第二十一章 招かれざる客
ごく普通の香草茶と蜂蜜、氷砂糖、それと菓子までが出てきた。
お茶が冷めるのはもったいなかったが、とにかくまず先にスィサの入浴と傷の手当てをしなければならない。ダーシュを部屋から出すついでに接骨医を呼びに行かせた。
その間にアイオナがスィサの体を洗ってやった。
傷に滲みないように注意深く洗ったがそれでも時折痛そうな様子を見せていた。
スィサの体は思った以上に肉が固く、しかもかなり痩せていた。
ろくな食べ物を与えずに肉体労働で酷使された体だ。怒りと悲しみがふつふつと込み上げてきたが、それを表に出さないように手早く入浴を済ませた。
体を拭いて、少し大きいがアイオナの持ってきた衣服を着せてやると、ちょうどダーシュが接骨医を連れて戻ってきた。
接骨医はがっしりした体つきをした白髪交じりの男性で、見た感じ簡単にスィサを診察したが、腕は良さそうだった。手足や体の打ち身をよく観察し、口を開けさせて覗き込み、それから頭を強く打っていないか、胸が息苦しいかどうかなどを聞いた。
軟膏を塗り込み、上手に包帯を巻くと、安くはないが高くもない料金をアイオナから受け取った。
そして「後日急に具合が悪くなったりしたら諦めろ」と恐ろしい言葉を残して帰っていった。
ダーシュの話によるとこのオアシスでは最も有名な接骨医だという話だった。
最後の言葉が気になるが、そうした場合はどうしようもないので、そんな事態が起きないことを願った。
打撲が翌日、または数日後の急死を引き起こすことはままあることなのだ。そしてそれは防ぎようがない。
お茶の風味を犠牲にしてまで先延ばしをしたからか、軽食の方は見た目以上に豪華に感じた。
出てきた物はウナと付け合わせの野菜、そしてマナナイだった。
蜂蜜をかけた豆菓子に、ピコラテのパラモナ、果物を使った蒸し菓子まで用意してある。
アイオナの経験上だが、アウラシールでは蒸した料理を見たことがない。蒸すという発想自体が無いかのようで、それがここに来て蒸し菓子である。正直驚いた。
元々、蒸し物はローゼンディアでもトラケス地方の料理法であり、蒸し菓子もトラケス地方やイオルテス地方で見られるものだ。まさかアウラシールの宿屋で蒸し菓子が食べられるとは思っていなかった。
一方パラモナはアウラシールではファラモナという。ローゼンディアやアウラシールではごく一般的な菓子である。
小麦粉や胡麻などの穀物や果物をすり潰し、バターやアルサム油などを加えて練り、砂糖や薔薇水を加えて固めたもので、香辛料で風味付けをすることもある。
今用意されたのはピコラテという豆を使った物である。なめらかな風味がある緑色の豆で、よく菓子や料理に使われる。
パラモナは非常に古くから存在する菓子であり、古代ナーラキアの文献にも登場する。
付け合わせの野菜は大雑把に擂り潰してあり、塩と香辛料、アルサム油で和えてあった。
何だかマナナイのようだが、だったらもっと細く、液体のようになっているはずだと思った。しかしこれもマナナイの一種かも知れない。
そしてダーシュ期待のマナナイはと言うと、やはりマナナイらしい形で出てきた。
何種類かが丸皿に分けて盛り付けられているため、まるで皿自体が赤、黄色、緑、そして薄紫の四色に塗り分けられたもののように見えるのだ。それぞれが羊肉、豆、チーズと香草、茄子を原料にしたものだった。
これをウナに塗り付けたり、ウナの中を開いて挟むようにしたりして食べるのだ。
アンケヌの屋敷で雇っていたハヌサは本当に腕が良く、食事の度に作ってくれたものだが、塩と香辛料の塩梅などは絶対に教えてくれなかった。
マナナイを見たダーシュは嬉しそうに顔を綻ばせた。余程食べたかったのだろう。
「あなたも一緒にどうかしら?」
アイオナが誘うと、スィサはびっくりしたように首を激しく振った。
「滅相もないです!」
これもまた予想出来た反応だったが、アイオナはそのままにしておくつもりはなかった。
「いいのよ。みんなで一緒に食べた方が美味しいでしょう? ここに来て卓に着きなさい」
「でも……」
窺うようにダーシュの方に目を向けている。どうやら奴隷の自分が、主人たちと同じ卓に着いていいものかどうか迷っているようだった。
「俺のことなら気にしないでいいぞ」
ダーシュがスィサに声を掛けた。
「俺はお前のことを奴隷だとは思っていない。だからここに来て卓に着け。折角のマナナイが不味くなる前にな」
実に旨そうにマナナイをウナに包み、食べている。
いつもどおり上品な手付きだ。こういう所でやはり出自の良さが出てしまうなとアイオナは感じた。
そしてそんなダーシュの様子を好ましいと思った。スィサに気を遣っているのだ。
手許を見ると、いつの間にやらダーシュは自分のクポラを出している。あの地下通路でアイオナに水を飲ませてくれた物だ。
アンケヌを出てから彼はずっとこれを使っていて、水も香草茶もこれで飲んでいた。今もクポラに自分でお茶を注いでいる。
そうか。スィサが持ってきたお茶一式には器が二人分しかないからだ、と気付いた時、アイオナは可笑しさが込み上げてきた。この男なりに少女に気を遣っているのだ。
滑稽な気の遣い方だと思った。
だけど好ましい。
「ディブロスに着いたら自由民にしてやるから心配するな。あとはお前の好きにすればいい」
更に安心させるために言ったであろうダーシュの言葉は、意外にもスィサの顔を暗くしてしまった。
ディブロスに着いたら用無し、お払い箱にされると受け取ったようだった。
もちろん、そんなつもりは無い。そんな意味でダーシュは言ったのではない。
スィサの表情の変化を見て、ダーシュは戸惑っているようだった。ウナを右手に持ったまま、救いを求めるようにアイオナに目を向けてきた。
「勘違いしないでね。あなたを追い出そうっていうわけじゃないのよ。あなたさえ良ければ、ずっとわたしの傍に居てもいいわ」
素速くアイオナは取り成した。スィサの表情が明るくなる。
「解ったら早く卓に着け」
急っつくようにダーシュが言った。
*
食後、予定通りダーシュとアイオナは今後の相談を始めた。ディブロスは目の前とはいえ、まだ到着したわけではない。
油断は出来ないのだ。
ただ地下通路を抜けたお蔭で時間を少し節約できたのは判った。
本当ならこのままディブロスまで駱駝を飛ばすべきなのかも知れない。
しかし居心地の良い宿と、予想外のスィサとの出会いなどがあって、二人はすぐに出発する気にはなれなかった。それが油断であるとは、自覚していたが。
スィサは買い物に行かせた。一度卓に着くと、それこそ流しこむように食べ始めたが、アイオナもダーシュも作法や何かを口にする気は全く起きなかった。そんなことを気に出来る環境で生きてきた子ではないと解っていたからだ。
特に揚げた胡桃に蜂蜜と香辛料をかけた菓子、卵と果物を使った蒸し菓子は、スィサにとって初めて口にする味だったのだろう。美味しさも感動も通り越して、ただ味に驚愕している様子だった。
彼女が十分満足に食べてから、食後の運動がてらに買い物を頼んだ。果物と、そして入浴用の糸瓜と香水を頼んだが、それがアイオナが頼んだ分だった。
垢擦りとアルサム油、ダルメキアの石鹸はこの宿屋にあったが、アイオナは糸瓜がないのは不満だったし、入浴するなら香水は絶対に必要だった。
「俺も買い物を頼みたいが構わんか?」
「はい!」
スィサの返事は元気がよい。仕事を命じられることが嬉しいようだ。
おそらくあの悪逆な男から助け出されたことを恩に感じているのだろうが、こうはっきりと好意を示されると、思わず口許が綻んでしまう。
「頭布を三本買ってきてくれ。黒い布のやつだぞ。それと土笛三つと、あとお前が着られるような白い長服を買ってくるんだ。今着ているのだと大きすぎるからな」
どういうわけかダーシュはそんな物を買ってくるように指示した。
スィサはとても物覚えの良い子供で、アイオナとダーシュが指示する内容を一度で憶えてしまい、二人を驚かせた。
「良い召使いを雇ったな」
ダーシュは感心したように唸り、アイオナを喜ばせた。
こういう言葉の端々に、ダーシュがスィサをどう考えているかが表れてくる。奴隷だとは思っていないことがアイオナには嬉しかった。
スィサが行ってしまうと、アイオナは風呂の様子を改めて確かめた。
個人的な感想を言わせて貰えばかなり狭いが、使う分には問題ない程度の広さがある。
実際、洗い場もあるし全く問題はない。問題はむしろ時間的な余裕がないことだった。
しかし浴槽に浸かりたいのだ。ゆったりと、背を伸ばして息を吐きたい。とても。
「のんびり風呂に入っている時間は無いぞ」
ダーシュは嫌味を言ったが、目の前に風呂を用意されて黙って見過ごせる者はローゼンディア人ではない。
アイオナとしては、自分はローゼンディア人だとの自覚があるので当然無視しない。
「今夜宿泊出来るかも判らないというのに……」
ダーシュはぶつぶつ言ったが、別に宿泊をしないでも風呂で生き返ることは出来る。
この数日、垢と砂埃にまみれてきたのだ。ここらで綺麗にしておきたい。
「ディブロスに着けばいくらでも風呂に入れるだろう」
「それはそれ、これはこれよ」
納得しきれない様子ではあったが、ダーシュは強く反対はしなかった。
「あなたも体くらい拭いたら?」
善意から言ったのだが、ダーシュは先程の会話を思い出したのだろう。嫌そうに首を振った。
「それとも臭うか?」
少し心配そうに聞いてくる辺りが可愛らしい。しかしこういうことで揶揄っても何の意味も無いのでアイオナはきちんと答えた。
「臭うかどうかではなくて気分的なものよ。あなたもさっぱりしたいでしょう?」
「そうだな……では後で時間があったら体を拭くことにする」
「それがいいわ」
アイオナとダーシュは卓に向き合って坐った。
別に追い払うためにスィサを買い物に行かせたわけではないが、やはり二人きりの方が何でも話せる分、気楽ではある。
アイオナは茶のお代わりを注ぎ、ダーシュに勧めた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「よく気の付く妻を得て、俺は幸せだ」
「それは皮肉かしら?」
「いやいや、妻に対する本心からの感謝の言葉さ」
「そう。素直になってくれて嬉しいわ」
どうにも疑わしさを感じるが、案外とダーシュは本心から言っているのかも知れない。
屋敷での日々や、ここ数日の逃避行で始終顔を突き合わせている内に、この男についてはついつい穿った見方をしてしまう。
あまり意地悪く捉えるのも悪いかと思い、アイオナは何も言わないことにして、本題に入った。
「さてと、これからどうするかしらね……」
旅の連れが一人増えてしまった。
「いや、これはむしろ都合がよいことかも知れんぞ」
「何か考えがあるのね?」
「ああ、おそらく向こうは俺たちを二人連れの夫婦者だと思っているだろうからな」
なるほどと思った。
「それで、どういう風に化けるつもり?」
わくわくしながらアイオナは尋ねた。スィサに買いに行かせた頭布や、長服をどう使うのかとても興味があった。変装以外に考えられないではないか。
ところがダーシュの返事は意外なものだった。
「焦るな。それになんだ。化けるというのは?」
「見つからないように変装するんでしょ?」
嬉々としたアイオナの言葉に、ダーシュは何とも情けない顔をした。
「お前な……芝居の見過ぎじゃないのか?」
「そんなに見てないわよ」
むっとして言い返すと、ダーシュが疑わしげに聞いてきた。
「どのくらい見ていたんだ?」
「……興行があれば、必ず……」
しまったと思いつつ、かといって嘘を答えるわけにもいかないので、アイオナは口の中で呟くようにして答えた。
ダーシュは大袈裟な溜息を吐いた。
「なによ」
「いや……別に何も」
「だったら疲れたように首を振るのを止めてくれるかしら?」
「すまんな。本当に疲れたんでな。俺の肩に砂漠の悪鬼が跳び乗ったようだ」
「ふーん。わたしには見えないけれど」
「芝居の見過ぎで目がどうにかなったんじゃないか?」
「うるさいわね。好きなものは好きなんだから仕方ないじゃない」
「まあ……な。アンケヌは砂漠の真ん中だ。外国人が楽しめるものと言えば限られてるし、お前がどれだけ芝居に入れ揚げようが俺の知ったことではない」
「なら――」
文句を言わないでよ、そう言おうとしたが、ダーシュが口許に掌を突き出すようにして発言を遮ってきた。
「俺が困るのはな、今の俺たちの現実を芝居と混同されることだ。ザハトの追っ手はおそらく俺たちを殺す気で来る。芝居だったら剣で切られても、赤い布を散らして済むだろうが、そうはいかない。本当に生命の危険がある」
「言われなくても解ってるわよ」
「そう願いたいな」
「解ったわよ。それで……実際のところあなたはどう考えているの?」
「俺の考えは二つある」
ダーシュは指を二本立てて言った。
「現実的な方から聞きましょうか」
当て付けるようにアイオナが言うと、ダーシュはおもしろげに口許に笑みを浮かべた。
「一つめは三人でどこかの隊商に潜り込むことだ。俺とお前が夫婦連れになり、スィサはその召使い。これなら全く無理が無い」
「けれどザハトの追っ手が、夫婦連れに網をかけて探している場合、見つかりやすくなるわけね?」
「その通りだ。だがこっちは一人増えているから網を逃れやすくなってはいるだろう」
「問題は隊商を捜せるかどうかということね?」
「そういうことだ」
ダーシュは頷いた。
砂漠に限らず旅行者は普通、隊商を組む。
そもそも隊商を組んでいてさえ襲われるのに、一人旅など襲ってくれと言っているようなものだからだ。
だから隊商は必ず武装しているし、護衛も連れている。
それだけ危険なのだから当たり前だが、大体は一族や一つの商店だけで隊商を作ることになる。
人選には慎重になるし、気心の知れない者や、信用の置けない者を隊商に加えることはない。当然のことである。
誰でも隊商を編制する時にはじっくりと時間を掛けるのが普通だ。
つまりいきなり顔を出して同道を願い出ても、はいそうですかと参加を許してくれるとは考えづらい。
そこでそうした旅行者向けに寄せ集めの隊商を仕立てる者達がいる。
いわば隊商業というわけだ。小規模な商売人や、個人旅行者などがこうした隊商を利用する。
基本的には誰でも参加できるが、やはり良し悪しがあり、信用度の問題もある。
良いとは言えぬまでも、旅の安全を確保できる程度には、まともな業者が多いはずだが、中には性質の悪い者もいると聞く。
最悪の場合、隊商業が町を出て数日後に盗賊業に変じるなんていう事さえある。
だから前もって情報が必要なわけだし、やはりそうした場合は同国人という単位が、候補の基本になる。
ダーシュが言っているのはそういうことだった。
たとえディブロスがいかに近くても、砂漠に出れば何が起こるかわからない。
できる事なら信用のおける、まともな隊商に参加したいわけであった。
「そこでお前の出番というわけだ。ローゼンディア人の隊商を捜し出して、お前の人脈で潜り込む」
「そう簡単にいくかしら?」
アイオナは首を捻った。もし自分が隊商の統率者だったとしたらどうだろうかと考えたのである。
いきなり尋ねてきた三人組を、入れるだろうか?
一人は若い砂漠の戦士。美形で品の良さもあるが、それだけに正体不明。
もう一人は飾り気も何もない恰好をしたローゼンディア人の女。
最後はアウラシール人の少女。顔に殴られた痣がある。
怪しいと思う。この三人が一緒に居るというそのこと自体が、すでに限りなく怪しい。
「……無理じゃないかしら」
「なんだ、その諦めたような目は」
「遣る前から結果が見えているもの。あなたが隊商を率いていたら、わたしたちみたいな三人組を入れるかしら?」
「交渉次第だな」
「太っ腹ね」
今度はアイオナが溜息を吐いた。
「確かに交渉には充分なだけの持ち合わせが有るわよ。けれど充分過ぎて隊商の目の色を変えてしまうかも知れないわ」
「隊商変じて夜盗になる、というやつか」
「それだけの魅力はあると思うけれど」
アイオナは内懐を叩いて見せた。そこには例の宝石袋がある。
「俺は何も宝石で交渉しろとは言っていない。お前の人脈で潜り込もうと言ったんだ」
「メルサリスの名前を出すの?」
危険ではないだろうか? 追っ手に手掛かりを与えることになる。
逃避行の間は、あくまで偽名で通すべきではないだろうか。
「ああ、だがここはもうディブロスとは目と鼻の先だ。追っ手の連中がメルサリスの名前を聞き出したとしても、その時には俺たちはディブロスの門を潜っているさ」
「たしかにそうね」
あと半日の距離だ。ケッサラに証拠を残したところで、それほど問題にはならないかも知れない。
「けど隊商の歩みがひどく遅かったらどうするの?」
それなら結局、道の途上で追いつかれてしまう虞がある。
「その時には隊商を置いて先に進む。俺達には時間が最大の敵だからな」
それでアイオナには全て解った。
つまり交渉の段階でそこまで話を纏めてしまうということだ。
いわば隊商はケッサラを出るまでの隠れ蓑、そういうことで交渉する。
隊商を伴わずに三人だけで砂漠に出るなど危険すぎるし、ディブロスが近いという事で隊商がのんびりしすぎていたら置いていく。
ケッサラにも当然盗賊やそれに類する住人が居るわけで、そういう連中の目に止まることは何としても避けなければならない。三人きりでオアシスを発ったら獲物にしてくれと言うようなものだ。だからなんであれ隊商に参加する必要がある。
ダーシュは大丈夫だと言っていたが、現にここに来るまでに盗賊に襲われている。
予想外の結果が起きているわけだ。
だからここに来て隊商と言いだしたのは、ダーシュもその事を重く鑑ての事だろう。
参加するべき隊商は、同じローゼンディア商人なら問題はない。メルサリスの名前には信用がある。それは胸を張って言える。
アンケヌで政変があったことはおそらく、どの商人も知っているだろう。なんであれ商人は耳が早くなくてはやっていけない。
となれば、アイオナがディブロスに避難するということにも相手は納得するはずだ。
「あなたの言いたいことは解ったわ」
「では早速行動するとしよう」
「ちょっと待ってよ。このオアシスにそう都合よくローゼンディア商人が居るかしら?」
「捜せば一人ぐらいは居るだろう」
「そうね。隊商なら大きな宿を取っているはずだし」
「それはここと、道向こうの宿くらいしかない」
「大して時間もかからないってわけね」
自嘲的にアイオナは言った。捜す手間も少ない分、それは見付かる見込みの少なさを示してもいるのだ。
「ああ、他にもあるかもしれんが、そこまで当たっている時間はおそらく無いだろう」
このケッサラ中を歩き回って、ローゼンディア商人を捜すゆとりは無いということだった。
「じゃあ、もし見つからなかったら?」
隊商というのは余り見込みのない考えだと思ったのでアイオナが尋ねると、ダーシュは急に何とも苦い顔をした。
「二つめの考えを聞かせてよ」
その様を不思議に思いつつアイオナが問うと、ダーシュは具合が悪そうに目を外らした。
「……後でな」
話を切り上げようとしている。アイオナは何か引っかかるものを感じた。
「なによ、隠すことないでしょう? それともわたしが信用出来ないの?」
「そうじゃない」
「なら言いなさいよ」
しつこく食い下がると、渋々といった様子でダーシュは呟いた。
「……お前が男に化ける」
予想外の返答だった。あまりに予想外だったのでアイオナは怒りを忘れた。
「俺たちは連れ合いのダビール戦士ということになるな。問題はスィサだが……」
何事もなかったようにダーシュは考え込んでいる。いや、考え込んでいるような顔をしている。
束の間アイオナはダーシュの顔を見つめたが、やがてすぐに怒りが込み上げてきた。
やっぱりあの買い物は変装用の道具だったに違いない。二つめの場合に備えて買いに行かせたのだ。
「勘違いするなよ。俺が言っているのは芝居とは全く違った意味でだな……」
機先を制するように掲げられたダーシュの掌を見て、その指に噛みついてやろうかと思った。
「ええ、どう違うのか聞かせてもらおうかしら!」
「大きな声を出すな」
必死に宥めようとするダーシュを見ていると、複雑な気持ちになる。
確かに腹は立っている。だが怒る反面、頭のどこかでは「これを何かに利用出来ないかしら?」と考えてもいる。熟々自分は商人なのだなと思った。
そしてそう考えてしまうと怒りは収まっていった。
一息吸い込むと、アイオナはぴしりと人差し指を立てた。
「いいこと? 一つ、貸しよ」
「ああ、判った」
威に押されてダーシュが頷いた。
「それでわたしたちは二人連れの戦士に化けるとして、スィサはどうするの? あの子にも役者の真似をさせるの?」
一言嫌味を加えてやると、ダーシュはとても嫌そうな顔をした。見ていてなかなか気分がいい。
「そうね……どこかのお嬢様ということにしたらどうかしら?」
「それは駄目だ。無理がある」
ダーシュは首を振った。スィサを見下げて言っているわけではないと解っていたので、アイオナは嫌な気持ちにはならなかった。
「お嬢様が顔に傷を作っているのは無理があるし、スィサは人に仕えることに慣れ過ぎている。いきなりお嬢様扱いをしても無理が出るだけだ」
「そうね」
「俺たちの召使いということにしたいところだが……」
「戦士二人連れが召使いを連れているというのも無理があるわね」
「ああ、スィサも共連れの見習いに変装をさせるという手もあるが、やはり無理があるだろう」
「あの子は上手くやりおおせると思うけれど」
「ああ、頭の良い娘だ。変装したとしてもそう簡単には暴露まいが、問題は何に化けるかだ。そこに無理があると……危ないだろうな」
「どちらにしても変装自体が冒険だものね」
「そうだ」
ダーシュは頷いた。アイオナとしても最初の案の方が優れているのは理解出来る。
もちろん、変装の方がおもしろいが、おもしろさに生命を賭ける気にはなれない。
戦神の末裔ではあるまいし、危機的状況を楽しむ趣味は、自分にはない。
「解ったわ。わたしローゼンディア商人を捜してみる」
「すまないな」
「何を言ってるのよ。わたしたち――」
アイオナは笑い飛ばそうとして、次の言葉が言い出せなかった。
――夫婦じゃないの。
そう言うはずだった。けれど恥ずかしくて言い出せない。
どうしたものかと少し悩んで、それからダーシュの顔を窺った。
アイオナが途中で言葉を切ったのに気にならぬらしい。まるで興味が無いとばかりに素知らぬ顔をして香草茶を飲んでいる。
何も聞いてくる様子が無い。
助かったと思った。このままなかったことにしよう。
急に会話が途切れたことが不自然ではあったが、このまま黙ってやり過ごすのが一番いい。
ダーシュが話しかけてくるまで沈黙を貫くことにしようと思った。
取り敢えず茶で咽を潤そうと思って、アイオナも香草茶を口に運ぼうとした。
その時を捉えるようにしてダーシュが言った。
「……思ったよりも貸しを早く返せて俺は嬉しい」
たった一言だったが、アイオナをぎょっとさせるには充分だった。
危うく茶を溢しそうになってしまい、アイオナは慌てた。
その様子を楽しげにダーシュが見ている。
やっぱり解っていて黙っていたのだ。
悔しいが今回はダーシュに分があると認めよう。
アイオナは何だか遣り込められたような気分になった。
その後は二人してスィサが帰るのを待つことにした。
先に風呂を使ってから出掛けようと思ったのだ。ダーシュも文句は言わなかった。
「もうすぐ日が傾く。商人たちが動き出すのもその頃からだろう」
確かに昼日中、せっせと動いている商人はあまりいまい。
ここはローゼンディアではなくてアウラシールである。
夕方が仕事時間の中心なのだ。折角足を運んでも、昼寝でもされていては意味が無い。
そういうわけで香草茶を飲みながら待っていると、やがてスィサが階段を上がる音が聞こえてきた。
「ただいま戻りました」
「ごくろうさま」
笑顔で礼を言い、アイオナは品物を受け取って卓の上に並べた。受け取りながら果物の状態に目を配る。
どれもちゃんとしている。奇妙しな物は掴まされていなかった。糸瓜と石鹸にも問題は無い。
お釣りもそれなりの額が残っている。これは意外であった。
アウラシールでは物価は変動性がとても高い。
無論ローゼンディアでも物価はその時々の情勢によって変動するし、その意味では確たる定価は無いと言えるのであるが、アウラシールでは物価の変動傾向が遥かに大きい。
そもそも定価という観念自体がないのではないかと思える程だ。
だから買い物においては値段を基準にするのではなく、まず大まかな金額を頭で計上し、その範囲で必要な物を揃えるようにするのである。
出来る人間ほど、要するに交渉事に長けているとか、馴染みのお店が沢山あるとか、そういう人間ほど良い物が買えるし、買い物の必要経費も安くなる。
そして受け取った品物とお釣りから思うに、スィサは相当に出来る子だった。
「スィサ、それぞれの品が幾らだったか憶えているかしら?」
試みに尋ねてみると、スィサは淀みなくそれぞれの品の値段を言い、どこで幾ら支払ったかまでちゃんと答えた。
半ば予想していたことではあるがスィサは勘定が出来るのだ。一体どこで覚えたのか。
ダーシュは頭布を確かめ、土笛の具合を見ていたが、
「お前、どこで勘定の仕方を習ったんだ?」
興味を惹かれたのか尋ねると、何とスィサは誰にも習ったことは無いという。
自分で勘定の仕方を覚えたというのだ。それを聞いてアイオナの目が鋭くなった。
父に会わせようと思った。この娘は優秀だ。きちんと仕込めば優秀な商人になるかも知れない。
どのみち自由民になっても、彼女が自立出来るまでは手許に置くつもりだったわけだし、好都合だと思えた。その方がスィサのためにもなるだろう。
「あなた見込みがあるわ」
言ってやると、スィサは嬉しそうに顔を綻ばせた。それが何ともいじらしく感じて、思わずアイオナは抱き締めそうになったが、頭を撫でるだけにとどめた。
この先、しっかりと商売を教えるならば、あまり最初から甘くし過ぎてもいけないと思ったからだ。
アイオナの頭の中では、もはやスィサは『年少の弟子』とでも言うべき位置付けになっているのだった。
「あの、旦那様、奥さま」
「なんだ?」
「お二人にお会いしたいというお人がいらしております」
「ほう……」
ダーシュの目が細くなった。警戒の色を表している。
「そいつは下に居るのか?」
宿屋の一階は大きな食堂になっており、そこで食事を摂ったり休憩、待ち合わせなどが出来るようになっているのだ。
「はい」
「どういう奴だ? まさか買い物の途中で声を掛けられたのか?」
軽い口調で付け加えられたダーシュの言葉の後半は、おそらく冗談であろう。
何故ならそのためには元からアイオナとダーシュを跟けて来ているか、またはこのオアシスでアイオナたちに興味を持ったかのどちらかになるからだ。
このオアシスでならば、例の店先の一件、あの荒事を見ていた相手ということになるが、あの場には他の人間は居なかった。
あそこに居たのはアイオナとスィサ、ダーシュ、そして極悪のあの男だけだ。
となればアンケヌからここまで跟けてきた相手がいるのだろうか?
今までの道中でそんな追跡者があったとは思えない。追われているのは確かだが、そんな隠密じみた相手に……。
考えたところでアイオナは該当者に思い当たった。
――暗殺者。
ダーシュは確かにそう言った。しかし、すぐにその考えも打ち消された。暗殺者が堂々と連絡を取ってくるはずなど無いからだ。
――でも、普通の商人の振りなどして接触を図ってくるかも知れない。
無論そんなことはあるまいと思う。おそらく宿に出入りの商人か誰かが、何か売りつけに来たのだろう。
けれどアイオナはふと胸騒ぎを覚えた。
不安が膨らむ中、スィサの口を開いて出た言葉は驚くべきものだった。
「はい。お前の主人たちに会いたいと、そうおっしゃってます。お二人のことをよくご存じのようでした」
ダーシュの顔色が変わった。険しい顔になった。
考え込むように少し黙っていたが、何か思い当たることがあるのだろうか、スィサに問いかけた。
「それは、白い服を着た奴だったか?」
「いいえ黒紫色の長衣を着て、緑色の頭布を巻いた男の人です」
ダーシュの目が見開かれた。驚いているのだ。
これほどにはっきりと、驚きの色を顔に出すとはアイオナにとって意外だった。そういう男ではないと思っていたのだ。
いや、それともそれ程までに驚いたということなのか。
「……誰かしら?」
「ケザシュだ」
ダーシュは低く呟いた。
「以前言っていた人ね?」
「ああ、奴なら確かに急に現れても不思議はない」
「で、どうするの?」
「会うしかあるまい」
アイオナは咽を鳴らした。恐れはあったが、『魔道の徒』それがどういう人物なのかということへの興味が大きかった。
「その人は下に来ているのね?」
「はい、一階の卓でお待ちです」
「お前たちはここに居ろ」
予想通りのダーシュの言い種に、アイオナは強い不満を感じた。
「わたしも会う権利があるわ」
「その権利は認めよう。だが会わせるわけにはいかない」
「どうして?」
権利を認めると言ったではないか。
「あいつは尋常ではない。何を考えているかまるで判らぬし、俺はお前の身を守る責任がある」
「大丈夫よ。ここは人の出入りも多いし、何か企んでいたとしても大事にはならないわ」
「お前は奴の恐ろしさを知らない」
ダーシュは首を振った。
どうしても自分をケザシュに会わせるつもりはないらしい。ここで強く要求してもまず逆効果だろう。ダーシュは頑固者だ。
元々自分も頑固者であるだけに、アイオナはダーシュの気性を理解しているつもりだった。
だがアイオナとしてはどうしてもケザシュの姿を見ておきたかった。
多少気が咎めるが、ここは狡をさせてもらおう。
「そうね。じゃあこうしましょう。わたしたちはここで待っているわ。あなたは下でケザシュに会って、話を聞いてきてちょうだい」
アイオナがそう切り出した時だった。
「どうでもいいが、重要な物事は夫婦二人で決めるのがローゼンディア式ではなかったのか?」
陰気な声が聞こえた。目を向けると階段の所に見知らぬ男が立っている。
浅黒い肌をした、年齢不詳の男だった。
体格はよいとは言えないが、全身に何か、不気味な凄味のようなものが漂っている。
武器は身に付けていなかった。黒紫色の長衣を着て、緑色の頭布を巻いていた。
「ケザシュ……」
「久しぶりだな。ダーシュ」
「近づくな」
ダーシュは歩み寄ろうとしたケザシュを鋭く制止した。
「安心しろ。俺はお前たちに仇なすつもりは無い」
「ぬけぬけと!」
ダーシュの怒気はかなりの剣呑さを帯びていたが、ケザシュには一向堪えぬらしい。おもしろそうににやりと笑んだだけだった。
「そう言うな。事情が変わった。今の俺はザハトとは何の関係も無い」
アイオナはダーシュを窺った。表情は険しく、見るからに緊張している。
こう言っては怒るかも知れないが、おそらくダーシュは恐れを抱いている。それは魔道の力に対する畏怖なのだろう。
恐れおののくという程ではないにせよ、ケザシュに対してかなりの警戒感を持っているのではないか。その顔付きから、アイオナにはそれが容易に察せられた。
「それで? 貴様の所為で俺はゴーサの兵に追われることになった。今度はどんな災いを持ってきたのだ?」
「お前たちが逃げるのを手助けしてやろう」
「何?」
ダーシュは聞き返した。陰気な口調ではあるが、ケザシュの声は良く通る。まさかダーシュが聞き逃したと言うこともないだろう。だがダーシュは聞き返した。
「今、何と言った?」
「お前たちを逃がしてやろうと言ったのよ」
「……どういうつもりだ?」
「どうもこうもない。今の相方がそれを望んでいるのでな」
仕方がないと言った風な言い方だった。アイオナには意味がよく解らなかったが、ダーシュには解っているようだった。一瞬、何か複雑なものが彼の胸中を駆け抜けたらしい。ダーシュは乾いた声音でケザシュに尋ねた。
「ザハトは……?」
「奴は運がいい。今はアンケヌを纏めるのに大忙しといったところさ」
「そうか」
ダーシュは小さく頷いた。何故だろうか。アイオナはそこに安心しているような様子を感じた。
ザハトは、自分の生命を狙っている相手だというのに……。
「あいかわらず甘い男だな」
ケザシュが嘲るように笑った。擦れた息を吸い込むような、不吉な笑い方だった。
「時間が惜しいのでな。話をさせてもらうぞ」
そう前置いてケザシュは歩み寄ってきた。反射的にダーシュが腰に手を伸ばした。アイオナはその手を掴んだ。ここで剣を抜かせるわけにはいかない。
何故だと問うような瞳と目が合った。ダーシュの瞳に責める色はなかったが、アイオナはとても悪いことをしてしまったような気になった。
「今はこの人の話を聞きましょう。行動を決めるのはその後でも問題無いわ」
「なるほどローゼンディアの女は凄いな。よもや夫を諫止するとはな!」
おもしろそうに言ってケザシュは卓の前の椅子を引き、席に着いた。
「お前たちも坐ったらどうだ?」
良い機会だとアイオナは思った。ダーシュが何か言う前に急いで席に着いた。それを見たダーシュは目を剥きかけたが、すぐに憤然とした表情になり、諦めて席に着いた。
これで三人が卓を囲んだことになった。
「スィサ、何か飲み物と、菓子を貰ってきてくれるかしら」
「はい、奥さま」
これまでの緊張感からだろう、スィサは詰めていた息を小さく吐くと、急いで階段を下りていった。




