第二章 朝
言い争うような声、ばたばたと廊下を走り回るような音がする。
――ああもう、うるさいなあ……。
アイオナは不快げに呻き、毛布を頭から被った。
もう少し寝かせて欲しい。昨夜は遅かったのだ。
契約を交わし、商家の娘たる自分の立場をダーシュに説明するなどして、偽装結婚の口裏を合わせた後、どこで寝るかで揉めた。
「俺たちは夫婦だぞ? 一緒の部屋でよいだろう」
などと、ダーシュはいけ洒々と言ってのけたが、無論アイオナは断乎として反対した。
ダーシュはきっぱりと言った。
「同室でなければ駄目だ。俺の目の届く範囲に居てもらわなければ困る」
「それって、わたしを信用してないってこと? さっき契約を交わしたばかりなんだけど?」
「察しろよ。俺の立場の方が弱いんだぞ?」
確かにそうなのだ。ダーシュはアイオナの助けを必要としているが、アイオナはダーシュの助けを必要としていない。
客観的に見れば、それでもアイオナが従わざるを得ないのは、ダーシュに監視されているという状況ゆえである。アイオナとしては神の御名の下の契約を重視しているが、世間には神をも畏れぬ不届き者がいることも承知している。だから、ダーシュの不安も理解出来なくはない。
「……わかったわ。同室でもいいわ。ただし、わたしは自分の寝台で寝るから、あなたはわたしから最も離れた床で寝ること。それから剣も寄越して」
「剣は渡せんな」
「大丈夫よ。部屋には鍵を掛けるし――」
そこでアイオナは人の悪い笑みを浮かべてダーシュを見た。
「女如きに遅れは取らないんでしょ?」
「む」
ダーシュは言葉に詰まったような顔をした。あの顔は実に見物だった。
ダーシュが渋々と剣を差し出し、アイオナが受け取ると、ふたりはそれぞれの場所で眠りに就いた。
とはいえアイオナは、剣を抱いて横になっただけだった。同じ部屋に男がいるのだ。眠れるわけがない。
そう眠れるわけがない。
それなのに――
なんで自分は眠ってしまっているのか!
と思ったところで、すぐに飛び起きることは出来なかった。眠くて気怠いのだ。
それでもなんとか毛布から顔を出し、寝惚け眼でダーシュの姿を探した。
朝とはいえ部屋の中は薄暗い。窓を開けていないからではなく、窓自体が極端に小さく少ないからだ。これはアウラシールの建築物の特徴で、寒暑の激しい外気を出来るだけ遮断するための工夫である。
寝床となっていたはずの場所には、ダーシュの姿は無かった。抜け殻のような毛布だけがある。
アイオナは驚き、慌てた。
――わたしが起きるまで絶対に動くなと言っておいたのに……!
苛立ちながら見回すと、部屋の出入口でその姿を見つけた。召使いと何やら言い合っている。
そこに来て漸く、アイオナの目は覚めた。
ぱっと飛び起きて、出入口に向かって駆けた。召使いとダーシュの間に割り込むと、扉を閉じて鍵を掛けた。扉の向こうから聞こえる召使いの声を無視して、アイオナはダーシュを見上げた。
「あ、あなた……いったい……!!」
動転していてうまく口が回らない。
「やっと起きたか」
ダーシュは平然としたもので、気怠げに髪を掻き上げたりしている。
アイオナは食ってかかった。
「いったいどういうつもり!? 動くなって言ったでしょ!?」
「そんなこと言ったってお前、召使いが部屋の前に来てるし、起こしてもお前は起きないしで――」
「起こしてもって……わたしを起こしたの? それってつまり……」
アイオナは青冷めた。
ダーシュは無言で意味深な笑みを浮かべた。
アイオナは一転、顔を赧めた。
――寝顔を見られた!
いや、それだけならまだよいけれど……寝相は悪い方ではないけれど……変なことをされてなければいいけれど……
どうなのか?
って、そんなこと、聞けるわけもない。
自業自得だ。
己の迂闊さに眩暈がした。
「召使いとは何を話していたの? 余計なことは話していないでしょうね?」
「お前の夫として挨拶したまでだ」
他に名告りようもなかろうが、召使いはさぞかし驚いたことだろう。アイオナお嬢様しか居なかったはずの部屋から、見知らぬ男が出てきただけでなく、そう名告られては。
アイオナは溜息を吐いた。眩暈と合わさって足許まで怪しくなってくる。
当初の予定では、召使いがやってくる前にダーシュの身を隠させ、あたかも朝早くに外からやってきたように見せかけるつもりだった。それからヒスメネスにだけはすべてを打ち明けて、使用人らに結婚の報告をするつもりだった。
無論、今まで影も形も無かった男との唐突な結婚報告をすることに変わりはないのだから、どうしたところで不審さは拭えない。
しかしそれでも、朝っぱらに見知らぬ男が部屋から出てくるよりはましだろう。
これでは初めて夜這いに来たような相手に熱を上げ、細かい考えもなしに結婚してしまう馬鹿女ではないか!?
だいたい、結婚の段取り自体まるで踏んではいない。父母もこのことを知らないし、これからどうやって穏便に報告を済ませようかと思っていたのだ。
それをこの男はすべてぶち壊しにしてしまったわけだった。
ローゼンディアの国教であるヴァリア教においては、子供は結婚している男女の間で為されるものであるとされており、それ以外の為され方は認められていない。それゆえ、結婚する気がなかったとしても、子供が出来たら普通は結婚する。信心深い者ならばそれ以前、性交渉を持ったところで結婚する。
そういった事情から、唐突な結婚自体はローゼンディアでは珍しくはない。問題になるのは、唐突に現れた男の存在である。
こればかりはどうしようもない。どうあっても奇妙なことこの上ない。
屋敷の者たちが何を考えるかと思うと、アイオナは頭が痛くなってきた。氷砂糖をたっぷりと入れた茶が欲しい。最近は香草茶ばかり飲んでいるから、気分を変える為にトラナ茶がいい。紅のトラナ茶だ。痺れるように甘い紅トラナ茶が欲しい。
朝から飲むような物ではないが、砂漠から帰った男たちが天幕の中で旨そうに飲んでいるあれだ。あれは香草茶だけれども。
問題は砂漠から帰ってきたのではなく、今が砂漠の真ん中だと言うことだった。
「なあ、開けてやらないのか? 召使いに冷たくすると、後が難しいぞ」
「難しくしたのはあなたでしょっっ!!」
「さっきから何を怒っているんだ?」
ダーシュは肩を竦めた。
アイオナは再び溜息を吐いた。
ダーシュを責めることは出来ない。自分さえ起きていれば回避出来たことだった。
「お嬢さん」
どきりとした。
抑揚の無いひやりとした声が、扉の向こうから針のように突き抜けてきた。
ヒスメネスだ。
召使いが呼んできたのだろう。
ヒスメネスはこの家の管理者である。不審な報告を受けたら確認にやってくるのは当然だ。
アイオナは素早く身形を整え、鍵を外して扉を開けた。
扉の向こうには、相変わらずのヒスメネスが居た。召使いから報告を受けているだろうに、いつも通りに落ち着き払った様子である。少なくともそう見えた。
一方ヒスメネスの後ろには、幾人かの召使いと護衛士が緊張した面持ちで控えている
ヒスメネスはアイオナを見、そしてダーシュを見た。
落ち着いて見えるのはいつも通りだが、何だか少し様子が違った。
物柔かで、商人にしては優雅ささえ感じさせるヒスメネスが、とても真面目というか硬質な顔をしていた。
「どういうことなのか、説明していただけますか?」
*
卓上には干した棗椰子と、氷砂糖と牛乳を入れた茶が用意されている。いつもの香草茶だ。
朝食は摂る気になれなかった。
「ではダーシュ殿、あなたはお嬢さんの夫であると、こう御主張なさるわけですね?」
「ああ、そうだ。俺たちは昨夜、神の前で結婚した。ダーシュは――」
言いかけて、アイオナの方を見た。
「お前、なんて言う名前だったかな?」
アイオナは天を見上げた。自室の天井があり、青い空は見えなかった。見たかったのに。
「あなたは御自身の妻の名前を把握されておられない? これはまた随分と奇妙しなことですな」
「なに、これからお互い、よく知ればいい。時間はいくらでもあるさ」
ヒスメネスの皮肉を気にも留める風もなく、棗椰子を食べている。意外と上品な食べ方だと思った。
顔立ちといい、雰囲気といい、この男にはどこか垢抜けた感じがある。
一体どういう出自の男なのだろう?
「私が不思議なのは、一体どうしてお嬢さんがあなたとの結婚を承諾したかということなのです」
「女心は気紛れなものさ。気にしない方がいい。俺たちは昨日知り合って、そして結婚することになった。ただそれだけだ」
臑に軽い接触感があった。ダーシュが卓の下から合図してきたのだ。
「ええ。そう。女心は気紛れなものなのよ」
特に生命が懸かっている時は、という言葉は胸の中で付け加えた。
「さすがは我が妻。俺の顔を立ててくれる」
ダーシュが大袈裟に喜んで見せた。嫌味だろうか?
「なるほど……そういうことですか」
ヒスメネスは考え込むように目を閉じた。また冷たい、静かな表情になる。彼はカサントス地方の出身だが、そうと感じさせない落ち着きがある。
一般にローゼンディアでは、イオルテスやカサントスといった地域の人間は、剽悍を以て知られている。そういう印象を持たれている。
そこは戦神イスターリスの土地であり、戦士の国とも言われる地方だからだ。
でも彼にはそういったものは感じない。それどころか王都の神官のような知性と品位を感じさせられるのだ。
「……解りました。お嬢さんがいいと仰るのならば、私からは何も申し上げることはございません」
ヒスメネスは頷いた。
――通じた。
おそらく今ので彼は理解したはずだ。
アイオナは常日頃から軽挙妄動を慎むべきだと思っている。自分でもそうしている。少なくともそのつもりはある。
その自分が気紛れを肯定するような発言をすれば、ヒスメネスが怪訝に思わないはずはない。
ダーシュの言葉尻を捉えての、咄嗟の合図だったが、ヒスメネスにはきちんと通じたようだった。
「では早速ですが、宮殿に届け出をしなければなりませんね。早い方がよろしいでしょう」
言うが早いかヒスメネスは腰を上げた。
「今馬車を用意させます。帰りは昼になるでしょうから、それまでには祝いの席を用意させておきましょう」
「ああ、頼む」
「では参りましょうか。お二人とも御用意をお願いします」
その言葉で、ダーシュの笑顔が一瞬、固まった。
「ん、ああ、お前たちだけで行ってくれるか?」
「何故です? 新郎新婦が揃って届け出るのが結婚の通例。何か他に御予定でもあるのでしょうか? でしたら何なりと私どもに申し付けてください。屋敷の者で務まるようなものならば私が命じて遣らせておきます」
「いや……すまんが俺は屋敷を出るわけにはいかんのだ」
明け透けな物言いだった。
「だからお前が行って来てくれ」
「なるほど。解りました」
ヒスメネスは頷いた。
「ではお嬢さんと私で行って参りましょう」
「いや、それは困る」
「何故です?」
「妻と離れたくないのだ。そこは察してくれ」
「そういうわけにはまいりません。旦那様に御報告申し上げねばなりません。それはお嬢さんが御自分でなさるべき事柄です。本来は――」
そこでヒスメネスは言葉を切り、静かにダーシュを見据えた。
「あなたもそこに行くべきなのですよ。ダーシュ殿」
ヒスメネスの反撃は見事だと思った。というか、反撃されていることをダーシュは気付いているのだろうか。
あくまで正論で攻めながら、ダーシュの身の上を探っているのだ。
それに父はアンケヌには居ない。遠くローゼンディアに在る。
ヒスメネスは罠を張っているのだ。
「その……義父殿にここへ来てもらうことは出来ないのか?」
「それは礼儀を欠く行為です」
ヒスメネスは戸惑ったような顔をした。無論、演技だろう。
「……失礼ですが、あなたには何か事情がおありになるのですか?」
「ああ。ある」
ダーシュはあっさりと認めた。
「俺は屋敷を離れるわけにはいかんし、妻を手放すつもりも無い。だから細々としたことはお前の方でやってくれ」
「重ねて申し上げますが、そういうわけにはまいりません。お嬢さんには御報告に行っていただきます。よろしいですね?」
自分の方を向いて尋ねた。目には強い光がある。きっと、もうすべて判っているのだ。
「……」
アイオナは答えなかった。何故か即答することが出来なかった。そうしてはいけない気がしたのだ。
「アイオナ」
どきりとした。ダーシュが名前を呼んだのだ。今さっきは言えなかった癖に。それともあれはわざと忘れたふりをしたのか?
「俺たちは夫婦になった。アルシャンキの名の下で。それを忘れるな」
言葉とは異なり、ダーシュの眼差しには糺すような強さはなかった。むしろ柔らかなものを感じた。
「……連れて行け。俺は屋敷で待っている」
ヒスメネスに言い、香草茶を口に運んだ。優雅な仕草である。
「さすがにいい砂糖を使っているな」
微かに笑ってそう言った。