第九話「初死闘」
死ぬ。
このままでは、確実に殺される。
灰の本能が警鐘を鳴らし続けていた。
ドングリが弾いたのは一撃だけだ。次の一撃は、間違いなく心臓を貫く。
「……ふぅーッ!!」
灰は、迷いを捨てて体内の熱を解放した。
『息吹』とは逆の回転。
制御していた炎を、全身の毛穴から一気に噴き出させる。
ボウッ!!
青い炎が灰の体を包み込んだ。
防御のための炎の鎧。近づくだけで皮膚が焼け焦げるほどの熱量を纏い、灰は構えを取った。
「ほう。自分から燃えるか。だが――」
旋が冷ややかに言い放つ。
「止まっている的が光ったところで、当てやすくなるだけだ」
旋の姿が再びブレた。
消えたのではない。人間の動体視力を超えた速度移動。
右、いや左か?
思考する暇もなく、見えない刃が灰の首を刈り取ろうと迫る。
その瞬間。
キィィィィィンッ!!
甲高い金属音のような高周波が、地下街に響き渡った。
「チッ、なんだ!?」
旋の動きが僅かに鈍る。
彼が踏み込んだ空間に、見えない壁が存在していたかのように、彼の進路が強制的にねじ曲げられたのだ。
「そこだ、カイッ!!」
後方で、ウズメが汗だくになりながら舞っていた。
彼女が手を叩くたびに、空気が圧縮され、物理的な障壁となる。
『音圧障壁』 。
完全な防御壁ではない。だが、直進しかできない超高速の弾丸にとって、空中に置かれた「見えない石ころ」は致命的な障害物になる。
「邪魔な雑音が……!」
旋は舌打ちし、壁を避けてジグザグに軌道を変えた。
直線なら速いが、曲がれば減速する。
そのコンマ数秒の隙が、灰に勝機を与えた。
(見えなくても、感じることはできる)
灰は足裏に意識を集中した。
コンクリートに熱を流し込む。
地面が焼け、周囲の空気が急激に膨張する。
ゆらり。
灰の姿が、陽炎のように揺らめき始めた。
『陽炎足』 。
「演算通りに……なに?」
突っ込んできた旋が、一瞬、目を見開いた。
彼のバイザーに映る灰の姿が、不自然に歪み、半透明に透けて見えたからだ。
実体はそこにあるはずなのに、距離感が狂う。
逃げ水のように、近づいても近づいても、灰の姿が遠ざかって見える。
「視覚情報エラー……クソッ、目障りな!」
旋の完璧な演算にノイズが走る。
彼は苛立ちまかせに、歪んだ残像ごと灰を薙ぎ払おうと義足の刃を振るった。
ブンッ!!
空を切り裂く音。
だが、手応えは浅い。
灰は陽炎の中で、半歩だけ重心をずらしていた。
(――今だ!)
炎の中で、灰の瞳が琥珀色に輝く。
速さに目が慣れてきたわけではない。
ウズメの壁と、陽炎による撹乱。相手が攻めあぐねて速度を落としたその一瞬だけ、灰の動体視力が「死の軌道」を捉えたのだ。
灰は防御を捨て、踏み込んだ。
カウンターの正拳突き。
「点火――ッ!!」
ジュッ。
拳が空を打ち抜く。
直撃ではない。
だが、旋の頬をかすめた拳から爆発的な熱風が噴出し、彼の整った顔立ちを僅かに焦がした。
「ぐっ……!?」
旋が大きくバックステップで距離を取る。
彼は自身の頬に手を当て、信じられないものを見る目で指についた煤を見た。
灰もまた、肩で息をしながら、焼けるような視線を旋に向けていた。
腕や足からは血が流れている。だが、倒れてはいない。
地下街に、ヒリヒリとした沈黙が落ちる。
旋は数秒間、灰を睨みつけていたが、やがてふっと力を抜いた。
「……再計算」
彼のバイザーの数値が高速で流れる。
「今の装備で、その『揺らぎ』と『音』を突破して殺すには、想定の3倍のカロリーと時間を消費する。……割に合わん」
旋はシリンダーから薬品を取り出し、首筋に注射しながら冷徹に言い放った。
撤退の判断。
彼はプライドが高いが、馬鹿ではない。
無駄なリソース消費を嫌う、合理的な狩人だ。
「おい、名前は?」
旋が唐突に尋ねてきた。
「……榊、灰」
「カイ、か」
旋はニヤリと、冷たい笑みを浮かべた。
それは獲物を認めた狩人の顔だった。
「覚えておく。次に会う時は、その小細工ごと切り刻んで、俺の名声を上げるための踏み台にしてやる」
言い残すと同時、旋の姿がかき消えた。
今度は攻撃のためではない。
風が吹き抜ける音だけを残し、彼は闇の奥へと疾走して去っていった。
「……行っ、たか」
灰は、緊張の糸が切れたようにその場に膝をついた。
全身から冷や汗が吹き出す。
勝ってはいない。ただ、生き延びただけだ。
だが、あの化け物相手に一撃を掠らせ、撤退させた事実は、灰の中に確かな手応えを残していた。




