第二十六章 目覚め
通路の向こうは砂漠が拡がっているはずだった。あの時はそうだった。
涙に滲む瞳で月の砂漠を見た。そして、すぐに敵が襲ってきた。
月光の下を早足で向かって来る兵士たちは、皆、剣を抜いていた。
悲しみを混乱が、混乱を恐れが塗り替えていった。
剣を抜かなくては。敵の喉笛を掻き切る剣を。
ダーシュは手を伸ばした。何か叫びながらウルバが小剣を差し出している。装飾の無い兵士の剣だ。今持つべき剣として望ましい。
柄に手を掛けて握り締めると妙な感触がした。柔らかい。ダーシュは驚いた。
目の前から月の砂漠が消えている。敵の姿もない。
大きな絵が目に入っている。三叉銛を掲げた黒髪の男が描かれた絵だ。いつの間に場所が変わったのだろう。
何が起きたのか。だがすぐに事態が呑み込めた。己は暗殺者の毒に倒れたのだ。
握っていたのは剣の柄ではなくて布団だった。寝台に横たわっているのだ。
「気が付いたわ!!」
ローゼンディア語の叫びが耳を打った。アイオナの声だ。
首を少し傾けて声の方を見る。アイオナが身を乗り出してダーシュの顔を覗き込んできた。
「大丈夫? 気分はどう?」
「良いとは言いがたいな……」
あまりにも弱々しい罅割れた声に自分で驚く。
アイオナが水差しを口に運んでくれたので、飲もうとしたができず、口を湿らせる程度に水を吸った。
「話せる?」
アイオナは冷静だった。何日ぐらい己は倒れていたのだろうか。
「あなたは一週間目を覚まさなかったわ」
こちらの気持ちを察するようにアイオナが教えてくれた。
「ここはうちの商館よ。ディブロスの湾に面した海岸沿いにある館で、三階の客室に今あなたは寝ているの」
ダーシュは小さく息を吐いて微笑んだ。それを確認するようにアイオナは頷いた。
「市当局にはあなたの滞在許可を出してもらったわ。これでゴーサの傭兵団があなたの身柄を要求しても引き渡されることはないから安心して。あなたを襲った男に関しては捜索中だけれど、こちらはあまり期待しないでちょうだい。ほとんど情報が無いの」
さすがだと思った。なんと頭の回る女だろう。
ローゼンディアの女が皆このように賢いのならば、それはアウラシールの男を伴侶には選ばないだろう。自分の人格を認めず、ただ豪華な家具のように家に収まっていろと言われて大人しくしていられるはずがない。
「……世話をかけたな」
「心配しなくても対価を請求したりはしないわ」
「俺もそれを心配してた」
アイオナが微笑んだ。ダーシュも笑みを返した。泣かれるよりはずっといい。
それとも己が倒れている間に泣かせたのだろうか。いや、それは己の自惚れというものだろう。
お互いの間に親近感が無いとは言わないが、それは恋愛とは違うものだ。
アイオナはそう思っているはずだ。
何故だか胸にしんとしたものが拡がった。
「どうしたのかしら? 目覚めたばかりで疲れてるの?」
心配げに尋ねられた。精彩の無い顔をしていたらしい。
目覚めたばかりで精彩も何もあったものではないと思うが、ダーシュは努めて明るい顔を作った。
「いや、何か腹に入れる物が欲しい」
「今用意させるわ」
アイオナが離れた。ダーシュは天井を見つめた。
天井画の男は見事な黒い髭を持ち、長い黒髪を靡かせ、三叉銛を手にしている。おそらくローゼンディア人の海神ゼーフルだろう。
伝説によればディブロスを開いた神だと言うが……
「王子様!!」
素頓狂な声が入口の方から聞こえてきた。
誰だかはすぐに判った。ホイヤムだ。
ダーシュが命じた通りにディブロスまでやって来たのだ。
ぱたぱたと寝台の傍まで駆け寄ってくる。
「王子様! お目覚めになられましたか!」
「ああ、あまり大きな声を出すな。頭が割れそうになる」
「おお、申し訳ございません」
「心配を掛けたな」
ダーシュが労いの言葉を口にするかしないかのうちにホイヤムは泣き始めた。
「ううっ……王子様あ……わたくしめがどれほど……」
「判った判った。お前が心配してくれたのはよく判った」
だから泣くな。ホイヤム。
泣き虫のホイヤム。だが決して勇気や力に劣るわけではない。
ホイヤムは頼りになる男なのだ。
「お前が来てくれて助かる。ダナン族の長老は何と言っていた?」
「はい。やはりそうなったか、と仰せでありました」
ホイヤムは涙を拭ってそう報告した。
「なるほどな」
ダーシュは頷きつつ考えた。長老はダーシュがザハトに追い落とされるのを予期していたということだろうか。それとももっと深い意味があるのだろうか。
どちらにしてもあの長老が簡単にザハトを王と認めるとは思えない。
ザハトとしても扱いかねているのではないだろうか。利益や脅しで動かせる人物ではないのだ。
ダーシュは長老の顔を思い出そうとした。もう何年も見ていないが忘れられるものではない。
ダナン族の長老は日焼けした皺だらけの顔をしていた。
長老の顔は厳しさとも無表情とも言いがたい何かを形作っていて、容易に話しかけるのを躊躇わせる威厳を備えていた。
まるで全ての感情を表した末に辿り着いたような独特の顔であり、何を考えているのかまるで読めなかった。
薄く煙を吹いたような青い瞳は何も語らず、逆にその瞳を向けられた者の方に語らせる力を秘めていた。
アンケヌが落ちた後、ダーシュたち一行は追っ手の兵から何とか逃れることに成功した。
苦労の末にダナン族のオアシスに辿り着いたのだが、それも束の間、それから間も無くしてヤンギル族が襲ってきた。疲れと悲しみを瘉す間もなかった。
戦いの中、ギジムはダーシュを庇って死んだ。
体に幾筋も矢を立てられながらもダーシュを抱えて走り、駱駝の背に預けると、その場に倒れた。
屍体は守ってやれなかった。ヤンギル族が刻んで野犬の餌としたと聞いた。
ダナン族と共同してどうにかヤンギル族を撃退したものの、ダナン族の受けた被害は大きかった。
長老に言われるまでなく一行はオアシスを離れることを決めたのだ。
ダナン族のオアシスを離れる前に、ザハトは黄金の首飾りを支払って旅の魔術師を雇った。
ザハトの母が王家から嫁ぐ時に持って行った品で、今では形見となった品だった。
それを支払ってまで魔術師を雇ったのは、散り散りになってしまったギジムの魂を呼び集めるためだった。
「俺は忘れぬぞ」
炎を見つめてそう呟いていた。あの激しさこそが己には無かったものだと思う。
だからザハトが王になったのだ。
復讎の念と、自身が正統たることへの自負、そのことに対する絶対的な忠誠。
それがザハトを王位へ押し上げた。
アンケヌの民にとってもザハトが王であることは悪いことではないだろう。
「ザハト様は現在は摂政ということでアンケヌを治めておられるようです」
「王になってはいないのか」
「はい」
腑に落ちない話だった。ダーシュに濡れ衣を着せて殺そうとまでしておいて、何故王位に就かないのか……。
ひょっとするとダーシュがディブロスに保護されていることを知っているのか。
アイオナの話では自分は一週間寝込んでいたという。その間にザハトが情報を掴んだとしても不思議ではない。
何にせよザハトはまだ、念願していたであろう王位には就いていないということだ。
入口の扉が開く音がしてアイオナが入ってきた。
「あらホイヤムと話していたの?」
アイオナはイデラ語で話した。ホイヤムはローゼンディア語を話せないからだ。
ダーシュはホイヤムの助けを借りて上体を起こした。背骨が鳴る音がして、ホイヤムが驚いて動きを止めた。
「痛くはないから心配するな」
「そうよ。この人がそう簡単に死ぬものですか」
聞き慣れた冗談を耳にして気持ちよかった。
アイオナは笑っている。
目覚めた時に泣かれるかと思ったがアイオナは泣かなかった。
その強さがいい。その強さは自分に喜びと力を与えてくれると思った。
部屋の中にはスィサの姿もあった。
「旦那様!」
「ああ」
もう旦那様ではないのだがなと思いつつ返事をした。
「ご無事で! よくぞご無事で!」
スィサはとても興奮していてしまいに泣きだした。それを見ているホイヤムも涙ぐみ始めた。
左右から泣かれては堪らない。ダーシュは困ってアイオナを見上げた。
アイオナは吹き出した。
「その状態では逃げるわけにもいかないものね」
「ああ、助けてくれると嬉しい」
「どうしようかしら」
アイオナは考えるように腕を組んだが、無論、振りだろう。
「俺を介抱してくれたんだ。介抱ついでにそれくらいしてくれてもいいだろう?」
とりわけ情けない顔を作ってアイオナに頼むと、アイオナは明るい声で笑った。
「さあさあ。ダーシュはまだ病みあがりよ。急がないでも後で幾らでもお話は出来るんだから、今は、二人きりにしてちょうだい」
アイオナは途中僅かに言葉に詰まった。それをダーシュは聞き逃さなかった。
二人きりにしてくれ、と言う代わりに何か言おうとしたのだ。
それは何だったのか。夫婦水入らずにしてくれと言うつもりではなかったのか。
都合の良い解釈かも知れない。
だがそう思うのも悪くはない。不快だとは思わない。
アイオナが二人を部屋の外に出すのをダーシュはじっと見ていた。
「……何見ているのよ」
「お前は素晴らしいと思ってな」
「それを言うなら美しいでしょ?」
「そんな当たり前の言葉は言っても意味が無いさ」
一瞬アイオナはきょとんとした。意味が解らないという様子だったが、すぐに顔を赧らめた。
「……きゅ、急にお世辞を言ってどういうつもり?」
「世辞ではない。お前は素晴らしい」
不思議と素直な言葉が出てきた。心が語るべき言葉、それを口から自然に出している感じだった。
アイオナも次の言葉を待っている。ダーシュは自分の心に任せて、そのままを口にするつもりだった。
「アイオナ……」
「元気になって何よりです。話せますか?」
いきなり扉が開いてヒスメネスが入ってきた。ずかずかとダーシュの傍に歩み寄ってくる。
「目は死んでいませんね。話をしても大丈夫そうですね」
ヒスメネスの背後でアイオナが口をぱくぱく動かしている。
あまりの急展開に、何か言おうとしているのだが言葉が出てこないといった様子だ。
それが妙におもしろいのでダーシュは笑った。途端にアイオナはむっとしたような顔になった。怒ったのだろう。
「どうしました?」
ヒスメネスが振り返って尋ねた。
「……なんでもないわ」
「そうですか? ひょっとして何か大事な話をされていましたか?」
「いいえ!」
アイオナは強く否定した。そのままそっぽを向いてしまう。
何だか気の毒だったが仕方ない。今はヒスメネスを相手しなければならない。
「よく俺の前に顔を出せるな」
開口一番、ダーシュは文句をぶつけた。
実際文句はあったのだ。自分と手を組むような態度でいながら、いきなりザハトに寝返ったのだから。
「出しますとも。あなたを助けたのは私とお嬢さんなんですから」
「俺をザハトに売っただろう?」
「ええ」
ヒスメネスは悪怯れもせずにあっさりと認めた。
「ですがよく思い出して下さい。あなたが逃げられるように監視は緩めておいたはずですよ」
「門の所で護衛に取り囲まれたぞ」
「それは正門から堂々と出るような真似をされるからですよ。代わりに日々あなたが屋敷を脱け出すのは随分と楽だったと思いますが。まさか本当に屋敷周りの警備に手抜かりがあったとお考えになられているのではないでしょうね?」
「では駱駝を連れて行ったのは何故かな?」
「それはザハト殿への手前、ある程度の誠意は見せておかなければなりませんしね。仕方のないことと割りきっていただくしかありませんね」
ヒスメネスはにこやかに言い切った。
「何故俺を見限った?」
「見限ってはおりませんよ。見限っていたらあなたを助けたりはしません」
そう言われてダーシュは言葉に詰まった。
「あの状況ではザハト殿に協力するしか道がなかったのはあなたにもお解りのはずです。あなたもまた、アンケヌ市内を歩き回って情報を集めておいでだったのですから。私は店が無事に生き残ることを最優先したまでです。その意味ではあなたを裏切ったわけでも、ザハト殿にお味方したわけでもありません」
洒々《しゃあしゃあ》という。初めて会った時から感じていたことではあるがこれで確信した。
自分とヒスメネスとは反りが合わない。
どうにもこの男の考え方、行動が気に入らない。
始めから筋が通っているだけにますます気に入らないのだ。
「お前は嫌な奴だな」
溜息と共にダーシュは言った。
「あなたに好かれようとは思っていませんのでご心配なく」
「二人ともそれくらいにしといたら?」
アイオナが割って入った。
「ヒスメネスも一言くらい謝ってもいいんじゃなくて? ダーシュとザハトを天秤に掛けたのは確かなんだし」
「天秤に掛けたのではなくて、今現在掛けているのですよ。お嬢さん、間違わないで下さい」
「こういう男だ」
ダーシュは親指でヒスメネスを指した。
「俺としても謝罪を求めるつもりはない。お前の言い分も解るしな。何よりお前に謝られても気分は霽れん。霽れるどころか不安になる」
「だからダーシュもやめなさいよ」
アイオナに言われてダーシュは軽く両手を上げた。降参を示した。
「そうですね。ただのお喋りならばダーシュ殿が完全に癒えてから幾らでも出来ますからね」
「それで何の用なの?」
「ええ。ダーシュ殿も目覚めたことですし、次の手を打ちましょう」
「あなた何か考えがあるのね?」
「はい。ですがこれにはお嬢さんにもご協力していただかねばなりません」
「協力するわよ。もちろん」
「おい、迂闊にこの男にそんなことは言わない方がいい……」
小さな声でダーシュは口を挟んだが、アイオナには聞こえてないらしい。
「ご協力いただけますか。では早速準備を始めます」
「それで、何をするの?」
「ダーシュ殿の葬式です」
ヒスメネスは澄まして言った。




