第三話「神楽鈿女」
「深呼吸だ。吸って、止めて……その熱を腹の底に『落とす』んだよ」
少女の声は、不思議なほど耳に残るリズムを持っていた。
灰は混乱する意識を必死に繋ぎ止め、言われた通りに息を吸い込んだ。
「スゥーッ……」
酸素と共に、暴れまわる熱を肺に取り込む。
熱い。内臓が焼けるようだ。
だが、吐き出そうとする衝動を堪え、臍の下――丹田へと意識を集中させる。
空手の呼吸法「息吹」に近い。
体内で渦巻くマグマを、無理やり固めて沈めるイメージ。
「……ッ、ふぅ……」
長く、重い呼気を漏らすと同時に、拳を包んでいた青い炎がシュルシュルと皮膚の下へ潜っていった。
後に残ったのは、陽炎のような揺らぎと、赤熱した自分の拳だけ。
(消え……た?)
助かった。
安堵した瞬間、全身から力が抜けた。
灰はその場に崩れ落ちそうになり、慌てて膝に手を突く。
礼を言わなければ。
顔を上げ、少女に向かって口を開く。
「あ……が……」
声が出ない。
炎を抑え込んだ反動か、それとも極限の脱水症状か。喉が張り付き、舌が動かない。
ヒューヒューと掠れた音が出るだけだ。
そんな灰の様子を見て、少女は「ああ、そうかい」と短く呟くと、腰に下げていた水筒を無造作に放り投げた。
「ほらよ。高いよ、それ」
ボコッ。
鈍い音を立てて、灰の目の前に銀色のボトルが転がる。
灰は震える手でそれを掴み、蓋をねじ開けた。
一気に仰ぐ。
冷たい液体が、口内へ雪崩れ込んでくる。
美味い。
甘いわけでも、特別な味がするわけでもない。
ただの水だ。少し鉄の臭いがする、ぬるい水だ。
けれど、干上がりかけた灰の細胞にとって、それは極上の甘露だった。
食道を通って胃に落ちる感触が、ありありと分かる。
全身の血管が歓喜の声を上げ、カサついた粘膜が潤っていく。
生きてる。俺はまだ、生きている。
「ぷはっ……!」
一息で半分ほど飲み干し、灰は荒い息を吐いた。
口元を手の甲で乱暴に拭う。
理性が戻ってくる。視界の明度が増す。
「……助かった。ありがとう」
ようやく出た言葉は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
灰はボトルを丁寧に閉め、少女に差し出した。
少女――ウズメは、それを受け取らずに肩をすくめた。
「いいってことよ。アンタみたいな『点火したて』の初心者は、放っておくと自爆するからね。私の縄張りで爆発されたら迷惑なだけさ」
そう言って、彼女はニカッと笑った。
派手な露出の衣装。微かに漂う甘いお香の香り。
命の恩人だが、明らかにカタギではない。
灰はどう接していいか分からず、言葉に詰まった。
沈黙が落ちる。
気まずい。
何を話せばいい? こいつは何者だ? さっきの怪物は?
灰の困惑を察したのか、彼女は芝居がかった仕草でポンと手を叩いた。
「まずは名乗りなさいよ。命拾いしたんだからさ」
「あ、ああ……すまない」
灰は居住まいを正し、頭を下げた。
「俺は、榊 灰。……気づいたら、この病院の地下にいた」
「カイ、ね。覚えやすい名前だ」
少女は満足げに頷くと、腰に手を当てて胸を張った。
「私は神楽 鈿女。見ての通り、しがない踊り子さ」
踊り子。
この地獄のような廃墟で、その名乗りはあまりに不釣り合いだった。
だが、彼女のしなやかな立ち姿と、揺れる装飾品の音色は、確かに戦場よりも舞台が似合う。
「よろしくな、ウズメ」
「はいよ。で、カイ。アンタ、さっきからマヌケな顔して空ばっかり見てるけど……」
ウズメの瞳が、灰を射抜くように細められた。
その視線には、哀れみと、品定めするような色が混じっていた。
「ここが『どこ』で、今は『いつ』なのか。……何も知らないって顔だね?」
図星だった。
灰は唇を噛み、頷く。
そして、恐る恐る、一番聞きたくない問いを口にした。
「教えてくれ。……日本は、どうなっちまったんだ?」
ウズメはふっと息を吐き、視線を頭上の空――いや、逆さまの大地へと向けた。
そして、歌うような口調で語り始めた。
「見ての通りさ。日本はもう、アンタが知ってる平べったい島国じゃない」
彼女は指先で空をくるりと円を描くようになぞった。
「3年前。偉い学者先生と政治家たちが、この国を『保存』するために切り取って、丸めたのさ。北から南まで、47の都道府県をパズルのように繋ぎ合わせてね」
「丸めた……?」
「そう。ここは地球の上空に浮かぶ、巨大な球体。あっちに見える天井が、かつての京都や北海道。私たちがいるこの辺りが、昼と夜の境目……『黄昏帯』さ」
ウズメの言葉が、現実味のないお伽話のように響く。
だが、目の前の光景がそれを証明していた。
「じゃあ、俺は……3年も眠っていたのか?」
「そういうこと。3年だよ、カイ。アンタが地下でグースカ寝ている間に、人口は4分の1に減り、紙幣はただの紙屑になり、強い奴が弱い奴を食う……そんな素敵な『球体日本』になっちまったってわけ」
ウズメは灰の顔を覗き込み、悪戯っぽく笑った。
「ようこそ、地獄へ。……と言いたいところだけど、アンタ、運がいいよ。私に出会えたんだから」




