第一章 契約
もう日が沈んで暫く経つというのに、屋敷の周囲が妙に騒々しい。
敷地を囲む塀の向こうから、人が動き回る気配が伝わってくる。
時折、衛士と思しき人たちの走り回る音や、笛の音、互いに呼び交わす声なども聞こえてくる。
何かあったのだろうか――屋敷のこの部屋にいてもこれだけ感じるのだから、何かあったのだろう。
アイオナは手許の台帳から顔を上げた。
台帳を照らしていた燈りに、その顔が浮かび上がる。白い肌と、癖のない濡れたような黒髪をしている。年はまだ若い。いまだ少女らしさを残した面立ちである。
しかしその青い瞳には強い輝きがある。確固たる己自身を持つ者の輝きだ。しっかりとした教育を受けた者の目と言ってもいい。
部屋の中は暗かった。手許の燈り一つだけでは、この広い部屋の隅々まで照らすには至らない。
燈りには油燈ではなく蝋燭を使っていた。
しかもアイオナが使っているのは蜜蝋の蝋燭である。蝋燭自体、ここらではあまり見ないのに、蜜蝋製の高級品を使っているのだった。
ここは南国である。燈火用の油が簡単に手に入るこの地域では、燈りと言えば一般的には火皿に油と燈芯を載せただけの油燈を意味する。
油燈に使われる油には、一般にはアルサムという植物の実から絞り出した物を使う。
アイオナが今居る都市よりもっと南の方に行けば、鉱油とか、その仲間の泥油といった油を使うことが多くなるが、ほとんどの地域では油燈の燃料にはアルサム油を使う。
アルサム油は燃料以外にも食料薬用美容用と、生活に欠かせない重要なものであるが、北の方ではアルサムの木を育てること自体が不可能な為、そうした地域では代わりに蝋燭が使われている事が多い。
だから今、蝋燭を使っているのはあくまでアイオナの趣味だと言える。
蝋燭には獣脂を使った物と蜜蝋を使った物とがあるが、アイオナが使っているのは蜜蝋の物だ。これは獣脂の物に比べて贅沢品で、広くは使われていない。
獣脂の物に比べて嫌な臭いが立ちにくく、油燈よりも火の管理がし易いという長所があるが高級品なのだ。普通は神殿や宮殿、富豪の屋敷などで使われる。
それ以外の、この部屋の燈りは全て油燈だった。それらは壁にいくつも据え付けられた小さな台の上に置かれている。
燈芯に火を点じれば、壁に掛けられた精緻な綴れ織りや、棚に並べられた色とりどりの瑠璃細工、棘だらけの観葉植物などが浮かび上がるだろう。
家の商売柄、まったく見馴れていないわけではないが、それでもローゼンディア人たるアイオナには異国情緒が感じられたり、物によっては不可思議にさえ思える、南国アウラシールの品々である。
だが壁の油燈に火を点すことなど滅多に無い。この部屋の調度や装飾に比べたら、何ほどのものかと思われるかも知れないが、アルサム油はあらゆる用途に使う為、十分売り物になるのである。しかも使えば無くなる。
吝嗇をしているつもりは無いが、不必要なことはすべきではないし、無駄は極力省くべきだと思っているのだ。
そもそも燈りを使わねばならぬ時間というのは、本来、床に就いているべき時間である。燈りを点して夜更かしした挙句、朝寝をしようものなら、太陽神アクシオーンの恵みを蔑ろにする罰当たりと罵られても、文句は言えない。
アイオナとて普段ならば、もう寝ている時間である。しかし今日は店に大規模な納品があった。
いくら遊びに来ているからといって、皆が忙しく働いているところに、ひとりのほほんとしているわけにもいくまい。アイオナは納品物の確認作業を手伝い、そして今、台帳に目を通しているところなのだった。
……と言えば聞こえはよいが、実際のところは興味本位である。この店では、酒、塩、油、香辛料、壺や皿などの器物、そして織物、細工物など、様々なものを取り扱っている。
その中には見るだけでも興味深い、珍しいものも少なくない。
日中の確認作業でいくつか目にしてはいたが、すべての納品物を確認したわけではなかった。まだ何かあるはずだと台帳を調べていたら、こんな時間になってしまったのだ。
外から聞こえてくる音の中には、かなり遠くと感じるものも雑ざっていた。
どうも市内でなにかあったようだ。外の様子が気になってアイオナは立ち上がった。
すると羽織っていた衣がずり落ちかけて、慌てて掻き合わせた。
その下は、丈の長い薄手の貫頭衣である。ローゼンディア人の女性の衣装としては一般的なものだった。
日中ならばそれだけでよいが、日が落ちたら何かを羽織らなければさすがに寒い。
それでもアウラシール特有の、日干し煉瓦造りの重厚な家の中では、まだ一定の温度が保たれている。
外はこんなものではない。季節にもよるが、概して昼は暑く夜は寒い。一日の温度差が激しいのだ。
アイオナの故郷のような判り易い四季はなく、季節は雨期と乾期の二期で区別するのが普通らしい。
アウラシールは広いので一概には言えないが、大体どこでも夏の暑さは想像を絶する。
対して冬の寒さは夏に比べれば地域差がある。
アイオナが今居る都市アンケヌでは冬の寒さはそこそこだが、やはり冷え込みが急激に来るので、かなり寒くなったと感じる事が多い。
ローゼンディアでも穏やかな気候の地域である、カプリア地方で育ったアイオナにとっては、まったく信じがたい気候である。
部屋の扉が敲かれた。
アイオナはどきりとした。
「……お嬢さん?」
扉の向こうから、躊躇いがちに声がかかる。聞き慣れた声だ。
「どうぞ」
「失礼します」
扉が僅かに開き、小さな燈りと共に、茶色い髪の男が顔を覗かせた。
この屋敷と店を切り盛りしている、ヒスメネスである。
アイオナより五つほど年上の二十二歳、若いながらもアイオナの父の片腕で、この異国に開いた出店を任されている。
商売人だが、客に媚び諂うような下品さはどこにも無い。ものの価値を正確に見定めるような、ともすれば冷たくも見える目をしている。
その涼やかな顔付きからは、相変わらず何も窺えないが、用も無しにアイオナの居室にやってくるようなことはない。おそらくは外の騒ぎのことだろう。
「何かあったの?」
「区内に、アウラシール人の強盗殺人犯が逃げ込んだとのことです」
アイオナは息を呑み、僅かに身を顫わせた。
ヒスメネスは顔色も変えず、落ち着いた様子である。とはいえ事の重大さを理解していないわけではないのだろう。顔に出さない男なのだ。
「屋敷内の警備を強化しましたので、大丈夫かと思いますが、一応、部屋からお出にならないように」
「ええ」
アイオナは頷いた。
辺りを強盗殺人犯が徘徊しているというのは良い気分ではないが、押し入られることはまずないだろう。大きな商家ならどこでもそうだが、この屋敷も例に漏れず、幾人もの屈強な傭兵たちに常時衛られているのだ。
アイオナの頷きを認めたヒスメネスは、一瞬、机の上の台帳に視線を飛ばした。
アイオナはそれを察して、
「大丈夫よ。約束通り、明日には返すから」
台帳はヒスメネスが管理している。他の者がおいそれと見られるものではない。が、アイオナは店主の娘である。無理を言って見させてもらっているのだ。
ヒスメネスは小さく頷き、扉を閉めて去っていった。
アイオナは机に向かい、再び台帳を調べ始めた。後少しで終わる。さっさと終わらせて寝てしまおう。
そして程もなく調べものを終わらせると、アイオナは床に就いた。
目を閉じて眠りの訪れを待つ。
その間、明日のことを考えた。
明日はヒスメネスにお願いして、台帳で目星を付けたものを見せてもらおう。
一つ目猫の毛皮、大蜥蜴の鱗、タムタラット鉱山の貴石タムシャラン、伝説の悪龍ヴァヤオーンが描かれている壺……と、目星を付けたものを頭の中で確認していく。すると妙に昂奮してきて、眠りは一向にやってくる風もない。何も考えないようにすると、今度は外の騒めきがいやに耳に入ってきて、神経を逆撫でする。
アイオナはぱちりと目を開いた。
辺りは真っ暗闇である。
まったくの夜である。
それなのに……
――眠れない。
夜に眠れぬとは間抜けな話であった。夜は寝るべき時間なのだ。
おそらく台帳調べに精を出しすぎたからだろう。まだ気持ちがしっかり働き続けているのだ。
アイオナはむくりと起き上がり、手探りしながら蝋燭に火を点け、上着を羽織って部屋の外に出た。
――部屋からお出にならないように。
ヒスメネスの言葉が脳裏をかすめたが、何も夜の散歩をしようというのではない。向かうのは屋敷の台所だ。台所はこの家の広さに合わせて結構広く作られており、むしろ調理場と呼ばれることが多いが、つまりは食事を作る場所だ。水場の近くにある。
そこで果実酒を飲んだらすぐに戻るのだ。果実酒を飲めばきっと眠れるに違いない。
部屋のすぐ外は、中庭とひと続きになっている廊下である。まだ寒さを感じる時季ではないはずだが、やはり昼間に比べて急激に気温が落ちているためか寒く感じる。
それとも温かい寝床から出てきたばかりだからだろうか。
それとも……ヒスメネスの言葉が怖気を感じさせているのか。
いくつかの考えが過ぎるが、とにかく廊下は真っ暗であった。手持ちの燈りがあまりにも頼りない。
闇の中、人気のない中庭は不気味だった。皆寝静まっているか、でなければ部屋でじっとしているのだろう。静かなのは当然だった。
民話や古代の記録に出て来るような、怪異の類に出遇したとて、不思議はない気がした。もちろん出来るだけ出遇したくないものであったが。
アイオナは闇の中を足早に突っ切り、台所へ向かった。
これも当たり前だが、台所には誰もいなかった。そして広いだけに寂しい感じがして、少し不気味でもある。
後片づけもきちんとされていて調理の際に出るゴミなどもない。
これはと思って戸棚を調べたが、果実酒どころか、食べ物ひとつ見当たらない。
どうやらこの屋敷では、屋敷内の人間に対する警備も怠りないようである。
当然と言えば当然だ。管理しているのはあのヒスメネスなのだ。
となれば食糧貯蔵庫にも鍵はかかっているはずで……と、アイオナは、台所の奥にある食糧貯蔵庫を恨めしげに見遣った。
そして目を見張った。
食糧貯蔵庫の鍵が開いている。
アイオナは身体を硬張らせた。
途端、大きな力に襲われた。
口を塞がれ、後ろから抱き付かれた。いや拘束するように締め付けられた。
まずいと思った。とにかく暴れようと思った。しかし突然の事態に混乱して体が思うように動かない。
燈りは落としてしまったらしい。だが落としたという記憶がない。
真っ暗で何も見えない。
急に恐怖が全身を包み込んだ。心臓がどくどくと激しく脈打っている。
「危害を加えるつもりはない」
耳許でささやかれた。ローゼンディア語だった。少しアウラシール風の訛がある。おそらく、この男が普段使っている言葉はイデラ語であろう。
――アウラシール人……。
思った途端に、ヒスメネスの言葉が稲妻のように甦った。
――アウラシール人の
――強盗殺人犯が
「大人しくするならば危害は加えぬ。お前次第だ」
イデラ語とはアウラシール語の一種であり、この都市アンケヌの公用語である。
広大なアウラシールでは大別して三つの言語が話されている。
西部のイデラ語、東部のハルジット語、そして南方アウラシール語である。
これら三つの言葉の母体となったのはアウラシール語であるものの、それぞれの地域性はかなり大きく、互いの意思疏通には通訳が必要になる。
そしてこのアンケヌはイデラ語圈に入る都市である。
付け加えるならば、アンケヌの言葉はイデラ語のアンケヌ方言である。
それにはダルメキアやローゼンディアの言葉もかなり影響している。ダルメキアはここから西に進んだ先にある国で、ローゼンディアと同じくミスタリア海に面した国である。
言葉の影響は交易都市という性質からくるものであるが、市民の中には複数の言葉を操れる者も珍しくはない。
アイオナ自身、ダルメキア語とイデラ語を話すことが出来る。
だが今は、相手のことを考えて言葉を選択出来る余裕はなかった。
恐慌状態にある頭の中に、男の言葉が冷たく入ってくる。
「お前らの神、ヴァリアは、契約の神だったな? ヴァリアに誓え。叫ばない、暴れない、人を呼ばないことを誓え。誓うのなら頷け」
取り敢えず、男の言葉に従った方がよいだろう。というかそれしかない。
アイオナは頷いた。
「誓いを破ったら頸を圧し折るからな」
アイオナは何度も頷いた。
すると体を締め付けていた腕が弛み、口を塞いでいた手が離れた。
アイオナは息を吐いた。
取り敢えず頸が繋がったのだろうか?
そう考えていると、口を塞いでいた手が今度は頸に添えられた。
大きな手だった。力を籠めれば、本当に自分の頸など圧し折ることが出来るかも知れない。
「悪いが、完全に信用したわけではないのでな。このまま話を聞いてもらおうか」
どうやら信用されてはいないらしい。
腹立たしいことではあるが、そんな気持ちにはならなかった。それどころではないのだ。
アイオナは静かに深呼吸した。
とにかく落ち着かなくては。頭を働かせなくては。
男はすぐさま自分を殺さなかった。容易にそう出来たのにそうしなかった。
それはつまり、今のところ自分を生かしておかねばならぬ理由があるのだ。
男がこれから話すことはそれに関係しているに違いない。慎重に受け答えしなければならない。
「俺は今、追われている」
案の定だ。ヒスメネスが言っていた強盗殺人犯に違いない。
大方、匿えとでも言うのだろう。
アイオナの居る都市、アンケヌは、ナバラ砂漠の真ん中に位置する交易都市である。
都市の支配者はアウラシール人であるが、交易都市という性質上、外国人の数が多く、また長期に亙って留まる者も多い。
自然、外国人居留区が形成されることになる。
すでにそうなってより二百年。アンケヌではダルメキア人居留区、ローゼンディア人居留区がそれぞれ存在し、それなりの自治権を与えられているのだった。
都市の王としても、これら外国人居留区にはおいそれと手は出せない。無理に圧力を掛ければ、富を齎らす交易商人たちが、他の都市に逃げ出してしまう虞があるからだ。
アンケヌの地位を狙うオアシス都市は、ナバラ砂漠の中だけでも他に幾つもある。これらの都市もまた交易で潤っており、そして更なる富を常に求めている。
ナバラ砂漠中最大の交易都市であるアンケヌは、目標であり、最大の好敵手というわけなのだった。
この男がここに逃げ込んだのは偶然であろうが、ローゼンディア人居留区に逃げ込んだのは、偶然ではないだろう。
ローゼンディア人の誰かに手蔓があるのかも知れない。
なんらかの保護を取り付けられれば、都市の警吏とてそう簡単には手が出せない。その隙に逃げ延びようという魂胆ではないだろうか。
とはいえ強盗殺人犯だ。国や民族に拘らず、危険人物であることには変わりない。ローゼンディア側とて、そんな人間を区域に野放しにしてはおけないだろう。アウラシール側に要請されるまでもなく、犯人捕縛に力を入れているに違いない。
尤も、ローゼンディア人居留区の自警団は、交易商人の傭兵たちが主体だ。
あくまで手の空いている護衛たちの片手間なので、自分たちの利害に絡むのでもない限りは、本腰を入れて捜索はしないだろう。
してみると、この区域には男の知己、それも交渉可能なローゼンディア人の誰かが居ることになる。
「匿ってもらいたい」
アイオナは無言で頷いた。
迷惑な話だが、今は頷くしかない。こんな状況で否と言えるはずがない。否と言えば殺されるに決まっているのだ。
今はこの状況を切り抜けることだけを考えればよい。この男を警吏に突き出すのは、自分の生命の確保が出来てからでよい。
「無論、充分な見返りは用意してある。匿う振りをして警吏に突き出されては、堪らんからな」
アイオナは頷き、ささやいた。
「……誰に話を伝えればいいの?」
「何のことだ?」
男は不思議そうに尋ねてきた。
「当てがあるんでしょ? その人物にあなたのことを話せばいい――違うの?」
「……なんでそう思う?」
「でなければ、あなたがここにいる理由が無いわ。おそらくその屋敷まで辿り着けず、我が家に避難した――そんなところじゃない?」
男は答えなかった。アイオナは不安になった。余計なことを言ってしまったのだろうか。
不意に男の手が頸を離れた。押し殺したような小さな含み笑いが聞こえた。背中に押しつけられた男の体が顫えている。笑いを堪えているようだった。
「何が可笑しいの?」
戸惑いながら聞いた。
「すまん……お前があんまりおもしろいことを言うものだからな」
「おもしろい? ……わけがわからないわ」
「声が硬いな。俺が恐いか?」
何を言っているのだろう、この男は。
アイオナは戸惑いつつも、苛立ちを感じ始めた。
「いきなり拘束されて、頸を圧し折るとまで言われたのよ。恐くないわけないじゃない」
「そうだな。悪かった」
アイオナは我が耳を疑った。
――悪かった?
なんだそれは。強盗殺人犯が言うことじゃない。
「恐がらせたくはなかったが、こういう手段を取らざるを得なかった。見ず知らずの人間が夜中に家に居たら、明らかに怪しいだろう?」
「実際は怪しくないとでも言いたげな口振りね」
男はまた小さく笑った。
「俺のこと、なんだと思っている?」
「強盗殺人犯だって聞いたわ」
「ふん。そうらしいな」
「違うの?」
「違うと言えば信じるのか?」
なんだかいちいち癇に障る男だ。
「わたしに危害を加えないのなら、なんだっていいわ」
男は笑った。
「ローゼンディアの女は女のくせに生意気だと聞くが……お前、おもしろいな」
アイオナはむっとした。
――女のくせに。
ローゼンディア以外の男は、その言葉をよく使う。どうも彼らには、女よりも男の方が偉いと思っているような節がある。なんでそう思えるのか、理解不能だが。
「なあ……」
男はおもむろに口を開いた。
「俺と結婚しないか?」
アイオナは目が点になった。
この男は今なんと言った?
けっこん……?
結婚――!?
そんなこと初めて言われた――いや、そうではなくて――ついさっき初めて出逢った、それもやけに物騒な出逢い方をした男と、なんで結婚しなければならないのか――とか思いつつ、なんで自分はこんなにどきまぎしているのだろう。わけがわからない。
とまれ、何かしら裏があるに違いない。
「……ど、どういうつもり?」
なんとか声が出た。
男はアイオナの耳許に口を寄せ、その印象的な声でささやいた。
「お前が気に入った」
アイオナはどきりとした。
ローゼンディア語ではなく、アンケヌ方言のイデラ語だった。
「かッ……揶揄わないで!」
「別に揶揄ってはいないさ。気に入らなければこんな提案はしない」
と、今度はローゼンディア語でぬけぬけと言う。
状況に応じて言語を使い分けている辺り、確信的にやっているに違いない。腹立たしいことだ。
「お前、結婚してないよな?」
ローゼンディアでは一夫一婦制だが、アウラシールでは地方によって一夫多妻制が認められている。どちらであれ、女性は複数の夫を持つことが出来ないので、アイオナが既婚者なら男とアイオナは結婚出来ない。
「……どうかしら」
「呆けるなよ」
男は苦笑した。
アイオナは羞恥を感じた。
呆けるだけ無駄らしい。完全に見抜かれている。
「俺にとってもお前にとっても悪い話ではないと思う。お前の読みでは、この近くに俺の身を護ってくれそうな人物の当てがあるんじゃないかってことだったが、そいつは深読みってもんだ。俺にはなんの当ても無い」
アイオナは驚いた。
「そう。随分と無謀ね」
男は苦笑したようだった。
「……俺もそう思う」
なにやら自嘲的である。
「ともかくそういうわけで、俺はお前を当てにするしかないんだ」
「当てにされても困るんだけど……拒否したら殺すんでしょ?」
男は咽の奥で低く笑った。
「物分かりがよくて助かるが、俺としてはお前を殺したくはない。かと言って無理強いもしたくはない。しかし、状況が決めたことには逆らえない」
つまり、この男の意思も、アイオナ自身の意思も、ふたりを取り巻く状況とは関係が無いのだ。その状況に従うより外無いのだ。
アイオナが男に協力しなければ、男はアイオナを殺さざるを得ない。
それは変えられない。
今夜のことは他言禁止ということで、見逃してもらえばよいという問題ではない。
見ず知らず、赤の他人のふたりには、なんの繋がりも無い。相手を信用出来るだけのものが何も無い。それでも信用出来るというのは、よほどのお人好しか、ただの馬鹿だ。
――利害の無い関係なんて、ありませんよ。
とは、ヒスメネスの言葉だ。
さすがにそこまではどうかと思うが、ヒスメネスらしい考え方だ。
ともあれ状況に従うより外無い。外は無いのだが、そこに自由意思を参加させることは可能だ。
無理強いはしたくない――と、この男は言った。それはつまり、アイオナの自発的な協力を求めているのだ。無論、双方にとってその方がよいに決まっている。
となれば取り引きだ。
「それで、わたしにどんな得があるっていうの?」
「お前の身を護ってやろう」
アイオナは鼻で嗤った。
「それのどこが得なの? 夫が妻を護るのは当たり前じゃない。愛してもいない、どこの馬の骨とも判らない、それどころか強盗殺人犯な男と、わたしは結婚しなきゃなんないのよ? それに見合うだけのものを用意してもらわないと、話にならないわ」
「あのな……」
溜息混じりに、男は呆れたような声を出した。
「何も本気で結婚しようってんじゃないんだ。アウラシール人の俺が、ローゼンディア人のお前と結婚すれば、ローゼンディア人の夫という立場を手に入れられる。そうなればこの居留区に居られるし、アンケヌの奴らは俺に手を出しづらくなる。それだけのことだ。俺の身の安全が確保出来たら、すぐに解消してやる」
「そんなことは解ってるわよ。でも形式とはいえ、結婚は結婚よ。世間的にはわたしが既婚者になることに変わりはないわ。あなたとの偽装結婚の所為で、わたしの未来の本当の結婚に差し障りが出ないとも限らないわ」
我ながら相手の足許を見ている言い分だと思う。しかし、女なら誰もがそうであるように、自分とて結婚には思い入れがあるのだ。愛する男と結婚して、幸せな家庭を築きたいと願っているのだ。拘束されて、偽装結婚させられて、その上本当の幸せまで踏み躪られるなんて冗談じゃない。
「そこまでの面倒は見切れんな……と、言いたいところだが、まあよかろう。お前の本当の結婚相手くらい、世話してやってもいい。――それで満足か?」
「……そうね」
「何やらまだ不満げだな。――いいか?」
男は低い声を出した。
「この取り引きで、俺はお前に絶対に損はさせない。絶対だ」
やけに力の籠もった言葉である。
いい男の当てでもあるのだろうか。
それならそれで願ってもない。
大伯母や父が見つけてくる男には、悉くうんざりしていたところだ。
あの二人は知性もあり、人を観る目も確かなはずなのに、どうしてああ、妙な男ばかりを紹介してくるのだろうか? アイオナにとって全くの謎だった。
アウラシールに遊びにやってきたのは、そんな見合いから逃げてきたというのもあるし、ここなら良い出逢いがあるかも知れないという期待もあってのことである。
「……まあいいわ」
「これで取り引き成立ってことでいいか?」
「待って。その前に顔くらい見せてよ。名前すらまだ聞いてないわ」
「そうだったな」
そこで漸く、男はアイオナから離れた。
何やらごそごそやっていたかと思うと、石を打ち付けるような音と共にぱっと火花が飛び散った。それから暫くして、蝋燭に火が点された。アイオナが持ってきた燈りである。落として消えていたのを男が拾ったのだ。
蝋燭の燈とはいえ、暗闇に慣れた目には充分に眩しい。幾度か目を瞬いてから、光に浮かび上がった男の顔を見遣った。
アイオナは息を呑んだ。
さぞかし品の無い、悪辣な顔をした男だろうと思っていたのだが――
美形だ。
アウラシール人らしい、すっきりとした目鼻立ちをしている。黒い睫毛に縁取られた目はくっきりとしており、その奥に黒曜石の輝きを湛えている。全体どこか気怠げな感じで、黒く長い髪は、さも鬱陶しげにぞんざいに束ねられている。年の頃はヒスメネスと同じくらいに見えた。
しかし、その姿を目の当たりにしても、いまいち素性の窺えぬ男だった。戦士という感じはしないし、商人という感じもしない。
「惚れたか?」
男は揶うように言い、意地の悪そうな笑みを浮かべた。
アイオナは我に返って頬を朱に染めた。
「なんなら、本当に結婚してやってもいいぞ。妻の一人や二人養えるだけの甲斐性はあるつもりだ」
アウラシール人らしい言種である。
アイオナは男を睥んだ。
「自惚れないで! それから勘違いしてもらっては困るんだけど、結婚してやるのはわたしの方なんだからね」
「解っているさ」
男は不敵な笑みで応える。アイオナの反応を愉しんでいるのだ。アイオナはますます不機嫌になった。
「俺の名はダーシュ。ダーシュ・ナブ・アザル・ナブ・イシュク・アヌン=ダナンだ。お前の名は?」
アウラシール人の名前を聞くたびに毎回思う事だが、どうしてこう名前が長いのか。
しかも規則性は一応あるものの、ある程度の自由度があり外国人には判りにくい。
無論アイオナは名前それぞれに来る単語の意味を知っている。一度にすっと全体を把握出来るほどにこの文化に慣れていない。
知ってはいるが少し考えないといけないのだ。
まずこの地域の人々には五種類の名前がある。
最初に本人の名前を表すアクル。これは親に付けられた名前であり、アウラシール人は親から付けられたその名前を一生名告って生きる。
幼名と成名を持つローゼンディア人とはそこが違う。ローゼンディア人は生まれた時に親から幼名を与えられるが、成人すると自分で好きな名前を名告るのが普通だ。
次に親子関係を表すウルグとケザム。ウルグは自分が誰の親かを示すものであり、ケザムは逆に自分が誰の子供であるのかを示す。
アウラシール人の名前ではケザムはかなり重要である。若い男ともなれば尚更だ。
だからアイオナはケザムの位置に来る人名を注意深く聞き取るように心掛けた。
そして出身地や部族、家名を表すルタリ。最後に尊称とも言うべきクメニがある。
一般的には、アクル・ウルグやケザム・ルタリ、という順番で名告られる。
今の例で言えばダーシュがアクルで、ナブ・アザルはアザルの息子、ナブ・イシュクはイシュクの息子という意味であり、順序から言ってアザルが父で、イシュクは祖父である。
最後のアヌン=ダナンはダナン族を表す。アヌンは冠詞である。
「さあ俺は名告ったぞ。お前の名を聞かせて貰おうか」
「アイオナ。アイオナ・リリア・メルサリス。トリュネイヘーレイよ」
アイオナが成人名、リリアが幼名になる。ローゼンディアでは成人の場合、自己紹介で幼名は省略されることが多いのだが、アイオナは状況を考えて正式に名告ったわけである。メルサリスは家名であり、氏族名ではない。
ローゼンディア人は一部の高位貴族を除いて、通常は家名の方を名告り、氏族名は名告らない。
これは氏族名を軽んじているのではなく逆である。
氏族の始まりには必ずその出現に関わった神が坐す。その神の名こそを誇るのである。
「トリュネイヘーレイよ」
アイオナはもう一度言った。
トリュネイヘーレイとは『トリュナイアの子ら』という意味のローゼンディア語であり、自分の血の深源がいかなる神であるのかを示すのは、ローゼンディア人として当たり前のことであった。
「トリュねいヘーレイ?」
男、ダーシュは不思議そうに首を傾げた。
「トリュねいヘーレイ……そうか、お前たちローゼンディア人は氏族神の名を冠するのだったな」
思ったより教養のある男のようだ。強盗殺人犯の割には見識があるのかも知れない。
普通はトリュネイヘーレイと名告っても、何も知らない外国人には理解出来ないのだ。
アイオナの母国、ローゼンディアは神々に守護された王国である。
全てのローゼンディア人が何らかの神の血を引いていると言っていい。
特に神々の血を色濃く受け継いでいるのが王族を含めた貴族たちであるが、そうではない平民たちもまた、自分の血を溯れば何れかの神に辿り着くことを知っている。
そしてそのことを誰もが誇りにしている。
メルサリスは海の女神トリュナイアの系譜に連なる一族だ。
アイオナの祖父の代までは貴族でもあり、神殿への奉仕なども受け持っていたが、父の代からは貴族の籍から外れている。
正確に言えばアイオナの父ファナウスは準貴族という身分なのだが、その子供であるアイオナは平民ということになる。
母方の家系で言うならばアイオナ自身が準貴族になるが、つまりアイオナの母は貴族、父は準貴族ということである。
貴族と準貴族の間の子供は、準貴族となるという決まりがあるのだ。
ただしローゼンディアでは慣習上も法律上も、父系も母系も同一に扱うので、その子供が二つの身分を所有するという事が起こりうる。
この場合どちらかの身分を選ぶということはない。状況に応じて身分が定まることになる。
普段は父方の姓で暮らすアイオナは、平民ということになるわけだが、母方の一族の集まりでは準貴族として扱われることになるわけである。
そして普段平民として暮らしているからといって、神々を敬う心が薄れることなどあり得ない。
そこで外国人を前にしても、いつものように海の女神の末裔と名告ってしまったわけだった。
「待て……するとお前は何の神の末裔なんだ?」
「海神よ」
「海神? お前たちの海神はゼーフルではないのか?」
海神ゼフルは広くミスタリア海を中心とした地域で知られている。
だからその信仰はローゼンディア人にとどまらないとはいえ、こんな内陸の、しかもアウラシール人が名前を知っているというのも少し妙な気がした。
商人でもない限り、普通、他国の宗教になど人は興味を持たないものだ。
この男、元は商人なのだろうか?
少し興味が出てきたが、アイオナは尋ねるということはしなかった。こんな状況で要らぬ好奇心を見せるのは、とても危険なことだし、馬鹿げた行為だと思う。
「……海には多くの神々が坐すのよ」
「そういうものか」
ダーシュはそれ以上興味が無いらしい。納得したように頷いた。
「では、神の御名の下に誓いを立てよう」
ダーシュは威儀を正してアイオナと正対し、腰に佩いた剣を抜いた。蝋燭の淡い光を撥ね返し、刃は鋭く輝いた。
アイオナは息を呑み、思わず後退りそうになった。
この男は強盗殺人犯なのだ。
本当にそうなのかは判らないが、もし本当だとしたら、今夜この剣で人を殺してきたということになる。
そう考えたら、血の気がすうっと足の方へ退けていく感じがした。
でも――
本当に?
肉を断ち、血を吸った刃にしては、綺麗なのではないか?
いくら丹念に拭っても、血の汚れはそうそう綺麗に落ちるものではない。鯉口の辺り、柄の装飾の辺りには、絶対に残る。
「どうした?」
訝しげなダーシュの声で、アイオナは我に返った。どうやらダーシュの剣に見入っていたらしい。
アイオナはダーシュを見つめて言った。
「あなた、本当に強盗殺人をしたの?」
ダーシュはアイオナを見つめ返し、小さく笑みを浮かべた。
「そうか。それでやけに熱心にこの剣を見ていたわけだな」
ダーシュは剣の柄をアイオナに向け、差し出した。
「見たいのなら見てみればいい」
アイオナは剣とダーシュを交互に見た。
「まだ契約前よ。わたしに武器を渡してしまってもいいの?」
ダーシュは鼻を鳴らした。
「女如きに遅れは取らん」
女如きとはまた聞き捨てならぬことを言ったが、それは無視して、アイオナは差し出された剣を見つめた。
――人を殺したかも知れない剣。
そんなものに触るのは気持ち悪いが、そうも言ってはいられまい。
アイオナは意を決して剣を受け取った。ずしりとした重みが両腕にかかった。
取り立てて長大な剣というわけではない。よく目にするほどのものだ。それでも女のアイオナには充分に重い。こんなもの、よくもまあ振り回せるものだと思う。
蝋燭に近づけてよくよく調べる。綺麗なものだった。どこにも血の跡は見られない。
アイオナは確信した。
この剣はまだ人の血を吸っていない。
この男は強盗殺人犯なんかじゃない。
アイオナの心に暖かなものが満ちた。
「もういいわ」
アイオナは剣を返した。
ダーシュは無言で剣を受け取ると、剣先を天に向けて翳した。
「我、ダーシュ・ナブ・アザル・ナブ・イシュク・アヌン=ダナンは、アルシャンキ、シャール、ナイに誓う」
アルシャンキは都市アンケヌの主神、シャールは太陽神、ナイは月神である。
「仮初めの結婚の見返りに、アイオナ・リリア・メルサリスの身を護ること、その本来の結婚相手を世話することを誓う」
アイオナは胸に手を当てた。
「我、アイオナ・リリア・メルサリスは、ヴァリアに誓う。ダーシュ・ダナンと仮初めの結婚をし、それによりその身を護ることを誓う」
長い名前をすぐには憶えきれないので、アイオナは最後の氏族名だけを口にした。
父系の伝統を誇るアウラシール人だけに不快さを示すかと思われたが、別段男にそんな様子は見られなかったのでアイオナはほっとした。
誓いを立て合うと、契約成立を確認し合うように、ふたりは見つめ合った。
「さて妻よ」
言いながらダーシュは剣を収め、
「夜も更けたことだし、寝ませてもらえぬかな?」
早くも亭主面をする。
そんなダーシュにアイオナは不快感を露わにしつつ、
「従いて来て」
さっと背を向けると、足早に台所を出た。