スケッチ
Dive 2
お気に入りの大きなマグカップを出して甘いココアを入れる。主のいない家のリビングでくつろぎながら大きな窓から庭を眺める。ココアの湯気の向こうで粉雪が静かに降っている。雪の日は、全ての音が消えるようだ。しんとした、静謐。見なくてもその静けさで雪の日は分かる。
さろは窓から目を離してココアをすする。この部屋の主はどこに行ったのだろう。
かちゃり、と玄関の開く音がし、静かな鋭い足音と、騒々しい足音が、入って来る。さろは黙ってリビングのドアを見つめた。
ラインのすらっとした外国製のブランドをラフに着こなした青年と、知らない相手なら目を合わせるのを避けようとするような高校生が入って来る。しかし、高校生の方が性格は遥かにいい。怖いのは見た目だけだ。いや、怖いのはぱっと見だけでその顔立ち自体は整っていて優しい。
「おい、何か言えって!」
入って来ながら高校生、ムクは先に入ったヒロイにかみつく。それからすっかりくつろいでいるさろに気がついた。
「いたのか。ああ、今……」
「居候期間」
笑って答えながらさろは両手に包み込むようにして持っていたマグカップを置く。
「お帰りなさい」
「ただいま」
この部屋の主、ヒロイは軽く笑って答えながら座り心地の良さそうなソファの背にコートとマフラーをかけ、座る。憮然としてムクもさろの隣に座った。
「どうしたの、ムク」
「放っておけ」
ヒロイは言いながら長い足を組む。それを軽く睨んでムクはそっぽを向いた。
「何なのよ」
少し疎外感をおぼえてさろは言う。ムクはため息をついた。
「ヒロイに聞いてくれ。こいつ会ってから一言もオレに口きかねえんだよ」
「……怒らせたムクが悪いんじゃない」
「オレがいつ何したよ」
思わずさろは呆れてムクの顔をまじまじと見た。自覚がないのかすっかり忘れ去っているのか。どちらにしても相手がヒロイではいい度胸をしている。
「この間ヒロイの呼び出し無視したでしょ。待っても来ないからヒロイ自分で報告書届けに行ったんだよ」
「は?」
思わずムクは聞き返す。いつもそれはヒロイがやっていることだし、そもそも人にやらせようとしていたのか。それ以前に、そんな呼び出しを受けた覚えはない。
「聞いてないんだけど……」
言ってからはたと思い当たる。二週間ほど前、携帯を風呂に落とした。その前にメールや留守電が入っていたとしても、それは確認できていない。しかし、相手がヒロイでは言い訳に耳を貸してはくれても、大して変わらないだろう。
ムクの顔を見ていたヒロイが目を細めて口を開く。
「で、仕事の話に入っていいか?」
言いながらテーブルの上にきちんと綴じられた書類を放り投げる。
「場所はここ。ダイバーはムク。さろは今回は補助だ。そのうち依頼人が来る」
ヒロイはそれしか言わない。二部ある書類をそれぞれ手にとってざっと目を通し始める。目を通し始めてすぐにさろとムクは顔を見合わせた。
「ヒロイ……これって」
「ん?ムクにちょうどいいだろう」
言ったヒロイの顔には笑みが浮かんでいる。口を開きかけたムクはその笑顔を見て慌てて口を閉じた。
書類に二人が目を通し終わるのを見計らったかのようにチャイムが鳴る。全く立ち上がる気を見せずにヒロイは目だけを上げた。代わりにさろが立ち上がる。
玄関を開けて立っていた人物には何回か会ったことがある。二十代後半の青年にさろは笑いかけた。
「こんにちは、桐生さん」
桐生は軽く頭を下げて笑う。仕事中なのだ。さろも確かなところは知らないが、桐生は警察関係者。その関係からの依頼の時はいつも桐生が来る。あるいはこちらから出向く時には桐生が出迎えてくれる。
その桐生は手に綱を持ち、その先には黒い大型犬がつながれている。バーニーズマウンテンドッグ。賢そうな目をさろに向けていた。
「この子が?」
「バーニー。今日のダイバーは君?」
「いえ、ムクです」
答えながらさろは家の中に招じ入れ、バーニーの引き綱をはずしてしまう。リビングからヒロイが声をかけた。
「さろ!足を拭いてやれよ」
「………」
さろは桐生と顔を見合わせると眉を軽く上げた。拭いてやれよ、ではなく拭いてからあげろよ、の間違いだろう。そう思いながらさろは玄関に置いておいた濡れた雑巾でバーニーの足を拭く。大人しく拭かれるのを見ると、よく躾られていて人懐こいのだろう。
バーニーを連れてさろとムクは二階に上がる。微妙にムクがバーニーと距離をとっているのを見てさろは首を傾げた。
「ムク、犬好きだったよね?」
「好きだけど……こいつに潜るのかと思うと……」
「いいじゃない、名前の系列一緒だし」
ムクの名前は犬のようだとよく言われる。今回はどうやらそのせいでダイバーになってしまったらしい。その前にヒロイを怒らせたのもまずかったのだろうが。
階下に残ったヒロイは桐生と向かい合って座り、二階の部屋のドアが閉まる音を聞く。二人の前にはさろが煎れて置いていったコーヒーが湯気を出していた。
「あの犬が?」
ヒロイの声に桐生は頷く。
あの犬だけが事件を目撃していたのだ。いや、まだ事件は成立していない。飼われていた家に、あの犬だけが残されていた。そして、家の中の数カ所には大量の血痕。拭き取られた血痕には薬品を使った時にその場にいた警官が総毛立った。しかし、それだけでは事件は成立させられない。被害者も、捜索願も何もない。あるのはからの家と血痕だけ。しかし、それは事件なのだ。何があったのか。あの犬は見ていた可能性がある。
さろはムクがバーニーの心に潜っていくのを見守った。何があるか分からない。気は抜けない。バーニーはぐっすりと眠っている。
ムクはバーニーの中に潜る。体がひどく重い。抵抗が強いのだ。
はじき出されそうになるのを感じながら、ゆっくりと潜っていく。そのうち、太い犬の声が聞こえてくる。嬉しそうな声がする方にムクは向かった。
バーニーがいる。中学生くらいの少年と、幼い女の子と男の子、三人とじゃれるようにして遊んでいる。
それを見つめながら、ムクは囁くようにバーニーに語りかける。
「バーニー、見せてくれ。お前の家で何があった」
バーニーが遊ぶ光景が少し揺れる。声をかけることで、潜っている相手の心に浮かぶ光景を望むものに導く。しかし、強引にやることはできない。自分も危険だし、相手の心を壊しかねない。
「なぜ、お前は一人であそこにいなきゃいけなくなった」
さろははっとバーニーを見つめる。軽く唸ったようだ。
様子を見つめ、問題はないと判断する。大丈夫だ。ムクがうまく、バーニーを導いているのだ。
ムクはじっと見守る。降りて行きはしない。
自分がここにいるのをバーニーは感じ取っているだろう。しかし、目の前に姿を現せば警戒心が強くなってそれ以外を見せてはくれない。姿が見えないうちは、まだ大丈夫だ。
バーニーの姿が消えた。バーニーの目を通しているように、その光景は白黒になる。
バーニーは家の中にいる。甲高い泣き声が響いた。重なるように太い怒鳴り声。そのうち、ふっと泣き声は消える。そしてバーニーの目にスーツ姿の男が映る。手には何か光るものが握られ、黒いものがついているのは血だろうか。ムクは不意に鉄臭さが鼻をつき、思わず腕で鼻を覆う。気分が悪くなってきた。
バーニーが動いたようだ。唸るバーニーを男が振り返った。厳しい声が「待て」と告げる。バーニーの戸惑いが伝わってきた。
そしてそこに、もう二人やってくる。バーニーはその顔も見ていた。
その声にバーニーは耳を傾けている。意味は分からなくても、その場の臭いと空気がバーニーを警戒させ、そして強くそれを心に刻んでいた。
「どうする」
「庭に穴がある。こいつがいつも掘る穴だ」
最初にそこに来た一人が言う。他の二人と目を見交わしながら続けた。
「いつも同じ場所だ。深く掘ってから埋めなおしても、場所がそこならバーニーがやったのを埋めなおしたとしか思わないだろう」
何かを感じたのか。バーニーはそう言った男のズボンの裾を咬んで引っ張った。男は振り返っておざなりにバーニーの頭を撫でる。
ムクはすっかり気分が悪くなる。
戻って来たムクの顔はすっかり青ざめている。さろは慌ててコップに水を入れてくるとムクにそれを渡す。
「こいつは何も見てない。犯人の顔以外は。何があったかは分からない」
ようやくそう言うムクに頷き、さろはバーニーを起こす。ゆっくりと撫でながらさろはムクを見た。
「ほんとに?だったら何でそんな顔してるの」
言いながらさろはムクとバーニーを引っ張ってリビングに降りる。ヒロイが今回自分に潜らせなかったのはムクをいじめるためなのが本音じゃない。
ムクは桐生に話しながら何度も黙り込む。ダイビングはこういうこともある。警察に協力した場合、結果はまず知らされない。ただ、ニュースなどを見ながらああ、これだと分かることが多いけれど。
ムクの話を聞きながらさろがバーニーが見た人物の顔をスケッチする。それを見てムクは直すように言いながら本人に近づける。
「嫌な思いをさせて悪かったな」
いつも、桐生はそう言う時に本心から落ち込んだ顔をする。それにいつも、少し救われるのだ。
普通は、このような事件はさろとムクには回されない。二人がまだ若いというのもあるし、このようなことで駄目にするわけにはいかないからでもある。それでも今回まわされたのは対象が犬だったからだ。
「ムク、今回は報告書はいいぞ」
ヒロイは言ってさろを見る。さろは頷くとムクにココアを入れる。
「お風呂入れて、部屋の仕度するから今日は泊まっていきな。ありがとね、ムク」
桐生がバーニーを連れて帰ろうとすると、バーニーが鼻を鳴らす。踏ん張って家から出ようとしないバーニーを困ったような目で桐生は見た。
「桐生君、この子はこの後どこに帰るんだい」
「ええ……」
桐生は言い澱む。引き取り手もなく、今はペットホテルに預けているが、この事件が終わった場合はどうなるか分からない。ヒロイは笑って手を伸ばした。
「問題がないようならうちにいさせちゃだめかな」
桐生はバーニーを見る。バーニーはさろと、そしてムクの方に行こうとしている。聞き分けがよく賢い犬なのだ。それがこうして逆らっている。大型犬のバーニーと力くらべでは到底勝てない。
桐生は苦笑いして頷いた。
「お願いします。ヒロイさん」
言って桐生が綱を渡そうと手を緩めた途端、バーニーがムクに向かって突進した。