ルームメイトが私の写真で既婚者と付き合っていたせいで、私は大学中から「不倫女」扱いされた
私は大学の正門前で、見知らぬ女性から突然平手打ちを受けた。
夫を誘惑した不倫相手だと、勘違いされたのだ。
言い争う私たちの周りには、たちまち大勢の学生が集まった。その様子を撮影した動画はSNSや大学の匿名掲示板に拡散され、私は大学中から「不倫女」「略奪女」と呼ばれるようになった。
大学独自の給付型奨学金は継続審査を保留され、大学院の学内推薦も見送られた。決まりかけていたインターンまで取り消され、どこへ行っても後ろ指をさされた。
その後、私はようやく真相を知った。
同じシェアハウスに住む音声配信者のルームメイトが、私の写真を無断で使い、配信で知り合った既婚男性と交際していたのだ。
証拠を手に問い詰めた私は、口論の末、彼女に階段から突き落とされた。
後頭部を強く打ちつけ、意識が暗闇に沈んだ――はずだった。
次に目を開けたとき、私は見知らぬ女性から平手打ちを受けた、あの日に戻っていた。
今度こそ、私の顔を盗んだ本当の不倫相手に、自分の口で名乗らせてみせる。
1
パァン――!
頬を打たれた瞬間、顔が大きく横を向いた。
左耳の奥で不快な音が響き、頬に焼けるような痛みが広がっていく。私は星陵大学の正門前に立ったまま、目の前に降り注ぐ午後の日差しを呆然と見つめた。
この痛みを、私は知っている。
「遥香、大丈夫!?」
隣にいた奈央が悲鳴を上げ、すぐに私の前へ出た。
「ちょっと、いきなり何するんですか!」
私たちの前には、四十歳くらいの女性が立っていた。
仕立てのよいベージュのコートを着て、髪もきれいに整えている。手にしたバッグも高価そうだったが、目の下には濃い疲労がにじみ、丁寧な化粧でも憔悴した顔を隠し切れていなかった。
「人の家庭を壊すような女、叩かれて当然でしょ!」
女性は奈央の肩越しに、私をにらみつけた。
「まだ大学生なんでしょう? 若いくせに、どうしてわざわざ妻子のいる男に手を出すのよ!」
奈央が怒りに任せて一歩踏み出す。
私は慌てて、その手首をつかんだ。
一度目の人生では、ここからすべてが壊れた。
突然殴られ、身に覚えのない罵声を浴びせられた私は、怒りのまま彼女と言い争った。騒ぎを聞きつけた学生が次々に集まり、その様子を撮影した動画は、大学の匿名掲示板やSNSに投稿された。
女性は人々の前で、私の写真と夫のトーク履歴を見せた。
その瞬間、周囲にいた全員が、私を既婚男性に高価な贈り物をねだる不倫相手だと決めつけた。
どれほど否定しても、言い逃れをしているとしか思われなかった。やがて大学にも通報が入り、学生支援課による事実確認まで始まった。
けれど今、正門前にはまだほとんど人がいない。
まだ間に合う。
胸の奥で渦巻く感情を押し込み、私はスマートフォンの通話画面を開いた。
「今、あなたは私を殴りました。ここで110番すれば、暴行として警察に事情を話すことになります」
女性の顔がわずかにこわばった。
「でも、すぐに警察を呼ぶ前に、どうして私を不倫相手だと思ったのか聞かせてください。ここで言い争えば、また人が集まります。近くのファミレスで、落ち着いて話しませんか」
女性はバッグの持ち手を強く握りしめた。
しばらく迷った末、もう一度手を上げることはなかった。
「遥香、私も行く」
「うん」
一度目の私は冷静さを失い、自分の無実を証明する最初の機会を逃した。
同じ失敗は、もう繰り返さない。
私たちは近くのファミレスへ入り、一番奥の席に座った。
私は冷水で濡らした紙ナプキンを頬に当てた。奈央は隣に座り、いつでも警察を呼べるようスマートフォンを握っている。
店員が三人分の水を置いて離れると、私は正面の女性を見た。
「何があったのか、最初から聞かせてください」
女性は水には手をつけず、バッグからスマートフォンを取り出した。
一枚の写真を表示し、テーブルの上に置く。
「この写真の女、あなたでしょう? ここまでそっくりなのに、まだ違うって言うつもり?」
画面に映っていたのは、淡い色のニットを着た私だった。
星陵大学の図書館前で、専門書を二冊抱えている。前年の春に撮影し、Instagramに投稿した写真だ。
間違いなく、私だった。
一度目の人生でも、この写真が決定的な証拠として扱われた。
「写真に写っているのは私です。でも、あなたのご主人とやり取りしていたのが私だという証拠にはなりません」
奈央も画面をのぞき込み、すぐに眉をひそめた。
「この写真、遥香がInstagramに載せていたものです。保存しようと思えば、誰にでも保存できます。写真一枚だけで、本人だと決めつけるのはおかしいです」
私は女性にスマートフォンを返し、自分のLINEのプロフィール画面を開いた。
「私は恋人もいませんし、あなたのご主人も知りません。確認するなら、LINEのユーザー情報や音声、送り先、使われている端末を調べるべきです。写真は、誰かが私の顔を使ったという証拠にしかなりません」
女性の目にあった怒りが、わずかに揺らいだ。
「本当に、あなたじゃないの?」
「違います」
私はまっすぐに彼女を見返した。
「本当に私ではないと分かったら、これ以上、私の写真や個人情報を他人に見せないでください。その代わり、写真を使った人を探すことには協力します」
女性はしばらく黙っていた。
やがて視線を落とし、夫とのLINEのやり取りを開いた。
彼女の名前は三浦理恵。
十八歳のときから、夫の浩志と付き合っていた。
二人とも裕福な家庭の出身ではなかった。結婚後、月見駅の近くに八席しかない小さな店を借り、おにぎりや弁当、味噌汁を売り始めたという。
理恵さんはメニュー作り、仕入れ、帳簿、従業員のシフト管理を担当し、浩志は配達や取引先との交渉を担当した。
二十年以上働き続け、ようやく六店舗を展開する家庭料理のチェーンにまで成長させた。
生活に余裕ができた頃から、浩志は音声配信にのめり込むようになった。
若い女性配信者の枠へ通い、高額なギフトを投げる。
理恵さんは当初、それほど深刻には考えていなかった。
家庭や店の経営に影響が出ないのなら、ネット上の娯楽くらいは好きにさせようと思っていたらしい。
ところが数日前、偶然、浩志のLINEを目にした。
相手は「みるく」と名乗る女性だった。
二人は三か月前から親密なやり取りを続けていた。「みるく」は甘い声のメッセージや写真を送り、バッグ、ネックレス、化粧品、現金を次々とねだっていた。
「浩志のLINEのアイコンは、私と悠人も一緒に写っている家族写真なの」
理恵さんが、保存していた画面を見せた。
「妻と子供がいることは、最初から分かっていたはずよ」
トーク履歴の中で、「みるく」は私の自撮り写真を送っていた。
続いて、有名ブランドのバッグの商品ページが貼られている。
『ヒロくん、今日の私、かわいい?』
『この服に合うバッグが欲しいな。ヒロくん、買ってくれない? 大好き』
浩志はすぐに何度もかわいいと褒め、その日のうちに商品代金を支払っていた。
奈央が画面を見ながら、ゆっくりと眉を寄せた。
「このバッグ、見たことがあります」
私も息を止める。
「前に遥香のシェアハウスへ行ったとき、美月がリビングで見せびらかしていました。会社を経営している彼氏からもらったって」
指先に力が入った。
佐伯美月。
私と同じ女性専用シェアハウスに住むルームメイトだった。
私たちが暮らす建物は、「白樺館」という名前だった。
星陵大学から歩いて十五分ほどの場所にあり、四人それぞれに七畳にも満たない個室が与えられている。リビング、台所、浴室、洗濯スペースは共用だった。
家賃は一般的なワンルームより安かったが、それでも毎月の生活費の大半を占めていた。
私は大学独自の給付型奨学金と、学内SAのアルバイト代、それにコンビニの給料で生活している。
普通のアパートを借りるには、家賃だけでなく、敷金や礼金、仲介手数料、保証会社の費用まで必要になる。まとまった初期費用を用意する余裕はなかった。
美月は、音声配信アプリ「VocaLive」で雑談配信をしていた。
顔はほとんど出さず、かわいらしいアニメ風のアイコンを使っている。毎晩のように共用リビングを占領し、作ったような甘い声でリスナーと話していた。
ほかのルームメイトである真帆と莉奈は、化粧品やデリバリーの食事、小さなプレゼントを美月からもらっていた。そのため、深夜まで配信が続いても文句を言わなかった。
注意したのは、私だけだった。
「誰も気にしてないのに、どうして遥香だけそんなに細かいの? 嫌なら引っ越せばいいじゃん」
私には引っ越す余裕がなく、耳栓をして勉強するしかなかった。
ところが二か月ほど前から、美月は突然配信をやめた。
若い会社経営者と付き合い始めたため、もうリスナーに愛想を振りまく必要はないのだと、得意げに話していた。
一度目の人生で、私は大学中から不倫相手だと思われたあと、ようやく美月が持っている高価な品々の出どころに気づいた。
証拠をそろえて問い詰めた私を、美月はシェアハウスの階段から突き落とした。
冷たい階段に後頭部を打ちつけ、意識が消える直前、私は階段の上に立つ美月の青ざめた顔を見た。
そして今、その女が残したやり取りが、再び私の前にある。
「三浦さん。写真を使った人に、心当たりがあります」
奈央はもう我慢できない様子だった。
「心当たりどころじゃないよ。音声配信者で、同じバッグを持っていて、二か月前から突然配信をやめた。全部、美月に当てはまる」
「でも、まだ決定的な証拠がありません」
私は理恵さんを見た。
「今すぐ問い詰めれば、アカウントもトーク履歴も消されます。そうなれば、私の写真を使ったことも、ご主人から何を受け取ったのかも確認できなくなるかもしれません」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「本人に認めさせます」
店を出る前、理恵さんは席を立ち、深く頭を下げた。
「本当にごめんなさい。あなたの顔を見た瞬間、何も考えられなくなってしまって……」
バッグから封筒を取り出し、私の前へ置く。
「五万円入っています。写真を使ったのが別の人でも、私があなたを殴った事実は変わらない。治療費と迷惑料として受け取ってください」
「受け取れません」
「受け取って。そうでなければ、今から一緒に警察署へ行って、私がしたことを全部話します」
理恵さんの態度は固かった。
私は結局、封筒を受け取り、連絡先を交換した。
ファミレスを出ると、奈央が封筒と私の頬を交互に見た。
「本当に受け取ったんだ。まだ痛い?」
「痛いに決まってるでしょ」
平手打ち一発で五万円。
不謹慎だけれど、引っ越し費用の足しにはなる。
もっとも、美月の正体を暴くまでは、白樺館を出るわけにはいかなかった。
2
シェアハウスへ戻ると、美月が共用リビングで高級クリームを見せびらかしていた。
真帆はパッケージを手に取り、目を輝かせている。莉奈も隣からのぞき込み、羨ましそうな声を上げた。
「このシリーズ、なかなか買えないやつだよね? 一個十万円以上するんじゃない?」
「彼氏、優しすぎる。うちなんてホワイトデーのお返しが、スーパーで値引きされてたクッキーだったんだけど」
「そんなに大したものじゃないよ。プレゼントは値段じゃなくて気持ちでしょ?」
美月は口元を手で隠して笑っていたが、視線はずっと商品の箱に向いていた。
口角も、うれしさを隠し切れないように上がっている。
私は何も知らないふりをして、テーブルのそばへ近づいた。
「付き合って結構たつんでしょう? いつ紹介してくれるの?」
真帆もすぐに話に乗った。
「そうだよ。こんな高いものを普通に買えるって、相当すごい若手経営者なんじゃない?」
美月はクリームを丁寧にバッグへしまった。
「今は新しいプロジェクトで忙しいみたい。落ち着いたら、みんなにごちそうしてもらうから」
真帆が私をちらりと見て、口をゆがめた。
「顔がかわいくても、彼氏ができなきゃ意味ないよね。ドラッグストアの安い化粧品しか使えないし」
莉奈が真帆の肩を軽く小突いた。
「そういう言い方やめなよ」
美月の笑顔がわずかに引きつった。
私は椅子に座り、スマートフォンを眺めながら口を開いた。
「最近、他人の写真を使って恋人を作る人が増えてるらしいね。数日前も、知らない女の写真を使ってプレゼントをもらっていた人が、写真の本人に見つかったって記事を読んだ」
「ネットの記事なんて、ほとんど作り話じゃない?」
「そうかもしれない。でも、音声やトーク履歴まで全部消えるわけじゃないから、調べれば分かるんじゃないかな」
クリームのふたを開けようとしていた美月の指が、一瞬止まった。
すぐに何でもないふりをして、顔を伏せる。
ここで追及すれば、警戒される。
まだ動くべき時ではなかった。
翌日、理恵さんは私たちの計画どおり、浩志のスマートフォンから「みるく」にブレスレットの写真を送った。
ローズゴールドにダイヤモンドをあしらった商品で、価格は百二十万円。
誕生日プレゼントとして、直接会って腕につけてあげたいと伝えた。
十分もしないうちに、美月が自室から飛び出してきた。
「遥香、このブレスレット、どう思う?」
差し出された画面には、理恵さんから送られてきたものと同じ写真が表示されていた。
「きれいだね。このシリーズ、百万円以上するんじゃない? 彼氏が買ってくれるの?」
「向こうがどうしても買いたいって言うの。私は止めたんだけど」
「届いたら見せてよ」
真帆と莉奈も寄ってきて、価格やデザインについて声を上げた。
美月は二人に囲まれ、隠しきれない得意げな表情を浮かべている。
「届いたら、試着させてあげてもいいよ。こういうジュエリー、普段は触る機会もないでしょ?」
数分後、美月のスマートフォンが再び振動した。
画面を確認した途端、その笑顔が少しずつ消えていく。
ほぼ同時に、私のもとにも理恵さんからトーク履歴のスクリーンショットが送られてきた。
『プレゼントは直接渡したい。きっと似合うから、つけたところをこの目で見たいんだ』
『学校に送ってほしいな。最近、授業が忙しくて外に出る時間がないの。届いたら、すぐにつけて写真を送るね』
これまでなら、浩志は甘い言葉に丸め込まれていた。
しかし今回は引き下がらなかった。
『もう三か月だ。欲しいと言われたものは、全部買ってきた。会いたいと言うたびに、次にしようって逃げるよな。会う気がないなら、もう何も送らない』
美月の顔色がみるみる悪くなった。
スマートフォンを握ったまま自室へ戻り、いつもより強くドアを閉める。
美月は金が入るたびに、服や化粧品、ブランド品を買っていた。
貯金など、ほとんど残していないはずだ。
一度ぜいたくな暮らしに慣れてしまえば、以前の生活へ戻るのは簡単ではない。
その後の半月、美月が新しいプレゼントを自慢することはなかった。
以前は真帆や莉奈を高級店へ連れて行き、食事代だけでなく交通費まで払っていた。今は一人でリビングに座り、コンビニのおにぎりを食べている。
莉奈はその変化に気づかないまま、明るい声で外食に誘った。
「最近、みんなで食事に行ってないよね。今夜、前に行った海鮮のお店に行かない? あそこのカニ、本当においしかった」
美月が箸をテーブルに叩きつけた。
「食べることしか考えてないの? お金が勝手に湧いてくるわけじゃないんだけど。どうして毎回、私がおごらなきゃいけないのよ」
莉奈が目を丸くする。
「ちょっと提案しただけじゃん。急に何を怒ってるの?」
真帆もスマートフォンを置いた。
「毎週一回くらい、みんなでちょっといいものを食べに行こうって言ったのは、美月でしょ。彼氏からもらうお金が余ってるって」
「それは前の話!」
美月はスマートフォンをつかみ、早足でリビングを出ていった。
自室のドアが激しく閉まる。
しばらくして、莉奈がようやく口を開いた。
「最近の美月、どうしたの?」
真帆は冷めた顔をしていた。
「お金がないなら、最初から見栄を張らなきゃいいのに。誰もおごってなんて頼んでないでしょ」
金でつながった関係は、驚くほどもろい。
美月が利益を与えている間、二人は彼女をちやほやした。しかし、その恩恵が消えれば、羨望は簡単に不満へ変わる。
とはいえ、三人の友情を壊すことが目的ではない。
そろそろ仕掛ける頃だった。
翌日の午後、私はわざとリビングで奈央に電話をかけた。
美月はソファでスマートフォンを見ていたが、すぐにこちらの会話へ意識を向けた。
「奈央、今日、すごい人に会ったんだけど。駅の近くで、いかにもお金持ちそうな女性に呼び止められたの」
『何があったの?』
「夫と別れてくれるなら、五百万円払うって言われた。相手の夫なんて知らないのに、詐欺かと思ったよ」
椅子が床をこする音がした。
美月が急いで私の前へ来る。
「それで、受け取ったの?」
私はスマートフォンを手で覆い、驚いたふりをした。
「急にどうしたの?」
「気になっただけ。受け取ったの?」
「受け取るわけないでしょ。知らない人からそんな大金を渡されても困るし。説明したら、ようやく人違いだって分かってくれた」
私は電話を耳へ戻した。
「本当に探しているのは、『みるく』って名前の女の子なんだって。明日も月見駅の近くで待つらしいよ」
美月の目が輝いた。
「どこで会ったの? 何時頃? どんな格好をしてた?」
「どうして、そんなに知りたいの?」
美月は私の腕をつかみ、配信中のような甘ったるい声を出した。
「だって、ドラマみたいで面白いじゃん。ねえ、遥香。教えてよ」
私はしつこさに負けたように装い、時間と場所、理恵さんの服装を伝えた。
必要な情報を聞き出すと、美月はすぐに自室へ戻っていく。
私は閉まったドアを見つめ、奈央との通話を切った。
浩志から金が入らなくなった美月にとって、五百万円という金額は、冷静さを失わせるには十分だった。
翌日の午後、美月は帽子とマスクをつけて白樺館を出た。
私は奈央に連絡し、少し距離を空けて後を追った。
理恵さんは、月見駅近くのホテルにあるカフェで待っていた。
目の前のコーヒーには手をつけず、スマートフォンの録音機能を起動している。
美月は店の外からしばらく中をうかがい、意を決したように入店した。
「あの、どなたかをお待ちですか?」
「あなたじゃないわ」
「『みるく』を探しているんですよね? 私が『みるく』です」
理恵さんは美月を一度見ただけで、眉を寄せた。
「写真の人とは顔が違うでしょう。邪魔をしないで」
美月は慌ててマスクを外した。
「アカウントは私のものです。写真と本人が少し違うだけで……。ちゃんと証明できます」
スマートフォンを操作し、浩志とのLINEのやり取りを見せる。
「これがトーク履歴です。ボカライブの配信者用管理画面もあります。音声メッセージも全部私が送りましたし、プレゼントの送り先も白樺館です。本当に私が『みるく』なんです」
少し離れた席に座っていた奈央は、必死に口元を押さえていた。
肩は小刻みに震えている。
「お金欲しさに、自分から不倫相手だって証明する人、本当にいるんだ……」
私は小さく手を上げ、静かにするよう合図した。
理恵さんがコーヒーカップから手を離す。
「あなたが『みるく』なら、私に何の用?」
「五百万円ください。そうしたら、もう浩志さんには連絡しません」
「結婚していることは知っていたの?」
「LINEのアイコンが家族写真なんだから、知っていましたよ」
美月は五本の指を広げた。
「入金を確認したら、アカウントも連絡先も全部消します。四百万円でも、相談には乗りますけど」
理恵さんはスマートフォンの画面に触れ、録音を止めた。
「やっぱり、あなたなのね」
バッグから印刷した書類を取り出し、テーブルの上へ置く。
浩志が三か月間に送った現金、配信アプリで購入したギフト、ブランド品の購入履歴、送り先がまとめられていた。
総額は二百五十万円を超えている。
「これは何ですか……?」
「浩志があなたに送った金品の記録よ。全部、弁護士に渡してあります」
理恵さんは書類の最後のページを開いた。
「あなたが別人の写真を使っていたことについて、浩志は弁護士に相談している。贈った金や品物についても、返還を求められるか検討中よ」
「私は無理やり買わせたわけじゃない」
「返す必要があるかどうかは、あなたと私がここで決めることではないわ。今後は弁護士を通して連絡します」
美月は五百万円を受け取るつもりで来た。
ところが、一円も手に入らないどころか、二百五十万円を超える金品について返還請求を受ける可能性まで出てきた。
周囲の客も、こちらを気にし始めている。
美月はマスクをつけ直し、席を立とうとした。
「アカウントも、音声も、自分から『みるく』だと認めた録音も残っています。逃げても状況は悪くなるだけよ」
美月の足が止まった。
最終的に連絡先を残し、足早にカフェを出ていく。
理恵さんはその場で騒ぎを大きくせず、今後の交渉を弁護士に任せることにした。
しかし、あの会話がカフェの中だけで終わることはなかった。
近くにいた客が、美月がマスクを外し、自分から「みるく」だと認める様子を撮影していた。
その動画は間もなく、星陵大学の匿名掲示板へ投稿された。
3
翌日、美月は大学内で一気に有名になった。
動画には、目を引く見出しがつけられていた。
『星陵大の女子大生、相手の奥さんに五百万円を要求』
コメント欄には、次々と書き込みが増えていく。
『自分から不倫相手だって名乗り出たの?』
『ドラマの見すぎでしょ。奥さんが本当に金を払うと思ったのかな』
『他人の写真を使って既婚者と付き合って、その上で金まで要求するとか、あり得ない』
美月は動画の中でマスクをしていた。
しかし、自分から配信者名を名乗り、管理画面や送り先まで見せている。ボカライブで声を聞いたことのあるリスナーたちは、すぐに本人だと気づいた。
私が白樺館へ戻ると、リビングではすでに激しい口論が始まっていた。
莉奈は顔を赤くし、美月は送金画面を突きつけている。
「会社経営者の彼氏からもらったって言ってたけど、相手は結婚してたんじゃん!」
「今まで食事代をどれだけ払ったと思ってるの? 少しくらい返してよ」
真帆が鼻で笑った。
「自分からおごったくせに、借金ができたから返せって? 彼氏からもらうお金が余ってるって言ったのは、美月でしょ。人をだまして手に入れた金だなんて聞いてない」
私がリビングへ入ると、美月が勢いよく振り返った。
「高梨遥香。あんたが仕組んだんでしょ?」
姓と名を続けて呼ぶ声には、明らかな敵意が込められていた。
「あの女がどうしてあんたを見つけたの? どうして、会う時間まで私に教えたのよ」
「何を仕組んだっていうの? 面白そうだから教えてって、しつこく聞いたのは美月でしょう」
美月の唇が震えた。
しかし、私の写真を使っていたとも、五百万円欲しさに理恵さんのもとへ行ったとも言えない。
真帆が腕を組んだ。
「また人のせいにするつもり?」
「うるさい!」
美月は真帆につかみかかり、髪を引っ張った。
莉奈が止めに入ったが、服をつかまれ、三人でもみ合いになる。テーブルの上にあったコップが床へ落ち、甲高い音を立てて割れた。
私は玄関のそばまで下がり、シェアハウスの管理会社へ電話した。
駆けつけた管理担当者は三人を厳しく注意し、壊れた家具や食器について弁償を求めた。
その後、真帆と莉奈は、それぞれ二万円を美月へ振り込んだ。
これ以上付きまとわれたくないという理由だった。
しかし、二百万円以上の問題を抱える美月にとって、四万円程度ではほとんど意味がない。
浩志からもらったバッグ、ネックレス、未開封の化粧品、服を、次々とフリマアプリへ出品した。
安い価格で売れたとしても、返済額には到底足りなかった。
ほどなくして、弁護士から正式な書面が届いた。
浩志は婚姻中に女性配信者と不適切なやり取りを続けていたことを認め、理恵さんにすべての支出記録を開示した。
訴訟を避けたい美月は、弁護士を通じた話し合いの末、受け取った金品の大部分を分割で返還する和解案に同意した。
これまで美月が楽しんできたプレゼントは、すべて重い返済義務へ変わった。
大学の匿名掲示板では、かつて私に向けられていた「不倫女」「略奪女」という言葉が、本当のなりすまし犯へ返されていた。
すべてを知った真帆と莉奈も、もう美月をかばわなかった。
「何が若手経営者の彼氏よ。他人の写真で既婚者をだましてただけじゃん」
「遥香が不倫女扱いされてたのに、訂正もしなかったんでしょ。最低」
大学へ行けば、学生たちに避けられる。
白樺館へ戻れば、完全に仲違いしたルームメイトと顔を合わせる。
美月は私を見るたび、隠そうともしない憎しみを向けてきた。
その視線を見ると、一度目の人生で突き落とされた階段を思い出す。
もう、ここには住めない。
理恵さんから受け取った五万円と、もともと貯めていた金を合わせ、私は大学の近くにある古い木造アパートへ移った。
敷金と礼金が不要な物件で、必要なのは前家賃、保証会社の費用、火災保険料だけだった。
六畳の和室が一つあるだけの1Kで、浴室も狭く、台所には一口のIHコンロしか置けない。
駅から遠く、壁も薄かった。冬になれば、きっとひどく冷える。
それでも、その部屋は私だけのものだった。
引っ越した日、私は初めて、狭く古い部屋を心から安心できる場所だと思った。
事件が一区切りついたあとも、理恵さんとの交流は続いた。
息子の悠人君は中学一年生で、数学が苦手だった。
私が商学部に通い、家庭教師の経験もあると知った理恵さんは、週に二回、勉強を見てほしいと頼んできた。
提示された時給は、一般的な家庭教師より少し高かった。
「こんなに払ってもらわなくて大丈夫です」
「気を遣ってるわけじゃないの。悠人はこれまでに二人も先生を困らせてるから」
理恵さんは、テーブルの上に教材を置いた。
「四十分、席に座らせてくれるなら、この金額でも安いくらい」
「僕、そこまでひどくないよ」
隣にいた悠人君が不満そうに口を挟む。
「前の先生が来たとき、十分で三回もトイレに行ったでしょう」
「あの日は水を飲みすぎただけ」
思わず笑ってしまった。
三浦家の雰囲気は、少しずつ柔らかくなっていった。
理恵さんは浩志を許してはいなかったが、子供と店のこともあり、すぐには結論を出さずに別居を始めた。
弁護士と税理士を交え、夫婦の財産や会社の持分について整理しているらしい。
最終的に何を選ぶのか、私は尋ねなかった。
それは理恵さん自身が決めることだった。
ある夜、家庭教師を終えた私は、一人でアパートへ戻っていた。
三浦家から駅へ向かう途中には、静かな住宅街がある。
街灯と街灯の間は暗く、周囲の家もほとんど明かりを消していた。自動販売機だけが、冷たい白色の光を放っている。
二つ目の角を曲がった頃、背後から足音が聞こえた。
私が歩調を落とすと、相手も速度を落とした。
白樺館を出てから、バッグには防犯ブザーをつけている。
スマートフォンには県警が提供する防犯アプリを入れ、奈央と位置情報も共有していた。
私はアパートへ向かわず、二十四時間営業のコンビニへ進路を変えた。
その瞬間、背後の足音が急に速くなった。
暗がりから男が飛び出し、私の腕をつかむ。
「遥香、やっと会えた」
私はすぐに防犯ブザーを引いた。
鋭い警報音が、静かな住宅街に響き渡る。
男は驚いたものの、手を離さなかった。
二十代くらいで、ゆったりしたパーカーを着ている。髪は乱れ、顔には不快な笑みが浮かんでいた。
「俺を呼び出したのは、そっちだろ。とぼけるなよ」
男が顔を近づける。
「写真より実物のほうがかわいいじゃん。『お兄ちゃん』って呼んでよ。急に捕まえられるのが好きなんだろ?」
何が起きているのか、すぐに理解した。
「痛いから、いったん離して」
美月が配信で使っていたような、甘い声を意識して出す。
男は一瞬戸惑い、指の力を緩めた。
私は腕を振りほどき、コンビニへ駆け込んだ。
防犯ブザーを聞いた店員は、すでに電話を手にしていた。
私はレジの奥へ逃げ込み、110番へ発信する。現在地と男の服装、外見を伝えた。
男は遠くまで逃げていなかった。
近くを巡回していた警察官が間もなく到着し、月見中央警察署で事情を聴くことになった。
男は大久保翔太と名乗った。
定職には就いておらず、普段はネットカフェなどで過ごすことが多いらしい。
数日前、位置情報を利用するマッチングアプリで、近くにいる女性のアカウントからメッセージを受け取った。
アカウントには私の写真が使われ、星陵大学の学生だと名乗っていた。音声メッセージも何度も送られている。
翔太はスマートフォンを警察官へ渡した。
「この道で待っていてほしいって言われたんです。服の色も、帰る時間も、通る道も教えられました」
トーク履歴を開く。
「口では知らないとか、助けてとか言うかもしれないけど、それも全部演技だからって。強引に来てくれないとつまらないって言われたんです」
担当の警察官の表情が険しくなった。
「ネット上で相手がそう言っていたとしても、本人に会って同意を確認せず、突然つかんではいけません」
警察官は、はっきりとした口調を続けた。
「アカウントを操作しているのが写真の本人とは限りません。目の前の相手が拒否した時点で、すぐにやめる必要があります」
「本人が本当に、そういうのを好きなんだと思って……」
翔太は肩を落とした。
私は別の席に座り、これまでの経緯を説明した。
「私はこの人と連絡を取ったことはありません。以前にも、私の写真を使って既婚者とやり取りしていた人がいます」
警察官がアカウントの写真と私の顔を見比べた。
「使われている写真は、ご本人のものですね?」
「Instagramに投稿していた写真です」
私は音声メッセージを再生した。
スマートフォンから、美月の甘い声が流れる。
一年間、同じ家で暮らしてきた。
聞き間違えるはずがない。
美月は自分の声に強い自信を持っていた。男性と話すときは、文字よりも音声を使うことが多かった。
その習慣が、今度は証拠として残った。
「この声に心当たりがあります。以前、同じシェアハウスに住んでいた佐伯美月です。この人は前にも、私の写真を使っていました」
写真を無断で使ったという事実だけで、直ちに刑事事件として立件されるわけではない。
しかし今回は、私の顔や大学名だけでなく、帰宅時間、服装、通る道まで第三者へ伝え、本人の拒否を無視するよう指示していた。
現実に危険な接触が発生している。
警察はアカウント情報やトーク履歴を確認し、美月にも任意で事情を聴きたいと連絡することになった。
最初の電話に、美月は出なかった。
警察署からメッセージを送り、事情を確認したいと伝えると、三十分ほどして折り返しがあった。
入浴中で電話に気づかなかった、すぐに警察署へ向かうという。
通話から声が聞こえた瞬間、翔太が勢いよく顔を上げた。
「この声です」
私と目が合うと、すぐに視線を落とす。
やがて立ち上がり、深く頭を下げた。
「すみませんでした。お互いに同意した遊びだと思い込んでいました。でも、本人かどうか確認もしないで腕をつかんだのは、俺が悪かったです」
翔太は自分のスマートフォンを見た。
「トーク履歴は全部、警察に見せます。事情聴取にも応じます」
「私がここで、もういいと言って終わることではありません」
私は落ち着いて答えた。
「あなたがだまされていたとしても、同意を確認せずに私をつかんだのは事実です。今後どうなるかは、警察にきちんと判断してもらいます」
翔太は黙って座り直した。
それ以上、自分を正当化しようとはしなかった。
美月が警察署へ来たのは、深夜近くになってからだった。
私の姿を見た瞬間、足を止める。
それでも何も知らないふりをして、担当の警察官へ笑いかけた。
「遥香、どうしてここにいるの? こんな時間に呼ばれたんですけど、何があったんですか?」
「高梨さんの写真と個人情報を使ったアカウントから、この男性へ連絡がありました」
警察官はトーク履歴の一部を机に置いた。
「高梨さんの帰宅時間や通る道まで伝えられています。このアカウントについて、任意で事情を伺います」
美月は画面を一度見ただけで、顔をそらした。
「知りません。こんな人、会ったこともありません」
翔太が立ち上がった。
「会ったことはなくても、音声を送ってきたのはあんただろ!」
「似た声の人なんて、いくらでもいるでしょ」
私はスマートフォンから音声を再生した。
『今夜十時を過ぎたら、ベージュのコートを着て、そこを通るから。嫌がっても演技だから、気にしないでね』
静かな部屋に、美月の声が響いた。
顔色が少しずつ青ざめていく。
「アカウントへのログイン情報や通信記録、使用されていた端末については、今後確認します」
警察官が美月を見た。
「今すぐ答えたくないことがあるなら、確認してから話してください。ただし、記録を削除しないでください」
私は美月から目をそらさなかった。
「前に浩志さんとやり取りしていたときも、私の写真を使ったよね。あのときは、すぐに法的な手続きを取らなかった」
ゆっくり息を吸う。
「それなのに今度は、私の写真だけじゃなく、帰る時間や道まで知らない男に教えた」
美月が勢いよく振り返った。
「前の件も、やっぱりあんたが仕組んだのね!」
声を荒らげる。
「Instagramに載せてた写真を何枚か使っただけじゃない! あんたのせいで、私がどれだけ借金を背負ったと思ってるの!」
美月は止まらなかった。
「あんたがいなければ、理恵さんに見つかることもなかったし、真帆や莉奈ともこんなことにならなかった!」
室内が静まり返った。
自分が何を認めたのか、美月もすぐに気づいたらしい。
顔がこわばる。
「今の発言も記録されています」
警察官は落ち着いた声で告げた。
「座ってください」
美月は突然、私のほうへ飛び出そうとした。
一歩進んだところで、そばにいた女性警察官が間に入る。
「全部、あんたのせいよ!」
「離れてください。それ以上、近づかないで」
美月は反対側の席へ移された。
ようやく自分の置かれた状況を理解したのか、私から少し離れた場所で膝を折った。
「遥香、ごめん。腹が立って、ちょっと脅かしてやろうと思っただけなの」
必死な目で私を見る。
「こんなことになるなんて思わなかった。同じ家に住んでた仲なんだから、許してよ」
「翔太が夜道で私を待っていることは知ってた?」
「ちょっと怖がらせたかっただけ。本当に傷つけるつもりなんてなかった」
「帰宅時間も、道も、服装も教えたよね」
私は美月の目を見た。
「コンビニが閉まっていたら? 近くに巡回中の警察官がいなかったら? 防犯ブザーを鳴らしても、あの人が手を離さなかったら? 私は今、ここに座っていられたと思う?」
美月は口を開いたものの、すぐに視線をそらした。
「そこまで大げさなことじゃないでしょ……」
この状況になっても、自分が何をしたのか理解していない。
私は警察官へ向き直った。
「示談には応じません。被害届を提出します。民事上の請求についても、弁護士に相談します」
美月は床に座り込んだまま動かなかった。
一度目の人生で私を階段から突き落としたときも、結果について深く考えてはいなかったのだろう。
私さえ消えれば、すべて解決すると思っていた。
けれど今度こそ、自分の行動の責任を負うのは、美月のほうだった。
4
警察は、アカウント情報、トーク履歴、関係者の証言を確認した。
写真を無断で使ったという事実だけで、すぐに一つの犯罪として処理されたわけではない。
しかし、美月は第三者へ私の帰宅時間や移動経路を伝え、拒否を無視して接触するよう促していた。
警察は、そこにどのような刑事責任が生じるか、引き続き調べることになった。
私は弁護士の助けを借り、美月が二度にわたり私の写真を使った証拠を整理した。
引っ越し費用、医療機関で診察を受けた記録、防犯用品の購入費、精神的な負担についての資料も提出した。
大学でも、正式な調査が始まった。
以前の私は、動画や外部からの通報によって、不倫相手ではないかと疑われていた。
偽のアカウントには私の写真だけでなく、星陵大学の学生だという情報も書かれていた。図書館を背景にした写真まで使われていたため、大学側も無視できなかったのだ。
大学独自の給付型奨学金については、翌年度の継続審査が一時的に保留された。
指導教員からも、大学院の学内推薦への出願は、事実関係が明らかになるまで見送るよう告げられていた。
しかし、今は状況が違う。
ボカライブの管理画面、LINEの音声、荷物の送り先、美月自身の発言によって、写真を使用していた人物が確認された。
星陵大学は関係する教職員へ調査結果を伝え、私の給付型奨学金の継続審査と、大学院への学内推薦手続きを再開した。
外部の匿名掲示板に対しては、運営会社へ動画や個人情報の削除を要請した。
学生に対しても、動画や個人情報を拡散しないよう注意が出された。
美月については、学生委員会による事情聴取が行われた。
他人の写真を繰り返し使用し、大学名をかたり、さらに学外の男性へ学生の帰宅経路を伝えた行為が、重大な権利侵害と判断された。
その結果、美月には停学処分が下された。
白樺館の管理会社も賃貸契約を解除した。
ボカライブのアカウントは、なりすましと危険な対面接触を誘導した規約違反により、永久停止となった。
民事上の問題については、弁護士を交えた話し合いで和解が成立した。
美月は慰謝料と、引っ越し費用などの実際の損害の一部を支払う。
さらに、保存していた私の写真、作成したアカウント、投稿した内容をすべて削除し、書面で謝罪することになった。
浩志との件で分割返済を続ける必要もあり、私への支払いも長期の分割になった。
謝罪文は三枚にわたっていた。
私は一度だけ読み、書類用のファイルにしまった。
私が求めていたのは、謝罪の言葉だけではない。
事実が明らかになり、奪われた名前と人生を、自分の手に取り戻すことだった。
しばらくして、理恵さんが食事に誘ってくれた。
高級なレストランではなく、浩志と最初に始めた小さな店だった。
内装は新しくなっていたが、創業当時の木製看板だけは残されている。
理恵さんは窓際の席に座り、最初に会った日よりも穏やかな表情をしていた。
「離婚することにしたの」
「もう決めたんですか?」
「うん」
理恵さんは、カップの縁を指でなぞった。
「二人で苦労してきた時間が長かったから、多少のことなら我慢すればいいと思ってた。でも悠人に言われたの。ずっと耐えることが、家族を守ることじゃないって」
小さく息を吐く。
「そのあと、浩志がほかの配信者にも連絡していたことが分かった。一度だけ間違えたんじゃない。変わる気がなかったのよ」
「会社は、どうなるんですか?」
「弁護士と税理士に入ってもらって、会社の持分や借入金を整理してる。浩志は経営から退くことになったわ」
理恵さんは、店内を見回した。
「もともと現場の運営は私が担当していたし、各店舗の店長も残ってくれる。正式な手続きが終わったら、私が代表取締役になる予定」
「これから忙しくなりますね」
「怒ってばかりいるより、忙しいほうがいいかもしれない」
そう答えたあと、理恵さんの目に迷いが浮かんだ。
「遥香。私は十八歳から浩志と一緒にいたの。二十二年よ」
視線を落とす。
「私が妻として足りなかったから、あの人をつなぎ止められなかったのかなって、今でも考えることがある」
「裏切ったのは浩志さんの責任です。理恵さんが足りなかったからじゃありません」
私は店の奥で働く従業員たちを見た。
「理恵さんがいなければ、最初の八席しかない店だって続かなかったはずです。浩志さんがここまで来られたのは、理恵さんがずっと支えてきたからです」
理恵さんは少し驚いたように私を見た。
「仕入れも、帳簿も、従業員の管理も、全部理恵さんがやってきたんでしょう? これから困るのは、浩志さんのほうです」
私は少し笑った。
「そんな人、捨てて正解ですよ。次はもっとまともで、こっそり配信者に高額ギフトを送ったりしない人を探せばいいんです」
理恵さんも、ようやく声を上げて笑った。
「今さら、もう遅いわよ」
「人生をやり直すのに、年齢制限はありません」
カウンターの奥から、悠人君が顔を出した。
「母さん、二人で父さんの悪口を言ってる?」
「宿題は終わったの?」
理恵さんが振り返る。
悠人君はすぐに頭を引っ込めた。
「何も聞いてません」
店内の柔らかな照明が、理恵さんの横顔を照らしていた。
初めて会った日、彼女は大学の正門前で、怒りのあまり周囲が見えなくなっていた。
今はもう、夫の裏切りを見知らぬ女性のせいにしていない。
男をつなぎ止められるかどうかで、自分自身の価値を決めることもやめていた。
私たちはそれぞれの形で、あの過ちから前へ進み始めていた。
私は大学を卒業するまで、悠人君の勉強を見続けた。
学内推薦の手続きも再開されたが、最終的に大学院へは進まず、理恵さんの会社へ就職する道を選んだ。
ただし、個人的な関係だけで、いきなり管理職になったわけではない。
ほかの新入社員と同じように店舗研修を受け、レジ、調理補助、在庫管理、衛生管理を一から学んだ。
商学部で身につけた会計やマーケティングの基礎に加え、現場で実際の店舗運営を経験した。
その後、本部の企画部へ配属され、デリバリー事業、SNSでの宣伝、大学周辺店舗の顧客データ分析を担当するようになった。
理恵さんは、私たちの関係を理由に仕事の基準を下げることはなかった。
企画書に問題があれば、その場で差し戻される。
数字を間違えれば、ほかの社員と同じように指摘された。
「仕事は仕事よ。褒められることしか望まないなら、いつまでたっても成長できない」
修正箇所の書かれた企画書を受け取る。
「分かりました、社長」
数年後、会社は一人暮らしの学生や会社員を対象にした、手頃な価格の定食ブランドを立ち上げた。
一号店は星陵大学の近くに開き、理恵さんと浩志が創業した頃に人気だった、おにぎりと味噌汁もメニューに残した。
新しいブランドは少しずつ軌道に乗った。
私にも、ようやく多少の貯金ができた。
大金持ちとは言えない。
それでも、翌月の家賃や引っ越し費用を心配せずに暮らせるようになった。
美月は星陵大学へ戻らなかった。
停学期間が終わる前に退学届を出し、月見市を離れたと聞いた。
名前を変えて音声配信を再開しようとしたこともあったらしい。
しかし、過去のリスナーに声を聞き分けられ、すぐに通報されて、またアカウントを停止された。
その後、どうなったのかは知らない。
調べようとも思わなかった。
美月の人生は、もう私には関係がない。
ある春の日、私は卒業生向けの催しに参加するため、星陵大学を訪れた。
図書館前では、桜が満開になっている。
かつて、あの写真を撮影した場所に立ち、スマートフォンのカメラを自分へ向けた。
写真の中の私は、きれいな化粧も、高価な服も身につけていなかった。
春風に髪を乱されている。
それでも、笑顔は過去のどの写真よりも穏やかだった。
かつて、私の顔を盗み、金やプレゼント、偽物の恋を手に入れた人がいた。
その一枚の写真だけを理由に、私の名誉や未来まで奪おうとした人々もいた。
けれど、写真一枚で、一人の人間を代わりに生きることはできない。
声も、選択も、経験も、自分で歩いてきた道も。
そのすべてが、私という人間を形作っている。
私は美月に使われた古い写真をInstagramから削除した。
代わりに、今撮ったばかりの写真を投稿する。
添えた言葉は、一行だけだった。
『これは、私の人生だ。』




