第十一章 異変
ダーシュが帰ってきたのは夜遅くだった。隠れるように帰ってきたわけではないが、それでも物音を立てないようにしているのが判った。もう屋敷の者たちは寝静まっているからだ。
「おかえりなさい。遅かったわね」
ダーシュが部屋の前を通ろうとした時、アイオナは姿を見せて声をかけた。
「まだ起きていたのか?」
「ええ。さっきまで仕事をしていたの」
本当だった。ただ、床に入ってからも寝つけなかったわけだが。
ダーシュは少し酒臭かった。
「食事は外で済ませてきたの?」
「ああ」
「じゃあ後は寝むだけね。おやすみなさい」
言った直後、酒の臭いに混じって脂粉の香りが漂ってきた。ダーシュからである。
アイオナは衝撃と共に事情を悟った。
……なるほど、行き先が言えないわけだ。女を買いに行ったのか、恋人に逢いに行ったのかは判らねど、いずれにせよ女に逢いに行くとはさすがに言いにくいだろう。
アイオナは哂いたくなった。
てっきり自分たちの今後に関することで何かをしに行ったのだと思っていた。なればこそ深く追求もしなかった。なんと愚かしい思い込みであったことか。勘違いも甚だしい。
ともあれ所詮は仮初めの夫婦である。本当の夫婦ではないのだから、ダーシュが自分以外の女に逢いに行っても問題は無いはずである。いや、夫婦間以外の性交渉が許されていないローゼンディアとは違い、アウラシールならば本当の夫婦であっても問題は無かろうが。
しかし、そうは思えど気分は良くない。なんだか裏切られたような感じがする。ダーシュは契約違反をしたわけではないのだから、そう感じるのは自分の勝手なのだけれど。
「おい、何を考えている?」
ダーシュが訝しげに声をかけてきた。また顔に出てしまっていたのだろうか。アイオナは羞恥を感じて顔を背けた。
「……別に」
不機嫌な声が出てしまった。
「疲れてるんでしょ? さっさと寝たら?」
ダーシュは不思議そうにアイオナを見、それから何かに思い当たったように苦笑した。
「ふん、そうか。嫉妬か」
アイオナは顔を赧め、ダーシュを睥んだ。
「なんでわたしが嫉妬しなくてはならないのよ!」
「安心しろ。お前の勘違いだ。女に逢いに行ったわけじゃない」
「誤魔化すことはないわ。あなた、女臭いもの」
言われてダーシュは自分の匂いを嗅ぎ、舌打ちした。
「女は居たが何もしてない」
「なんで?」
その後に続く言葉は、「嘘を吐くの?」でも、「何もしなかったの?」でも、どちらでもよかった。
「別にわたしに義理立てることはないわよ。仮初めの結婚なんだし、それ自体今や意味の無いものでしょ?」
アンケヌの兵から逃れるために結婚したのだ。アンケヌが盗賊の手に渡った今となっては、逃げ隠れする必要は無くなった。つまりは結婚している必要も無くなったはずである。
ダーシュは苦笑した。
「義理立ててるわけじゃないさ。単に気乗りしなかっただけだ」
「あ、そう……」
落胆混じりの羞恥を感じて、アイオナは俯いた。これでは自意識過剰ではないか。
ダーシュは笑った。
「期待に添えなくてすまんな。なんなら期待に応えてやってもよいぞ」
と、アイオナの髪に触れてきた。
その瞬間、怒りが噴き出した。アイオナはダーシュの手を乱暴に払い退けた。
「余計なお世話よ!」
その剣幕にダーシュは驚いたように手を引いた。揶揄うような笑みも姿を消している。
アイオナは更にひと睥みを加え、自室に戻った。
後ろ手に扉を閉めると嫌な気持ちが胸を上がってきた。
最近、このような状態で部屋に戻ることが多いと思った。不愉快と言うよりも遣る瀬無い気持ちになる。
翌朝になっても気分は霽れなかった。自分に怒る権利が無いことは解っているのだが、腹が立って仕方がない。誰の顔も見たくなかったので、部屋で朝食を摂ろうと思い鈴を鳴らしたが、誰もやって来ない。
こういう時に限って思うように事が運ばない。
しかも妙に静かだ。屋敷の中が静まっている。人の気配が無いわけではない。だが静かだ。
でもこれも良いかも知れない。こういう気分の時には。
アイオナは膝を抱えるようにして寝台に坐り、じっと目を閉じた。
気持ちを振り回しては駄目だ。これは自分とダーシュの問題だ。屋敷の者たちは関係……なくはないけれど、このことには無関係だ。
自分を言い聞かせようとしていると、不意に部屋の扉が敲かれた。驚いた。
「誰?」
「俺だ」
なんとダーシュの声だった。しかも勝手に扉を開けて入ってくる。
「勝手に入ってこないで」
「夫が妻の顔を見るのに遠慮する道理は無い」
「出て行って」
大きな声は出なかったが、はっきりとした拒絶を込めて言った。
「鈴を鳴らしたのはお前だろう? 召使いが誰も行かないようだから、俺が代わりに来てやったというのにその言種はなんだ」
非難するようなダーシュの声を聞いていると無性に悲しくなってきた。
何故このような目に遭わなければならないのだろう。神罰が下るようなことをした憶えは無いのだが。それとも妖精が悪戯をしているのだろうか。
「おい……泣いているのか?」
「出て行って」
ところがダーシュは出て行かない。逆に近づいてきて、事もあろうに隣に坐った。アイオナは目を剥いた。殴りつけてやろうと思って手を振り上げた。
「すまん」
アウラシールの男とも思えない言葉が出た。アイオナは手を止めた。
「もっと……あなたには良い結果を生むと思ったのだが、私の考えが足りなかったようだ。赦して欲しい」
ダーシュは静かな顔で、壁に掛けられた綴れ織りを見ながら語りかけてくる。
「私はあなたの身命を護ると契約をした。それゆえにまだここを離れられぬのだ。状況は私が予想していたようには動いていない。この先、更なる混乱が起こる公算が高い。その時に私はあなたの傍に居なければならぬ」
「……」
「昨夜は無礼を働いた。異国の人間であるあなたに対して取るべき態度ではなかった。どうか赦して欲しい」
綺麗なイデラ語である。市井の人間が使う言葉ではない。
「私が屋敷を離れれば、この家の者たちは皆殺しにされるやも知れぬ」
アイオナは息を呑んだ。
「ヒスメネスが動き回っているようだが、それがどう出るかは判らぬ。いずれにしろ私とあなたが結婚したことを、良く思わない者が居ることは確かだ」
その者にダーシュは心当たりがあるようだったが、問い質せる雰囲気ではなかった。
「昨夜はハダクに会っていた。酒と女は奴が用意したものだ。ハダクは……ギドゥを殺すつもりらしい」
ハダクというのは盗賊団の首魁である。そんな人物に会っていたというのか。
ギドゥは……たしかゴーサの傭兵団の頭目。すると……!
この先起こることを想像してアイオナは慄然とした。
町は戦場になるかも知れない。今度こそ本当に。
それは先日征服された時のような、大人しいものではないだろう。
「約束しよう。何があってもあなたの身を護ると。ただし私の力ではあなた一人護るのが精一杯であるかも知れぬ。その時はやはり赦して欲しい」
ダーシュは言葉を切り、少し間を開けてから含み笑いをした。言葉がローゼンディア語になった。
「赦しを請うてばかりだな。情けない話だ。お前にとって必ず得になると約束したのにな……」
「あの時はそう思ったのでしょう?」
アイオナは呟いた。ダーシュが顔を向けた。
「読みが外れることはあることよ。よく調べて、よく考えて採った行動なら、それはあなたの所為じゃない」
「では誰の責任だ?」
アイオナは少し考えた。
「たぶん、すべてはヘキナンサの思し召しよ。商人にはそれぞれ事情というものがあるのよ。全員の利益になるようには、事が動くはずもないわ」
ヘキナンサはヴァリア教の商業神である。道行く者を、商をする者を護りたもう。
アイオナはじっとダーシュを見つめた。ダーシュも目を外らさなかった。
ふっとダーシュの目が笑った。
「たぶん、か」
「ええ。たぶん」
アイオナも微笑んだ。不思議と優しい気持ちになった。先程までの嫌な気分が消えていくのを感じた。
だがこれは聞いておかねばならない。
「……町を棄てるの?」
ささやくように尋ねると、ダーシュの顔が硬張った。真剣な顔付きになった。
「そういうことも起こりうる」
「そう」
アイオナは目を閉じた。
店の者たちを、屋敷に仕えた者たちを置いていかねばならないのか……それはとても辛い選択だったが、世の中、綺麗事を言っていられないのは解っている。
都市内で戦いが始まればどうしようもない。
戦いというものは、いつもいきなりこの身に迫ってくる。
そうなった時、大切な人達を守れるとは限らないのだ。
そこには個人の力を超えた、運命の力が働く。
自分は今まさにそういう所に立っているのだと、アイオナは思った。
「ヒスメネスに期待するしかないな」
アイオナは答えなかった。ダーシュは立ち上がり、扉の方へ歩いていった。
「何か食べるものを持ってこよう。何がいい?」
「蜂蜜と香草茶、それと何か野菜が欲しいわ」
「判った」
微かに頬を上げ微笑むと、ダーシュは部屋を出て行った。
いつもの皮肉気な、小馬鹿にしたような笑いではなく優しい感じの笑みだった。
暫くしてダーシュが戻って来た。
丸盆の上には蜂蜜の小瓶と氷砂糖を入れた小鉢がそれぞれあり、更に好みで加える香辛料が入った小鉢と、二人分の茶器を載せている。
寝台の脇に茶器を盆ごと置くとダーシュはまた出て行ったが、香草茶の入ったクヮデレムを手にしてすぐに戻って来た。
クヮデレムは湯を沸かす為の金属製の容器で、ローゼンディアではカペレースという。
元々はアウラシールで生まれた道具だが、今ではローゼンディアでも使われている茶道具だった。
ただしローゼンディアでは湯を沸かす為だけに使い、茶葉は急須に入れるのが一般的である。一方アウラシールでは直接茶葉を煮出す方式が採られる。
これは習慣だけではなく、茶の原料の違いに原因がある。ローゼンディアではトラナと呼ばれる植物の葉を使うのが主流だが、アウラシールではリヴァーフと呼ばれる香草を使って、更に好みで香辛料やティモネを加えるのが普通だ。
ティモネはアウラシールのみならず、ローゼンディアでも一般的な果物だが、その絞り汁を入れるか、または薄切りにしたものを茶に浮かべるのだ。
香辛料はそれこそ好みで色々なものを加える。アウラシールの香草茶は一般に、南部に行くほど香辛料を加える度合いが強くなる傾向がある。
またはパファティなど別の香草を加えることもある。まさしく香草茶と呼ばれる由縁である。
ローゼンディアのトラナ茶と、アウラシールの香草茶両方の共通点は、砂糖や蜂蜜、牛乳を加えるところだが、トラナ茶には添加物を加えないでそのまま飲むものもあるので、砂糖や牛乳を加えることをもって、飲み方が一致するとも言い切れないのであるが。
クヮデレムを置くとまたダーシュは出て行った。今度もすぐ戻って来て、鉢に盛った野菜と果物、卵焼き、ウナを持ってきた。
何度も出入りしているのは召使いを使わず、自分で用意しているからだ。彼なりに気を遣っているのかも知れない。そう考えると少し可笑しかった。
ウナはこの地方独特のパンである。薄く平たい円盤状をしており、主に千切って食べる。
よくある付け合わせは擂り潰した茄子や豆に香辛料を加え、アルサム油で和えたものや、ヨーグルトや香辛料で下味を付けた鶏肉の蒸し焼き、または新鮮な羊の挽肉を、やはり香辛料とアルサム油で和えたものなどである。これはマナナイと言われる料理であるが、生の肉なので、アイオナは最初抵抗があった。だがアウラシールではマナナイは大人気の料理であり、地方色豊かに色々な種類がある。
ダーシュが持ってきたウナ用の付け合わせは、茄子と胡麻のマナナイと、香草とトマトのマナナイだった。朝食らしく軽めの感じだ。
しかし持ってきた食べ物全体では、かなりの量があった。
「量が多いわ」
「構わんさ。俺も一緒に食べるからな」
ダーシュは少し微笑んだ。部屋を出る時と同じ笑みだった。
「ここの料理人は腕がいいな」
「ハヌサね? 父様が食い道楽でね。わざわざジルバラから呼び寄せたのよ」
「ジルバラか。随分遠いな」
アウラシールは広大である。その南部地方を主にジルバラというのだ。
古代文明の発祥地であり、しかも周辺地域と全て地続きであったアウラシールでは、常に侵略と戦争が絶えず、長期的な統一王朝はもちろん、そもそも統一王朝が出現すること自体が稀であった。侵攻するのは容易である反面、守るのは難しい地形だからだ。
たまに強力な王が現れたとしても、一定の地域に支配を及ぼすのが限界であって、その外側にはまた別の支配者が軍事力を持って君臨しているわけである。
そうした事情からアウラシールでは、太古から地域を、大まかに東西南北で呼び習わすことが行なわれていた。
則ち北のナーラキア。これはその名の示す通り古代ナーラキア帝国のあった地域である事から名付けられた。帝国は遥か古代に滅び去り、今や名前だけを残すに致ったわけだが、後の新ナーラキア帝国と区別する為に、この地方を古ナーラキア地方と呼ぶこともある。
ナーラキア地方の北部には、帝国の母体となった山岳地帯があり、ここにかつて恐怖の都と呼ばれた帝都バジェラの遺跡がある。帝都バジェラはナーラキア滅亡の際に一夜にして滅びたと伝えられている。世に言う『バジェラの陥落』である。
そして東には山脈を跨いでハルジット高原が拡がっており、ゼナンやアズシャードといった強大な都市国家が存在している。傭兵で名高い軍事都市ゴーサもこのハルジット高原にある。
南にあるのがジルバラ地方である。最もアウラシールらしい地域であり、更に南には海がある。アウラ海という。この海はローゼンディア人がよく知るミスタリア海とは異なる大海であり、ほとんどその実態が知られていない。神話によると世界の果てに続いているという。
アウラシールの文明は、主に南部から北部に向かって拡がったので、歴史的な都市の大部分がこの南部に集中している。
アウラシールの歴史は一万五千年にも及ぶ。それもはっきりと判っている部分、つまりしっかりとした記述が現存している部分だけでの長さの話であって、実際にはこれを超える歴史を持った都市がいくつもあり、それらの都市の歴史の古さは、もはや神話の領域に続いていると言っていい。そうした都市のほとんどが南部ジルバラ地方に集中している。
アウラシールの名前の元となった都市アウラルもここにある。噂に名高い七つの城門と七色の城壁は、アイオナもまだ見た事はない。
最後に西のリムリクである。ダルメキア王国はリムリク地方の西の涯であり、ミスタリア海に面している。ナバラ砂漠もリムリクに含まれる。
つまりここアンケヌはアウラシールのリムリク地方ということになる。それも中央部の辺りに位置する。
要するにアウラシールは、ほぼ全体が広大な陸地なのだ。
北の方に山岳があり、南にはアウラ海があるが、ニスルとアプスル、二つの大河を中心に、南北に豊かで広大な土地がある。西と東は異民族が蟠居している。
中でも大河に囲まれた肥沃な地域こそが中心地であり、更に細く見れば、その地域は北の高原地帯と南の沿岸部とに区別される。
元々はその南北地域だけがアウラシールと呼ばれていたのだ。
二つの大河は支流を生みながらも、互いにほぼ並行に北から南に流れ、アウラ海に注ぎ込んでいる。
この事からも判る通り、その地域は北高南低の地形になっていて、北は遊牧民が、南では農業を中心とする都市生活民が暮らしていた。この両者が長い年月をかけて徐かに混じり合い、アウラシールの文明を形作っていったのである。
人類の文明は南から、アウラ海畔の湿地から始まったのだ。
そこに天から王権が下ったという最古の都市、エマシュがある。人類最初の王が現れたと言われている都市だ。
この都市では夜空にグエナ・エマシュと呼ばれる星を見ることが出来る。地平僅かに姿を見せるこの星は、エマシュの輝きの星と呼ばれる特別な星座である。
これはローゼンディアでは十字連星と呼ばれるが、実はこの星座はミスタリア海近縁では、何方の国々でも見ることは出来ない。本来ならば南大陸のマゴラなどでしか見ることの出来ない星座なのだ。
つまりジルバラとはそれほど南に向かった土地なのである。
「ジルバラのどこだ? エマシュか? バハラクか? それともガニシュラか?」
「バハラクだと聞いているわ」
「とても歴史のある古い都市だ」
「そうらしいわね」
ハヌサの出身地にアイオナは余り関心がなかった。腕が確かなのだから出身などどうでもいいと思っているのだ。
しかしそれが声に出てしまったのだろう。ダーシュはちょっと意外な顔をした。
外国人のアイオナには判らないが、バハラクはアウラシールでは重要な都市なのかも知れない。
「大きい町なの?」
「ああ、かなり大きい。何より古い。一万四千年以上の歴史がある」
「一万……」
アイオナは絶句した。ローゼンディア人の想像を絶する古さだ。古すぎて想像が付かない古さだった。
「……人が住めるの?」
「この料理を作った男はバハラクの出身だと言ったのはお前だろう?」
呆れたようにダーシュは言った。
「あいつだって墓場や廃墟から出てきたわけではあるまい」
親指で調理場の方を指す。持って回った言い方がいつものダーシュらしかった。
「アウラシールは歴史だけは、諸外国を圧倒しているものね」
アイオナも応じて、わざとちょっと嫌みに聞こえるように言ってやった。
それを聞いてダーシュは少し嬉しそうに笑った。
「ほとんど殺し合いの歴史だ。自慢にはならんさ」
楽しげに言いながら香草茶を注いで口に運んだ。綺麗な動作だった。
ダーシュは自分を元気付けようとしてくれているのだ。アイオナはそう思った。
二人で朝食を摂っている間も、誰ひとり部屋には来なかった。おかしい。これは明らかに変である。
「今日は随分と静かだな」
ダーシュも異常を感じているようであった。
「ええ。怪訝しいわね」
さすがに不審を感じた。
「様子を見てこよう」
ダーシュが出て行き、アイオナはひとりになった。
すぐに戻ると思っていたのにダーシュは戻ってこない。
不安を感じ始めた頃、漸くダーシュが戻ってきた。
「ハダクが殺された」
心なしか顔色が悪かった。
事件が起こったのは宮殿の中だという。ゴーサの傭兵団が突然に牙を剥いたのだ。
ハダクとその側近は皆殺しになったという。
市民が話を聞きつけた時には、もうすでにかなりの数の盗賊たちが町を逃げ去っていた。
さすがに情勢を見る能力は優れている。部族兵たちはまだ都市内に留まり、普段通りにしていた。
そしてそれが命取りになった。
「町の各所でゴーサの傭兵たちと戦闘になっているらしい」
所詮は部族兵である。普段は遊牧などをして暮らしている連中だ。毎日殺し合いが日常の傭兵とでは勝負にならない。
「実際には一方的な虐殺だろう」
「遺された家族は堪らないわね……」
「奴らだって市民を殺したり、掠奪をしている。お互い様というわけさ」
ダーシュの言葉は淡々としたものだった。
ヒスメネスは例によって朝から出かけている。大丈夫だろうか?
「一応護衛を連れて行ったようだしな。奴自身腕は確かだ。自分から危険に近づくとも思えないから、まあ大丈夫だろう」
「……これからどうなるの?」
「判らん」
ダーシュは首を振った。
「どちらにしろ、俺はこの屋敷を出て行った方がいいだろう」
その言葉にアイオナはぎくりとした。胸が騒めくのを感じた。
「ともかくもう暫くは静観だ。この次に何が起こるか。それですべては決まる」
「もしあなたが出て行くのなら、最初の約束は果たしてもらえなくなるわね」
その背中を引き止めるようにアイオナは声をかけた。ダーシュが振り向いた。
「絶対にわたしに損はさせないって言ったじゃないの。あれが嘘になってしまうわ」
出来るだけ冗談に聞こえるように明るく言った。通じたのだろう、ダーシュは困ったような優しい顔をした。
「そうだな。すまないと思う。俺は生命を助けられたのにな」
「そうよ。忘れては駄目よ」
「だから俺もお前の生命を護らなければならん。今後の動きによっては、俺はこの屋敷を出て行く」
「そう」
アイオナは硬い表情で頷いた。
第二の変化が起こったのは夕方だった。今度はギドゥが殺されたのだ。
「いったい誰が……」
彼は敵対者を始末したはずだ。アイオナには解らなかった。
報を持ってきたのはエニルだった。身振り手振りを交えて、自分が聞いてきた話を語った。
「やったのは若いアウラシール人の戦士だそうですよ。かなりの手練れのようで、他にもゴーサの傭兵が二人切り殺されたそうです」
ヒスメネスは相変わらず帰ってこない。帰宅は夜遅くになるだろう。
ダーシュはと言うと、布で顔を覆って出かけている。情報を集めるためだそうだが、今まで極端に外出をしたがらなかったことから考えると、それだけ重大な事態に至っているということなのだろう。
自分だけが屋敷の中で、普段と変わらぬ暮らしをしているのがなんだか恥ずかしかった。
「それでその戦士はどうしたの?」
「逃げ延びたようです。見事なものですな」
「市民の評判は良いでしょうね」
「ところがそうでもないんです。どうやらその男、元々連中の一味だったらしい。つまり仲間割れというわけですな」
その言葉がアイオナの耳に引っ掛かった。ダーシュの親戚だという、あのアウラシール人のことが思い出された。
彼はハダクやギドゥの仲間だったはずだ。事実護衛としてゴーサの傭兵を連れていた。
となると……彼がその戦士だろうか?
「お嬢様。どう致しました?」
「いえ、なんでもないの。気にしないで」
エニルは不思議そうな顔をしていたが、それ以上聞いてはこず、話が終わると仕事に戻っていった。
ダーシュが戻ったのはそれからすぐのことだった。
「やられた」
一言、言った。今までに見たことが無いほど真剣な、いや追いつめられた顔だった。




