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偽装の結婚  作者: 琴乃つむぎ
第二部(暫定版)
32/64

第一章・二

 船が泊まり、綱が投げられ梯子板はしごいたが渡される。

 港は商館の倉庫街裏手にあり、どの商館からでもなるべく楽に荷物が運び込めるようになっている。

 メルサリス商会はディブロスでも有数の大商会であり、その倉庫は大きく広く、三階建ての高さがあった。

 しかもそれが一つではなく、ずらりと港側に並んでいる。

 そしてどの倉庫も、いずれの階からでも積み荷を運び込めるように設計されている。

 船が港に順番に入ってくると、港側からも男衆が出てきて早速、荷降ろしの作業が始まった。

 たくましい体をした男衆の赤く日焼けした肌の上には、余程の新入りを除けば全員に派手な入れ墨が描かれている。

 図柄は様々だが、いずれもローゼンディアの神話や伝説に題材を取ったものだ。

 荷運びを受け持つ男衆は、板を使う者達と直に担いでいく者達に別れて、掛け声と身振りを交えた伝達方法を使って巧みに作業をしていく。

 穀物を積んだ船に計量書記と袋を持った男達が上っていくのが見えた。

 商会の雇い人達が、積み荷の確認のためにそれらに混じって積み荷目録を拡げている。ただし原本ではない。

 積み荷目録の原本はここにはないのだ。安全のために別の場所で保管してある。ここで商会員や雇い人たちが確認するのはその写しである。

 原本は商会長であるファナウスとその娘アイオナ、そしてヒスメネスなど信用の置ける人間、つまり商会でも最上位の者達しか見ることはない。

 素早く積み荷の内容と数を確認し、次々と運び込むべき倉庫を指定していく。

 そこに見物にやって来た野次馬まで混じり始めた。

 周囲は人でごった返してきた。

「おい、お前の父親に会いに行かなくていいのか?」

「大きな荷物が降ろされてからね。でないと危険だもの」

「なるほど」

 確かに大きな樽がいくつも積み上げられているし、大きな木の箱も運搬用の丸太の上に並べられている。丸太には事故防止の為に車輪止が噛ませてあった。

 積み荷は、基本的には男衆たちが直に担いだり、板の上に載せたりして運ぶが、どうにもならない重量物は大型の起重機を使って降ろしていた。

 屈強な男衆達は歌うような掛け声を掛け合いながら、荷役管理の役人や輸送業者の指示に従って、そうした荷物を次々降ろし並べていく。

 人がぶつかったくらいで車輪止が外れるとは思わないが、危険だというアイオナの指摘は正しい。動いて良いと言われるまでダーシュは待つ事にした。

 待つ事(しば)し。

「行きましょう」

 アイオナに促されてダーシュは歩き出した。杖を突きながら。

 一番近くの船をまっすぐに目指す。

 船から渡された板を二人は上っていった。

 地上側からはゆるやかな傾斜になっているので、杖を突くとちょうどいい案配になっている。

 ときどき隣をすれ違うようにして船員や男衆が通っていく。

 中にはアイオナやダーシュの顔見知りもいるので軽く挨拶を交わす。

 それにしても近くで見ると大きさはもちろん、よく考えて造られている船だと判る。

 さすがはローゼンディア。海に面した国ならではの知恵と力が感じられた。

 誰がアイオナの父親なのかは判っている。船長に違いない。

 ダーシュはそう考えていたが、実際には船主と船長が別人ということも結構ある。

 砂漠の民であるダーシュにはそこまでの知識はないのだ。単純に一番上に立つ人間がアイオナの父、ファナウスであろうと考えているだけだった。

 目立つ男を探すつもりでいたのだが、そんな必要すらなかった。

「父様!」

 船の上に上がるやいなやアイオナが駆け寄っていく。

 商会の人間となにやら話をしている黒髪の男だった。

 体つきはがっしりしている。背も高い。癖のある黒髪に、色落ちした簡素な亜麻布の服をまとっているだけだが風格がある。大商人だと言われればダーシュも信じるかも知れない。

 腰に巻いた帯だけが、何故かやけに重厚感というか存在感があって目立つ。そのことがダーシュには少しだけ奇妙に思えた。

「おお! アイオナ!」

 親子は抱き合い頬を触れ合わせた。

 見ているだけでお互いの愛情が感じられる抱擁だった。

 今まで散々聞かされてきた話はなんだったのかと、ダーシュは文句を言いたくなったが、我慢した。

 見るとファナウスは腰帯に剣を落とし差しにしている。ザハトもよくそうしていたのでダーシュはザハトの事を思い出した。

 ファナウスの剣はローゼンディア式の少し反りのある片刃の剣だったが、一般に見る物よりも短めで、しかも幅広のようだった。船上での取り回しを考えての造りだろうと思われた。

「わたしが迎えに来るなんて思っていなかったでしょう?」

「いや、ヒスメネスのやつが伝信鳥を飛ばして来たのでな。お前がディブロスに来ていることは判っていたよ」

 相変わらず抜かりのない男だ。だが今回ばかりはお蔭で手間が省ける。

「急に来るのだもの。びっくりしたわ」

「ああ、そのことなんだが……」

 喜びの顔から一転、急にファナウスは言いにくそうに口ごもる様子を見せた。

 そして不意にダーシュの方に目を向けた。

「そちらの若者は?」

「え?」

 アイオナが固まる。

「え、ええ……彼はね……」

 今度はアイオナが言いにくそうに口ごもっている。その様子が父親にそっくりだ。

 やはり親子なのだなと感心していると、いきなり船室の扉が開いた。

 妙な気配を感じた。何かが出てくる、とダーシュは思った。

 扉が開いたのだから当たり前だが、その予感通りに少しの間を置いてから、背の高い老婦人が姿を現した。

 見るからに身分の高そうな女性だった。

 結構な年齢であろうに背はしっかりと伸びているし、足取りも確かだ。

 一応、杖を突いているが無くても問題なさそうに見える。

 着ている服はゆったりとした一枚造りのローゼンディア服で、派手な刺繍や飾りは一切付いていない簡素なものながら、見ただけで作りの良さが判るものだった。

 そもそも使われている生地が違う。そこらの服ではあの高級感は出せない。まさかラスキスではないだろうが、かなり上等なものが使われているとダーシュには判った。

 理知的で厳しい顔つきをしているが、酷薄そうではない。

 おそらく若い頃から物事を突き詰めて考える性質たちだったのだろう。

 そういう年輪のようなものが面差おもざしに現れている。

 白い髪は見事に結い上げられていた。首筋の伸び具合は美しいと言えるほどだ。

 ちょっと見られないくらいに威厳を感じさせる婦人だった。

 何者だろうかとダーシュが考えていると、アイオナが息を呑むのがその背中だけで判った。

「おっ……大伯母おおおば様……」

 大伯母という聞き馴れないローゼンディアの単語を、意識の中でイデラ語に置き換えるまでに少しの時間が必要だった。

「アイオナ、息災にしていましたか?」

 張りのあるしっかりとした声だ。老いによる弱々しさなど微塵も感じさせない。

 ダーシュが初めて耳にする抑揚のローゼンディア語だったが、直感的に貴族の言葉だと思った。

 先日の不愉快極まる事件で耳にしたローゼンディア語は、間違いなく貴族の言葉だったであろうし、大伯母の言葉にはどことなくそれに似ている感じも受けたからだ。

 アイオナは素早く大伯母、つまりアイオナにとっての祖父か祖母の姉にあたるその老婦人のそばに近寄ると、膝をついて礼をした。

「お久しぶりです!」

 ローゼンディアの礼法に詳しくないダーシュが見ても、それがかなり高度な敬意を表す礼だということは容易に判った。

「立って顔を見せておくれ」

 横に控えている召使いらしき男に杖を預けると、大伯母はアイオナを立たせて抱擁した。

「元気そうで嬉しいですよ」

「大伯母様もお元気そうでなによりです」

 アイオナの様子には驚きと戸惑いが見て取れた。緊張している様子だったが、喜んでもいるようにダーシュには見えた。

 苦手な相手ではあるのだろうが嫌いではないのだろう。

「父様の手紙には大伯母様のことが書いてなかったので驚きました」

「ちょっと大きな事件が起きたのですよ。それでどうしてもお前に会っておきたくて」

「まあ、一体なんですの?」

「そのことについては後で話しましょう」

 やんわりとした制止だった。どうやらあまり他人に聞かせたくない話のようだとダーシュは察した。

 何か事件が起きたのか。そんなことを考えていると、また船室の扉から新たな人間が現れた。今度は若い女性だ。アイオナと同じくらいの年齢だろう。

「シフォネ!」

「アイオナ、お久しぶり」

 親しげに抱擁を交わす二人をダーシュは黙って見ていた。

 おそらくこの娘も血縁の者だろう。姉妹という雰囲気ではないから従姉妹いとこだろうか。

 アイオナと同じく黒髪だが、彼女の髪には癖があり、それがゆるやかに肩に向かって流れている。

 優しげな面差しをしている。

 穏やかな人柄を感じさせる娘だ。

 どことなくアイオナに似ているが、なんとなく地味な印象の娘だと思った。

 ある意味で対照的なのだ。

 アイオナは利発さを感じさせるが、この娘からは才気よりも優しさや温和さを感じる。

 ふと視線を感じて目を向けると、アイオナの父のファナウスが黙ってこちらを見ていた。

 静かな観察の瞳だった。何も含むところはなく、ただダーシュを見ている。

 近寄って話しかけるべきだと思ったが、機会をつかめない。

 ダーシュはアイオナと大伯母、そして親類であろう娘との挨拶が終わってからでないと、自分の紹介など始まるまいと考えて待つ事にした。

 そんなことを考えていると、唐突にファナウスがわざとらしい咳払いをした。

 大伯母が不快そうに眉を動かした。

「……ファナウス。何か言いたいことがあるなら直に言いなさい」

「ええ、ええイネス伯母上、言いたいことがありますとも。伯母上が現れる前にアイオナにはそちらの青年を紹介して貰うところだったのですよ」

「お前は私が邪魔だと言いたいのですか」

「そんな! めっそうもない!」

 大袈裟な仕草で否定してみせるのが、いかにもアイオナから聞かされていたファナウスの人柄を感じさせた。

 大伯母のあまりに直截ちょくさいな物言いにダーシュは驚いたが、おかげでこの大伯母と、アイオナの父ファナウスがどういう関係なのかが少し察せられるものがあった。

 ところでこの大伯母の名前はイネスというのか。憶えておかねばなるまい。

 今現在最高位にある人物の名前は憶えておかないと、後でとんだ失敗に繋がりかねないからだ。

「私も聞こうと思っていたのですよ。アイオナ、そちらの男性はどなたですか?」

 別にあごを反らしたりなどして威圧しているわけでもないのに物凄い威圧感だ。

 これでは身近な人間は気苦労するだろう。

「お、大伯母様……彼は、そのう……」

 アイオナが目に見えて困っている。

「私達の言葉は通じるのですか?」

「はい、それは問題ありません」

「ならばご自分から紹介をしていただきたいものね」

 アイオナの顔がダヌザーハを食べさせたときのように汗をかき始めた。

 ダヌザーハはアウラシールの名物料理の一つだが、砂毛虫の炒め料理である。

 外国人は大概拒否反応を起こす。

 アイオナも口に入れたものの、その後で妙な汗を流し始めて、しばらく横になることになったのだ。

 ――砂毛虫の何がそんなに気に入らないのだ?

 栄養満点、味に妙な癖もなく、ほのかに木の実のような香りがするのだ。

 病人はり潰して粥にしてすするほどだ。

 粥の元となるスープの出汁だしは鳥か、毒蛇である。

 どちらでもいいし、ダーシュはどちらも好きだが、地方によっては豚を使うところもある。ダーシュは豚から取った出汁は余り好みではない。

 スープが出来たら、それに牛の乳を加え、り潰した砂毛虫を入れる。粥でなければそのまま入れて汁物ということになる。

 最後に香草を散らして出来上がりだ。

 あの砂毛虫のかゆうまさが外国人にはわからんのだ。

 さて、アイオナを見ているのも楽しいが、そろそろ助けてやるか。

「お初にお目に懸かる。手前はダーシュ・ナブ・ナグム・ナブ・テザク・アヌン=イビヌと申す者です」

 杖を左手に移して、右手を胸前に持ってきて腰を軽く折った。アウラシールの商人の礼法だった。

 そこで他の者に気付かれぬようにしながら、アイオナにちらりと目をやった。

 持ち前の勘の鋭さでアイオナなら気付くと考えたのだ。

 夫だと言っていいのか? そう尋ねたつもりだった。

 アイオナは無言で首を縦に何度も振った。目は瞬きをするのを忘れてしまったように見開かれている。

 見ていて丸わかりの仕草に頭を抱えたくなった。

 ともあれアイオナの許可が出たので名告なのることとしよう。

 ダーシュは全員の視線がおのれに集中しているのが判ったが、ここははっきり言っておかなければなるまい。

「そちらのアイオナ・メルサリスの夫です」

 その場の全員が息を呑むのが伝わってきた。相当に驚いているようだったが、その驚きが何故なのかはダーシュには判らない。それはこれから判ることなのだから。

 もっともその場の全員が固まった、といっても大伯母のイネス、父親のファナウス、そしてシフォネと呼ばれた娘の三人だけなので、船員や港の男衆たちはこちらの事情などに全く構うことなく、威勢の良い様子で荷下ろしの作業を続けているし、イネスの召使いらしい男は主人の杖を受け取っただけで、一言も発していない。

 彼は船室から出てきた時からずっと無言でいる。一歩引いた位置に立って、主人の命令を待っている様子だ。

 落ちついたたたずまいを見ても、しつけが行き届いているのが判った。良い召使いだ。

 もっとも無口なのが良い召使いの絶対条件というわけでもない。ホイヤムの例がある。

 時間にすればわずかの間だったろうが、驚きの状態から復帰したのは予想通りというか、大伯母が最初だった。

 意思力の強さの差が出たのだと言って良いだろう。

「……アイオナ」

「はい」

 相変わらず妙な汗を掻きながらアイオナがうなずいた。

「彼の言うことは本当なのですか?」

「は、はい、大伯母様。わたしの夫はこの人です」

 大伯母の存在感に押されながらも、意外にもアイオナははっきりとそう答えた。

 ――意外にも?

 どうして俺は、そのことを意外だなどと感じているんだ?

 ダーシュは軽い戸惑いを感じた。自分で疑問に思ってしまうことに。

 アイオナとあらかじめ打ち合わせたとおりではないか。

 取り敢えず、自分を夫ということにして父親の襲来を乗り切ろうという、それだけの話なのだ。

「父様、ヒスメネスの手紙には書いてなかったのですか?」

「書いていなかった」

 ファナウスは首を振った。

 二人のやり取りにダーシュは疑問を感じた。

 結婚のことが書いていないであろうとは、今この場の驚きを見れば判ることだった。

 利発なアイオナがそんな簡単なことに気付いていないのだから、内心かなり動揺しているのだろうと察せられた。

 動揺の元が何なのかは判っている。あの大伯母だ。

 父親が来ることは判っていたのだし、それ以外考えられない。

「お祖母様とにかく、船から降りましょうよ」

 シフォネが控え目に大伯母にそう提案した。彼女からは大伯母ではなく、祖母にあたるらしい。するとシフォネとアイオナは、はとこということか。

「ええ、そうね。ファナウス、お前の商館に案内しなさい」

「わかりました。ひとまず館の方でお休みになってください」

 船を降りて商館に戻ることになった。ダーシュとしてもその方がいい。

 嘘を教えこむならば、くつろいだ場所で、落ちついた雰囲気の中で、酒と棗椰子を出した上で、というのがアウラシール人の格言なのである。

 板を踏む音が聞こえた。誰かが下から上がってきたのだ。

 何人かの足音がするが、荷運びの連中ではない。

 先頭に立っているのはとび色の目をした若い男で、明るい印象を与える顔立ちをしていた。

 供の者を三人連れている。

 癖のある長い黒髪を首の後ろで束ね、ファナウスの物によく似た、動きやすそうな亜麻布のローゼンディア風衣服をまとっている。

 供の三人はローゼンディア式の、少し反りのある片刃の剣を腰にげているが、主人とおぼしきこの若い男だけは、何も武器は身に付けていなかった。

 完全な丸腰であるだけでなく、服装も簡素だった。

 ごく普通のローゼンディア人が着るような飾り気のない、地味な服を着ている。

 少なくとも三人も供を連れるような人間が着るような服ではない。

 しかし、そのようなよそおいとは全く逆に、当の本人はただ者ならぬ雰囲気を発していた。

 身を飾るものは何一つないが、立っているだけで物凄い存在感があるのだ。

 何者であろうか。

 もとより無腰であるゆえ、戦士のようには見えないが、商人のようでもない。

 だが見事な肉体を持っていることはダーシュにはすぐに判った。

 戦士ならば戦士らしい剣呑さとでもいうべきものがあろう。

 商人ならば、やはり商人らしい鷹揚さや、人好きのする感じが漂うものだ。

 だがこれほどまでに均整のとれた、完成した肉体を持っている戦士など想像しにくいし、ましてや商人などは見たことも聞いたこともない。

「皆さんまだ船におられるとは。早く館に行きましょう」

 明るさを感じさせるよく通る声だ。

 若く、快闊かいかつな印象だが軽薄な感じはしない。

 人に指示を出すのに慣れた者なのだと察せられた。

 ――貴族だな。

 ダーシュはそう予想した。大店おおだなの跡取息子という線も考えたが、外見から得られる印象は明らかにそのことを否定している。

 それに実際に大店の跡取息子ならば何度か目にしている。

 商館によく顔を出すエルルークとかいうダルメキア商人の息子がそうだ。

 悪い男ではない、というと言い過ぎか。

 毒にも薬にもならぬ男と言った方が良いだろう。

 親の名前はハルラナム。ダーシュも名前を知っているくらいだから、ダルメキアでも十指に入る大商人だ。

 強腕商人として知られている。ディブロスの商工会でも顔役の一人だ。

 商工会というのは市内の商人や職人の総まとめをしている組合組織である。

 ディブロス市内で仕事や商売をしている者ならば誰でも加入している事になっているが、まだ街に来たばかりの者や、犯罪に関わる者達についてはその限りではない。

 一般的には誰もが参加している職業単位の互助組合、その最上位団体である。

 商工会では砂糖商人だの、船大工組合だのといった各互助組合から集まった「顔役」と呼ばれる代表者達が、様々な事柄について話し合って決定を下している。そしてその結果はディブロスを支配する執政に伝えられるのだ。

 つまり商工会の顔役と言えば、その分野では最高の人物であると見做みなされているわけなのだ。

 問題はこの親子がアイオナを狙っているということだった。

 まあ、正確には父親のハルラナムの方だけなのであるが……。

 狙うと言ってもメルサリス商会を乗っ取ろうとか、仕事を奪ってやろうとか、そういう分かり易い話ではない。

 ハルラナムはアイオナの父ファナウスとは、親友と言ってもいいくらいの間柄であるらしいし、商会同士の付き合いもとても友好的なのだ。

 ヒスメネスからダーシュが聞いた話によると、ハルラナムはアイオナの知性と商才に心底惚れ込んでいるらしい。是が非でも息子とアイオナを結婚させたいのだ。

 ハルラナムはローゼンディア人の作法などもよく理解しているという。

 だからアイオナを嫁として自家に取り込むつもりはないわけだ。

 何故ならアイオナはメルサリス商会の跡取りだから。

 そこまで解ってなお、アイオナを息子の嫁に欲しいというのだから、その執着は侮れないものがある。

 アイオナが偽装の喪に服している期間などは、毎日のように理由を付けては商館に来ていたし、多分、今日も商会の表玄関に姿を見せるのではないか。

 忙しい中、全く御苦労なことである。

 ファナウスがこちらに来たことは当然、ハルラナムの耳にも入っているはずだ。

 するとファナウスに直に話を持っていこうとするだろう。アイオナを是非、息子エルルークの妻にしたい、と。

 もちろん、話がまとまるとは思えない。なにせアイオナは既に結婚しているのだ。この己と。

 だが、それでもあの親子は諦めまい。

 ひょっとすると己とアイオナとの結婚は偽装であると見破っているのかも知れない。

 ハルラナムの海千山千という言葉がまさに嵌まりそうな、押しの強い顔を思い出した。

 ……あり得る。

「どけ! どかぬか!」

 強腕商人について考えていると、なにやら怒声のようなものが聞こえてきた。

 貼り付いたような笑顏でアイオナへ詰め寄ってくる不気味なダルメキア人の親子については、事態が今よりも悪化、または進展してから考えることにするとしよう。

 また下から誰かが船へ上がってきたようだ。

 今度は槍を持った兵士である。

 作業をしている船員や、荷下ろしをしている男衆を追い立てるようにどかしながら渡し板を上ってくる。ディブロスの護衛をしている兵士達だ。

 兵士の数は三人、鱗の鎧が日射しを受けて鈍くきらめいた。

 全員が船上に上がってくると、隊長と見える男が近くの船員を掴まえて何か聞き始めた、と思ったら兵士達がこちらに駆け寄ってきた。

「アイオナ・リリア・メルサリスという者は誰か」

「わたしですが」

「あなたには捕縛命令が出ている。我々と一緒に来てもらいたい」

 余りに唐突な一言に、場の空気が固まった。

「……どういう、意味ですかな?」

 ファナウスが進み出て尋ねる。

「ファナウス殿、あなたの御息女に捕縛命令が出ております」

「一体何故ですかな?」

「そこまでは……」

 兵士達も知らないようだった。

「アイオナ、お前は何か罪を犯したのですか?」

 大伯母が尋ねると、アイオナは首を振った。

「いいえ、大伯母様。わたくしは何も罪は犯した憶えはございません」

大姪おおめいはこう申しておりますが、宜しければ判っていることだけでも話をお聞かせ願えますか?」

「はっ!」

 兵士達はアイオナの大伯母に対して礼式を執った。おそらく貴族への礼法であろうとダーシュは察した。

 ということはあの大伯母の服装は貴族の装いであるということになる。

 単に大伯母の外見と、あの貫禄から貴族と判断したのかも知れないが、おそらくは服装自体に貴族を示すものがあるに違いない。

 外国人であるダーシュには、ローゼンディアの服装や礼法などについての詳しい知識はないのだが、大伯母と兵士の様子からそのくらいのことは判断が付いた。

おそれながら申し上ぐれば、ゼメレス家よりの訴えであると聞き及んでおります」

 大伯母が目を見開くのが判った。それはそうだろう。ダーシュでさえその名前は知っているローゼンディアの大貴族だ。

 しかも最近その名前を耳にしている。

 しばし考えたダーシュは、はたと心中思い当たった。

 ――この間の娘か!

 途端に嫌な気分になった。

 あの気違い娘か。ダーシュは思わず眉間に皺を刻んだ。

 数日前にアイオナと市内へ出かけたときに、ローゼンディア貴族の一団と出遇でくわしたのだが、それが非常に不愉快な経験となったのだ。

 あの娘は頭がおかしいとしか思えなかった。

 全世界が自分に平伏して、尻でも足裏でも舐めるのが当然と思っているような娘だった。

 子供ならではの傲岸さと、無知から来る独善性が、上級貴族という社会的な背景を得た結果があれなのだ。

 あんな化け物を自由にさせておくようでは、富めるローゼンディア、強大なるローゼンディアの栄華も長くはあるまい。先の程が知れるというものだ――。

 そのように考えてしまうのはダーシュがアウラシール人であることが、やはり理由として大きい。

 強烈な男性優位、家父長制を維持するアウラシールでは、女や子供が権威を振りかざすことを許さないからだ。

 しかもゼメレスという名前に、アウラシール人であるダーシュは元々良い印象を持っていない。

 これは考えるまでもなく当然の話であると言える。

 過去、アウラシールの連合軍がローゼンディアと戦った歴史があり、その戦争で大敗を喫したのはアウラシールの都市国家連合軍の側であったからだ。

 連合軍というのは、アウラシールが多数の都市国家の並立する地域であることからきている。

 都市国家同士での戦争や略奪は日常茶飯事であり、ローゼンディアやレメンテム帝国のような統一国家ではないのである。

 その意味ではトゥライの遊牧民に似ていると言えるかも知れない。

 時折強力な王が現れて周辺の都市国家を支配下に置くこともある。ここもトゥライに似ている。

 しかし折角せっかく統一国家が生まれたとしても、大体、一つの王朝の寿命は二百年以下であり、短いものだと数十年ということさえある。

 安定した王朝が三百年以上続くことはほとんど無く、基本的に友好と敵意がまだら模様に入り混じった状態が都市国家の間で続いている。

 要するにアウラシール一万五千年の歴史は、常に戦国時代なのである。

 ローゼンディアが統一国家となってより二千三百年。比較するまでもなく地域全体の歴史の長さではアウラシールの圧勝と言えるが、そのほとんど全てが食うか食われるかの歴史なのだから、ちっとも威張れるものではない。

 そんなアウラシールも強力な外敵が現れたり、利益が共通したりと、事情によっては連合軍を組むことがある。

 そうして今から百年ほど前にも、アウラシールは連合軍を編成してローゼンディアと戦ったわけであるが、大敗を喫して壊滅したのだった。

 連合軍にはアンケヌも参加したので、ダーシュの一族にも戦死者が何人か出ている。

 アンケヌの軍もやはり壊滅して、帰還できた兵士の数は三割以下だったという。

 この戦争でのアウラシール側の死者は十四万人。

 ナバラ砂漠の北は人馬、巨獣の血で赤く染まったと言われており、ローゼンディア王国軍を指揮したクレオラ・ゼメレスの名は、恐怖とともにアウラシールの歴史書に刻まれることになった。

 彼女の名はローゼンディアやダルメキアでこそ英雄だが、アウラシールやレメンテム帝国では恐怖と憎しみを喚起するものなのだ。

 そのように、ゼメレスという名前に元々良い印象を持っていないところに加えて、先日の災難である。

 あの気違い娘はクリュスタ・ゼメレスと名告なのったのだ。

 もはやダーシュはゼメレスという名前を聞くと、嫌悪感しか浮かばなくなっていると言っていい。

 しかしまさかあの時の事件が、まだ引きっていて、新たな問題を起こすことになるとはダーシュも想定していなかった。

 自分は外国人だ。そしてアイオナはその妻である。

 アイオナはその意味で、ダーシュの一族として保護されることになるのだ。

 貴人の無法が通じるのは国内だけだ。外国人に無法を強いれば問題になることが多いくらい、あの馬鹿娘には理解できなくとも、側仕えの者達や、一族の重鎮には判っているはずだ。

 だが、その読みは外れたようだ。

 驚くと同時に嫌気がさしてしまう。正直なところ、驚きよりもうんざりしたと言った方が正解かも知れない。

 それでも一応ダーシュは驚いてはいた。いたのだが、アイオナの父ファナウスや大伯母など、面々の驚きはそれ以上のようだった。

 兵士がゼメレス家よりの訴えだと口にしてから、誰一人口を開く者はいなかった。

 初めは訴えてきたのが大貴族だから衝撃を受けているのだろうと思ったが、どうも違うらしい。

 目立たないように、ファナウスと大伯母が素早く、意味ありげに目線を交わすのをダーシュは見逃さなかった。

 何かあるのだ。それが気になった。

「……ゼメレス、宗家の訴えなのですか?」

 ここでも最初に口を開いたのは大伯母だった。胆力の差が表れていると言えよう。

「いいえ。鉄弓てっきゅう家よりの訴えであります」

 その言葉に大伯母が少し考えるような表情を見せた。

 鉄弓家というのが何を意味するのかはダーシュには判らないが、鉄弓がローゼンディアの恐るべき兵器であることは知っている。

 ローゼンディアに限らず、この世界にはいくつかそういった桁外れの威力を持つ、聖遺物とでもいうべき物品が存在するのだ。

 その多くは祭器や武器であり、それぞれが国によって厳重に保管されている。

 ただしこれらの聖遺物が、国家間で奪い合いになることはほとんどない。

 聖遺物の力を引き出せるのは、その力の源泉となっている神々を奉戴ほうたいする一族や、民族だけであるからだ。

 もっとも相手にそれを使わせないという目的のためだけに、聖遺物の破壊や略奪が目論もくろまれることはある。

 つまり奪ってもその力を引き出すことはできないが、戦略上の観点から脅威を取り除こうという行為はあり得るわけだ。

 しかしその場合でも、密かに盗み出すのでもなければ、相手の聖遺物にまで手が届くほどの戦争を仕掛けねばならないという問題が出てしまう。

 何故これが問題かと言えば、そのような国家存亡の危機となれば、間違いなく聖遺物が持ち出されてくるからである。

 本来聖遺物を使わせないための行動のはずが、まさにその行動によって聖遺物の行使を招き、恐るべき威力を味わされることになってしまうわけだ。

 これこそ本末顛倒というものであり、いずれの国でもそれなりに、王ともなればその程度の分別は付くのである。

 もちろん盗み出すのならばこの問題は生じない。

 だが大神殿や王宮の宝物庫の奥深くで、厳重に守られている聖遺物を盗み出すのは至難のわざであり、こちらもあまり現実的な考えとは言えないのだ。

 よって聖遺物の奪い合いということは、国家間ではまずほとんど起きえない。

 皮肉な話だが、聖遺物はむしろ国家内部で、同じ宗族の中などで奪い合いになることが多い。

 宗家と分家や、兄弟間などで聖遺物をめぐって争いが起きるという話は、どこの国でも聞かれる話なのだ。

 そうした聖遺物の中でも最も有名なものは、やはり古代ナーラキアの雷筒らいづつであろう。それは神話的な恐怖として今でもミスタリア海周辺では語り継がれているのだ。

 雷筒の恐怖を体験しなかったのは、現在レメンテム帝国などの存在する西方域だけである。それらの地域は当時まだ完全な未開地域であった為に、侵略の魔の手をまぬがれたのだ。

 それ以外の全ての地域は、鋼鉄の武器と雷筒をたずさえたナーラキア軍におびやかされたのである。

「……我が家は現在込み入った事情がありましてな。後日娘を市庁舎に行かせますから今日の所はお引き取りいただけませんかな」

 ファナウスが兵士達にそう願い出たが、兵士達は戸惑っていた。

「しかし……」

 逡巡している。強引に連れ去ろうとしない辺り、こちらに敵意を持ってるわけではないらしい。

「すまないがこのまま帰ってくれないか?」

 ファナウスの後ろから、唐突にあの若者が前に出てきて兵士に話しかけた。

「こちらに込み入った事情があるというのは本当だ。それに鉄弓家よりの訴えであるならば、我々に任せて貰った方がいいと思うよ」

 先ほどと同じような明るい声での、前向きな気配を感じさせる言葉だ。

 そしてやはり先ほどと同じように軽薄さなど微塵も感じさせない。

 兵士の顔色が変わった。

「あっ……あなたは……!」

「私のことを知っているのか?」

 若者は面白そうな、不思議そうな顔をした。

「あなたは……アナクシス家のゼルヴィス様」

「確かにそうだけれど、今の執政家はフィロディアス家のはずだ。何故君らが私の名前を知っている」

 若者、ゼルヴィスが腑に落ちないといった顔をしている後ろで、供の三人が苦笑しながらお互いを見ている。

 主人と配下の間で認識の違いがあるらしい。

 兵士達と若者の会話は、無論ダーシュには判らない。知らない名詞があるからだ。

 それでも、どうやらこの若者が有名人であるらしいことは察しが付いた。

「今言ったが、こちらには込み入った事情があるんだ。説明するには少し時間が必要になるし、君らの立場で聞くべき話かどうかの判断も難しい。だからここはそのまま退き下がってくれないか? 何かあったらアナクシス家の城館に来てくれれば、問題は私が引き受けることを約束しよう」

 ゼルヴィスの言葉は明瞭で、誠意を感じさせるものだった。

 初見の時から印象の強い男だとダーシュは感じていたが、それだけではない。

 何故だかわからないが、この若者には人に良い印象を抱かせる力があるようだ。

「ははっ!」

 兵士達は全員が拳を交差させるような礼法をすると、身を翻すようにして船を下りていった。

 おそらくは兵士達と、ゼルヴィスのアナクシス家とやらには、何らかの血縁的な関係があるのだろうとダーシュはアウラシール人らしい発想で考えていた。

 でなければこのゼルヴィスという男が特殊な立場にあるか、このディブロスで有名人であるかだ。

 だが有名人だとすればダーシュが知らないのだから、それほど有名というわけでもないのだろうか。どうもわからない。

 大概は港に行くものの、床を離れてからのダーシュは結構ディブロスの市街も歩いて廻っている。

 また暗殺者ガズーに狙われるのではないかと心配するので、あまりアイオナには報告せずに外出している。

 監視の目を盗んで、というと聞こえが悪いが、つまりはそういうことである。

 ダーシュが起き上がれるようになってからは、アイオナは商会の仕事の方をよく手伝っているので、商館をけ出す機会はいくらでもあったのだ。

 それでも外出にはホイヤムが付いて来ているので、無警戒というわけでもない。

 であるから今ではそれなりに、このディブロスの町について色々と知識を持っているのだ。

 ゼルヴィスが口にした「今の執政家はフィロディアス家」という言葉の意味は、文字どおりに考えていい。

『執政家』というのは、ディブロスを統治する執政の家のことであり、おそらく執政を出す家柄には交代制度があるのだろう。

 ディブロスはローゼンディア王に任命された執政が、代理として支配していると聞いている。

 そしておそらくアナクシスもその『執政家』の家柄なのだろう。

 だとすればかなりの名門貴族ではないだろうか?

 そんな男が何故、今この場に居るのか。

 ダーシュは興味が湧いてきた。

「ちょっと待って……」

 唐突にアイオナが呟いた。

「ゼルヴィス……アナクシスって、あのゼルヴィス・アナクシスかしら? 海将家の?」

「有名人なのか?」

 ダーシュが尋ねたが、アイオナの耳には聞こえていないようだった。

「あの、ゼルヴィス殿だぞ。ペルギュレイオンの競技会優勝者のな」

 あの、を強調してファナウスがアイオナに教えた。

「……どうしてここにいるの?」

 アイオナが驚きもあらわにファナウスに問うと、ファナウスは得意気に、そして若干意地悪げに微笑んでこう言った。

「お前と会うためにここに来たのさ」

「嘘でしょう……」

 アイオナが口元をおおっている。声が震えていた。

 相当な驚きを感じているようだった。

「知り合いという風でもなさそうだが、あの男について何か知っているのか?」

 アイオナは返事の代わりに軽く深呼吸をした。ゆっくりと息を吐いた。自分を落ちつかせようとしているのだろう。

「サザロスのゼルヴィスなのね?」

 サザロスと言えばローゼンディアでも有名な海の都だ。ゼルヴィスはそこの出身なのか。

 そしてペルギュレイオンと言えば、ローゼンディアでも有名な大祭だ。

 これはペルギュレーのメーサー大神殿で行なわれる大祭であり、三ヶ月の間続く、ローゼンディアでも最大の祝祭の一つなのだが、この祭りの期間に競技会が同時に行なわれるところに特徴がある。

 ローゼンディアでは大祭の際に、競技会を催すものが全部で四つあり、それらを四大競技会と呼ぶ。

 それぞれ開催期間も開催地も違うものの、どれもローゼンディアや周辺衛星国では熱狂的な祭りとなる。

 かつてローゼンディアが統一される以前から、これらの大祭期間中は、たとえ戦争中の都市国家も戦争を中断して参加していたというほどのものであり、ローゼンディア人にとっては特別な意味を持つものなのだった。

 無論、外国人のダーシュにはぴんと来ない話であって、ペルギュレイオンと聞いても相当に大きな大祭で三ヶ月にわたって催されるらしいということくらいしか判らない。

 ダーシュはペルギュレーに行ったこともないのだ。

 だからその大祭で競技会が催されるということは聞いてはいたが、どうやらこの男はその優勝者らしいというところがダーシュの判断の限界だった。

 とはいえ競技会で優勝というのもなかなか出来ることではない。

 なるほど完璧とも思える体の印象は、そのためだったか……とダーシュが軽く納得している横で、アイオナはおこりにでも襲われたかのようにふるえだしていた。

「おい、どうした?」

 アイオナは答えない。答えられない様子だ。

「外国人である貴方にはお解りにならぬことでしょうが――」

 イネス大伯母が口を開いた。

「ローゼンディアにあっては、四大競技会の優勝者とは、地上における最大の名誉を得た者なのです」

 ゆっくりとした口調でダーシュに教えるように語った。

「伯母上、それでは彼には解らぬでしょう」

「私の言葉が気に入らぬという意味かえ?」

 じろりとファナウスを一瞥いちべつする。

「いえいえ!! もっと判りやすい言葉で伝えるべきかというだけですよ。対話には判りやすさが何より重要ですからな。話は具体的に、明解に、です」

 大袈裟おおげさな身振りを交えてイネスに言い訳をした後、ファナウスはダーシュに向き直った。

「さて、ダーシュ・ナブ・ナグム殿。いや、婿殿とお呼びした方がいいかな?」

 アクルと最初のケザムで呼ぶというのは悪くない。アウラシールでの呼びかけ方としては妥当である。

 それほど親しくはないが、見知らぬというほどではないという感じの距離感と、それに伴う礼儀を含んだ呼び方であり、一般的な名前の呼び方である。

 さすがに大手の商人だけあって、アウラシールでの作法もわきまえているということか。

「岳父殿のお好きなように」

 ダーシュは尊敬と、多少の感心を込めて再びアウラシールの礼法を取った。

「では親しみを込めてダーシュと呼ばせて貰おう」

 ファナウスは微笑した。とても魅力的な笑顔だ。凄みがあるほどに。

「我々にとって四大競技会での優勝と言えば、その栄誉は言葉にできぬほどのものだ」

「はい」

「こちらのゼルヴィス殿がその一人だ。彼は槍投げと、イスキュロン走の両方で優勝している」

「はい」

 ダーシュは返事をしながら頷いていた。無言では非礼になると考えたからだ。

「四大競技会では、どの種目でも優勝した者には数々の権利が与えられるが、その中の一つに、ローゼンディア全ての王侯貴族を呼び捨てにできるというものがある」

 ダーシュは息を呑んだ。王族を呼び捨てだと?

「……競技に参加できるのは王族貴族だけではないのですか?」

 参加者が王族、少なくとも上位の貴族という事ならば、そんな乱暴な慣習も成り立つのではないかと予想してダーシュは尋ねたが、ファナウスはその疑問を粉砕するように首を振った。

「一切の制限はない。猟師だろうが羊飼いだろうが、外国人だろうが関係はない」

「それは……」

「不敬かな? それとも非常識と考えるかね? だがそれが我々ローゼンディア人の四大競技会に対する自然な慣わしなのだ。どの種目であれ、優勝者には王侯貴族を呼び捨てにする権利と、三年間の税役の免除、そして神殿の壁面にその名前が刻まれる栄誉が与えられる。何故だと思う?」

 ダーシュは無言で首を振った。わからなかったからだ。

 言葉で返事をするつもりでいたのに、無言になってしまったところにダーシュの驚きが表れていた。

「競技で優勝するということには神々の意志が働くと我々は考えるからだ。だからこそ、優勝者には神々の力が宿っていると感じるし、我々はそれを敬うのだ」

「……なるほど。理窟は判りました。ご説明どうもありがとうございます」

 地上における神の体現者というわけか……。

 なるほどそれなら崇められるのも解る。

 神を体現するという意味では、アウラシールで行なわれる新年祭レアナハトゥの王のようなものだろうが、それと違ってこちらは競技会での優勝というおまけが付いている。

 大多数の観衆の目の前で起こる劇的な物語を踏まえている分、毎年単調に繰り返される王の新年祭よりも人々の心に訴えかける力は大きかろう。

 アイオナはまだ小さくふるえていた。

 神の威に打たれたというところか……そう考えてダーシュは不快感のようなものを持った。

 何故不快に思ったのかは自分でもわからない。

 ただアイオナらしくないなと感じただけだが、そこには確かに不愉快さに似た心の動きがあった。

 ダーシュ自身、少し不思議に思った。

「……そのゼルヴィス殿が我が妻に会うためにここに来たと?」

 ダーシュが尋ねるとファナウスは難しそうに眉を寄せた。

「そこが問題なのだ」

「あ、あの!」

 シフォネが遠慮がちに会話に入ってきた。

「商館の方へ参りませんか? ここでお話をしていても仕方ないと思いますし……」

「たしかにそうね」

 大伯母のイネスが同意した。

「商館へ行きましょう。そこで全てお前に話します」

 アイオナの方を向いて言った。

「お前が知らなければならないことです」

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