第二十四章 別れ
結局隊商は見付からず、三人はダビール人に変装してケッサラを出た。
ケッサラを出てからは誰にも会うことは無かった。
恐れていた暗殺者も、ザハトの放ったゴーサの傭兵たちも、無論、ワディの一党も現れることは無かった。
遭遇したものといえば小さな砂蜥蜴や、蠍、上空を飛びゆく鳥の影くらいのものだった。
鳥は縁起がいい。棲み処とするような木々や、建物などの存在を暗示するからだ。
オアシスを出たのは夕方だったが、道中を急いだために、夜明け前にディブロスの町に到着した。
朝日が出るまで岩場の陰で休憩を取った。
他にも先に来て休んでいる人たちがおり、火を囲んで簡単な食事をしたり茶を飲んだりしている者達もいた。
その中にケザシュの顔があった。
「またお前か」
ダーシュがあからさまに嫌そうな顔をしたが、アイオナは別に嫌う理由もないのでごく普通に挨拶を交わした。
「別れを言いに来た」
「お前らしくないな」
ダーシュは嫌味を言ったが、ケザシュは気にしている様子も無い。
「俺はディブロスの町に入るつもりはないからな」
「そうなの? 何故かしら?」
「あそこはローゼンディアだからな。俺にはあまり居心地が良くないのさ」
アイオナには意味が解らなかったが、とにかく町に入らないということなら、ここが別れの場ということになる。
「そうなの。じゃあお別れね」
「そうだ」
「清々するな」
「あなたは黙っていて」
アイオナがダーシュの呟きを制すると、ケザシュは乾いた声で笑った。
「では俺は行くとしよう。また会うこともあるかも知れん」
ケザシュは砂漠に向かって歩き出した。駱駝に乗るわけでもなく徒歩で歩き去ってゆく。
何人かがケザシュを指差して不審がり始めたが、ダーシュは放っておけと素知らぬふりだ。
「奴は普通ではない。問題は無いさ」
アイオナとしては気になったが、いきなり自分たちの前に現れたことといい、紐を毒蛇に見せかけたことといい、確かに普通ではない。
考えている内にケザシュの姿は闇の中に溶けていった。後には砂の音だけが残った。
火に当たりつつ他の人たちと取り留めもない話をしながら日の出を待った。
ダーシュは会話に参加することなく、剣を支えにしたままアイオナの隣でうたた寝をしていた。
完全に眠っていると思って布を掛けてやると、
「ありがとう」
しっかりとした声で礼を言われてびっくりした。
アイオナは他の人たちと火を囲みながら、温かい香草茶を飲んでいたが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ダーシュに揺すられて目を覚ました。
「起きろ。ディブロスに入るぞ」
始めの頃は寝顔を見られるのが嫌だったが、今では意識しない限りは気にならなくなった。
いつの間にかダーシュに掛けたはずの布が自分に掛けられていた。眠っている間にダーシュがそうしてくれたらしい。
朝日が昇ってきていた。
荒漠とした砂礫の向こうに都市が見え、さらにその向こう、遠くにはミスタリア海が見えた。
ディブロスはローゼンディア人の植民都市であり、ダルメキアの領内にあるものの、ローゼンディアの都市として認められ、独立した政治機構を持っている。言うなれば小国家だった。
町を取り巻く灰色の石壁はローゼンディア風のものであり、ここからはよく見えないが、その石壁の向こうには、やはり同じ様式の建物が整然と並んでいるのだ。
それを想像した時、アイオナの胸の中に安堵感が拡がった。
「いつ見ても思うが、ローゼンディアの建築技術は見事なものだな」
「ディブロスに来たことがあるの?」
ダーシュは心外そうな顔をした。
「長い歴史を持つ交易都市だ。訪れたことが無い方が不思議だと思わないのか?」
「それもそうね」
ディブロスは判っているだけでも三千年以上の歴史を持っている。都市としての規模も大きく、ミスタリア海沿岸の交易都市として、果たしてきた役割は大きい。
都市正門で簡単な手続きを済ませ、二人はディブロスに入った。
港へと続く大通りの左右には宿屋や交易商人の店が建ち並び、町に入ったばかりの旅人を誘っている。
お茶売りが金属の茶器を鳴らしながら客を呼び込んでいると思えば、駱駝に水袋を乗せた水売りも負けじと声を張り上げている。
香辛料の混じった良い匂いに釣られて目を向けると羊肉の回転焼きの店が見え、その近くでは果物屋が切った果物や、器に入れた果実水を売っている。
生糸や、美しい刺繍をされた反物の店があり、細工の美しい家具を並べた店もある。
どの店も呼び込みや、あるいは商品の入荷を報せるを板を出しており、そこにはイデラ語、アウラシール語、ローゼンディア語の各言語が書き付けられている。
似たような光景はアンケヌでも見られたが、こちらの方がより国際的に感じてしまう。
おそらく区画整備の見事さや、石で舗装された通りなどから受ける印象であろう。
その中を駱駝を引きながら水場まで歩いた。
水場は公共のもので誰でも無料で利用できる。特にアウラシールでは、大抵はアウラシール人の篤志家が寄進をすることによって作られる。
ローゼンディア人は浴場の建設には意欲的であり、当然水場の整備についても関心を持つわけだが、こと公共の水場についてはアウラシール人に後れを取ることが多い。
これを口の悪いアウラシール人は、「我々が引いた水をローゼンディア人が風呂で浪費する」などと言うが、これは確かに、そう言われても仕方ないだけの真実を含んだ言葉であった。
ディブロスの水場は広く、水を使える場所も一箇所ではなく、広場の中に幾つかの水場が存在していた。
それぞれの水場の上には天井があり、すぐ近くにはやはり天井を備えた休憩所が用意されてある。
休憩所の長椅子では休んだり、世間話をしている旅人や市民があり、水場では諸肌を脱いで身体を拭いている男や、桶に汲んだ水を駱駝に飲ませている旅人の姿があった。
駱駝を繋ぐと、ダーシュが駱駝の荷の中から貴金属を蔵った袋を取り外した。
旅に出る前にアイオナが預けた袋だった。
「ほら」
差し出されて、何のことかと思うほど愚かではない。だが一瞬考えてしまったのは何故だろうか。
「大切にしろ」
荷を縛り直しながら、ダーシュは小さな声でささやいた。中味が貴金属だと他の者に知られないようにとの気遣いだろう。
それからアイオナに片方の駱駝の綱を渡してきた。道中アイオナを乗せ、その荷物を運んでくれた駱駝だ。
「……なんのつもり?」
「お前にやる」
言われて駱駝を見た。長い睫に縁取られた黒い瞳が、きらきらと光っている。駱駝は唇を捲り上がらせてアイオナを見返した。いつも思うのだが侮られているのか、懐かれているのか理解に苦しむ表情である。
「お前にはすまないことをしたと思っている。アンケヌが落ちた時、俺が傍に居ればお前にも、お前の屋敷にも被害が出ないかと思ったのだが、俺の目算は外れた。お前には恐ろしい思いをさせてしまったし、苦労をさせた。すまないと思っている」
「あなたが居るお蔭で確かに、屋敷も店も掠奪は免れたわ」
「だがお前が生命を狙われては元も子も無いだろう」
「そうね。けどそれも――」
「ヘキナンサの思し召しか?」
ダーシュは微笑んだ。普段のような、人を小馬鹿にした笑い方ではない。微かに白い歯を見せる上品な笑い方だった。
きっと、これがこの人の本当の顔なのだと思った。
「それに夫婦は助け合うものよ」
病める時、飢える時、苦しき時、いかなる時も互いを思い、助け合うべし。
ローゼンディアではそう教えられる。
「そうなのか……いいことを言うものだな」
「あなたはそう教わらなかったの?」
「ああ。結婚は男の義務であり、一族への責任の開始だ。すべては男が背負う。女は子供の世話くらいしかすることがない。アウラシールではどこもそうだ」
「もったいないわね」
「俺もそう思う」
今度はアイオナが微笑んだ。
「……これからどうするの?」
「そうだな……取り敢えずはダルメキアに逗まるか、船でミスタリア海にでも出るか。ローゼンディアへ行くのも悪くないかも知れん。そうすればザハトの手も、暗殺者の手も伸びては来ないだろうからな」
ならマンテッサに来ない? そう言いそうになった。
けれど言えなかった。
「苦労をかけた詫びが駱駝一頭というのも寂しい話ね」
代わりにアイオナはそう言い、冗談のように肩を竦めた。
「はは。そう言うな。そう見えてもそいつはいい駱駝だ。役に立つぞ」
「そんなことは判ってるわよ」
道中良く働いてくれたのだから。
「お別れだ」
ダーシュは静かな目でアイオナを見た。
「……ええ、お別れね」
「あ、あの奥さま!? 旦那様!?」
スィサが目を白黒させている。そうか、この子にはまだ全ての事情を話してはいなかったわね……ぼんやりとそう思った。
「達者でな」
自分の駱駝を引くと、ダーシュは背を向けて歩き出した。
アイオナはそれを見送った。すぐに人の間に紛れて見えなくなった。
背の高い、駱駝の頭だけは暫く見えていたが、それが判らなくなるまでアイオナは見送った。
それから息を吐いた。ゆっくりと。
終わったのだと思った。
「奥さま! 旦那様が……! 奥さま!」
スィサが必死に服の裾を引っぱってくる。アイオナは優しくスィサの頭に手を置いた。
「いいのよ……始めから決まっていたことだったのよ」
スィサの目に涙が溜まり始めた。
「そんな……」
「あなたはわたしと来るの。わたしたちはこれからも、一緒よ」
「そんな……」
スィサは啜り上げ始めた。
「あたし……もう奥さまとお呼びすることができなくなってしまう……」
その呟きを聞いた途端に胸が詰まった。スィサを慰めなければいけないと思いつつも言葉が出てこなくなった。
止める間も無く涙が溢れてきた。アイオナはスィサを抱き締めて泣いた。声を殺して泣いた。
決断に後悔はない。始めから決められていたことを履行しただけだ。
約束を守る。
それが商人として大切なことだと教えられてきた。
だけどこの喪失感は何なのか。身体の中を風が吹き抜けてゆくようだ。
乾いた、冷たい風だ。このディブロスの熱気には相応しくない。
日はまだ高くなる。太陽神は天頂を目指して駆け上る途上にある。
濃い影が石畳の上に落ちている。それが自分の頭を被う布の影だと判るまでに少し時間が掛かった。
腕の中でスィサも泣いている。スィサの温もりを感じていると、しっかりしなければと思った。
ひと頻り涙を流すとアイオナは立ち上がった。スィサの手を取ると、涙を拭って歩き出した
これからどうするか。
取り敢えずはメルサリスの商館に行くのが自然だろう。
メルサリス商会は手広く商売をしている。当然ディブロスにも何年も前から商館を持っている。
そこでじっくり休息を取った後はディブロスの政庁に届け出て、マンテッサへ向かう船に予約を取ることにしよう。
一度、父の所へ戻ろうと思った。
まずは商館だが、商館のあるのは港側だ。
船からの荷の積み下ろしのためだが、お蔭で港側まで歩いていかねばならないし、そろそろ朝食を摂る時間でもある。
どこか適当な所へ、そう、ローゼンディア人が経営している宿屋か料亭がいい。この町なら簡単に見つかるだろう。
アイオナはダーシュとは反対側に歩き出し、通りへと出た。
どうせなら一番大きな店にしよう。お金はあるのだ。
今まで砂と汗と、蠍避けのジャヌハにまみれて旅をしてきたのだ。少しくらいいい思いをしたって罰は当たらないと思う。
何だかまだ泣きたいような気持ちだったが、泣いたらお終いだと思ったので我慢することにした。
結局大通りまで出てきてしまった。立派な宿屋や料亭というと、どうしてもこの通りに面した店になってしまう。町の正門から港にまで通じる大通りだ。
大きな宿屋の前に立った。
「お嬢さん」
「わあ!」
素っ頓狂な声を上げてしまっても仕方ないと思う。何せいきなり真横にヒスメネスが立っていたのだ。
「そんなに驚かないで下さい」
「驚くわよ! なんであなたがここに居るの!」
「店先です。大声は出さないように」
ヒスメネスの態度はいつも通りだった。そのまま店の外側にある、通りに面した席へとアイオナを誘うと、註文聞きの少年に茶と軽食とを注文した。実に手際がいい。
ちょうど朝食時ということもあり、他にも食事を摂ったり休憩したりしている人たちが、周囲の席に陣取っている。
商談をしている者まで居る。アウラシール語で砂糖の値段を言い合っていた。
「無事にディブロスに辿り着けて何よりです。心配しましたよ」
「質問に答えていないわ。あなたなんでここに居るのよ」
「先回りしたんですよ」
何でもないようにヒスメネスは答えた。
「お嬢さんたちにそれほど選択肢はありませんでしたしね。ダーシュの人柄から考えて、まずディブロスに向かうだろうと思っていました」
「いったい、あなたの頭はどうなっているの?」
すべて見通していたということか。アイオナは驚き、かつ呆れた。
「どうもなっていません。普通です」
「いえ絶対に普通じゃないわ」
アイオナは首を振った。註文取りをした少年が、盆の上に食べ物や茶を載せて現れた。
「すオません。註文の食べ物持てきますタ」
詰まったような物言いである。強勢の置き方や耳当たりからの判断だが、言葉の訛はアウラシール語ではないかと思った。
少年はウナとマナナイ、野菜の和え物、豆のスープ、鶏肉の蒸し焼き、香草茶と氷砂糖を手早く並べ、ヒスメネスから銀貨を受け取ると、客の間をすり抜けるようにして店の中へと戻っていった。
「ところでそちらのお嬢さんは?」
「彼女はスィサ。これからわたしが面倒を見るの」
スィサにも解るようにアイオナはイデラ語でヒスメネスにそう言った。
「そうですか」
ヒスメネスもイデラ語で答え、頷いてスィサを見た。
「旦那様にお預けになるのが良いと思います」
「わたしもそう考えていたのよ。この子はいい商人になる素質があるわ」
「よろしくね。私はヒスメネス。メルサリス商会で働く使用人です」
使用人と言えるほど下っ端ではないのだが、雇われていることに変わりはないのでアイオナは訂正をしなかった。
「あたしはスィサと言います。奥さ……あの、助けていただきました」
「うん」
ヒスメネスは優しく微笑んでスィサの頭を撫でてやった。
説明と言えるような言葉はほとんど交わしていなかったが、おそらくヒスメネスには大体の事情が理解出来ているのだろうと思えた。
だからアイオナも何も言わなかった。落ち着いたら、ゆっくりと事情を説明すればいい。そう思った。
運ばれてきたウナを手に取り、千切ってから、そこに野菜のマナナイを匙で掬って軽く盛った。
綺麗に四色に分けられた野菜のマナナイは、どれも煮崩れた果物の砂糖煮か、やはり煮崩れた何かの煮物のようになっているが、甘いものは一つも無い。
マナナイを知ってから暫くは、これは主食となるウナの付け合わせなのだとアイオナは思っていたが、どうも主食はマナナイの方らしい。初めて見た時はこれは何なのかと思ったものだった。
味は美味くも不味くもなかった。少し塩が強く感じた。アイオナは薄味が好みだ。
アルサム油に甘みがあるから、熟したアルサムから採れた油だろう。もっと若い油の方がいいのではないかと思った。
香辛料には特に気を惹く点はなかった。普通に使ってある感じだ。
昨日ケッサラで食べた物の方が美味いし、無論アンケヌの屋敷で食べていた物とは比ぶべくもない。店構えの立派さにしては大したことはないなと感じた。
多分料理人にはあんまりやる気はないと察せられた。
だが、まあ及第点の味とは言える。
「まともな食べ物にありつけるのは久しぶりでしょう」
ヒスメネスはそう言ったが、そうでもない。昨日の昼に美味しい食事を口にしているのだ。
「ケッサラでいただいたわ」
「そうでしたか」
ヒスメネスは上品に香草茶を飲んでいたが、アイオナとスィサはがつがつと食事をした。
別れの後でも腹は減る。昨日の夜は休憩場所の岩陰で分けてもらったウナと香草茶しか口にしていない。普段決して大食いではないが、この分だとヒスメネスの分まで平らげてしまいそうだった。
「これからどうなさるおつもりですか?」
「そうねえ。いったん父様の許に帰るわ。その方が安全でしょう」
「ええ。私もそれがいいと思います」
ヒスメネスは同意した。
アイオナは少し考えたが、旅の道中疑問に思っていたことを聞いてみることにした。
「あなたどうしてダーシュを切り捨てたの?」
裏切った、という言葉は使いたくなかった。ヒスメネスを責めているようだし、彼とダーシュとの間に何らかの契約があったとは思えないからだ。もし契約があったならヒスメネスは裏切らない。そういうことはしない人だと思う。
「あの状況ではザハトと結んだ方が安全だったからですよ。実際、他の選択肢はどれも危険過ぎました」
「あなたが言うなら、そうなのでしょうね……」
残念だった。だが仕方のないことでもある。
ヒスメネスの護るべきはまず彼自身であり、店であり、そして多分、アイオナなのだ。
頭の良い彼が熟考した末に出した結論がそれならば、文句を言うことは出来ないと思った。
「ケザシュと手を組んだのよね?」
「彼に会いましたか?」
「ええ。私たちを助けるよう彼に命じたのでしょう?」
「ええ。それくらいしかしてあげられませんでしたから」
「ありがとう。ひょっとしたらわたしの知らないところで彼には世話になっているかも知れないわ」
「お役に立てたなら何よりです」
「ダーシュは嫌っていたけどね」
「そうでしょうね」
アイオナとヒスメネスは苦笑を交わした。
「あなたはこれからどうするの?」
「アンケヌに戻りますよ。仕事が待っていますから」
「……そう。じゃあここでお別れね」
折角出会えたのに、ヒスメネスとも別れなければならないのか。そう思うとアイオナはとても寂しかった。
「私はお嬢さんの無事を確認しに来ただけですから」
「人が好いのね」
「その商品は店の取り扱い品目の中にはありませんね」
真面目な顔でヒスメネスは答えた。彼らしい冗談だと思ったが笑ってしまった。少し涙が出てしまうほどに。
「いろいろなことがあり過ぎました。旦那様の所で暫くお休みになられるのが良いでしょう」
「ええ。ありがとう。ヒスメネス」
通りの方から騒めきが拡がってきた。遠くの方に人集りが出来ているようだ。
「何かしら?」
並びの席に坐っている客の中にも、立ち上がって様子を見に行く者が出始めた。
どうも何かが起こったらしかった。槍と鎧の燦めきが見える。ディブロスの兵が先導をして、野次馬を寄せないようにしているのだ。
「何か揉め事があったようですね」
胸騒ぎがした。
「……ちょっと見てくるわ」
「お嬢さん」
ヒスメネスがはっきりとした声で呼びかけた。
「およしさない。争い事だった場合、巻き込まれないとも限りませんよ」
「ええ。でも気になるの。スィサをお願い」
アイオナは立ち上がって人混みの方に向かった。
*
思っていたよりも別れは重くのし掛かってきた。
最初からこうなることは解った上での契約だったはずだ。なのにこの喪失感は何故だろう。
駱駝を引きながら、ダーシュは石畳の上を歩いていた。気が付くと市場に出ていた。知らない内に人恋しくなっていたのかも知れない。
特に何か買うつもりは無かったが市場に足を踏み入れた。
まだ朝だったが、人の数は多く、買い物に来ている人々でごった返していた。
果物を並べている店の前で足が止まった。黒い髪の娘がイムールや葡萄、西瓜などを売っている。
イムールはローゼンディアではエミュルと呼ばれている桃に似た果物だ。
皮は赤く、皮ごと食べられるが、この皮の部分に酸味があるので、皮ごと食べる人とそうでない人がいる。これは好みの問題である。
果肉は瑞々しく甘い。古くから人気があり、一般的な果物だと言える。生でも砂糖漬けでも食べられる。
その他にダーシュの知らない果物も多い。ローゼンディアの海洋商人が船で運んでくる物だろう。
「富めるローゼンディア」という言葉がある。本当だなと思った。
果物よりも娘の姿を見ている自分に気付いた。黒い髪、アイオナと同じだと思った。
頭を振って歩き出そうとした。
「お客さん! 何か買っていかない?」
ローゼンディア語で呼びかけられた。娘は明るい笑顔で、ダーシュの見たことのない果物を一房手に提げている。葡萄に似ているが少し違う。
「……そうだな。そちらの林檎を貰おうか」
ダーシュは林檎を指差した。アウラシールではまず手に入らない果物だ。
ザナカンダに行けば山の方で採れると言うが、当然値は張る。
おそらくここでも高い買い物になるだろうが、どうせ食べるならそれくらいのものを食べたい。そんな気分だった。
懐から銀貨を取り出して娘に渡した。代わりに林檎を四つ渡された。
「毎度あり!」
己は何をやっているのだろうか。
苦笑しながら林檎を両手に抱えた時、嫌な気配を背後に感じた。
咄嗟に振り向いた。短剣を持った男が突きかかってくるところだった。
ダーシュは男に林檎を投げつけるように放り出した。ばらばらと林檎が男の肩や額に当たるが、全く怯む様子はない。
素速く剣を抜こうとしたがその時にはもう男が懐に入ってきていた。
短剣が突き出される。
周囲から悲鳴が聞こえる。
ダーシュは大きく身を捻って短剣を躱したが、男の方もすぐに突きから払いへと攻撃を変えてきた。
右腕に軽い衝撃が走った。短剣が擦ったのだ。早くも男とダーシュを囲んで大きな人混みの輪が出来ており、距離を取れるだけの余裕があった。
ダーシュは数歩離れたところで剣を抜いた。男は攻撃をしてこない。じっとダーシュを見ている。
男はアウラシール人だ。若い。何者だろうか? だがすぐに思い当たる相手があることに気付いた。
右腕が痺れる。石畳上に血がぽたぽたと落ちる音がする。
再び嫌な予感がして、ダーシュは右腕の傷口に目をやった。男から目を離すのは自殺行為だと判っていたが、そうせずにはいられなかった。
――毒!
右腕の傷口には黒緑色の何かが付着している。服の袖にも一部付いている。
ダーシュは剣を落として傷口に吸い付いた。毒を吸い出さなければ。痛みなどに構っていられない。
男は攻撃をしてこない。人混みを掻き分けて足早に去っていく。
もう攻撃する必要は無いのだと言わんばかりだ。
――油断した。
吸える限りの毒を吸い出すと、ダーシュは服を裂いて右腕の付け根を縛った。どのくらいで効いてくるか? どんな毒なのか? まるで見当が付かない。
――あとは俺の体力次第か……。
投げ遣りになるわけではなかったが、このまま毒に倒れても仕方ないかと思った。
ただ――。
この場にアイオナが居なくて良かった。
居たらきっと大騒ぎになるだろう。いや、すでに騒ぎになっているか……。
自嘲的にそう思った。
体が痺れてきた。寒気がする。かなりの量を吸い出したつもりだったが、なかなか仕太い毒のようだ。目の前が暗くなってきた。
「誰か……医者を呼んでくれないか?」
イデラ語が口を衝いて出た。ダーシュを見ている人たちは不思議そうな顔をしている。
周囲は騒がしい。刃傷沙汰があったのだから当たり前だが、人々の交わす言葉が耳慣れないものだった。
そうか。ここはローゼンディアだったな。イデラ語では通じないか……。
ローゼンディア語で言わなければな。
ぼんやりとそう思っていると、急に左肩を掴まれた。
「医者を呼んだわ。何があったの?」
すぐ横にアイオナの顔があった。
「……アイオナ?」
「そうよ。暗殺者に襲われたのね?」
呑み込みが早いと思った。やはりこの女は頭がいい。話が楽で助かる。
しかしこんな姿を見られたのはまずかった。大騒ぎをされてしまいそうだ。
けれどアイオナは取り乱さなかった。
「毒……だ」
「ええ。見れば判るわ。毒の種類が判るようなものは残っている?」
「服の、袖に……」
自分の呼吸が荒くなっていることに気付いて驚いた。
「今からあなたを運ぶから、もう少し我慢してね」
甲冑を着た兵士が二人やって来て左右から体を担ぎ上げられた。
体が浮き上がると急速に意識が遠退いた。




