第十七章 残党
ベラルのオアシスに着いたのは夜中を過ぎた頃だった。
砂漠の旅人は昼夜逆転が基本のため、近くで日が昇るのを待ってからオアシスに入る。アイオナたちもそうした。とはいえオアシスの活動が本格的に始まるのは夕方からなのだが。
アイオナにとって隊商宿ではない宿を取るのは久々だった。
旅行といえば父について行く事がほとんどなので、いつも決まって隊商宿なのだ。
隊商宿というのは隊商を相手にした専門の宿で、ローゼンディアではハヴィータ、アウラシールではハビトという。
通常は二階建てだがアウラシールでは一階建てのものも多い。
二階建ての場合は一階が荷物や家畜にあてられ、二階が宿泊施設になっている。
どちらにしても特別な設計でない限りは浴場は一階に作られる。
隊商宿は個人客を相手にしないわけではないが、大抵は隊商で埋まってしまっているので、個人客は一般の宿に向かう事になる。
アイオナもダーシュもその辺は辨えているので最初から普通の宿を探した。
宿が決まると駱駝の世話を頼んでから二人は町に出た。
「体を拭きたくはないか?」
ダーシュが聞いてきた。宿の浴場を使えるのは夕方になってからだ。
それまでに一度汗と砂埃を落として落としておくかという心遣いだった。
ただし浴場とは言っても、ローゼンディア人の感覚からはとてもそうとは言えないようなものだろうと予想できた。
アイオナの見てきた限りではあるが、アウラシールで宿屋の浴場と言えば、そもそも浴槽が無い場合がほとんどなのだ。
問題外である。浴槽に浸かりたければ公衆浴場に行けということなのだろうが全く信じられない。その感性を疑ってしまう。
公衆浴場はここら辺りではハルサブルと言うらしい。名前が違えば中身も違うということで、ローゼンディアのものとは全く違う。
やはり基本的に浴槽は無く、蒸し風呂なのだが、まれに浴槽がある公衆浴場もある。
だがそういう所は大抵恐ろしく不潔で、とても浴槽に入る気にはならないのだ。
結局、宿屋の浴場だろうが、公衆浴場だろうが変わりなく、どうせ入るならばローゼンディア式の公衆浴場が理想だが、アンケヌのような大都市ならばともかく、ただのオアシスであるベラルにそんなものがあるとは思えないし、あってもきちんと管理されているか信用できないのだ。それにそうした浴場を探す時間もない。
「いいわよ。宿屋の浴場じゃ入った気にならないし、飲み水の残りで拭くから。それに余分な買物はしたくないわ」
アイオナはすげなくそう答えた。
男なら共同の水場で体を拭くことが出来る。しかしアイオナはそうはいかない。
そこまで考えたであろうダーシュの気遣いは無駄になった。
ちょっと悪いかなという気もしたが、オアシスとはいえ砂漠の町である。水は無料ではない。
「立派な心がけだが無理をすることはない。そんなことまで吝嗇っていては心の方が先に参ってしまうぞ」
「そんなことはないわよ。あなたは商人の逞しさを知らないだけ」
「店は本当にお前が継ぐのか?」
「ええ。父様がそうと決めれば。多分そうなるでしょうね」
「ヒスメネスはどうなる?」
「彼がこのまま働いてくれるのなら、わたしとしては大助かりなのよね。けどやがては自前の店を持つことになるでしょうね」
「城に出入りする商人としてな」
皮肉げにダーシュは言った。
「気に入らないの?」
「お前にとってはどうだか知らんが、俺にとってはもはや敵だ。気に入るわけがない」
アイオナは口を噤んだ。難しいところだと思った。
ヒスメネスがザハトと結んだであろうことは何となく判る。證拠を見ていないのではっきりと断じることは出来ないが、まず間違いない。損得勘定をすれば当然そうなって然るべきだ。
ひょっとすると自分は逃げる必要は無かったのかも知れない。その辺の話も、すでにザハトとヒスメネスの間で約束が交わされているのかも知れない。大いにあり得ることだと思う。
だが、ダーシュはどうなる?
おそらく、いや間違いなく殺されるだろう。
ダーシュにとっては逃げるという以外に手がない。待てよ? となるとわたしが随いてきたのはダーシュにとってのみ一方的な利益になるのではないか?
ダーシュはそこまで考えていたのだろうか。
いや、おそらく考えてはいない。この人はそういう人ではない。
本当にわたしの生命が危険になると思い、助けようとしてくれたのだろう。
アイオナはダーシュを見上げた。ここは水場の隣の休憩所である。お互いに咽を潤した後、近間の小屋で体を拭き、今は風にあたりながら休憩をしているところだった。
時折風が軽く吹いてくる。砂を含んだ暑く乾燥した風だ。日射しは強く、休憩所の屋根の下と、通りとではまるで別の世界に感じられる。
ここでは太陽の光はほとんど暴力に等しく、そこから逃れた場所こそが生活の場なのだ。それは強烈な黒と白とに分けられた世界である。
ダーシュは静かな顔をしていた。とても生命を狙われている者とは思えないような表情である。野心や闘争心、王位をめぐる争いなどとは無縁な人の顔をしている。
だからといって市井に埋もれているような顔でもない。その面には輝きのような何かがある。上手くは言えないが、その輝きに秘められた運命のようなものをアイオナは感じた。
不意に閃くものがあった。
――この人は、王になる。
思った途端、アイオナの身体を怖気のようなものが走り抜けた。
「どうした?」
「……何でもないわ」
「顫えていたのでな。熱でも出たかと思った」
「馬鹿にしないで。こう見えても旅には慣れているの」
「すまん。気に障ったなら謝る」
「その必要は無いわ。怒っているわけじゃないから」
「ならせめて口調を改めてくれるか。なんだか責められているような気持ちになる」
ダーシュの口許に笑みが浮かび、それを見てアイオナは安心した。二人の距離が縮まったように感じた。
「あなたはヒスメネスのことを心配してるようだけれど、彼がわたしたちの敵に回るはずはないわ。何か考えがあってのことなのよ」
「お前の敵には回らんだろうが、俺の敵になることには躊躇はすまい。ザハトと組んだ方が得だからな」
「それなんだけど、本当にザハトはあなたを殺そうとしてるわけ? 間違いなんじゃないかしら?」
だとしたら、ここまで逃げてきたのはすべて茶番だということになってしまう。
もちろんアイオナはそうは思っていない。一度しか会っていないが、あの男には用心しなければならないと思う。商人の勘である。
「野心的な奴ではあったが、まさか俺を殺す気になるとはな」
「間違いではないの?」
「間違いないな。でなければギドゥを殺したのが俺だなどと、そんな話が出てくるはずがない」
「それなんだけど、その嘘を曝いてしまえば事態は好転するんじゃないかしら?」
「無理だな」
ダーシュは言い切った。
「おそらくギドゥを殺したのはケザシュだ」
「誰よそれ?」
「ザハトの協力者だ」
「何者なの?」
「判らない」
ダーシュは首を振った。
「最も用心せねばならない男であることは確かだ。あいつはどこか得体が知れない」
「そいつがわたしたちを追いかけてくるってわけ?」
「さてな。そこまでは判らん。ザハトも馬鹿ではないから、そう時を置かずに俺たちの目的地を探り出すだろう。ヒスメネスに聞くという手もあるしな」
「ヒスメネスが話すかしら?」
「お前の生命を助けるという交換条件ならどうだ?」
「それなら大いにありうるわね」
アイオナは頷いた。
「だけど、その約束をザハトがきちんと守るという保證はあるの?」
「契約を立てればいい」
「そうね。でもザハトは王であり、軍隊を持っているわけでしょう? こっちは外国の商人よ。約束を土壇場で反故にされたって、復讎出来るとは限らないわ」
「ふむ」
「だからもしヒスメネスがその交換条件に応じる場合、必ず自分と店と、そしてわたしの安全が保證された状況でしか動かないはずよ」
「続けてくれ」
ダーシュは興味を持ったようだった。
「ところがそのためにはザハトの兵を使えない状況にする必要があるわ。けれど現状、そのための方策を採用することは難しいのよ」
兵という軍事的裏付けがあるザハトは、いつでも約束を反故に出来る状況にあるということだ。
ダーシュを押さえた後で、アイオナもヒスメネスも皆殺しにしてしまうことだってありうる。決して行きすぎた想像ではない。
となるとこちらも同程度の軍事的裏付けを持ってくるか、または強力な第三者の許で契約を結ぶしかない。
だが実際問題としてそれは不可能である。そんなことをしている間に物事は終わってしまう。時間こそが最大の問題なのだ。
「つまり、ヒスメネスがその交換条件をザハトに持ちかけている可能性は低いということだな?」
「話だけならしているかも知れないわ。けど、信用してはいないでしょうね」
「ふむ……」
ダーシュは頷いた。考えているようだった。
「だからわたしたちとしてはひたすら逃げればいいわけよ。首尾よくディブロスの町に入ってしまえばザハトも手出し出来ないわ」
ディブロスの町はローゼンディアだからだ。いくら大都市アンケヌの支配者とはいえ、無理はできないのだ。
「なるほどな。お前は本当に頭がいい」
「頭だって使うわ。これは取り引きなのよ」
言ってしまってから、しまったと思った。誉められたのを良いことに調子に乗り過ぎたと思った。素直に喜んでおけば良かったのだ。
あくまで自分たちの結婚は取り引き、偽装の結婚なのだと――。
言葉に出すたびに何故かやるせない気持ちになる。しかもそれが段々大きくなる。
「……そうだな」
案の定、ダーシュは興を削がれたような、少し寂しいような顔を見せた。
「行くか。今日中に出発したい。大丈夫か?」
「もちろん大丈夫よ」
返事をしながら、何か気の利いたことを言おうと思った。
だが考えている内にその機会は去ってしまった。男達の一団が休憩所に入ってきて、ダーシュの注意がそちらに向いたのだ。
「こいつは驚いた。ダーシュじゃねえか。なんでこんなところに居やがるんだ?」
休憩所に入ってきた男たちの内の一人が、驚いたようにそう言った。アイオナの見たところ、人相風体、あまりよろしくない。
「ワディか」
ダーシュには別段嬉しそうな様子は見えなかった。
「お前が生きてやがったとはな」
憎々しげに吐き捨て、ワディはダーシュを睥んでいる。知り合いではあるが、友人ではなさそうだった。
「生憎と仕太いんでな。お前も元気そうじゃないか。ハダクが殺された時、お前はどこに居たんだ?」
あからさまな嘲弄にワディの顔に怒気が差した。
「貴様……」
「ここはオアシスだぞ。やめておくんだな」
アウラシールでは一般にオアシス内での戦闘行為は禁止されている。それはかなり厳しく守られている規律であり、従わない場合には重い罰則が適用される。
とはいえ砂漠の都市国家はどこも大概がオアシスなので、この規律は国家と言えるほどには発達していないか、または共同の集落として使われているオアシスに限った伝統であるのだが。
ワディの、剣の柄に伸ばしかけた指が、藻掻くように動いている。ダーシュはつまらなそうにそれを見ている。アイオナと、ワディの連れていた二人の男は、それを不安気に見守っている。
「ダーシュ。関わることは無いわ」
アイオナはローゼンディア語でささやいた。
「そうだな。こんな馬鹿に関わっている暇は無いしな」
ダーシュはイデラ語で答えた。ワディは泡を吹かんばかりに顔を紅潮させた。単純で気の短い男であるようだった。
「俺を怨むのは筋違いだぞ。ハダクが死んだのはザハトの話に乗ったからだ。俺はちゃんと忠告したんだ」
「てめえとザハトさえいなけりゃ……」
「人の所為にするのは良くないな。お前だって大乗り気だったろうに」
「ワディ」
見かねた仲間がワディの肩を掴んだ。引き離されるようにしてワディはダーシュから離れた。
「いいか? いつかケリをつけてやる。必ずだ」
「汚い指で俺を指差すな。気分が悪くなる。そんな指は駱駝の糞でも差しておくがいい」
唇を顫わせながらもワディは退き下がった。オアシスで切り合いをするほどには馬鹿ではないようだった。アイオナはワディたちが去ってからダーシュに話しかけた。
「王族なのに随分と汚い言葉を使うのね」
「城で召使いに傅かれていたのは子供の頃の話だからな」
「血筋の良さは隠しようがないのにね」
「おや? ひょっとして俺は誉められたのか?」
「そうよ」
「これは驚いた。初めて優しき言葉をかけてくれたな」
「そお?」
アイオナは首を捻った。さすがに今まで優しく接していたとは言えないが、思い遣らなかったことが一度も無いわけではない。
「あなた鈍いんじゃないかしら? もっとも砂漠での暮らしが長いようだし、今みたいな男たちに囲まれて育ったのならば仕方ないけれど。育ちって重要ね」
「そう簡単に染まるものか。曲がりなりにも俺はラムシャーン王家の出身だぞ」
「だといいわね」
アイオナはくっくと笑った。
「笑うことはないだろう」
ダーシュは不満そうに言ったが、目が笑っていた。
「さてと。ともあれ厄介かも知れん」
「ワディたちね」
「我が妻は聡いな」
「ありがとう。で、どうするの?」
「ここにいる限りは問題は無いが、外に出たら襲ってくるだろう。だからなるべく早くオアシスを出た方がいい」
「夕方までは休めると思ったのに」
アイオナは溜息を吐いた。
「すまんな。俺の不徳の致すところだ」
慰めるようにダーシュが肩を叩いてくれた。
休憩所を出ると、二人はそのまま駱駝を預けてある宿へ向かった。ついさっき預けたばかりなので、亭主は面食らっていたが、文句も言わずに支度を手伝ってくれた。
「まだ昼前ですが」
「少し行ってから休むさ」
ダーシュは亭主に答えた。
「どちらへ行かれるんで?」
「アンケヌだ」
嘘を吐いたのは悪意が有ってからではなく、追跡者がこの亭主に、自分たちのことを聞いた場合を考えてのことだろう。
「御無事を祈ってます」
「ありがとう」
アイオナはにこやかに手を振った。
日射しの下を進むのはきつかったが、とにかくオアシスからある程度の距離を離れなければならない。岩場は通り過ぎた。もしもワディたちが追ってきたとしたら、真っ先に目星を付けられる場所だからだ。
「砂の上に天幕を敷くしかないな」
「知ってる。穴を掘って横に拡げるのよね?」
「ローゼンディア人の癖に物知りだな」
「手伝ったことは無いけど、見ていたことならあるわ」
「そいつは心強い」
「駱駝はどうするの?」
「近くに伏せておくしかないな」
ホイヤムに用意させた駱駝は良く仕付けされており、主の命令が無い限りはじっとしている。きちんと天幕を張って涼む場所を作ってやれば、日が沈むまではじっとしていてくれるだろうと思われた。
半刻ほど走りオアシスが完全に見えなくなった頃、見付かりにくく、出来るだけ砂の多い場所を探した。
場所を決めると二人は協力して穴を掘り、駱駝と自分たちの休める場所を作った。
横に伸ばした天幕の上には砂を掛けて、容易には見つからないようにした。
「水の補給だけは済ませておいて正解だったな」
「そうね。火が使えないのが残念だけど、ウナと乾し肉もあるし」
「……オアシスに来ればマナナイが食べられると思ったのだがな」
ダーシュが残念そうに言った。きっとアンケヌの館で食べたマナナイのことを思い出しているのだ。だがあれほどのマナナイはそうは食べられない。
館の厨房で働いていたハヌサはマナナイ作りの名人だ。何せ舌の肥えたアイオナの父親が、自分で口説き落としてアンケヌに連れて来たほどの料理人である。
「それは次のオアシスまでお預けね」
「仕方ないな」
「それで、いつまでこうして隠れているつもり?」
「夜になったら出発する」
アイオナは驚いた。
「隠れているんじゃないの?」
「そんなことをしたらザハトの手の者が追いついてくる」
ダーシュは苦い顔をして呟いたが、どうも理由はそれだけではない感じだった。
「何かあるの?」
「何がだ?」
「誤魔化さないで。あなた何か隠してるでしょう?」
ダーシュは虚を突かれたような顔になった。
「王族だって時にもかなり呆れたけれど、この上まだ隠し事をするつもりかしら。もうここは砂漠の真ん中なのよ? 町に居る時にはそりゃあ隠すことも必要だったのかも知れないけれど、今は私たち二人きりなのよ」
そう二人きりなのだ。自分で口にした癖に、妙にどきどきしてしまう。なんて馬鹿らしいのだろう。
いつもそうだ。言ってしまってから後で心乱される。
そんなアイオナの気持ちも知らぬ風に、ダーシュは返事をしてこなかった。考えている様子だった。
「……俺は暗殺者に狙われているようだ」
暫く経ってからぽつりと呟いた。今度はアイオナが黙った。一瞬、何のことだか考えたのだ。
「ガズーって……」
記憶が確かならば、アウラシールで有名な暗殺者のことである。個人の名前ではなく、暗殺者そのものを示す言葉だ。
狙われたが最後、生き延びることは不可能であると聞く。
「それって……」
「心配するな。今日明日襲ってくるはずもない。いずれは現れるだろうが、お前は気にしなくていい。狙われるのは俺だ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「何を慌てているんだ。暗殺者が狙うのは俺一人だ。余程のことがない限り、お前が狙われることは無い」
確かに暗殺者が狙うのは標的だけで、周りの者を巻き込むことはまず無いという。
「安心しろ。必ずお前をディブロスまで連れて行く。でなければ本当に、お前に損をさせてしまうからな」
おどけたようにダーシュは言ったが、アイオナはそんな気になれなかった。
「……どうするつもりなの?」
「さてな」
ダーシュは腕を組んだ。
「山羊を連れて行くしかないな」
「山羊?」
「ああ。おそらく暗殺者を傭ったのは先の王だ。ザハトにはその必要が無いからな」
「何で?」
「奴にはケザシュが居る」
「さっき言っていたザハトの協力者ね? いったいどういう人なの?」
「奴は得体の知れぬ技を使う」
「どういう意味?」
「奴はおそらく魔道の徒だ。確證は無いがな」
真剣な顔をして言うダーシュを、アイオナはぽかんと見つめた。魔道だって? この人は何を言っているのだろうか。
「冗談じゃないの?」
「ふん。笑うがいい。ローゼンディア人のお前には所詮解らぬことだ」
「笑いはしないわよ。ただ、信じられないのは確かだけど」
魔道などというものが、そうそうそこらに転がっているわけがない。
話自体は一般に流れてはいるが、その実体は謎に包まれている、それが魔道というものではないだろうか。
アイオナ自身、魔道の使い手という者には会ったことが無い。
自称『魔道士』ならば何度か見かけたことがある。祭りの時など大道芸を披露している人たちだが、あの人たちは芸達者ではあるとは思うけれど、あれを魔道だと言われると頷けない。
とはいえ、この世には神秘が存在することは確かだ。貴族の宗家が守る聖遺物などという物もあるし、事実、現在のローゼンディア王もそれに悩まされていると聞く。あくまで噂ではあるが、王位を継ぐべき実の娘が、恐るべき呪いを身に受けて産まれてきたというのだ。
「とにかくその人は不可思議な術を使うのね?」
「ああ」
ダーシュはいい加減に返事をした。アイオナの態度が不満らしい。馬鹿にされていると感じたのかも知れない。そんなつもりは毛頭無かったのだが、また何か要らぬものが顔に出てしまっていたのかも知れなかった。
アイオナは話を変えることにした。
「それはともかく、山羊って何のこと?」
「暗殺者に契約の取り消しを求めるのさ。それには仲介者と山羊が必要だ」
「それって大丈夫なの?」
「さあな。上手くいけば死を免れるが、駄目ならその場で殺されるだろうな」
全然解決になっていないではないか。
「ともかくいつ仕掛けてくるかは向こうが決めることだ。だから俺が考えても仕方ない。今はディブロスを目指すだけさ」
「ワディはどうなの?」
「お前も判ったとは思うが、奴は愚かだ。指先と心臓が頭を介さず直接繋がっている」
要するに単純ということだった。
「でも、もうすぐであなたに斬りかかりそうだったじゃない」
「そんな度胸は無いさ。仲間がいた手前、装っただけだ」
「そうかしら?」
アイオナにはそうは思えなかった。あの場がオアシスでなかったならば本当に殺し合いになったかも知れないと思う。
「問題はあいつが仲間を引き連れてきた場合だが……」
「どうするの?」
「こっちもあれだけ強がったんだ。まさか俺たちが一目散に逃げ出すとは思っていまい。あいつが仲間に声をかけている間に、精々遠くへ逃れるとしよう」
ダーシュはにやっと笑った。
「あなたの胆力には敬服するわ」
「俺もお前の辛抱強さには感心しているところだ」
「そうなの?」
「こんな逃避行、並の女なら音を上げていても怪訝しくないさ」
「砂漠の旅には慣れているって言ったじゃない」
アイオナは口を尖らせた。何度言えばこの男は解ってくれるのだろう。
「そうではない。俺が言っているのは追われているという状況だ。恐怖という重石が心に掛かってくる。お前はそれに負けていない」
「そうかしら? 実は内心、結構怯えているのかも知れないわよ?」
「だとしたら、俺はますますお前を尊敬する」
ダーシュはきっぱりと言い切った。
「へえ、相手が女でも尊敬することがあるの?」
「立派かどうかということに男も女もないだろう」
「あなたの言葉とも思えないわね」
アイオナは砂の上に横になった。ダーシュに背中を向けた。顔がにやけてしまったのでそれを隠すためだった。
「おい、お前は俺を誤解しているぞ」
「はいはい。出発の時になったら起こしてちょうだい」
背後でダーシュが不満げにぶつぶつ言っている。アイオナは目を閉じた。
とにかく今はディブロスに行くことだけに集中しようと思った。




