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偽装の結婚  作者: 琴乃つむぎ
第一部
12/64

第十二章 決断

「ギドゥを殺したのは俺だということになっているらしい」

「ということは殺してないのね?」

 ダーシュは心外そうな顔をした。

「当然だ。殺す理由が無い」

「ではどうして?」

「おそらくザハトだろう」

「あなたの親戚だというあの人が? いったいどうして?」

「いろいろあるのさ」

 ダーシュは皮肉げに口許くちもとゆがめた。

「とにかく今はそんなことを話している余裕は無い。お前にはどうするか決めてもらわねばならん」

「どうするか、とは?」

 アイオナは緊張した。

「俺と来るか、それとも屋敷に留まるかだ」

 予想していた問いかけではあったが、はっきり言われると重かった。身体からだが縮こまるように感じた。

「どちらにしても危険であることに変わりはない。ここに居ればザハトが殺しに来るかも知れんし、俺と来ても安全の保證ほしょうは無い。最悪の事態になった」

「なぜわたしの生命いのちが狙われなければならないの?」

 その質問にダーシュは渋い顔をした。言いたくなさそうな感じだったが、ぼそりと答えた。

「俺と結婚したからだ。おそらくザハトは勘違いしている」

 アイオナは少し考えた。言葉の意味を理解すると、腹が立ってきた。

「冗談じゃないわ」

 ダーシュの生命いのちを助けるために結婚したというのに、それがために自分の生命いのちまでもがおびやかされるだなんて!

 アイオナはダーシュをじっとにらんだ。

嘘吐うそつき」

 ダーシュは苦い顔をした。

「どういうこと? 話が違うじゃないの。絶対損はさせないって言ったじゃない!」

「すまない。よもやこんなことになるとはな」

 ダーシュは真剣な眼差しでアイオナを見つめた。

「だがこれだけは信じてくれ。これから先の状況がどうなろうと、お前を護るという約束を反故ほごにするつもりは一毫いちごうたりとも無い」

 力のもった言葉である。その言葉、その眼光の強さに、アイオナは魅了されたように固まった。胸だけがどきどきしていた。

 ダーシュはわずかにわらった。

「反故にはしない、と断言出来ぬのが情けぬところだが……俺の力が及ばぬことはあり得る。アルシャンキの思し召しは、定命じょうみょうの人の身には計り知れぬものであるしな。だから、どうするかはお前が決めるのがよかろう」

 アイオナは小さく溜息ためいきを吐いた。

 降って湧いたような事態に驚いて、思わず文句を言ってしまったが、こうなってしまったのはダーシュの所為ではない。ダーシュは誠心誠意で自分に接してくれている。それは承知しているはずだった。今朝、すべてはヘキナンサの思し召しだと言ったのは、他ならぬ自分ではないか。それなのにダーシュに向かって怒りをぶつけるとは、なんと無様ぶざまなことだろう。

「……ごめんなさい。嘘吐き呼ばわりなんかして。あなたはよくしてくれてるのに」

 気持ちを改めて、アイオナはダーシュを見つめた。

 だが聞かなくてはならないことがある。

 もし、自分が逃げたとして、屋敷の者達はどうなるのか? ヒスメネスは? エニルは? 水場で働いてくれている女達は? 馬や駱駝の世話をしてくれた使用人達は?

 ダーシュは「ザハトは勘違いしている」と言った。

 この言葉は重要だ。

 つまり、問題はダーシュの背景にあるのだ。それが何であるのかはまだ解らないし、簡単に聞けるような話でもないだろう。

 だが間違いなく彼の親類であるザハトはそのことを重視している。それは則ち、アイオナとの結婚が焦点になっているという事だ。

 ならば自分がこのアンケヌから消えた場合どうなるのか?

 残された者達は用無しとして放置されるのか? それとも人質になるのか? もっと悪ければ殺されるのか? そこについてのダーシュの見解を聞いておきたかった。

「屋敷の者達はどうなると思うの?」

「ザハトは無関係な者に危害を加えることはないが……場合によっては人質にされることはあるかも知れぬ」

 やはり。だがそれはどうしようもない事でもあった。

 今から使用人達に暇を出しても、後になって捜索されたら必ず捕まる者が出るだろう。

 全員の安全を確保することなど、土台無理な相談なのだ。

 アイオナは目を閉じた。決断の時だった。

 こういう事はあるのだ。

 生きている以上必ずこういう重大な決断を迫られる事はある。

 幼い頃から父親に教えられてきた。決断は早く、行動をより早く、と。

「わたし、あなたにいていくわ」

 その義務は無いものの、ダーシュの誠意には応えたいと思った。使用人たちのことが心配ではあったが、そちらはヒスメネスがなんとかしてくれるに違いない。そう信じるしかない。

 ダーシュは僅かに目を見開いた。アイオナはなんだか照れ臭くなった。

「……だって、あなたの所為だもの。責任取ってわたしを護ってくれないと困るわ」

 ダーシュは微笑んだ。

「そうだな」

「それで、いつここを出るの?」

「今だ。すぐに用意をしろ」

 アイオナは驚いたが、黙ってうなずいた。ダーシュを部屋から出すとすぐに準備を始めた。

 持って行ける物は限られている。着た切りすずめは覚悟の上だ。水と食べ物、後は途中の物物交換で役立つ砂金や宝石ぐらいしか持っては行けない。

 駱駝らくだの苦労を考えなくては。これらの荷物に加えて自分が乗るのだ。もしも欲張り過ぎれば砂漠の真ん中で後悔することになるだろう。駱駝は突然に死ぬ。馬とは違う。

 荷物をまとめ、ひもくくり終えた頃、ダーシュが部屋にやって来た。

「手伝おう」

 とダーシュは言って、驚いたように固まった。

「お前……」

「この恰好かっこう?」

 アイオナはローゼンディア風の貫頭衣かんとういから、アウラシール風の長衣ケスに着替えていた。生地のままの亜麻布で作られた体を覆い尽くすような衣服である。

「召使いの物をちょっと拝借してきたんだけど、いいわよね? 今は非常時なんだし。無事に事が済んだら、彼女に事情を話すわ」

「ああ。その方が目立たないでいい。それで荷物の方は?」

「もうすぐ纏め終わるわ」

「一人で出来たのか?」

「こう見えても交易商人の娘よ。荷物を纏めるくらい一人で出来るわ」

 ダーシュは驚いたような顔をしている。おそらく今まで、自分のことはただのお嬢さんだと思っていたのだろう。

 心外だ。このアイオナ、やがては家業を継ぐ身である。

 幼い頃から厳しく仕込まれている。ちなみにヒスメネスも、ある時期机を並べて講義を共に受けていた。その頃から父が目を懸けていたということだ。

 その判断は正しかった。ヒスメネスは今、父の右腕として働いてくれている。

「でも、今の状勢で進発している隊商があるの?」

 アンケヌは混乱している。必要物資の補給以外で隊商の出入りがあるとは思えない。

 あるとすれば逃げ出す連中だが、そういう所には当然、警戒の目が配られていると見ていい。いや、そもそも町の出入り全てに注意が払われるのではないか?

 だとすれば、ダーシュが今すぐと言ったのも合点がいく。

「隊商は使わん。俺とお前の二人で行く」

「冗談でしょ? 野盗の餌食になりに行くようなものだわ」

 交易商人は必ず隊商を組んで旅行する。

 でなければ間違いなく野盗に襲われるからだ。

 商人でなくとも、長距離の移動は必ず隊商の後なりに付いて、多人数で移動をするのが鉄則だ。もちろんその中に護衛の傭兵が混じっているのは言うまでもない。

「安心しろ。俺は安全な道を知っている。万一襲われてもどうせこの周辺を根城にしている連中だ。俺の顔を見れば黙って通すさ」

「本当に? 懸賞金が掛けられていたりはしない?」

「俺はハダクのかたきを討ってギドゥを殺した男だぞ? この辺りの盗賊連中はみんなハダクの息がかかっている。むしろ歓迎されるさ」

 かけられた濡れ衣を逆利用しようということか。

 悪知恵だが、冴えたものだと思った。

「ハダクって部下に愛されていたのね」

「金払いが良く、しかも公平だったからな。男気もあった。強欲だったがな」

「典型的な野盗の頭目という感じね」

「ああ。だが死んでしまっては意味がない」

 アイオナは頷いた。そう、死んでしまっては意味が無いのだ。

「水はどのくらい持って行けるかしら?」

 隊商に付かない以上、水は自前で用意する必要がある。

 言葉にすればそれだけだったが、これにはどこを目指すのか? どの経路を想定しているのか? そしてこの言葉の意味を、ダーシュがきちんと理解出来ているかどうかの試しの意味がある。

 ダーシュはしばし考えた。

「……そうだな。最低限でいい。更に要り用な分は途中で手に入れた方がいいだろう」

「当てがあるのね?」

「ああ。途中でオアシスに寄る」

「目的地は?」

「ダルメキアを目指そうと思う。ディブロスの町だ」

 ディブロスはローゼンディア人の植民都市である。ミスタリア海沿岸にある都市で、長い歴史を持っている。

「そこならお前の身を護るのも容易たやすくなるだろう」

「問題はそこに行くまでということね」

 アンケヌからディブロスに向かう場合、西に向かうことになるが、真っ直ぐには進めない。二つの山脈が横たわっているからだ。

 そこで山脈を迂回うかいするわけだが、すると南北二つの経路が考えられる。

 北回りの経路はエルメサ砂漠を抜けて、古都エルメサを通る道だ。この経路だとエルメサを出た後は、更に二つの経路に分岐する。

 一つはエルメサ峠を目指して西に進み、そこからミスタリア海を目指して海沿いを南下する道だ。

 もう一つはエルメサを出た後はイビドシュ山脈沿いに南下して、アルシャダールのオアシスからイビドシュ山脈を超えて西に出る道だ。

 南回りの経路はほぼダルメノン山脈沿いに南下して、古都ザナカンダを目指す。ザナカンダを出てからは北上し、イビドシュ山脈を越える道だ。

 どの経路を選ぶにせよ、どこかで山脈を越えねばならない。もっとも楽なのがエルメサ峠を越える道だが、この道は古代から多くの人々が通ってきた道であり、歴史上の戦争で、幾度も軍隊が通った重要経路でもある。つまりは有名すぎるのだ。

「どういう経路を通るつもり? エルメサを通るにせよ、ザナカンダを通るにせよ簡単に素通り出来るとは限らないわよ」

 エルメサもザナカンダも大都市だ。エルメサはともかく、ザナカンダはリムリク地方で最も古く伝統のある都市で、新ナーラキア帝国の帝都でもあった都市である。

 双方とも常に多くの人々の出入りがある為、何かの事故に巻き込まれたりした場合、町を出られなくなる危険がある。

 おまけにこの二つの都市は独立した都市国家で、それぞれの都市に支配者の王が居る。

 アンケヌもそうだが、基本的にリムリク地方もやはりアウラシールであり、都市国家が広大な大地に点在している状態なのである。

「どちらも通らん。先程も言ったろう? 俺は安全な道を知っていると」

「直接二つの山脈を越えるの?」

 それは余りにも無謀ではないだろうか?

 今の季節を考えると、昼間の移動は死の危険があるのではないか。

 アイオナは以前父親から聞いた、余りの暑さに墜落したという鳥の話を思い出した。狂っていると思った。

 かといって夜に山脈越えなど不可能だ。確実に墜落死する。

 アイオナは少し考えた。

「安全なだけでなく……あなたしか知らない道があるのね?」

 ダーシュは面白そうに眼を細め、口角をわずかに上げた。何だか悪戯いたずらを計画している子供のような笑い方だった。

「なあ一つ聞いていいか? ローゼンディアの女は、皆お前みたいに頭が回る奴ばかりなのか? だとしたら、かつて俺の一族がナバラ砂漠の北で死ぬ破目になったのも納得できる」

「どういう意味?」

「気にするな。昔の戦争の話さ」

 怨み言を言っている風ではなく、むしろダーシュは楽しそうである。

 話の繋がりが全く見えない。今はディブロスへ向かう経路をどうするかという話をしているはずだ。

 アイオナは少し気になったが、取り敢えず今はいて逃走経路に話を戻すことにした。

「エルメサもザナカンダも通らないで、どうやってディブロスに出るの?」

「まずはベラルのオアシスを目指す。そこから西に進んでダルメノン山脈に入る」

「無茶よ」

「まあ話を最後まで聞け」

 ダーシュは手でアイオナを制した。それから軽く周囲を窺った。いつもの感じと違う。

 どうやら本当に他の人には聞かせたくない話らしい。

「実はな……」

 声を潜めるとアイオナに顔を近づけてきた。

 アイオナは反射的に後退りしそうになったがぐっとこらえた。

 初めて顔を合わせた時はともかく、見慣れた今であっても、凛々しく整ったその顔に迫られると緊張してしまう。

 極力平静を保とうと努めているが、自分が変な顔をしていないか気になる。

 いちいち意識してしまうのが実に馬鹿らしくもあり、憎らしい顔だと思う。

「あの二つの山脈には、地下通路がある」

「……本当?」

「本当だ。ただ、俺も使ったことはない」

「あなたはどうしてそんな事を知っているの?」

「それは今はいておけ。とにかくあそこには地下通路がある。といっても人間が作った物ではないらしいがな」

 それでアイオナには話が解った。おそらく太古の昔にジャグル達が掘ったものだろう。

 悪の種族と一括される中にあって、ジャグルは最も人類に近い種族とされる。ただし彼らは地下に住む。

 ヴァリア教の神話によれば、ジャグル達は邪神ゲオルギウによって作り出されたとあるが、この辺は諸国の神話によって違いがあるので本当の所は判らない。

 そして問題なのは連中の出自ではなく、行動様式である。

 ジャグルを含め、悪の種族と呼ばれる連中は一貫して人類に敵対的である。

 彼らが悪の種族と呼ばれるのにはちゃんとした理由があるのだ。

「ジャグルに遭遇したらどうするの?」

「連中があそこをにしていたのはナーラキア帝国が在った頃の話だぞ? 今は一匹だって残ってはいないさ」

「言い切れるの?」

「少なくともあの周辺に暮らす連中から、ジャグルに襲われたという話は出ていないんじゃないか?」

 確かにそうである。もしもジャグルが地上に出現したとなれば大事である。

 何故ならジャグル達は全人類共通の敵であるからだ。国や民族の如何を問わず、必ずそうした事件は広く知られることになる。

「それにあの辺りの森林にはドルム人がいる。どのみち地上は通れん」

 ドルム人は特定の国や都市に属さず、イビドシュ山脈の周辺に暮らす民族だ。しかも遊牧民ではなく定住民である。

 単に特定の国や都市に属さないというだけならば話は判る。アウラシールやダルメキアにはそうした遊牧民の部族が幾つもあるからだ。しかし定住しているのにいずれの国にも属さないというのは妙な話である。

 だがそれには理由があるのだ。

 イビドシュ山脈の周辺は、イビドシュ杉と呼ばれる木が群生する広大な森になっていて、ドルム人はその森の中で暮らしているという。

 イビドシュ杉は高級木材として広く世に知られた植物だ。古代からローゼンディアの神木、シトロリオンと並んで有名である。

 この木は高地にしか自生しない。つまり山脈の周辺にしか生えていないのだ。

 その森林の主な部分はダルメキアの国内にあるが、問題はリムリク地方にある部分で、ここがいつも周辺の都市の間で奪い合いになっている。

 こうした政治的な状況がドルム人の存在を認めてきたと言える。

 ドルム人は他の民族や、周辺の国と接触をすることはほとんど無く、自分たちだけで暮らしている人々なのだ。その実態は明らかになっていない。謎の民族なのだ。

 ただ、外部の連中に対して好意的ではないようだ、という程度の情報はアイオナも持ち合わせており、そしてそれは周辺諸国の間でも常識であった。

 ドルム人はイビドシュ杉を神聖視しており、その森を神そのものだと考えているらしい。

 それゆえイビドシュ杉を建材や船材として伐採に来る余所者よそものには、容赦しないと言われる。

 古来より多くの伐採人がドルム人に殺されており、逆にドルム人達も、それこそナーラキア帝国のあった時代から、軍隊によって殺されてきている。

 ジャグルとは違った意味で、ドルム人達も、やはりアイオナ達のような普通の人々を敵視しているのだ。

 時折、ドルム人達を取り込もうとする支配者が現れるが、今のところ誰一人成功していない。

 彼らにとってイビドシュ杉は神にも等しい。それに斧やのこぎりを入れることを認めさせようという方が、どだい無茶な話なのである。

「地下を行く方がよっぽど安全だぞ。ドルム人に出遇でくわせば、おそらく問答無用で殺し合いになる」

「そうね」

 アイオナは頷いた。

 きっと大変な逃避行になる。そう感じた。

 地上を行った方が楽かも知れない。しかし地上を行けば痕跡を残す。何らかの形でそれは必ず残る。

 しかも追う側のザハトは軍隊を持っているから、複数の経路を同時に追跡できる。

 つまり外れがないのだ。予想される経路全てに追っ手を放てば、その中のどれかが自分たちに追い付いてくるだろう。

 ザハトを出し抜くには、ザハトの知らない経路を通るしかない。

「あなたの知っているっていう、その地下通路? ザハトは知っているの?」

「わからん。だが、何らかの形で知っている可能性はあるな」

「もし知られていたらその経路にも追っ手を放たれるわよ」

「先行するのは俺達だ。先に地下通路を抜けてしまえば、追っ手を食い止める方法がある」

 ダーシュは自信がありそうだった。

 しかしアイオナはまだ不安だった。不安だったがいていくと決めた以上、判断は下さねばならない。

「……あなたの言う道で行きましょう。ザハトが知らなければ完全に出し抜けるし、知られていたにしても、地下通路さえ出てしまえば何か手があるのね?」

「ああ」

 ダーシュが頷く。それでアイオナもいたずららに、不安点について考えるのを止めた。

 考えれば不安は限りないのだ。例えば、首尾よく地下通路を抜けられても、他の経路で進んでいた追っ手が先回りしていたら? それは不可能ではないかも知れないのだ。

 あのゴーサの傭兵達が、ディブロスの手前で待ち構えている情景を想像したらぞっとした。

 アイオナは目を閉じた。考えても無駄だと思った。最も重要なのは時間なのだ。安全が保證された経路など無いし、結果としてとにかくディブロスに入ってしまえば、それでこちらの勝ちなのだ。

「急ぎましょう。時間こそが黄金よりも大事だわ」

「その通りだ」

 ダーシュが再び頷いた。

「きっと大変な逃避行になるわね」

「ああ、だが俺が考えていたよりも楽になりそうだ」

「旅の前からそんなことを言うもんじゃないわ」

「いや……」

 ダーシュは軽く首を振った。

「お前は賢い。不要な手間がかかることは無いだろう」

 それは自然な言い方だったので、最初アイオナは誉められているとは感じられなかった。

 言葉の意味が解ってくると、誇らしさと同時に恥ずかしさを持った。

「誉めても何も出ないわよ」

 自分でも、どうしようもない返事だと思った。もっと情緒のある言葉を返すべきだった。

 折角せっかく、ダーシュが誉めてくれたのだから。

「おおアルシャンキよ。我が妻の舌に慈悲の力を与えたまえ」

 しかし憎たらしい返事にもかかわらず、ダーシュは笑っていた。

駱駝らくだはどうするの?」

 屋敷の駱駝を連れて行ったら、後でヒスメネスが困るかも知れない。

「今はこの屋敷に駱駝はいない」

「え?」

 いつも二頭ばかりは厩舎きゅうしゃつないであるのだが。

「どうしたのかしら?」

「今朝になってヒスメネスが連れて行ったそうだ」

「なんでかしら?」

「そうだな……」

 ダーシュは何か思うところがある様子だったが、何も言わなかった。

 旅支度たびじだくを整えて外に出た。すると護衛たちが歩み寄ってきた。屋敷の前庭を警護していた三人だった。

「ご苦労さま。あなたたちのおかげで助かるわ」

「お嬢様?」

 日はすでに落ちていたが、アイオナは目深まぶかに布をかぶっていたため、護衛の男たちには判らなかったようだ。

「悪いけれど退いてくれるかしら」

 アイオナの言葉に、男たちは困ったように顔を見合わせあった。

「それは……お嬢様お一人ならいいんですが……」

「ふん。やはりな」

 ダーシュが短く吐き捨てた。アイオナはどきりとした。どういう意味だろうか。

大方おおかたこいつらは、俺をこの屋敷から出さぬようヒスメネスから命じられておるのだろうさ」

「なんですって」

薄々(うすうす)感じてはいたがな。奴はザハトと手を組んだということだ」

 ダーシュの手がそろりと腰に動いた。剣を抜くつもりだ。アイオナは総毛そうけ立った。

 反射的に手を伸ばし、ダーシュの右手首をつかんだ。こんなところで戦われてはたまらない。

 しかも相手は店の、屋敷の傭兵ではないか。敵ではないのだ。

「ダーシュ。ここはわたしに任せて」

 有無を言わせぬ口調でささやくと、アイオナは護衛たちに向き直った。

「あなたたち、ヒスメネスから命じられているのね」

 ダーシュを外に出さないようにと。

 となると少し不思議だ。ダーシュは情報を集めに町に出ている。どうやって屋敷を出ていたのだろう? アイオナはダーシュに振り返った。

「ダーシュ、あなた一度も正門を通っていないわね?」

「この屋敷は広いからな。五人で見廻っていても穴はあるさ」

 あきれた。何故そのことを自分に打ち明けなかったのだろう。腹が立ったが今はそれどころでない。アイオナは再び護衛たちの方を向いた。

 さて、なんと言って説得したものだろう。出来るだけ高圧的な態度はけたい。道理で解らせるのが最も良い。常々(つねづね)父もそう言っている。

「……あなたたちの雇い主は誰かしら?」

 優しく問いかけた。護衛たちはお互いを見合わせてから、

「ヒスメネス様です」

 と答えた。少しがっくりきたが、予想の内の答えでもあった。

「そのヒスメネスを雇っているのはわたしの父なのよ。そのことはご存じ?」

「はあ……」

「つまりあなたたちの雇い主は我が父ファナウス・メルサリスなのよ。だからあなたがたは父の命令にこそ従うべきであって、ヒスメネスの命令はそれに次ぐものとして扱われるべきだわ」

 あくまで最上位者は自分の父親なのだ。それを思い起こさせなければならない。

「そしてやがては店を、家業のすべてを継ぐことになるのはこのわたし。つまりあなたがたが尊重すべきはヒスメネスではなくてこのわたしだということよ」

「うーん……」

 護衛たちのリーダー格であるオルダニスが腕を組んだ。考えているというよりも困っているようだ。

 厳つい外見をしているが、落ちつきのある男で、知恵も回り、無論腕も立つ。

「しかしですねえ……」

「ではわたしが許可したという證拠しょうこを置いていきましょう」

 アイオナは切り札を出した。ふところから守り刀を抜いた。そのまま自分の髪の毛をつかむと、刀で切り取った。

「これを置いていくわ」

 ひと握りの髪の毛をオルダニスに向けて突き出した。

「あなたがたにきんや塩を支払うのはヒスメネスではないの。このわたしなのよ。近い将来にそうなることになるわ。必ず」

 これがとどめの台詞せりふだった。出せるふだはすべて場に出した。後はオルダニスが賢明であることを祈るだけだった。

 護衛達への報酬は金銀の硬貨、そして塩だ。硬貨が無い場合は砂金や棒銀、粒銀などの事もある。

 意外なのが塩である。内陸部では塩が貴重品ということがよくあり、きんなどと共に仕事の対価として流通しているのだ。

 元々塩は金と並んで珍重される交易商品なのである。

 ただしここアンケヌではその価値は低い。何故ならアンケヌは近くに塩沢があり、塩が容易に採れるからだ。これは内陸都市としては特殊な例と言える。

 それでも塩が報酬として支払われることがあるのは、アンケヌの市民にとっては貴重品でなくとも、外から来る商人にとっては十分に価値がある交易品だからだ。

 もっともアイオナには、塩が貴重という感覚はいまいち理解出来ないのだが。

 それはカプリア地方で生まれ育った所為せいだろう。ミスタリア海に面し、塩に苦労することなどないからだ。

 オルダニスは難しい顔をしたまま、アイオナの持った髪の毛をにらんでいた。

 しばらく黙ってそうしていたが、やがてふっと微笑ほほえんだ。

「仕方ありませんな」

「ありがとう」

 アイオナも微笑んだ。

「町をお出になるんですか?」

「あら? ヒスメネスに報告するつもりかしら?」

「まさか」

 オルダニスは笑った。が、もちろんそうするかも知れない。自分とヒスメネス、両方に対していい顔が出来れば、彼にとっては一番の利益なのだから。

「残念だけどそれは教えられないわね。ところで、ヒスメネスに一つ伝言を頼まれてくれる?」

「ほう。なんと?」

「もしわたしを裏切ったら承知しないから。そう伝えておいて」

「かしこまりました。お嬢様」

「ありがとう。恩に着るわ」

 アイオナは頷き、ダーシュをうながした。護衛たちは道を空けてくれた。

 正門を出て少し歩くと、ダーシュが話しかけてきた。

勿体もったい無いことをする」

「何が?」

「髪だ。折角せっかく見事みごとなものを……」

 不満げなつぶやきにアイオナは少し驚いた。そういうことを気に掛ける男だとは思っていなかったのだ。

「ふーん。あなたって意外に馬鹿なのね」

「馬鹿とはなんだ」

「馬鹿だから馬鹿と言ったのよ。あの状況で砂金でも出せば良かったというの? それともあなたが持ってる包みの中から髪飾りでも?」

 砂金に加えて宝石類、アイオナ自身の装身具、貴金属を持ってきているのだ。いざという時に水や食糧と交換したり、賄賂わいろなどとして使うためである。

「ヒスメネスへの證拠しょうこなのだから、説得力さえあれば、別に高価な物である必要は無いのよ。あの場合は最も正しい選択だったと思うのだけれど、あなたは何が不満なのかしら?」

 アイオナはわざとらしく首をひねって見せた。ダーシュはますます不満そうな顔になった。

「お前の判断が正しかったことは認める。だが気に入らん」

「……やっぱり馬鹿だわ」

先程さきほどから聞き捨てならぬ言葉を立て続けに言ってくれるな」

「そうよ。感謝しなさい。自覚出来ればその分あなたは賢くなるわ」

 何だか楽しくなってきた。足取りが軽くなる。

「それで、これからどこへ行くの?」

「西側の壁だ」

「門じゃないのね」

「ああ。おそらく門は見張られている。だから――」

 ダーシュはそこで声をひそめた。

「隠し通路を使う」

「そんなものがあるの?」

「ああ。俺しか知らん」

「へえ……」

 アイオナはどきどきした。謎の地下通路といい、まさしく脱出行ではないか。

 でも少し考えた。

「まさか……変な虫とか、ねずみとか居ないでしょうね?」

「さあな」

 とぼけるようにダーシュは言った。

「ちょ、ちょっと冗談じゃないわよ!」

「冗談は言わん」

 澄ましてダーシュは答える。

「俺とて使うのは初めてだ。どうなっているかなど知ったことか……なんだ? その嫌そうな顔は?」

 いつの間にか立場が逆転していることに気付いた。おそらく今まで自分が調子に乗っていた分、これからはダーシュによる報復があるのだろう。

さそりや蛇が出るかもしれんなあ……」

 とぼけた口調でつぶやきながら、ダーシュはすたすたと歩いていく。なんと性格の悪い男だろう。自分も人のことは言えないが。

 アイオナは早足でダーシュの後を追った。


   *


「出て行った、と言うのですね?」

「はい」

 ヒスメネスの問いにオルダニスは頷いた。悪怯わるびれる様子も無い。だがそのことに腹は立たなかった。彼が聞かされたというアイオナの言い分は、もっともなのだ。

「追いかけますか?」

「まさか本気で言っているのではないでしょうね?」

 苦笑しながら言うと、オルダニスは悪戯いたずらっ気のありそうな笑みで答えた。言葉は無い。無言である。

「解りました。後で手を借りるかも知れませんが、その時はお願いします」

 オルダニスを部屋から出してしまうと、ヒスメネスはケザシュに目を向けた。

 昨夜ザハトに紹介された男である。王宮から帰ってくる時にいてきたのだが、何故なのかは判らない。

「俺はザハトに協力はしてるが、従っているわけではない。つまり俺はお前のお目付ではない。俺のことは気にするな。お前の不利益にはならんさ」

 そう言うのだが、この男が何のため、自分に付いているのかが判らない。

 今は長椅子に横たわりながら時々干し葡萄ぶどうを摘まんでいる。

 だらしない姿ではあるが、油断よりも剣呑けんのんさを感じさせる何かがある。

「結局どうするのだ? ダーシュを追って捕まえるのか?」

 この男は得体が知れない。「役に立つだろう」とザハトは言っていたのだが、一体どういう特技、能力を持つ男なのか。

 一つだけヒスメネスには心当たりがあったが、口に出して言う気にはならなかった。それはとても嫌な予想だったからだ。

「とはいえ、ダーシュは長くはなかろう」

「あなたが殺すのですか?」

 その問いにケザシュは軽く笑った。

「まさか。そこまでしてやる義理は無いさ」

 ザハトのことを言っているのだろう。

 それにしてもこの男とザハトとは、一体どういう関係なのだろう。主従という感じではないし、友人という感じでもない。そのくせケザシュはザハトの指示に従って動いているようである。

 ケザシュ本人も家臣ではないと言う。よく判らない。この二人の関係については把握しておきたいのだが。

「では何故、ダーシュは長くないなどと言えるのです?」

「奴は暗殺者ガズーに狙われている」

 その言葉には多少驚いた。アウラシールで恐れられる暗殺者の名前が出てくるとは思わなかったからだ。

「……誰が雇ったのでしょうか?」

「先の王さ。お前の主人と、いや主人の娘か、それとダーシュが結婚すると聞いて、小心な奴はふるえ上がったのさ。だが当の雇い主が死んでしまっては意味が無い」

 馬鹿にするように、ケザシュは乾いた笑い声を立てた。ヒスメネスは笑わなかった。

「ではその場合は契約はどうなるのでしょう? あなたの話からするとそれでもダーシュは生命いのちを狙われるようですが」

「代価は先払いだからな。問題は無い。信用のためにも暗殺者ガズーは必ずダーシュの生命いのちを狙うはずだ」

「お嬢さんには危険は無いのですか?」

 それが一番重要なことだった。

「出来るだけ無関係な人間は巻き込まないようにするはずだが……いかんせん殺しだからな。何があるかは判らんさ」

 ケザシュは身を起こし、卓上から水差しを取って自分の器に注いだ。水を飲みながら、ヒスメネスにうかがうような目を向けてくる。

「……もっともその方がお前にとってはよいのではないか?」

「何故そう思うのです?」

「あの女が消えればメルサリス商店に跡取りは居ない。腕の良いお前が後釜あとがまに納まる公算は高いだろうさ」

「なるほど。一理いちりありますね」

 そのようなことは考えたことも無かったが、ヒスメネスは敢えて感心した風に見えるよう演技した。

「まあ好きにすることだな。ザハトやお前の考えていることに、俺はそれほど興味は無い」

「では何故力を貸すのです?」

「それを答えるわけにはいかんな」

 ケザシュは鼻で笑った。やはり知恵の回る男のようだ。

「お前の目的に俺が関係無いように、俺の目的にお前たちは関係無いはずだ。それに俺の役目はもう済んだ。ギドゥを殺した時にな。この先俺がお前たちの問題に関わることは無いだろうさ」

「一体どうやってあの強者を殺したのですか?」

「ふん。簡単なことだ」

 ケザシュはなんでもないように手を振った。

「戦士は剣がすべてだと思っている。だが実はそうではない。人は多くのことに惑わされるし、それらに付け込むすべを正しく心得ている者にとっては、屈強な戦士であっても容易たやすたおせる場合があるものさ」

「どうやって、ダーシュに成り済ましたのですか?」

「知りたいか?」

 ケザシュは人の悪い笑みを浮かべた。

「ええ。ぜひ」

「その器を見るがいい」

 言われて、ヒスメネスはケザシュの指差した器に目を凝らした。先程注がれた水がまだ残っている。

 突然、その水が噴水のように噴き上げた。ヒスメネスは驚き、反射的に身を退いた。

「何をやっている?」

 ケザシュが低く聞いてきた。

「水が……」

「水が、どうした?」

 言われて器に目を戻した。水は噴き出していなかった。卓も濡れていないし、そもそも器の中に水はそのままに残っている。

「そんな……」

「かように人の目とは信用の出来ぬものさ。ギドゥが俺をダーシュと見間違えたとしても、無理のないことだとは思わないか?」

 ケザシュは低く笑った。やがて哄笑こうしょうになった。悪意のある笑い声。しかしその目は不気味に輝き、まったく笑いを浮かべてはいないように見えた。

 ヒスメネスは半ば放心しながら、その様を見つめていた。

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