
麦畑の道の先には、男にとってとても大切なものがあるのだとルキアは感じた。
男が誰であるかなど考えるまでもない。そしてもしも、あの日見たものを誰かに話していたならば、おそらく王都は、神殿は大騒ぎになっていただろう。
それは聖典には一切記されていない、遥か過去の真実だったろうからだ。
肌を撫でる風の音を聞いた。夕焼けの中、金色に輝く麦畑を見た。
あの麦畑を見たときに感じた張り裂けるような思い。それが知りたいのだ。
知りたい事はそれだけだ。
「……お役に立てるよう全力を尽くしまする」
二人の男は深く頭を下げた。
ルキアは立ち上がって近くの箪笥へと歩いた。扉を開けて革袋を取り出すと、年嵩の男に向けて差し出した。
「取り敢えずの報酬よ。足りなければまた来なさい。必要なだけ用意しておくわ」
「ありがたくいただきまする」
年嵩の男は恭しく革袋を受け取ると、若者と共にそのまま後ろに下がって部屋から姿を消した。
それで窓掛けの帷帳が揺れているのに気付いた。
窓は閉めておいたはずなのに、いつの間に開いたのか。いやいつの間に開けて入ってきたのか。いつもながら驚かされる。
再びルキアは椅子に坐った。深く坐って体をゆだねた。
久しぶりに強い幻視を見たので疲れを感じた。
人の心の中には炎がある。もちろんルキアの中にも。




