第一話 「困惑の灰」
夢を見ていた。
体が焼ける夢だ。
皮膚が弾け、筋肉が溶け、骨が灰になるまで焼かれる。だが、不思議と痛みはなかった。
ただ、熱い。
魂の芯まで焦がすような、絶対的な熱量だけがそこにあった。
「……っ、は」
呼吸。
肺が酸素を求め、激しく収縮する。
榊 灰の意識が、泥のような眠りの底から急浮上した。
目を開ける。
視界を覆っていたのは、青と金が混ざり合った**「硝子の膜」**だった。
まるで巨大な卵の中にいるようだ。
青い炎が凍りついたような半透明の殻。その表面を、血管のように金色の亀裂が走っている。
(なんだ、これ……俺は、病院にいたはずじゃ……)
思考が鈍い。記憶に靄がかかっている。
灰は無意識に、目の前の殻へ手を伸ばした。
パキン。
軽い音だった。
指先が触れた瞬間、その強固に見えた繭は、飴細工のようにあっけなく砕け散った。
パラパラと降り注ぐ青い破片は、床に落ちると瞬時に気化し、熱気となって消えていく。
「熱っ……」
自分の声が、他人のもののように掠れて響いた。
灰はよろめきながら、冷たいコンクリートの床に膝をつく。
――いや、違う。
床が冷たいのではない。俺が熱すぎるのだ。
違和感が全身を駆け巡る。
灰は自分の掌を見つめた。
暗がりでもはっきりと分かる。血管が、皮膚の下で青白く発光していた。
握りしめると、拳の周囲で空気が揺らぐ。
陽炎だ。
自分の体温が異常に上昇している。平熱などという生ぬるいものではない。沸騰したヤカンのような熱が、皮膚の内側で渦巻いている。
「ふぅー……、ふぅー……」
意識して呼吸を整える。
吐く息が白い。寒いからではない。吐息が高温すぎて、外気との温度差で蒸気になっているのだ。
(俺の体、どうなっちまったんだ)
胸に手を当てる。心臓の鼓動は……ある。
だが、それは以前のような「ドクン、ドクン」という脈動ではない。
**「ゴウッ、ゴウッ」**という、炉の中で火が燃えるような重い振動だった。
灰はゆっくりと立ち上がった。
着ていたはずの制服はボロボロに焼け焦げ、炭のような繊維がへばりついているだけだ。
周囲を見渡す。
そこは確かに、見覚えのある藤田医科大学病院の地下ボイラー室……の成れの果てだった。
壁は崩れ落ち、鉄骨が飴のようにねじ曲がっている。
部屋の隅には、炭化した「何か」が転がっていた。かつてストレッチャーだったものか、それとも――。
埃と、カビと、そして**「焦げた鉄」**の匂いが鼻をつく。
(誰もいないのか?)
「師匠……? 創……? 蓮……?」
名前を呼ぶが、返ってくるのは乾いた反響音だけ。
静かすぎる。
病院特有の喧騒も、救急車のサイレンも、空調の音さえもしない。
まるで、時間そのものが死んでしまったような静寂。
ギシッ。
一歩踏み出すたびに、裸足の足裏が床の瓦礫を踏みしめる。
足の裏が熱い。触れた瓦礫が、ジュッとかすかな音を立てて熱を帯びるのが分かった。
灰は壁に手をつき、慎重に歩を進めた。
触れた壁の塗装が、熱でじわりと溶けて指の跡を残す。
(力の加減が分からない……触れるもの全てを溶かしてしまいそうだ)
己の変質に戸惑いながらも、灰は光の漏れる方向を目指した。
まずは外だ。外に出れば、誰かいるはずだ。
崩れかけた階段を、這うようにして登る。
一段、また一段。
出口の扉は蝶番が壊れ、斜めに傾いていた。
その隙間から、見たこともない色の光が差し込んでいる。
「……眩しい」
灰は目を細め、重い鉄扉を肩で押し開けた。
錆びついた金属が悲鳴を上げ、視界が一気に開ける。
風が吹き抜けた。
湿った、生ぬるい風。
灰は大きく息を吸い込み、そして――言葉を失った。
「……は?」
喉から漏れたのは、乾いた疑問符だけだった。
空がない。
あるいは、空が落ちてきていた。
見上げた先にあるはずの青空も、雲も、太陽も、そこにはなかった。
代わりにあったのは、**「大地」**だ。
遥か頭上、雲よりも高い場所に、逆さまになったビル群が、道路が、山脈が、へばりつくように浮いていた。
地平線を見ても、その景色は途切れない。
地面がぐにゃりと湾曲し、壁のように空へ向かって競り上がり、そのまま頭上の大地へと繋がっている。
世界が、丸まっていた。
「嘘だろ……」
ここは病院の駐車場だった場所だ。
だが、周囲の景色も一変していた。
見知った街並みは瓦礫の山となり、傾いた高層ビルが墓標のように突き刺さっている。
空には、見たこともない巨大な構造物が浮遊し、そこから滝のように水が降り注いでいた。
空の色は、朝でも夜でもない。
燃えるような、あるいは血が滲んだような、「永遠の夕暮れ(トワイライト)」。
灰はその場に立ち尽くし、呆然と、ただその異様な光景を見上げるしかなかった。
自分が眠っていた間に、世界は終わってしまったのか。
それとも、まだ悪い夢の中にいるのか。
自身の体から立ち昇る青い熱気だけが、これが現実であると告げていた。




