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偽装の結婚  作者: 琴乃つむぎ
第二部(暫定版)
33/64

第二章

 グヌグは下劣で、尊大で、貪欲で、淫乱で、およそ人間の示しうる醜悪さを一人で全部背負っているような男だった――というのはさすがに言い過ぎかも知れない。

 けれどどれほど憎悪し、呪っても飽きたらぬほどイシュタトはグヌグを憎んでいた。

 それだけの理由がイシュタトにはあったし、イシュタトの仲間たちもそれは肯定するところでもあった。

 グヌグはアンケヌの東城壁の近くに住居を構える商人で、大きな財産を持っている男だった。

 そして財産を持つ者の多くがそうであるように、その中には沢山の奴隷が含まれていた。

 イシュタトはその中の一人だった。

 広い敷地を持つグヌグの屋敷は、グヌグとその一族が住む区画と、召使いや奴隷達が住む区画とに大別される。

 それぞれ水場は別になっているし、グヌグの暮らす区画には当然、作業場や家畜小屋はない。

 代わりに水を引いて池と小川を模した美しい中庭がある。中庭には鳥籠が置かれているが、それも家畜ではなくて愛玩用の小鳥だった。

 一方召使いや奴隷達が暮らす区画では、水場を備えた中庭を中央にして、周囲に建築物が並んでいるという作りだった。

 どの建物も同じような形をしていて、日干し煉瓦で作られていたが、どれも見るからにいい加減な建て方であり、輪郭が歪んでいる建物もあった。壁も薄く、所々崩れかけているものが多かった。

 窓はただ四角く切ってあるだけで、何かを取り付ける事を考えた作りにはなっていなかったが、それでも住人達が暑さ寒さをしのぐ為に、くたびれたダムリや、汚れた布が吊るしてあったりした。

 それでも何かあればまだ良い方で、窓には何もない家がほとんどだ。日射し避けの透かし板など当然あるはずもない。

 それら見窄みすぼらしい建物たちが、召使いや奴隷達が暮らす居住用の家屋や物置、そして家畜小屋だった。

 中庭の真ん中にある作業用の水場は、どの家からもほぼ均等の距離にあった。

 召使いや奴隷達の暮らす区画では水場は共通なのだ。

 これは貧乏な下級市民や、流民が暮らす集合住宅などでもよく採用されている設計方式であって、アウラシールの大抵たいていの都市で見られるものである。

 砂漠と荒野が続くアウラシールでは水は命の源であり、楽園の象徴であるから、水場が中央に来るのはごく自然な発想なのだった。

 水場であるから中心には井戸が掘られている。

 ここの召使いや奴隷、家畜など、彼らの水をまかなっているのは全てこの井戸だった。

 グヌグとその一族以外の者は全員がここの水を使うのだ。

 ただし奴隷は水場を使える時間帯や状況に制限が課せられていて、いつでも自由に使えるというわけではない。

 今は奴隷が使っても良い時間帯だった。もちろん屋敷の召使いや、出入りの業者などが来れば場所を空けなければならないが、少なくとも水場を追い立てられることはない時間帯だった。

 イシュタトはその井戸水をみ上げ、頭からかぶっていた。

 布があればそれを浸して体を拭いても良かったが、棒で打たれた傷がまだ血を流している状況ではそれはやりたくない。

 痛みに耐えられぬわけではないが、わざわざ痛い思いをする必要もないと思ったからだ。

 傷を水で流しておけば、この程度の傷ならば悪くすることはないだろうという読みもある。今までの経験から来る判断だった。

 イシュタトの肩や背中は少年らしいなめらかな皮膚に包まれていたが、それがあちこちで裂けて、その裂け目が盛り上がり、血をにじませていた。美しい褐色の皮膚の所々に青黒くなったあざがある。

 痛々しい背中だった。

「……イシュタト」

 少しくぐもったような呼び声に振り向くとメニエフが立っていた。イシュタトと同じ、この屋敷で使われている奴隷の少女だ。

 ただしイシュタトと違うのは、メニエフは生まれながらの奴隷だったが、イシュタトはそうではないという事だ。

 イシュタトの父は罪を犯して死に、そしてイシュタトの一族は奴隷に落とされた。

 今では誰がどこにいるのかも、生きているのかどうかさえも、全く判らない。

「……またご主人様に打たれたの?」

「見れば判るだろ」

 ぶっきらぼうに言い捨ててまた水を被る。

 ナバラ砂漠では水は黄金に等しい――多くの場合、水は黄金以上の貴重品だが、このアンケヌには豊富な地下水がある。

 アンケヌ市内に限れば水に不便することはない。だからこそローゼンディア商人までが移住してきて商売をしているのだ。

 ローゼンディア人は風呂無しでは生きられない。

 風呂は莫大な水を必要とする。だからローゼンディア人の住む場所は豊かな水源を持っている土地が選ばれる事が多い。

 しかもアンケヌには温泉がある。地下温泉だ。これでローゼンディア人が住み着かないわけがない。

 まるで海に投じられた壺の中に魚や蛸がく如く、ローゼンディア人はアンケヌに住み着き始めたという。

 この地下温泉は旅行者の目玉にもなっているが、アンケヌを訪れたローゼンディア人の間では「ここに行かぬ者は死ね」とまで言われているそうだ。

 イシュタトは体など拭いて済ませればいいと思うのだが、彼らは我慢がならぬらしい。

 巨大な池のような浴槽を作り、そこに大量の湯を張るという恐ろしく無駄な事をしている。

 浴槽など身を清めるだけの湯が入れば十分ではないか。ところがローゼンディア人は浴槽に浸かりたがる。

 間抜け面をして湯に浸かっている人を見れば、そいつはローゼンディア人だというのは冗談ではなく、本当のことだった。

 メニエフが清潔な布を持ってきて水に浸して絞った。そっとイシュタトの傷の周りを清め始める。

「つっ!」

「ちゃんときれいにしておかないと後で膿むかも知れないわ。そうなったら死ぬかも知れないのよ?」

 実際、棒で打たれて死んだり、後になって熱を出して死んだりといった奴隷は珍しくなかった。

「……だからこうして水を浴びている」

「痛いだろうけれど我慢してね」

 メニエフは済まなさそうに言うとイシュタトの傷口をできるだけ刺激しないように、しかし丁寧に清め始めた。

 時々飛び上がりたくなる痛みが走ったが、唸るだけでイシュタトはこらえた。

 棒で打たれる奴隷はみな泣き叫ぶ。

 イシュタトは一度も叫んだことはない。叫べばあざけられ、グヌグを満足させるだけだからだ。

「僕のことよりお前はどうなんだ?」

 振り向いてメニエフに問うた。彼女は先日、グヌグの妻の一人に殴り倒されたのだ。

 詳しい事情は知らないが、イシュタトはメニエフに落ち度があったとは思っていない。

 第二夫人のジャヌは癇癪かんしゃく持ちで有名なのだ。おそらくジャヌが癇癪を起こした場にメニエフが居合わせた、それだけのことだろう。

 あのとき口を血まみれにしていたが、それはどうなったのか。

 メニエフはにっこり微笑むと、可愛らしい口をイシュタトに開いて見せた。

 右の頬の内側に大きな切傷がある。その近くの歯が二本折れていた。

「……酷いな」

「ううん。大丈夫。でもこれからは固い物はあまり食べられないかも……」

「それじゃ何も食べられないな」

 イシュタトは皮肉を言って唇をゆがめた。

 奴隷が与えられるウナは石のように固いのだ。古く、冷めたウナを配給されるためだ。

 ウナはアウラシールでは一般的に食べられているパンだが、幾つかの種類がある。原初のパンであり、無発酵である。だから冷めると石のように固くなる。

 そんな物が奴隷には与えられる。水を付けないと、とても食べられる物ではない。

 イシュタトの皮肉にメニエフはころころと笑った。

 つられてイシュタトも笑う。ゆがめられていた唇が、照れたような少年らしい形に変わる。

 水場に少しだけ、少しだけ、そっとなごやかな風が吹くようだった。

 メニエフは優しい。優しくて強い。おそらく歳はイシュタトと同じくらいだと思うが、正しい年齢は判らない。

 働き者で気立ての良いメニエフは皆の人気者だ。イシュタトもその姿を見ると、つい目で追ってしまう。

「何が面白いんだ?」

 唐突に不快そうな、押しつぶした声が聞こえた。

 奴隷に日傘を差し掛けさせて、グヌグが立っていた。イシュタトを睥んでいる。

「まったくお前はいくら仕置きをくれてもこたえんな。そのいじけた性根は誰から受け継いだんだ? んん?」

 太った体を揺すりながら水場へと歩いてくる。

 メニエフが素早くその場に平伏して、額を地面に付けた。わずかに遅れてイシュタトもそうした。

 イシュタトはこの行為が反吐が出るほど嫌だったが、しないわけにはいかなかった。これは奴隷の日常の作法なのだ。

「罪人の子供など買い取らなければ良かったよ……ワシは今でも後悔しておる。ああ、メニエフ、お前はいい。お前は良いんだよ」

 気味の悪い甘い声を出すグヌグ。最近は、グヌグがメニエフに妙な態度を取ることが多い。

 その意味を察すると、イシュタトは自分のはらわたが煮えて腐るような気がするのだった。

「この間はジャヌがお前を打ったそうだね。可哀相に。お前の顔に傷が付かなくて本当に良かったよ」

 メニエフは無言で額を地面に擦り付けた。

「……今日はとても身分の高い御方がこの屋敷へ来るんだ。お前はその御方のおもてなしの準備をしなくてはいけない。台所へ行きなさい」

「はい。ご主人様」

 綺麗な声で答えるとメニエフはすっくと立ち上がり、台所へ小走りに駆けていった。

 その後姿をグヌグはじっと見ていたが、やがてじろりとした目をイシュタトに向けた。

「……そんなところで何をしている。怠けていないで仕事をせんか。やるべきことはいくらでもあるだろうが?」

 イシュタトは無言で立ち上がり、馬小屋に向かって歩き出した。

 別に母屋の方に向かっても良かったのだが、グヌグの立っている方へ歩いていくのは嫌だったのだ。

 これだけ大きな屋敷だと、どこに行っても何かしら奴隷はやる仕事がある。

 だからそれをやればいい。命じられた仕事を。体が動かなくなって、市の外れに捨て置かれるその日まで。

 絶え間なく続く恐怖と苦痛、それが奴隷の人生というものだった。

 それでも家内奴隷はまだましかも知れない。

 軍事奴隷ならば常に戦いに駆り出されるし、イシュタトのようにアウラシール人の場合にはまれではあるものの、農園奴隷という地獄の道行きもある。

 不意にさっとイシュタトの頭上を影がかすめた。

 思わず目を向けると黒い大きな鳥が、屋敷の正門の方向へと低く飛んでいくのが見えた。

 ――鳥?

 イシュタトには何の鳥かすぐには判らなかった。

 強い日射しの下を、大きな翼を拡げた焦げ茶色の鳥が飛んでいく。

 ――鷹?

 アンケヌの市内を、それもこんな低い高度を鷹が飛んでいくわけがない。

 鷹は高く、高く飛ぶ鳥だ。

 それが降りてくるのは獲物を仕留めるときだけ。

 そして鷹の獲物は人間の住む都市には少ない。

 家畜は山犬や鷹の被害を常に意識して飼われているからだ。小屋や番犬で守られている家畜を、鷹が襲うことはほとんどない。

 だから鷹の狩り場は人の住む領域の外にある。

 イシュタトは鷹が飛び去った方角へと目を向けた。

 けれど、ただつっ立って鷹を目で追っているイシュタトをグヌグが見過ごすはずはない。

 怒声が投げつけられてくるはずだった。

 しかし怒声が飛んでくることはなかった。代わりに慌ただしくグヌグは正門へと向かった。

 それが、全ての変化の始まりだった。

 予兆は鷹が運んでくれたのだと。イシュタトは今でもそう信じている。

 正門の前には一団の兵士を連れた若い男が立っていた。

 兵士達は皆、一様に顔の半分を白い布で覆い、短めの槍をたずさえていた。

 これが名高いゴーサの傭兵達であるというのは、その時のイシュタトには判らなかった。

 中央に立っている若い男は、明らかに身分が高いと知れる様子だったが、輿こしには乗らずに徒歩だった。

 昼の外出なので流石さすがに日傘が差し掛けられていたが、徒歩でいるというのは、これだけの貴人にしては珍しい。

「ようこそ! ようこそおいで下さいました摂政閣下!」

 グヌグはほとんど歌うような調子でこの貴人に話し掛けた。

「まさかこんなに早くおいでになるとは思いませんでした!」

 アウラシールでは一日の開始は日没が起点になる。

 昼間というのは他国で言う早朝にあたるのだ。

 時間外れの客人に対して、グヌグはまるで舞台上で役者が演じているような、大袈裟な敬意と歓迎の意を示そうとしていた。

「……中庭に奴隷を集めろ」

 貴人は低く、一言だけそう言った。

「はあ?」

 グヌグが間の抜けた声を出す。

「貴様の所持する奴隷を全て、中庭に並べろ」

 貴人はグヌグの方を見ようともせずにそう命じた。

 妙な雰囲気だった。

 何かが起きているのは、いや、起きつつあるのはその場の誰もが感じていただろう。

 だが何が起きていたのかを知っていたのは、その貴人、つまりザハト本人だけだったに違いない。

 それ以外の誰にも、何もわからなかったのだ。

「か、かしこまりました……」

 ただならぬ気配を察してグヌグは肥満した手を打ち鳴らした。

 指示に従って奴隷達が中庭に並ぶ。母屋で仕事をしていた者達も出てくる。その中にはメニエフの姿もあった。

 馬小屋に向かいかけていたイシュタトもその奴隷の列に加えられた。

 奴隷がこうして並べられるときはろくなことがない。

 売られるか、罰せられるか、殺されるか、そのどれかだ。

 だから誰もが暗澹あんたんとした表情でその場に並んだ。

 日射しは強く、奴隷達の影が地面の上にも一列に並んだが、どの影も黒く濃く、影の主たちの陰鬱さや精彩の無さとは対照的だった。

 うつむき加減に並んだ奴隷達の前をザハトは歩き出した。

 日傘を差し掛けていた奴隷の大男が慌てて追いかけてくるが、ザハトの歩は速く、たちまち日傘の外に出てしまう。

「摂政閣下……一体何を……!」

 戸惑うグヌグの声もザハトを追う。しかしザハトの足は止まらない。

 その場には多くの人間が居たのに、中庭に聞こえたのは、たった一人の編みサンダルが砂を踏む音だった。

 その音が止まった。イシュタトには編みサンダルを履いた足の先だけが見えた。

 イシュタトは目を下げていた。目の前にいるのは貴人である。じかにその顔を見ることは不敬にあたるからだ。

「……顔を上げろ」

 しかし命じられては従うしかない。

 イシュタトは顔を上げ、ザハトを正面から見つめた。

 今でもこのときの気持ちを言葉で表すことがイシュタトには出来ない。

 押し殺した怒り、としか表現できぬような表情をザハトはしていた。

「お前の名は?」

「……イシュタトでございます」

 慌てて平伏しようと膝を曲げかけた途端――

「そのまま動くな!」

 ザハトに一喝された。鋭い声だった。イシュタトは反射的に身を硬くしてしまった。

「平伏など許さぬ。そのまま己の足で立っていろ」

 手に持った杖を突きつけてザハトは命じた。

 イシュタトにとってザハトは初めて会う相手だった。

 ところが何故かは判らないが、明らかにザハトの中には怒りがあった。それも巨大な怒りが。

 それでもイシュタトは疑問には思わなかった。奴隷の身の上に降り掛かる理不尽などいくらでもある話だからだ。

 何故かは知らないがこの貴人は自分に怒りを抱いているようだ。

 恐らく殺されるだろう。頭の中でそんなことを思っただけだった。

 怒りを抱えたザハトに対して、イシュタトには落ちつきがあったわけだが、その落ちつきも一瞬で消えた。

 信じられぬ事にザハトはイシュタトに歩み寄り、その右腕をつかんだからだ。

 これだけの貴人がじかに奴隷に触れるなどまず有り得ない。

 さすがにイシュタトも驚いた。

 ザハトの目はイシュタトの右肩を食い入るように見ていた。そこには奴隷の刻印があった。

「……お前の父の名は?」

 意味不明の質問だった。自分が幼児の頃に死んだ父親が、何故今になって関係してくるのか。

 しかし問われて答えぬわけにはいかない。

「……ギジムでございます」

 イシュタトは答えた。アンケヌ王に逆らい、叛逆者として殺された父の名を。

 そしてその答えを確信に近い形で予想していたザハトは、ゆっくりと息を吐いた。

 長く、胸の中にある諸々の思いと共に息を吐いた。

 震えるように。

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