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偽装の結婚  作者: 琴乃つむぎ
第一部
20/64

第二十章 少女

 予想していたよりもケッサラのオアシスは大きかった。遠くからでもそれは判った。地に拡がる緑の量が多いからだ。

 ここまで来ればディブロスの町までは半日の距離になる。まだ気が早いと思いつつもアイオナは安堵した。

 以前訪れたときにも目を奪われたが、ケッサラを囲む壁は白く、つややかで、おそらくディブロスからもたらされた物だろうと思われた。

 この近隣の砂漠で取れた石だとは思えない。

 そもそも砂漠では石は貴重品だ。普通は建材として日干し煉瓦を用いる。ジルバラ地方などでは特にその傾向が強く、石は財力のあかしであり、贅沢品なのだ。

 だからこの壁のことをケッサラの人々も自慢にしているらしい。

 地下通路の出口のあった所からケッサラまでは近かった。

 駱駝で走っても二刻はかからない距離であり、これであの地下通路が見付けられていないとしたら、やはりドルム人の為だろうかと思った。

 二人はちょうど昼を過ぎた頃にケッサラのオアシスに到着した。

 宿は大通りに面した、一般客用のなるたけ高級そうな店を選んだ。

 寝心地はもちろんだが、それよりも信用を買いたかったからだ。荷物の安全や、駱駝の世話をしっかり確保しておきたかったのだ。

 もちろん地下通路での経験への反動があったのはアイオナも自覚していたし、ダーシュもそうだと思う。

 高い宿を取ると言ったときのダーシュの嬉しそうな顔は見物みものだった。

 ところが通りの西側の店にするか、東側の店にするかで、ダーシュと意見が異なった。

「わたしの目を信じなさい」

 アイオナはあくまで譲らなかった。こういうことなら、自分の得意領域だからだ。

 剣を振り回す力はなくても、商売柄多くの人を見ている。

 どの店が信用出来て、どの親父が信用ならないかなど、ほとんど一目で分かる自信がある。

「それは本当に当てになるのか?」

 うんざりしたようにダーシュは言った。

 普段は緊縮ひきしまった目許も情け無さそうに下がっている。

 どうやらまったくアイオナを信用していないようだった。

 不愉快だったが、結果を突きつけてやれば納得するだろう。

 絶大な自信があるがゆえに、アイオナは怒る気にもならなかった。

「信用出来るかどうかなんて、店構えと店主の顔を見れば判ることよ」

「俺にはその根拠がどうしてもわからん」

「経験が足りないのね。もっと人を良く見た方がいいわよ」

「それは皮肉か?」

「いいえ。夫に対する思い遣りに満ちた助言よ」

 父の言葉を思い出す。

 とにかく人のそうを見るべし。信用が置けるかどうかは相に現れる。外見ではない。相を見ることだ。

 そして隠しているか、それともくすんでいるかに注意しなさい。

 くすんでいる人間には良いことはない。その人は魂がよどんでいるか、でなければ悪いことを企んでいる。注意することだ。

 隠している人には敵意を持たれているか、警戒されているかだ。

 それはその人が自分の能力や技、心をお前に見せまいとしているからだ。

 敵意を持たれているなら理由を考えなさい。警戒されているならば、自分は敵ではないというあかしを見せればいい。

 これらを良く見極めなさい。

 おおむね、人間は一見で全てが知れる。知れないのは目が無いということだ。目を磨かなければならない。

 顔の造作や体格、服装などはどうでもいい。

 その人と出会った状況、その人がどういう人であるか、どれだけの力を持っているのかは相に現れる。

 上辺うわべ見窄みすぼらしさや、上辺の豪華さ、虚勢にだまされてはいけない。

 信用とはそういったものとは無縁なのだから。

 世の中の評価はどうでも良い。大切なのはアイオナ、お前がどう評価するかということだ……。

「だいたい、一目で判るものなのよ」

 父からの受け売りを口にしながらアイオナは、両方の店を順番に見に行った。

 そして軽く一瞥いちべつしただけで、アイオナは西側の店を選んだのだ。

 ダーシュにはそれが判らないのだった。

「西側の店の方が働いている人たちの相がいいわ」

 同じように繁盛はんじょうしているように見えても、宿の中は大違い、なんてこともあるのだ。

 恐いのはその『違い』を見抜ける客が少ない場合で、そんな時はこのように二軒の店が並立することになる。

「……これだけ違えば、普通もう少し客入りに差がつきそうなものよね」

「何を言っている?」

「素人は黙ってなさい」

 ダーシュは顔をしかめた。

「いまさらとやかく言わないが、人前であまり威張った態度は取るな」

「あら、わたしのどこが威張っているのかしら?」

 アイオナは首を傾げた。ダーシュは溜息を吐いた。

「お前にとっては普通でも、ここらに住んでる連中にとっては普通じゃないのさ。店主との掛け合いなど、本来は俺にしか出来ない役目だぞ」

「別に任せてもいいわよ」

 宿さえ決めてしまえば、細かい遣り取りなどダーシュに任せても差し支えない。

「そうね。外国人とはいえ女のわたしが交渉するよりも、あなたが行った方がいいかもね」

「では西側の店でいいんだな?」

「ええ。そうしてちょうだい」

「あまりうろうろするなよ」

「わかってるわよ」

 ダーシュが駱駝を連れて宿に向かっている間に、アイオナは近くの休憩所で涼むことにした。

 賭け札や骰子遊び(イエッダル)の勝負をしている老人たちや、町に着いたばかりで一息入れている商人の姿がある。

 イデラ語で交わされる世間話のささやき声や、賭け札の手を言い合うのが聞こえる。それに混じって卓の上を骰子さいころが転がる乾いた音が、アイオナの耳に入ってくる。

 なんと水は無料らしい。ただし一杯だけ。

 大甕おおがめから柄杓ひしゃくまれた水は十分に冷たく、アイオナは歓喜して飲み干した。

「もう一杯どうだい?」

 目を細めて休憩所の管理人が聞いてくる。

「一杯、一ラムだ」

 最強の商売だと思った。

 二杯目の水を飲みながら足を休めていると、休憩所の裏手から男の怒鳴り声が聞こえてきた。

 最初は無視していたが、少し聞いていると子供の泣き声が一緒に聞こえてくる。気になって席を立った。

 声を頼りに休憩所横の小道を進み、大通りから一本入った通りに出た。すぐ目の前につぼを売る店があり、怒鳴り声と泣き声はその店の中から聞こえていた。

「ごめんなさいごめんなさいご主人様!!」

 店の舖石ほせきに額を擦りつけて少女が謝っている。その横では主人と思しき男が、顔を真っ赤にさせて怒鳴り続けている。

「うすのろめ! 馬鹿め! 誰が主人だと思っている!」

 イデラ語でののしりながら、男はどんどん興奮していくように見えた。

 大方、使われている娘が、売り物の壺でも割ったのだろうと思って店内を見回したが、割れた壺の形跡は無い。

 男は店主だろうと察せられるが、アイオナの方を見た。

 アイオナは軽く礼をしたが、男はまるで見なかったように無視をした。再び足許の少女を怒鳴り、蹴飛ばした。

 平伏していた少女の姿勢が崩れると、男はそれを罵り、かたわらに立てかけてあった棒を手に取った。

 店先の張り布を掛けたり下ろしたりするときに使う棒だが、あろうことかそれで少女を打った。

 硬い、良くまった木の棒である。つぶれたような悲鳴が上がった。

 男はわめき、唾を飛ばしている。もう一度少女を蹴った。正気とは思えない。

「うすのろめ! 汚らわしい奴隷め! 誰が主人だと思っている!」

 再び棒で打った。また打った。更にもう一撃加えようとしたところでアイオナが叫んだ。

「やめなさいっ!」

 事情は知らないが黙ってはおれなかった。男が口にした「奴隷」という言葉がしゃくさわったのも確かだが、何よりこのままでは少女は殺されてしまうと思った。

「あなたどういうつもりなの! こんな子供を叩き殺すつもりなの!?」

 わずかの間、男はぽかんとした顔でアイオナを見ていたが、すぐに悪意ある相を見せた。

 男のくらい情念が泥のように体にまとわり付いてくる気がして、アイオナは胸がむかついた。

 こいつは悪人だ。アイオナはそう判断した。

 それとなく後ろを見て人通りを期待したが、どうもこの通りは裏通りであるらしく、通行人の姿は無い。何かあった場合にそれは困る。

 さりとてこのまま退き下がるわけにもいかない。

 とりあえず少女を逃がさなければならない。

「あなた、もう行きなさい。あなたの主人はわたしと話があるのだから」

 おびえた目でアイオナと主人を見ていた少女は、静かにその場を離れようとした。途端に再び棒で背中を打たれて倒れた。

「誰が行っていいと言った!!」

「やめなさいっ!」

 アイオナは咄嗟とっさに棒を掴んだ。男が馬鹿にしたような目でアイオナを見た。

「何だお前? 俺のやることに文句でもあるのか?」

 女の癖に。言葉には出さないが、態度が、顔がそう言っていた。

「引っ込んでろ。外国人が。偉そうに」

「……あなたの奴隷なの?」

 言っていて吐き気がした。ローゼンディアには奴隷は居ない。奴隷制度は無い。外国人でさえ、私有奴隷を国内に連れてくることは禁じられているのだ。

 奴隷制度はヴァリア教における最大の禁忌きんきと言っていい。

 小さい頃から奴隷制度の否定を刷り込まれて育っているアイオナにとって、眼前にその事実を見るだけでも気持ち悪く、え難いことなのだ。

 ましてや大人の男が少女を打ち殺そうとしているなど、それだけでも十分に醜悪でおぞましい。それに加えて少女が奴隷だなどとくれば、嫌悪で眩暈めまいがしそうだった。

「俺の奴隷に俺が何をしようと勝手だ」

 唇を歪めた物言いに、アイオナは怒りで目の前がくらんでくるように感じた。

 軽く深呼吸をした。落ち着かなくては。自分が遣り損ねたら、つまり今、この場で事を収められなければ、男は少女を叩き殺すだろう。

 いや、場合によってはアイオナに見せつけるためだけに、男はそれを遣りかねない。

 そう考えてアイオナはぞっとした。想像される悪意に身がふるえた。

「あの子を買うわ」

 これしかないと思った。あとで自由民にしてやればいい。

 今はこれしかない。

「ああーん?」

 男は大仰おおぎょうに首を傾げた。

「おい外国人。お前何言ってんだ?」

「あの子を、買う、と言ったのよ」

「ふーん……」

 男は身を引いてアイオナをじろじろと見た。嫌な眼付きだった。値踏みされている。そう思った。

「お前、ローゼンディア人だろ?」

 その問いかけに顔から火が出そうになった。耳が熱い。おそらく今の顔は真っ赤だろう。

 屈辱と羞恥、怒りで顔を上げることが出来ない。自分の足許を見つめたまま、アイオナは息を荒くしていた。

「ローゼンディア人が奴隷を買うのかよ」

 鼻で笑われた。

「いいぜ。いくら出す?」

 ぬっと手が突き出された。その無骨なてのひらを見て、アイオナは幾許いくばくかの理性を取り戻した。懐から皮袋を取り出して、宝石を幾つか店の台上に並べた。

 男の目の色が変わった。

「……これだけあれば充分でしょ」

 男は答えなかった。しきりに唇を舐めている。少女とアイオナを暫く見比べたあげく、

「その皮袋の中味全部だ」

 あろうことかそんなことを言った。

「な……」

 アイオナは息を呑んだ。開いた口がふさがらないとはこのことだった。どこまでこの男は下劣に出来ているのだろうと思った。

 人とは、いや人間とはここまで羞恥心の無い生き物だったか、と神官の如く怪しんだ。

 男は少女の所まで歩いていって、なんと踏みつけた。

「嫌ならいいんだぜ。その代わり口を出すなよ。俺がこいつを殴ろうが、蹴飛ばそうが、お前には関係無いんだからな」

「ならこの店を買うわ」

 アイオナは言った。この宝石袋全部ならこの程度の店が十軒は買える。

 本来ならば絶対にあり得ない取り引きだったが、今更やめるわけにもいかない。少女の生命いのちが懸かっているかも知れないのだ。

「てめえ、何馬鹿なこと言ってるんだ? 俺はこいつと、その皮袋ならいいと言ったんだぜ?」

 踏みにじられるたびに少女は哀れな声でゆるしを請うた。それを聞いているだけで、ここから逃げ出したくなる。

 アイオナは息を吸い込んだ。

 ――父様。ごめんなさい!

 心の中で父親にびた。

「……いいわ。この袋の宝石全部とその子を交換しましょう」

 男はふへへと嫌らしく笑い、引ったくるようにして宝石袋を奪った。台上の宝石も拾い上げて皮袋にしまい込む。男は大事そうに宝石袋を懐に入れた。

「立てるかしら」

 アイオナは少女に手を差し伸べた。骨でも折っていなければいいが。あれだけの暴力を受けたのだ。

「何勝手なことをやってるんだ?」

 男の声にアイオナは振り向いた。まだここに居たのか。店の奥にでも去っていればいいものを。

 だが、男が口にしたのは驚愕すべき内容だった。

「そいつは俺の奴隷だぞ」

「あ、あなた何を言って……!」

 男が近づいてくる。アイオナは本能的に危険を感じて後退あとじさった。

「お前なんか知らない」

 顔を近づけてきてそう言う。まずい、と思った。

 力の釣り合いが、取り引きの釣り合いが崩れている。宝石袋を渡すまでは確かに感じられた商売の感じが失われている。

 首筋がちりちりと焦げるように感じた。何か言わなければ。

 過ちを犯したのだ。

 今までつちかってきた商売人としての勘がそれを告げている。大変な損失を犯したのだ。そして今、更に危険な深みへとはまり込もうとしている。

「消えろ。外国人。俺に叩き出されない内にな」

 アイオナは思考が白く塗り潰されるのを感じた。何をどうしたらいいのか分からなかった。ローゼンディア語で「卑怯者!」と叫ぶと同時に男に飛び掛かっていった。

 男はアイオナの体を受け止めると手首をねじり上げた。全く歯が立たない。悔しかった。

 激情が再び叫び声になってほとばしりそうになったとき、店の入り口に人影が落ちたのを見た。

 人影は強い日射しを背に受けて立っている。

 白い長衣ケスと、日射しで生まれる黒い影とが合わさって出来ている。

 全く真逆の色彩でありながら、どうしてこうも調和しているのだろう?

「ああ! これはこれは! いや何でもないんですよ! 何でも!」

 途端に男は明るい声を出した。この店で起こったこと、今まさに進行している犯罪を知られたら困るのはこの男だ。第三者には何も気付かれずにご退場願いたい、そんなところなのだろう。

「この外国人がいきなり暴れ出しましてねえ!」

 弁明をしながらアイオナから手を放して闖入者ちんにゅうしゃに歩み寄る。

 アイオナも闖入者を見た。そして息を吐いた。

「ああ……」

 ダーシュだった。

「ちょうど困っていたところだったんですよ!」

 相手が腰に剣を提げた、見るからに砂漠の戦士という風体ふうていをしているからだろうか。

 男は陽気に、努めて友好的な雰囲気を作り出そうと努力していた。

 アイオナは何も言い立てることはしなかった。

 何故なら、ダーシュの姿を見た途端に悟ったからだ。

 ダーシュは大体の事情を察している。そう思った。信じられた。

「猿芝居はやめろ」

 男とは反対に、とても友好的とは言えない口調でダーシュは呟いた。

「はあっ? 何を言っているんですか?」

 男は不思議そうな顔を作ってみせた。わざとらしい仕草だと思った。だが、このまま押し通すつもりらしい。ダーシュはどうするのだろうかと思った。

 ダーシュの行動は極めて単純なものだった。いきなり殴りつけたのだ。しかも一撃ではない。殴り続ける。

 男は潰れたような悲鳴を上げた。蹌踉よろめきながら手で顔を覆った。その手を目懸けてダーシュの拳がうなった。お構いなしというやつだった。

 ダーシュは男の腹を蹴り上げた。

「おげえええっ!」

 男は吐き、床に倒れかかった。っぱい臭いが店内に漂った。

 アイオナは身が縮むように感じた。痛みで大混乱をきたした男に対し、ダーシュの様子には何の変化も無い。表情には怒りの色は見て取れない。黒い瞳は卓上の棗椰子なつめやしでも見るように男を見下ろしている。

 慣れている――とアイオナは思った。

 ダーシュはこういう修羅場に、とても、慣れているのだ。

 むんずとばかりに、ダーシュは男の髪の毛を掴んだ。そのまま躊躇ためらうことなく近くにあった台の上へと男の顔を叩きつけた。先程アイオナが宝石を拡げた台だ。

 男の鼻は既に砕けていたが、この一撃で前歯がまとめてへし折れた。鼻と口から血を噴きながら男は床に倒れ、のたうち回った。

 その男をダーシュは蹴り、踏みつけた。

 それから売り物の壺を掴むと男の頭に叩きつけた。派手な音がして壺が砕け散った。男の頭が裂け、そこからも血が噴き出した。

 男は気狂いのような声を上げてわめき、顔と頭をかばうようにして丸くなった。

 そんな男にダーシュは馬乗りになってひたすら殴り続けた。

 男が悲鳴を上げる、ダーシュが殴る、血が飛び散る、男が悲鳴を上げる、ダーシュが殴る、血が飛び散る……しばら唖然あぜんと眺めていたが、このままではダーシュは男を殺してしまうと思った。

 アイオナは我に返って声を上げた。

「ダーシュ!」

「なんだ?」

 きちんと返事をし、ダーシュは血まみれのこぶしをぴたりと止めた。

「……このままではその男は死ぬわ」

「殺すつもりだ」

 やはり、と思った。アウラシール人らしい激しさだ。

 しかもダーシュの様子は冷静だ。声にも昂奮こうふんは無い。それだけに本気の度合が感じられて恐ろしい。

 一体どこから男とアイオナの遣り取りを聞いていたのだろうか。

「こいつは契約を破り、お前を侮辱した。殺されても文句は言えん」

「こんなところで揉め事を起こしてどうするの!」

 ここはオアシスだ。オアシスでは暴力沙汰は御法度ではないか。

「問題無い。町の長老に届け出てもとがめは受けないさ、なあ?」

 ダーシュは男に問いながら襟首を掴み上げた。

「貴様は盗人であり、俺の妻を侮辱した。砂漠の男はその侮辱にむくいる必要がある。それは判るな?」

 潰れた顔に向かってイデラ語でささやきかけると、男は何か言うように呻き声を上げた。

 鼻と口から血と息を吐き、息を吸い、裂けた唇の間から血まみれの歯茎はぐきのぞかせながら、必死に何か言おうとしている。

「弁解は要らん。死ね」

 ダーシュの手が男の首に掛かった。絞め殺すつもりらしい。

 男が喚いた。屠殺場とさつばの家畜のような声を上げた。

「……だがまあ我が妻に赦しを請い、それが聞き届けられれば話は別だ。お前の生命いのちの相談をしようじゃないか? さあどうする?」

 暗い瞳で男を睥みながら、ダーシュは優しく問いかけた。

 男は激しくうなずいた。店の床石に頭がごつごつぶつかっているが気にならぬらしい。それくらい必死に頷いていた。

「良し」

 ダーシュが離れると男はアイオナに平伏した。もはや言葉にならない呻き声だったが、とにかくひたすら謝罪をしていることだけは理解出来た。もっとも、生命いのちが懸かっているのだから当たり前だが。

「さて我が妻よ。この男を赦し、その生命いのちつぐなわせてやるか?」

 万一男が反撃してきた場合を予想しているのだろう。油断なくかたわらに立ってダーシュが聞いてくる。

 アイオナは視界が明瞭になるのを感じた。今し方の恐怖と混乱は影もなく消え失せ、落ち着きと自信が戻ってきた。

「……そうね」

 アイオナは考える振りをした。もっとも答えはもう出ているのだが。

「ではあなたの懐にある宝石袋をいただきましょうか。それをもってあなたの生命いのちとするわ。どうかしら」

 つくばった男の背中に、ふるえが走るのが見えた。

 わずかな間、男はそのまま固まっていたが、やがてのろのろと懐から宝石袋を取り出して差し出してきた。ダーシュが受け取ってアイオナに渡した。確認しろということだろう。

 アイオナは素速く中味を台上に拡げて確認した。過不足無し。宝石は全て揃っていた。

 頷いてダーシュにしらせた。

「そこの娘、自分の部屋に行って荷物を取ってこい」

 いきなりダーシュに話しかけられて驚いたのだろう。少女はびくっと身をふるわせた。

「お前の身柄は我が妻が買い受けたのだ」

「はい」

 素直に頷き、娘は店の奥に消えていった。すぐに小さな手荷物を持って戻ってきた。

「それだけか? 良し、行くぞ」

 ダーシュは娘を先に出し、アイオナに手を伸ばした。

「さてゆこうか。我が妻よ」

 アイオナはその手を取った。躊躇ためらいなく。

 店を出る時にアイオナは振り返った。

 男は、呆けたように自分の店の床に坐り込んでいた。

 破壊された体と、破壊された悪巧みを抱えたまま。


   *


「あまりうろうろするなと言っただろう」

「ごめんなさい」

 不満げに文句を言うダーシュに、アイオナは素直にびた。

「この子の悲鳴が聞こえたのよ。それでつい……」

「お前らしいな」

 ダーシュは軽く唇の端を上げた。不思議と馬鹿にされている気はしなかった。

 しばらく無言で歩いた。

「……それで、あなたはどこから話を聞いていたの?」

「お前が宝石袋を引ったくられるところからだ」

 なんだ。それでは一番恥ずかしいところは見られていないではないか。

 無様に混乱した。その原因になる遣り取りを聞かれたわけではなかったのだ。

 アイオナは安堵した。

 しかし、ならばどうしてあんなに適確にダーシュは動けたのだろう。

 不思議に思ってアイオナはダーシュを見上げた。

「どうした? そんな顔をして」

「……ねえ」

「なんだ?」

「それならあなた、何でわたしが宝石袋を出したか解ってないんじゃないかしら?」

「この娘を譲り受ける対価だということか? それは聞こえたさ。奴め大声でわめいていたからな」

 ダーシュは含み笑いをした。

「宝石袋をそのまま差し出そうとしているところを見たときには肝を冷やしたぞ。だがお前はローゼンディア人だ。お前の行動は、正しいのだろう」

 優しい物言いだった。その言葉を聞いた途端、急に涙が溢れてきた。

「お、おい、どうした?」

 ダーシュが慌てている。だけど止められない。心の一部が急にゆるんで涙が止まらない。悲しいわけじゃない。だけど涙が溢れてくる。

 アイオナはしゃがみ込んだ。普段の状態に戻らなければ。

「奥さま……」

 おずおずと少女がイデラ語で声を掛けてくる。不安そうな顔をしていた。その顔にはあざがあり、唇が切れている。造作が悪くないだけに痛々しい。

「……ごめんなさい。あなたの方が大変だよね」

 にっこり微笑みかけてやると、少女もぎこちない笑みを浮かべてくれた。それで涙はぴたりと止まった。

「よし」

 気合いを込めてアイオナは立ち上がった。体に力がみなぎってきた。

「わたしはアイオナ。こっちはダーシュ。訳あって今は夫婦なの」

「……その言い方はないだろう」

 ダーシュが情けない声で苦情を言ったが、真実なのだから仕方ない。

 別に悪気は無いし、他に言いようも無いのだ。

 それにしてもダーシュを見直さねばならない。

 あの下劣な男との遣り取りの時、ダーシュはすぐに店に入ってこようとはしなかった。

 外で男の喚き声を聞き、少し離れたところからアイオナと男の会話を聞き、状況を大まかに理解してから、絶好の時に助けに入ってくれた。

 これは大いに賞賛されるべき商売感覚と言っていい。

「ダーシュ、わたしさっきの言葉、取り消すわ」

「なんだいきなり」

「あなたは商売の素人なんかじゃない。立派な商売人よ」

「お前な……その判断は一体どこから……」

「あなた、名前は?」

 アイオナはダーシュから少女に顔を転じた。

「はい。あたしはスィサと言います。真面目に働きます。怠けたりいたしません。一生懸命働きます。これからよろしくお願いいたします」

 言うなり、スィサはいきなりその場でアイオナとダーシュに平伏した。

 アイオナは戸惑ったが、道行く人は誰も気に留める様子は無い。一瞥いちべつすらせずに通り過ぎていく者もある。

「奴隷のすることだ。別に珍しいものではない」

 ダーシュがささやいて教えてくれたがアイオナは落ち着かない。とにかく手を取って立たせた。

 そんな真似をする必要は無いのだと、スィサに教えさとそうかとも思った。

 しかし逆に混乱させるだけではないだろうかと考え直し、止めた。

 育った環境が、受けた教育がスィサとアイオナとでは違いすぎる。

 スィサは不安気な色を瞳に宿している。アイオナは微笑みかけた。するとスィサも微笑んだ。

 焦る必要は無い。順々に教え諭していけばいい。

 人間であるということはそれだけで途方もなく尊いことなのだと。

 ヴァリア教の教えではそうなのだ。そしてそれは正しいことだとアイオナは思う。

「あなたの服を用意しないといけないわね」

 スィサは服とはちょっと言えないほどの汚れた、ぼろを着ていて、しかも臭いが酷かった。

 奴隷の価値は労働にあるのだから仕方のないことではあったが、まずはここから改めねばならない。

「取り敢えず宿に入って話をしよう」

 ダーシュの提案に従って三人は宿に入った。

 投宿の掛け合いをまとめたのはダーシュだったが、その時には二人と言ったはずだ。

 だがスィサが加わっても何も文句を言われなかった。一瞬、宿の人間の顔に驚くような色が現れたがそれだけだった。

 やはりこちらの宿にして正解だったとアイオナは思った。

 旅行者にはかなり凄じい外見の者もいるから慣れているのか、それともこの宿屋が大きく立派だからそのくらい問題にもならないのかは解らないが、なんにせよアイオナとしてはその気前の良さが有り難かった。

 くつろぐための部屋と寝室とは別になっており、更に小さいながらも浴室まで切ってあった。

 風呂を見たアイオナが小さな歓声を上げると、宿の主人は自慢気に目を細めた。

「ローゼンディアのお客さまには皆、ご満足いただけております」

 これがこの宿の売りの一つなのだろう。アイオナは当たりを引いたと思った。

「お使いの時には誰か宿の者をお呼び下さい。湯を運ばせるように致します」

 部屋を案内すると主人は下がった。

 主人はアウラシール人に見えたが、実に流暢りゅうちょうにローゼンディア語を操った。はっきり言ってダーシュよりも上手かった。

「ローゼンディア人は本当に風呂が好きだな」

 感心しているのか呆れているのか判らぬ口調でダーシュが呟いた。

「当然よ」

 かさず答えた。

 アンケヌでは風呂に苦労することはなかった。あそこは水が豊富にあるし、素晴しいことに、()()()()()()()()()()、アンケヌには温泉があるのだ。白く美しい、素晴しい湯の出る温泉である。

 残念ながら、その歴史有る見事な地下温泉も、ローゼンディア人がアンケヌに移住するまでは質素というか、粗末なものだったらしい。

 だがローゼンディア人が移住してより二百年、アンケヌの地下温泉は改修やら補強やらを繰り返してきた。

 今では非常に美しい、その湯本来の素晴らしさに見合った姿を取り戻している。

 しかもその資金は全て、ローゼンディア人の寄進によってなされたものだ。

 そしてそれは当然のことであるとアイオナは思っている。あれほど見事な温泉を粗末なままに放置して置くことなど出来ようはずもない。

 昔からアンケヌ市民はもちろん、交易商人や、周囲の部族民まで使っておきながら、どうしてあんなにいい加減な施設で我慢していたのか。全く理解しかねる。

「ああ……アンケヌの温泉に入りたいわ」

「あの地下温泉のことか?」

「そうよ。あの匂い。湯の手触りが懐かしくてたまらないわ」

「どこが? 卵の腐ったような臭いではないか」

 ダーシュは嫌そうな顔をした。

「風呂に入りたいならみ上げた水の方が良いだろう。妙な臭いが付かなくてすむしな」

 この男、正気だろうかとアイオナは思った。あの温泉の良さが解らないのか。

「……なんだそのあわれむような目は」

「あなたの貧しい価値観を憐れんでいるのよ」

 鼻先で笑ってやる。

 折角アンケヌに生まれたのに、あの温泉の素晴らしさを理解しないなんて。

「……」

「……」

 二人はしばし無言で見つめ合った。

 お互いに相手を非難する気持ちが視線に籠もり、結果、鏡に映したように同じ眼差しで相手を見ていたのだが、そのことには二人とも気付かなかった。

 これは……風呂の素晴らしさをダーシュに教えてやらねばならない。アイオナはそう考えた。

 とてもローゼンディア人らしい思考である。

 ダーシュが風呂好きなのかどうかを考慮していないだけでなく、世の中には風呂が嫌いな人間もいるという事を理解していない。そこがまさしくローゼンディア的であると言えた。

 そしてこれ又ローゼンディア人らしい名案がアイオナの頭に浮かんだ。

「そうだわ。あなたが入るなら洗って上げるけど?」

 問いかけると、ダーシュはきょとんとした。目が丸くなるというのはこういう顔のことを言うのだろう。本当にきょを突かれたらしい顔だった。

「は?」

「は? じゃないわよ。だから、あなたが入るなら洗って上げると言ってるの」

「な、なにをいきなり!!」

 明らかにダーシュは動転していた。その様子に今度はアイオナの方がきょとんとしたが、すぐにその驚きの理由が判った。

 おそらくアウラシールでは、女が男の体を洗うという習慣が無いのだろう。

「あなたひょっとして照れてるの?」

 意地悪く尋ねてやった。

「照れてなどいないっ!」

 ダーシュは全力で否定してきた。つまり、照れているということだった。

「ふうん、そう……なら別にわたしに洗われても構わないんじゃない?」

「そんな、奴隷のする、ような真似を、お前がする必要は無い」

 ダーシュの言葉が急に片言になった。面白い。凄く面白い。

「そう? じゃあスィサにやってもらおうかしら?」

 ダーシュの体がぎくりと固まるのが見えた。見ていて面白くてたまらない。

「ねえスィサ、早速で悪いんだけど夫の体を洗ってもらえるかしら?」

 先程からスィサはそばに待機していた。雑事を命じられるのを待っているようだった。

 全身で期待しつつ待ち構えているという感じなのだ。遣る気があるのは有り難いが、別に働いてもらう目的で助け出したわけではないので、アイオナとしては少し気後きおくれしてしまう。

 ところが予想していた威勢の良い返事がない。

 アイオナが目を向けるとスィサは顔をあかくして立ち尽くしていた。どうやら本当にアウラシールにはそうした風習が無いようだ。

 そういえば以前、父に聞いたことがあるのを思い出した。

 ローゼンディアでは女が男の体を洗ってやるのはごく普通のことであるし、遠方から来た客人などを歓待するあかしでもあるのだが、諸外国ではそうではない。同じ風習を持っているのはダルメキアぐらいのものだと。

 そこまで思い出して、自分が言っていることが含んでいる意味にも気付いてしまった。

 急速に顔に血が上るのが判った。

「……まあいいわ。嫌だというなら無理強いするつもりは無いし」

 出来る限り落ちついた声が出るように心掛けた。ここで失敗が暴露ばれてしまったら、後でダーシュに何を言われるか分かったものではない。

 休憩用の椅子と卓のあるところまでゆっくりと歩き、椅子を引いて腰を下ろした。

 すぐそばに窓がある。大通りに面しているかと思ったがそうではないらしい。この部屋はどうやら大通りの反対側、宿の中庭に面しているようだった。

 おかげで騒音が入ってこないのは有り難い。窓の外には薄物の布を使ったひさしのようなものが出されていて、日射しも弱められるように工夫されてあった。アイオナは感心すると共に、ますますこの宿に好感を持った。

 アイオナは軽く息を吐いた。胸がほっとするような心地がした。まだ逃避行は途中だというのに、奇妙おかしい話だと思った。

「スィサ、お茶をもらってきてくれるかしら? 出来れば何か軽く食べるものも」

「はい奥さま!」

 今度は予期した通りの元気な返事だった。

 スィサが出て行ってから、そうだ一番先に風呂に入らなければならないのはあの子だわ、とアイオナは思った。汚れを落として、傷の手当てをしてあげなければ。

「まったくローゼンディア人という奴は……」

 ダーシュはまだぼやいていた。

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