第八話「鎌鼬の旋」
地下へ降りる前、胸にあったのは確かに「ワクワク」だった。
未知の場所。自分の力が通用するという自信。
まるでRPGの主人公になったような、不謹慎な高揚感。
だが、その熱は数分で冷え切った。
「……暗いな」
ウズメの灯す魔法の光だけが頼りだ。
その光の円の外側には、粘つくような漆黒が広がっている。
光が届かないのではない。闇が光を喰らっているようだ。
ザッ、ザッ……。
自分たちの足音が、やけに大きく響く。
いや、違う。
静かすぎるのだ。
地下街の換気扇の音も、ネズミの足音も、水の滴る音すらしない。
完全な無音。
その静寂が、鼓膜を内側から圧迫する。
(なんだ、この感覚……)
灰は自分の変わった心臓の音を聞いていた。
ゴゥン、ゴゥン、ゴゥン。
早鐘を打つ脈動が、耳の奥でうるさいほど反響する。
喉が渇く。
背中の毛穴が粟立つ。
誰かに見られている?
いや、見られているのではない。**「品定め」**されている。
暗闇の奥から、無機質なレンズ越しに、獲物としての価値を値踏みされているような悪寒。
「……カイ。止まりな」
前を歩いていたウズメが、鋭い声で制した。
彼女の背中が強張っている。
いつもの軽口はない。彼女の周囲を漂う光の玉が、警戒するように激しく明滅している。
「ここ、マズいよ。空気が『切れて』る」
「切れてる?」
灰が問い返そうとした、その時だった。
ヒュン。
風が吹いた。
密閉された地下街で、突風が灰の頬を撫でた。
いや、風ではない。
あまりにも速く何かが通り過ぎた余波だ。
「え?」
灰は瞬きをした。
視界には何もいない。ただの闇だ。
だが、次の瞬間。
ピシャッ。
右腕に、熱い液体が走った。
遅れてやってくる激痛。
灰が自分の腕を見ると、制服の袖がぱっくりと裂け、そこから鮮血が噴き出していた。
「――ッ!?」
何が起きた?
いつ? 誰が?
思考が追いつかない。
痛みよりも先に、理解不能な事象への恐怖が脳を支配する。
「下がれカイッ!!」
ウズメの叫びと共に、彼女が灰の襟首を掴んで後ろへ引いた。
そのコンマ1秒後。
灰が先ほどまで立っていた空間を、見えない刃が**「空間ごと」**切り裂いた。
地面のアスファルトに、深さ数センチの亀裂が、まるで定規で引いたように刻まれる。
「……ほう」
闇の中から、声がした。
感情のない、けれど自尊心に満ちた少年の声。
「かわしたか。いや、運が良かっただけだな」
カツ、カツ、カツ。
硬質な足音が響き、闇の中から一人の影が姿を現した。
目に装着した巨大なバイザー。
腰には奇妙な薬品のシリンダー。
そして何より異様なのは、その**「右脚」**だった。
膝から下が鋭利な刃物とジェットエンジンが融合したような、凶悪な義足になっている。
少年は灰たちの前で立ち止まると、バイザーの位置を指先で直しながら、つまらなそうに言い放った。
「そっちの女は気付いたが、お前は遅いな。俺が通り過ぎたことにも気づかないのか?」
旋。
後に灰の仲間となるスピードスターは、今は最悪の狩人としてそこに立っていた。
「アンタ……『鎌鼬の旋』かい?」
ウズメが油断なく身構えながら問う。
旋は口の端を歪め、冷笑した。
「俺の名を知っているとは光栄だが、ファンサービスの時間はない。俺は今、機嫌が悪いんだ」
言い終わるかどうかの刹那。
旋の姿が**「ブレた」**。
(来る――!)
灰は反応しようとした。
拳に熱を込め、迎え撃つ。空手の「先」を取る。
だが、そのイメージすらも遅すぎた。
「32通り、全部『死』だ」
視界から奴が消えた。
次の瞬間には、灰の懐に潜り込んでいた。
速いなんてものではない。予備動作が一切ない、完全なゼロ加速。
ガギィンッ!!
義足の刃が、灰の心臓めがけて蹴り上げられる。
灰のガード、構えすらも間に合わない。
死ぬ。
直感した灰の脳裏に、走馬灯のように学生の頃の景色がよぎる。
(ここで、終わりか……?)
刃の切っ先が、灰の胸ポケットに触れた。
肉を裂き、心臓を貫くはずの、その絶望的な一撃。
バキィッ!!!
乾いた破砕音が響いた。
しかし、それは骨が砕ける音ではなかった。
何かが弾け飛び、旋の刃の軌道をわずかに数ミリ、ずらした音だった。
「――あ?」
旋の動きが止まる。
灰の体は衝撃で後方へ吹き飛ばされ、壁に激突した。
「がはっ……!」
肺から空気が漏れる。胸には強烈な打撲痛。
だが、生きている。心臓は動いている。
床に落ちた「それ」を見て、旋が眉をひそめた。
真っ二つに割れた、泥だらけの**「ドングリ」**だった。
「……木の実?」
旋のバイザーに流れる高速の数値が、エラーを吐き出して明滅する。
『障害物検知:エラー。予測不能な硬度係数』
彼の完璧な演算には、灰のポケットに入っていた「たった一つのドングリ」の存在など含まれていなかったのだ。
灰は震える手で胸を押さえ、荒い息を吐いた。
(助かった……? あのドングリが?)
先ほどの幻覚のような少女――の顔が脳裏に浮かぶ。
「お礼の奇跡」。
それが今、灰の命を、首の皮一枚で繋ぎ止めたのだ。
「……チッ。計算外か」
旋は不機嫌そうに舌打ちし、割れたドングリを踏み砕いた。
その瞳から、遊びの色が消える。
「2回も…仕留め損ねた。次は外さない。……お前たちの手足、一本ずつ切り落として、ダルマにして俺の名声を上げるスピーカーになってもらう。」




