ソーダ味の幸福
在庫を店頭に出すついでにさっと腕時計を確認する。二十時三十分。閉店まで残り三十分。今日は平日だったせいか、お店は比較的平和だった。なんとかこのまま今日が終わればいいなと思う。
私はセットアップを何着か並べた後、他のスタッフに断ってトイレへと向かった。用を済ませた後、手を洗う。鏡を見ながら顔を確認する。大丈夫、今日はまだメイクも崩れていない。念のためバッグから油取り紙を取り出して額や鼻を押さえる。年齢が上がって、取れる油が減ったのはいい事なのか悪い事なのか。
店舗に戻ると先月入ったばかりの阿部くんが中年のお客様に詰められていた。百八十五センチの大きな体が、すっかり萎縮して小さくなっている。周りを見渡しても、なぜか他のスタッフは誰もいない。阿部くんも誰にも助けてもらえず弱っていたのだろう。私は小さくため息をついて、彼らのところへ近づいた。
「お客様、いかがいたしましたでしょうか」
阿部くんに怒鳴りかかっていたおばさんはギロリと私を睨むと、阿部くんの目に刺さるほど近くに指を突き出して
「この人が私の目の前で私が買うはずだった水色のブラウスを売ってしまったのよ!」
「……ええと、それはお客様の取り置き分を誤って他のお客様に販売してしまったという事でしょうか」
私が質問をし終わるかし終わらないかのうちに、そのおばさんはぶんぶんと首を振った。
「違うわよ! 取り置きなんてしてないわよ!」
「……ではご予約して頂いた商品を」
「予約もしてないわよ! だけど、さっき通りかかった時に見かけて買おうと思ってたのに、この人が私の目の前で別の人に売って、しかもそれが最後の一着だったって言うのよ!」
……いや、知らんがなオブ知らんがなだわ。お前の頭の中に住んでるわけじゃないんだから、そんなことわかるわけないだろ。
とはいえ、そんな事言えるわけもないので、阿部くんに商品がなんだったかを訊き、末端で周辺在庫を確認する。
「ええと、お客様のご希望の商品でしたら、周辺店舗に在庫がごさいましたので、今から発注すれば明日の昼にはこちらに到着します」
「明日の昼じゃあ遅いのよ! 明日の朝から必要だったんだから!」
知らん。そんな事情は知らん。
「それでは少し距離がございますが大崎市店に向かっていただければご購入が可能です。幸いあちらは23時閉店ですし、こちらから連絡もしておきますので……」
「大崎? あんた馬鹿じゃないの? 今からわたしに六十キロも走れっていうの? 行けるわけないじゃないの!」
「それでは大変申し訳ないのですが、もうこちらで打てる策は……」
「なによ、ホント使えない! なんかしゃしゃり出てきたか
ちょっとは役に立つのかと思ったのに。もういいわ! こんな店二度と来ないから!」
あーそうしてくれと思う私を置いて、おばさんは怒鳴るだけ怒鳴るとぷりぷりしながら帰っていった。
「あの……すみませんでした」
阿部くんがおずおずと私に謝る。
「ああ、気にしないでいいよ。阿部くんは何も悪くないんだし。たまたま嫌な人に当たっちゃっただけだからさ」
「いやでも、僕の代わりに怒られてしまって……」
……確かにいい気分はしない。今日は平穏なまま終われるかと思っていたのに、最後の最後で嫌な客に当たってしまった。だけど……。
「あんなのいちいち気にしてたら客商売なんてできないよ。さ、締めの準備しよう?今日はもうさっさと閉めて帰っちゃおう」
私たちはテキパキと後片付けをして、めずらしく閉店時間と同時に店を出ることができた。
私は帰りにコンビニに立ち寄る。後輩の阿部くんの手前ああは言ったものの、やはり怒鳴られるとダメージは大きい。しかもあんな理不尽な事で怒られたって、じゃあ私はどうしてあげたらよかったんだよ。こういう時は答えが出ないとわかっていても、頭の中でぐちぐちと同じ事を考えてしまう。
私は安い棒アイスを一つ買って、コンビニを後にした。
昨日の残りのカレーを食べ、お風呂に入る。お風呂の中でもブチ切れているおばさんの顔が思い浮かんで離れない。あーあ、あの人クレームとか入れてないといいな。
バスタオルで体を拭き、絶望的な気分でさっき冷凍庫に放り込んだアイスを取り出す。
袋を外し、棒アイスにかじりつく。クリーム系よりずっと冷たく感じるソーダ味の氷菓が、鈍く重たい私の頭を冷やしていく。気がつくとほとんど噛み砕いて食べていて、後は落ちないように棒の周りに残った部分だけだった。
垂れないように、落とさないように、慎重にアイスの残りを口に入れる。
スッと引っ張り出した木の棒には茶色く刻印された『あたり』の文字があった。
『やった! ラッキー! 先日の動物園から運がないと思っていたけど、運をつけられた甲斐があった!』なんて一瞬馬鹿な事を思って喜んだが、次の瞬間には
『いや、できることならこんな安いアイスの当たりなんか引いて、運を使いたく無かった……』と思ったし、『それにあんな嫌な事があったのに、それの代わりの幸運がこれってショボすぎるでしょ。またまた全然プラマイマイナスなんだけど……』と落ち込んだ。
所詮私のところに舞い込んでくる幸福なんて、この程度なのだ。私は棒を指でなぞる。
『あたり』の文字はすぐに消えてしまいそうな刻印だった。
口の中に残るソーダの後味に、弾ける刺激もない人生だな、なんて事を考えていた。
私は数秒見つめた後、そのままアイスの棒をゴミ箱に投げ捨てた。
空のゴミ箱から棒が跳ねるカランという音がした。




