第二十五章 追憶
傘の下は不思議と涼しい。
左右に立った女たちが風を送ってくれるからなのか、それとも日避けの傘のお蔭なのかは判らないが、近くに侍る者たちも、それぞれに棗椰子の木陰を利用して涼んでいるが、ここほどには涼しくはないらしい。額や首筋に流れる汗がそれを物語っている。
吸う息は熱く、吐く息は冷たい。
それはこの場にいる誰もがそうだったろうが、目の前で平伏している男は一際に、そうだったろう。
男の服装は腰の周りを覆う布だけ、足は裸足、頭を包む布さえしていなかった。
奴隷だから当たり前だったが、日射しの直撃を受ける剥き出しの肉体は、ある種異様な凄味を持っているように感じられた。
少なくともダーシュの目にはそう見えた。
「鳥を捕ったのはお前か」
問う声には感心したような響きがあった。
「ははあ」
見かけに似合わず甲高い声だった。何だか顔が駱駝に似ている。
ずんぐりとした体型といい、平伏している男は見るからに鈍重そうで、とても鳥など捕れる才覚があるようには見えなかった。
連れてきた兵たちの証言からすれば間違いなくこの男なのだが、ダーシュとしてはむしろ兵の間違いではないかと疑いたくなっていた。
「この石を投げて鳥を捕ったのだな」
ジュダルは掌の上で黒い石を玩んでいる。
「聞いたか? ダーシュ。この男は革紐も無しに石で鳥を落としたと言うぞ。凄いとは思わないか?」
「……出来ないと思います」
石投器もなしに、ただ手でもって投げただけで鳥を落とせるはずがない。
「そうか。お前もそう思うか」
ジュダルは頷いた。髪飾りがさらりと鳴った。その音は微かだったが、近くに立っているダーシュには聞こえた。
王族らしく髪を長くしているのはともかく、兄ジュダルは女のようにその身を飾り立てるのが好きだった。
金銀貴金属や貴石を鏤めた装身具を身に纏い、髪を飾り、香を焚いた。
王族の、それも男性が施す化粧は女のものとは程遠い。
それは戦士と神官とを兼ねるものだからだ。
美しさよりも強さと崇高さを意味するものだからだ。
だがそんな化粧と華美な装身具、それら全体がジュダルという中心の中に納まってみると、驚くほど似つかわしい。
またジュダルはその優美な外見からは想像出来ないほど勇猛でもある。
王宮の誰もがジュダルを次期王と認め、期待と尊敬を持って見上げていた。
「やってみせよ」
よく通る声でジュダルは命じた。
男は慌てるだろうと思った。何とか言い逃れようとするのではないかと。
だがダーシュの予想は外れた。男はあっさりと命に答えた。
「かしこまりました」
上げた顔にも焦りの色はない。駱駝のような、剽軽さを感じさせる顔をしている。
甲高い声といい、何だか道化のような男だと思った。
男は小さな石を二つ手に持って歩いた。棗椰子の木の間にある、少し開けた場所に出ると、中腰になって構えた。
男には用心のために兵が二人付いているが、逃げ出すつもりは毛頭無いらしい。
空を見ながらじっとしている。
結構長い間そうしていたが、やがて鳥影がちらりと木の上に見えた。鳥の全身が見えると男は腕をゆっくりと回し始めた。
鳥が木から離れ飛び立とうとする瞬間、短い気合いと共に男は石を投じた。今までに見たこともない投げ方だった。
石は恐るべき速さで宙を飛び、鳥の胸を打った。
だが驚くのはそれからだった。
何と男は落ちてくる鳥目懸けてもう一つの石を投じ、それも命中させたのだ。
「おお」
ダーシュの周囲から響動めきの声が上がった。今男がやって見せたことがどれ程難しいことであるか、誰にも判るからだ。
男は地に落ちた鳥を掴むとジュダルの傍まで走り寄ってきた。
傘の影の外側に来ると跪き、鳥を両手で差し上げた。
声を発する者はなかった。男の技に対する驚きが大きかったのだ。ダーシュも内心舌を巻いていた。
石投器もなしに、ただ手でもって投げただけで鳥を落とせるはずがない。
初めはそう考えた。だがその考えは間違いだった。
男は素手で石を投げ、見事に鳥を落として見せたのだ。
「見事だ。誰に習った?」
驚きを隠そうともせずにジュダルが尋ねた。
「は、はい。そのう……勝手に覚えた技でございまする」
恥じ入るような声である。男には誇るところが感じられなかった。
自分が見せた技の意味をよく解っていないのだ。
「お前が嘘を吐いていないということは解った」
兵たちに捕らえられた時、男は王室の御苑で狩りをしていた。たまたまジュダルが御苑に来ていたために見つかってしまったのだ。
王室の御苑で狩りをすることは禁じられている。
見つかればまず死刑だ。この男だって当然それは知っているだろうに、何故この場所で狩りをしたのか。
ダーシュには解らなかった。
「どうしてこの場所で狩りをした?」
ジュダルが核心部分を尋ねた。
「はい。そのう……は、腹が減っておりまして……」
身を縮ませて男は答えた。怯えているというよりも恥じている感じだった。
これから男に下される刑罰は間違いなく死刑だ。
王族以外の人間が御苑で狩りを行うこと自体、言語道断であるのに、この男は奴隷である。
死刑以外考えられなかった。
「余程腹が減っていたのであろうな」
「はい。それはそれはもう……」
男は額を地に擦り付けながら、消え入るような声で答えている。
兵を含めてジュダルやダーシュの近くに侍っている者たちは、あからさまに男に侮蔑の眼差しを向けていたが、ダーシュは不思議とそんな気にはならなかった。
お腹が空いていたのなら仕方ないな。
そんな風に思った。見つかれば殺される。その危険を冒してまで狩りをした。
それ程にお腹が空いていたのなら仕方ない。
そう思った。
「それだけ太っていれば腹も空くであろうなあ……」
感慨深げにジュダルが言うと、周囲からどっと笑いが起こったが、当のジュダルは笑っていない。その目は黒く輝いて、興味深げに男を見下ろしていた。
「赦そう」
思い付いたように、だがはっきりと誰にも聞こえるようにジュダルが宣言した。
誰もが驚いたようにジュダルを見上げた。
平伏していた男も、ダーシュもだ。
「私はお前を赦すことにする。その鳥も与えよう」
「たっ、太子様……」
近侍の一人が声を詰まらせるようにしてジュダルの前に進み出た。余程慌てているのか動きも少し奇妙しかった。
「何人たりとも御苑で狩りを行うことは禁じられております。禁を破った者には厳罰が下されるが定め、何卒お考え直しを……」
近侍の言い分には筋が通っている。それを枉げようとするジュダルの方に非があるのだ。
だがこういう時、どうなるかダーシュにはよく判っている。
この時もそうだった。
「嫌だ」
ジュダルはあっさりと近侍の言葉を却けた。
「ここは王室の狩り場、そしてこの私が赦すと言っているのだ。それで充分であろう?」
「太子様あ……」
なんとも情けない声で近侍は嘆いたが、それ以上言い募ってはこなかった。
この男も十年以上王族に仕えてきている。
ジュダルの性格をそれだけよく知っているのだ。
「お前の技は見事だ。誇るがよい」
男に向けて手を翳した。裁きが終わった印だった。
「宮殿へ帰るぞ」
ジュダルが腰を上げると一斉に周囲の者たちが動き始めた。傘を畳み、拡げていた掛物を巻き取り、腰掛けを片付ける。
整然とした動きの中、平伏している裸の男だけが取り残されていた。
呆けた顔でジュダルを見上げている。
「ダーシュ。人は空腹には勝てぬぞ。憶えておくがいい」
微かに頬を上げてはいるがジュダルの瞳は笑っていない。
そう。兄はよくこういう顔をした。
派手を好み、華美を好み、遊びに情熱を燃やしながらも、どこか冷静さを残していた。
けれどダーシュはそんな兄が好きだった。
ジュダルの冷静さは冷たさではなく賢さ、そして優しさを感じさせたからだ。
「……行くがいい。誰にもお前を罰せさせぬ。よく盗みや強奪に走らなかった。お前は立派な男だな」
臣下の者たちが後片付けをしている間に、ジュダルはダーシュを連れて男に近づいて、そうささやいた。
男は驚いたような顔をした。長い睫毛に縁取られた目に涙が溢れてきた。
声を殺して男は泣いていた。肩が小さく顫えている。
その頃のダーシュには、男が何故泣くのか解らなかった。
今ならばよく解る。
*
メルサリス商会の商館は船着き場に面している。船からの積荷をそのまま店に引き入れられるからだ。
商館といっても複数の建物の集まりであり、専門の倉庫として使われている建物と、倉庫に商店を併設した建物、そしてアイオナ達が暮らす居住用の建物とがある。
アイオナが言う所の商館とはこの居住用の館を指していた。
そこは一階が積荷を置いておく倉庫と商店になっており、二階から上が大きな商談などを纏めるための応接室や会議室、そして三階と四階が居住空間になっている。
ダーシュは三階の客室に運び込まれた。すぐに医師が呼ばれ手当てが施された。
毒の種類は判明しなかった。
「概ね、毒とはそういうものですよ。解毒方法が簡単に判るようでは意味が無いですからね」
「よくもそんなことが言えるわね」
いつもは気にならないヒスメネスの言い方が、やけに気に障った。
「申し訳ありません。ですがあとはダーシュの体力に任せる外無いと考えます。我々に出来ることは見守ることだけです」
「わかっているわよ!」
「落ち着いて下さい」
「落ち着いているわよ。冷静にね。事態の推移を見守っているわ」
「ならば結構です。あとは召使いに看護を任せてお嬢さんはお休みになられて下さい」
「いいえ。わたしが看護するわ」
ヒスメネスは溜息を吐いた。
「およしなさい。彼と我々とはもう関係無いのです。契約も切れているのでしょう?」
「あなた……」
ヒスメネスを睥んだ。ヒスメネスも視線の意味を理解したのだろう。首を振った。
「別に彼の死を願っているわけではありませんよ。助かるものなら助かって欲しいと思っています。けれどそのために、お嬢さんが必要以上に彼に尽くす必要は無いと申し上げているのです」
「でも、だって……」
「とにかくそろそろお休みになられて下さい。もう二日もお休みになっていないでしょう?」
ダーシュが生死の境を彷徨っているというのに、とても横になる気にはなれなかったのだ。
アイオナは医師の手配、毒の分析、ディブロス政庁への、何故ダーシュが襲われたのかの報告をしてきた。
もちろん暗殺者のことは伏せた。暗殺者に狙われている人間など市で受け入れてくれるわけがない。
適当な揉め事の理由を捏ち上げて嘘の説明をしたわけだが、ゴーサの傭兵団に追いかけ回されている方については、概ね本当のことを話した。
事実濡れ衣なのだから問題は無い。問題があるとすれば、何故ゴーサの兵士たちがダーシュを犯人と特定したかということだが、ケザシュの魔術の話をしたところでややこしくなるだけだと考えてそこは伏せた。
ともかくその辺りの仕事を全部、ダーシュの市内への滞在の届け出などを全て、アイオナは一人でやっていたのだ。
手伝うというヒスメネスの申し出は断わってきた。アンケヌに戻るという予定を急遽取り止めてくれたヒスメネスだが、休みを取っているわけではない。
彼には商会の仕事がある。申し出を断わるのはそれが理由ではあったが、自分が意地になっている面もあるのは否めない。
「ダーシュが目を覚ました時にお嬢さんがきちんとしていないと、気圧されてしまいますよ。彼は皮肉屋ですからね」
「……そうね。そうだわね」
アイオナは渋々頷いた。
けれど寝台に行く気にはなれなかった。近くにあった椅子に深く腰掛けた。
目の上に布を乗せた。ダーシュの顔の汗を拭くために用意した布だった。
「何かあったら起こしてちょうだい」
「わかりました」
*
宮殿を脱出してもまだ安心はならなかった。
都市の内にはまだ敵の兵がうろうろしていたし、誰が敵で、誰が味方かも判らないのだ。
全ての兵が叔父に従っているかどうかは判らないが、敵味方が判然としない以上、迂闊にこちらから兵に呼びかけるのは躊躇われる。
だから都市内に居る限り、誰にも出会わぬようにするしかない。
かと言ってアンケヌから出てしまえば安全かというとそうでもない。
叔父は当然追っ手を差し向けるだろうし、誰が自分たちの味方になってくれるかは判らない。場合によっては全てが敵という状況もあり得ないことではない。
西側の市壁の傍まで来たところで建物の陰に身を潜めた。
夜も更けている。出歩いている者は見当たらなかったが、市民の姿が無くとも、ジュダルたち王太子の一行を求めて徘徊している敵兵がいる。
頭上には大きな月がある。真円に近い月だ。
お蔭で松明を持つという危険を冒さなくても、光の下さえ歩いていれば最低限の明かりは確保出来る。
辺りに人の気配は無かったが、用心のために誰も口を開かなかった。
いや用心のためではなく恐怖からだったのかも知れない。
一行は全部で七人、兄ジュダルと自分ダーシュ、大臣の息子にして従兄弟のザハト、王室近衛のギジムとウルバ、そして兄に付いていた侍女のイーシャ、同じく近侍のホイヤムだった。
この中でまともに戦えるのはギジムとウルバ、そしてホイヤムだけだった。
ダーシュもザハトも小剣を提げてはいるが、大人の兵士との体格差は圧倒的だ。ぶつかり合えば吹き飛ばされてしまうだろう。
それでもザハトも、ダーシュも戦うつもりでいた。そのことだけは疑いなかった。
「近くには誰もおりません」
軽く周囲を見て回ってきたギジムが報告すると、ジュダルは小さく頷いた。
顔にも体にも濡れたように汗をかいている。左手で傷口を押さえているが、腹に巻いた布越しにも、押さえた手の指の間からも、じくじくと血が溢れてきている。
イーシャがそっと布でジュダルの額の汗を拭った。
「……すまぬ」
微かな声でジュダルは礼を言った。苦しそうだ。
時折呻くが泣き言は言わない。
瞳は強く輝き、指示は的確だ。だからギジムもウルバもすぐさま命令に従う。
イーシャは丁寧にジュダルの顔の汗を拭ってゆく。優しい手付きだが、その横顔には張り詰めたものがある。恐れと緊張とで今にも崩れそうな危うさがある。
しかしここに来るまで、イーシャは叫び出したり泣いたりはせず、一行の足を乱したり危険を招き寄せたりすることは無かった。
いや、一度だけイーシャは短く叫んだ。
宮殿を逃げ出す時の切り合いでジュダルが刺された時だ。イーシャは顫え、腰が抜けてしまったようにへたり込んだ。それを自分が抱き起こして走らせたのだ。
少し離れたところでザハトが小剣を握りしめて立っている。目は血走り、体を小刻みに動かして落ち着きがない。通りの向こうを窺うように何度も行ったり来たりしている。
宮殿を抜け出る時にザハトは敵を刺した。
おそらく人を刺すのは初めてだったろう。日頃の稽古とは違う。気が昂ぶっていても仕方ないと言えた。
「ダーシュ」
兄が自分を呼んだ。ダーシュは静かに傍に近寄り、膝を着いて顔を寄せた。
建物の陰に潜んでいる以上、通常の会話は出来ないし、今のジュダルには普通の声で話すことは苦しそうだったからだ。
「何でしょうか。兄上」
「……ここから北に行った角に、油屋があるのを知っているか?」
「はい」
大きな壺を幾つも並べた大店だ。市内を出歩いた時に何度か見たことがある。
「その油屋の……手前にな、壺を並べて置くための倉庫がある」
「はい」
「壁に浮彫りがしてある。壺を転がす人夫の絵だ」
それは見たことが無かった。
「……三人の、男が、北に向かって……壺を転がしている絵だ」
ダーシュが記憶を紡ぎ出そうとする様子を見て察したのだろう。苦しそうにジュダルがそう補足した。
「兄上、あまりご無理を致しては……」
「聞け」
ジュダルは短く、しかしきっぱりとダーシュの意見を却けた。
「その倉庫の向かいの家にな……この鍵で開く扉がある」
イーシャがジュダルの胸飾りの下から小さな真鍮の鍵を取り出した。ダーシュに見えるように目の前に翳した。
「……扉を開ければ……中庭に出るはずだ」
「何があるのですか?」
「外への……隠し通路がある。父上と……私しか知らぬ」
ジュダルは噎せた。嫌な噎せ方だった。その口からは血が流れ出ている。
ダーシュは衝撃を受けた。浅い傷ではないと解っていたつもりだった。
だがこうして目の前で血を吐かれると、恐ろしさに血が凍るような心地がした。
「太子様……」
か細い声でイーシャが呼びかけ、ジュダルの口許を布で拭った。優しい、しかし悲しい仕草だった。
突然ダーシュは悟った。今まで気付かなかったのが不思議なくらいだった。
明瞭な事実を悟った。
イーシャは兄に想いを寄せている。兄もまたイーシャを慈しんでいる。
そんな単純な事実だ。
ダーシュはイーシャを見て、それからジュダルを見た。
驚きだった。側仕えの侍女と兄が心を通わせていたとは……しかし思い起こしてみれば納得出来る気がする。
ジュダルは常に身辺にイーシャを置いて世話をさせていた。
イーシャの父親が娘に婚約者の話を持ってきた時は、一日中機嫌が悪かった。
そういうことだったのかと思った。
ダーシュの表情から悟ったのだろう。ジュダルが微かに笑った。
「お前には……まだ早い」
こんな状況でもそんなことを言って弟の自分を窘める。
兄上らしいと感じた。
一行から離れて辺りを見回っていたホイヤムが戻ってきた。
「南から兵の一団がこちらに向かっております」
ダーシュは身を固くした。急いでこの場を離れなくてはならない。
ギジムとイーシャの肩を借りてジュダルは立ち上がった。
「……行こう」
ゆっくりと歩き出す。一行の先頭にウルバとザハトが、少し距離を置いてジュダルとイーシャ、ギジムが、最後尾にホイヤムとダーシュが並んだ。
追ってくる兵隊がいる。まだ発見されていないとはいえ、そのことは恐怖だった。
いつ後ろにぼんやりとした松明の明かりが届いてくるかと思うと気が気でない。
ダーシュは歩きながら何度も振り返った。
燈りを持たないために建物の影に入ってしまえば周囲は全く見えなくなる。
月影だけを頼りに進むことがこれほど不自由だなどと考えたことも無かった。
だが一番恐ろしかったのは暗闇でも、追っ手でもなかった。
地面に点々と続く黒い滲み、兄ジュダルが流した血の跡だった。
見ているだけで恐ろしくて息が詰まる。足が止まりそうになる。
吐く息が震えるのは夜の寒さの所為だけではない。
少し大きな血の跡が目に入った時、思わずダーシュはたたらを踏んで止まった。
「さ、王子様参りましょう」
ホイヤムに背中を押された。優しい声だった。
「急がねば敵に追いつかれます」
「わかっている」
ダーシュはわざと無愛想に答えて歩き出した。
血に驚いて足を止めたのだと思われたくなかったからだ。
幸いにジュダルが言っていた建物まではほとんど距離がなく、二区画ほど歩いたらすぐに右手の茶色の壁に大きな浮彫りが見えてきた。
反対側に目を転じると土塗りの家が建っている。裕福な市民の家らしく、ゆったりとした中庭に通じているであろう木製の扉が見えた。
ジュダルから鍵を受け取ったウルバが扉を開けて、最初に中に入った。
続けてザハトが入る。まだ小剣を抜いたままにしている。危ないと思ったが、ザハトの緊張も理解出来るのでダーシュは何も言わなかった。
外から見ると判らないがこの家には誰も住んではいないらしい。
庭は広く、水場と休憩場が建っている。邪魔にならない程度に木が植えてあるが、池などは切ってなかった。
「外国から訪れる使者のために用意された屋敷の一つさ」
ザハトが教えてくれた。
休憩場の椅子は重そうな石で作られていて、動かすことを考えてはいないようだ。
その石の椅子の一つに、ダーシュはイーシャと手伝って兄を静かに坐らせた。
兄が呻くとイーシャは動きを止めた。
「大丈夫ですか?」
イーシャが小声で尋ねた。大丈夫なはずはない。
血は左足全体を染めている。かなりの出血だ。今すぐに手当てをしなければ生命が危ないだろう。
「大丈夫だ」
ジュダルは答えて背筋を伸ばした。凛とした気配が漲った。
庭を見て回っていたザハトや、ウルバ、戸口を見張っていたギジムまで振り返って戻ってきた。
皆が揃うとジュダルは話し出した。
「皆ここまで良く随いて来てくれた。礼を言う」
「勿体無いお言葉です」
代表してダーシュが答えた。身分から言って己が答えるべきだと思ったからだ。
「水場から西側の壁下に隠し通路の入口がある。皆はそれを使ってアンケヌから脱出して欲しい」
「兄上も御一緒です」
「私は無理だ」
ジュダルは静かに否定した。
「私めの背にお乗り下さい。安全な所までお運び致します」
ほとんど無礼とも言える勢いでホイヤムが進み出てきた。
あの日、御苑で助けられて以来、ホイヤムは兄に仕えてきた。
奴隷の立場からも解放されて今では自由市民の身分を得ている。兄に対する忠誠心は絶対だった。
「そうしたいところだが……無理であろう……」
ジュダルは得意の皮肉げな笑みを見せたが、生気がないためにとても弱々しく見えた。
「この傷は深い。腹の奥からの出血だ……おそらく私は助かるまい」
兄らしい冷静な意見だった。その場に居る誰もが納得しただろう。
それに、ここに来るまでの間に皆そうではないかと感じてもいただろう。
王太子は助からない。傷が重すぎる、と。
だから誰も言葉を発しなかった。言葉を発せないと思った。
「……いえ、医師に診せなければ判りませぬ」
しかし、僅かな沈黙を挟んでザハトが強く否定した。
「太子様が助からぬなどと。あってはならぬことです」
「なるならぬの問題ではないのだ」
「なります。私も太子様に背中をお貸し致しましょう。立ち塞がる敵を切り払いましょう。なんとしても太子様には生き延びていただかなくてはなりません」
傲慢とも言える言葉だった。子供の言葉ではない。だがダーシュはザハトらしいと思った。
ザハトは兄を尊敬している。心底から尊敬している。その兄が死ぬことが許せないのだ。
だから覆そうとしているのだ。王太子の死を。現実を。運命を。
「この場の全員、太子様のために生命を捨てて働く所存」
ダーシュは頷いた。ホイヤムが、ギジムとウルバも頷いた。
「ですからその様な弱気なお言葉はお慎み下さい。必ず助かります。アンケヌを出ればお味方を集めることも出来ましょう。今暫くの御辛抱です」
ザハトの言葉をジュダルは優しい表情で聞いていた。
「ダーシュ」
不意に兄に名前を呼ばれて少し驚いた。
「何でしょうか?」
「ダナン族の所に行け。彼らなら力になってくれるだろう」
ジュダルはダーシュの方を向いた。真っ直ぐに見つめてくる。
瞳を合わせるのも辛いが、外らすのも辛くなる眼付きだった。
「お前は好きに生きろ。アンケヌに縛られるな。王になろうなどと考えなくてもよい」
「何と言うことを仰られますか!」
ザハトが叫んだ。大声を出してはいけないという状況も忘れて叫ぶほど、それは衝撃的な言葉だったのだ。
「アルシャンキが我らを滅ぼすというなら仕方ない。王がラムシャーンからヤンギルに代わったとて市民が安寧に暮らせればそれでよい」
ラムシャーンは王家の、ヤンギルは叔父の氏族名だ。
叔父ジヌハヌは父王に取り入り、力を蓄え、そして今夜叛乱を起こした。
兄上でさえ見抜けなかった。恐ろしい周到さだったと言っていい。
「あの奸賊に善政が敷けますものか。太子様、お気を確かに」
ギジムが怒りを込めて、しかし皆に聞こえる程度の声で吐き捨てた。
「ギジム、ウルバ、そしてザハト」
「はい」
三人が一斉に答えた。並んでジュダルの前に膝を着く。
「弟を、ダーシュを頼む。だが決して王にしようなどと考えないでくれ」
「何故ですかっ!!」
再びザハトは叫んだ。
潜んでいなければならないという状況を忘れてしまったかのようだった。
それほどにザハトは混乱していた。
「アンケヌはラムシャーン王家のもの、王家が開き、王家が栄えさせ、そして今に至ったのです。奸賊に奪われるのを黙って見過ごすことが出来ましょうか!」
「ザハトさま、お声を小さく」
初めてイーシャが口を挟んだ。女に窘められてザハトの顔に怒りが表れた。
だが状況を理解出来ないほどザハトは愚かではない。怒りはすぐに羞恥へと塗り替えられて姿を消した。
「みなも太子様のお言葉をよくお聞き下さい。そしてその命に違わぬようにお願い申し上げます」
イーシャが頭を下げた。彼女が面を上げるとジュダルは続けた。
「王は神が選ぶ者、アルシャンキがお選びになるのだ。人の身で定めて良いものではない。弟がもしも王足るべき器を備えているのならば、必ず神が弟を王になされるであろう。その時は……皆で支えてやって欲しい」
ジュダルが噎せた。嫌な音がして口許から血が溢れる。
ザハトが顔を歪めた。ホイヤムが俯いた。ギジムとウルバは膝を着いた姿勢のまま動かない。だけど地に押し当てた拳が顫えている。
イーシャが優雅に、静かに兄の血を拭った。その動きには淀みがない。
何という強さかと思った。何という悲しさかと思った。
イーシャの動きを、その静かな表情をダーシュは美しいと感じた。
「ホイヤム」
「はい太子様」
「お前には特に感謝している。今までよく仕えてくれた……これからは弟に仕えて欲しいと言ったら、贅沢であろうか?」
「滅相もございません。誠心誠意お仕えさせていただきます」
ホイヤムは額を石畳に打ちつけて答えた。
「ザハト、お前は賢い。その賢さに足を取られぬよう気を付けよ。お前と弟がいつまでも友であることを願っている」
「誓います。私はダーシュ様の友として生き、決して裏切りませぬ」
ザハトもまた額を石畳に押しつけて答えた。
「ギジム、ウルバ、お前たちは勇敢な戦士だ」
「勿体無いお言葉でございます」
「弟たちを守って欲しい。ダナン族の許まで無事送り届けてやってくれ」
「必ず。生命に代えましても……」
歯の間から搾り出すようにして二人は答えた。
その言葉を聞くとジュダルは息を吐いた。
「……イーシャ」
「はい太子様」
「行けと言っても……聞かぬであろうな?」
「はい太子様」
イーシャははっきりと答えた。兄の命令に従わないと言い切った。
だがダーシュに驚きはなかった。そうだろうと思った。
従順な、忠実な侍女であるイーシャ。
でもイーシャはそれだけの人ではないのだ。そのことをダーシュは知ってしまった。
「……では私の傍に居てくれるか?」
「もちろんでございます」
イーシャの声には微かな震えがあった。
だけどそれは恐れではないだろう。
「すまぬ。私はお前を手放せそうにない」
「それでようございます。わたくしは最後まで太子様のおそばに……」
小さくジュダルは笑った。
「良かった。断わられたらどうしようかと……思ったぞ」
ぐっと背が曲げられる。イーシャが支える。兄はまた血を吐いた。
拭おうとするイーシャを制し、兄は己の手で血を拭った。
「ダーシュ、お前の剣をくれるか?」
「はい」
ダーシュは躊躇わずに自分の小剣を差し出した。王家に伝わる物であり、緑玉と黄金で飾られた剣だが、十分に実用性も兼ね備えている逸品だ。
ジュダルは剣を受け取るとイーシャに渡した。
「汝自身のためにこれを使うがよい」
ダーシュはその言葉に衝撃を受けた。王が自殺を命じる時の作法だったからだ。
罪ある家臣に名誉ある死を賜う時の作法なのだ。
だがイーシャに罪は無い。死ぬ必要など無いのだ。
「イーシャ、私たちと共に来る気はないか?」
思わずダーシュは尋ねた。死なせたくなかった。そして急に恐ろしく感じた。
自分はもう兄の死を受け入れている。イーシャまで死ぬことはないと感じたのはその證拠だ……そう気付いたからだ。
「お前は、罪人ではないのだから」
何とか言葉を搾り出した。これでイーシャが考えを変えるとは思えなかったが、それでもそう言わずにはいられなかった。
「罪人ですわ。命に反してここに留まるのですから」
イーシャはにっこりと微笑んだ。いい笑顔だった。
「では私はあなたの罪を許そう。あなたは罪人としてではなく」
ここで己は言葉に詰まった。喉が腫れるように感じた。胸が痛くなった。
「……あなたは罪人としてではなく、我が兄の妻としてここに残って欲しい。受け入れてくれるだろうか」
イーシャの顔に驚きが拡がった。予想外の言葉を受けたという顔だった。
「そんな……滅相もございません」
「いや、いい考えだ。さすがは我が弟」
混乱しているイーシャを尻目にジュダルは夜空を見上げた。
「我が父祖を護り給いしアルシャンキ、シャール、そしてナイよ。ここなイーシャ・マニ・バハル・ナブ・サディク・アヌン=アルハを我が妻に迎えることを誓う」
平常ならばあり得ないことである。身分が違いすぎる。
だが似合っていると思った。兄の傍には、隣に坐るべき女性はイーシャだ。彼女以外に考えられない。
「ほら、もう誓ってしまったぞ。お前も誓え」
イーシャは口許を覆っている。見開かれた瞳は、ジュダルを捕らえて放さない。
「早く。神々をお待たせするものではない」
ここは神殿ではない。正しい手順に律ったものでもない。
だけどその場の誰一人、異を唱える者はなかった。
「……誓います」
イーシャは涙ぐんでいた。
それから一人ずつ、兄とイーシャに別れを告げた。
皆、王太子妃としてイーシャを扱った。
ホイヤムは泣いた。泣き虫のホイヤム。洟を流して泣いたが、兄の命令を守ると誓った。繰り返して誓い、壁に開いた隠し通路へ姿を消した。
驚くべきことにザハトも涙を流した。後にも先にも、ザハトが泣いたのはこの時だけだった。
ギジムとウルバは丁重に別れを告げ、怒れる精霊のような顔をしたまま通路へと入っていった。
最後はダーシュだった。
「……兄上、そして姉上」
二人を直視する事が出来ずに、自分の足許を見つめた。月の下、影になって何も見えなかった。
「ダーシュ」
兄が優しく名前を呼んだ。
「私たちを見てくれ。似合いの夫婦だと思うだろう?」
二人は手を取り合って微笑んでいる。
これ以上ないほど幸せそうに見えた。
「行け。そして生きろ。お前にアルシャンキの御加護があらんことを」
「お二方にも、アルシャンキの御加護があらんことを……」
ダーシュは背を向けた。涙が止まらない。言葉を紡ぎ出せない。
胸が苦しい。二人の姿があまりにも悲しくて、美しくて見ていられない。
「……お別れでございます」
それだけを震える声で搾り出すと、ダーシュは走った。
目の前に暗い穴がある。四角く切った墓所の入口に似ている。
この道はアンケヌの外に、西壁の向こうに通じている。
「行け。そして生きろ。お前にアルシャンキの御加護があらんことを」
兄の言葉が消えずに、いつまでも胸の中に残った。




