ことの始まり
文化祭当日。役割は田辺君がお化け役を志願したので、私もそれに追随した。環境としては最も監視が難しい。暗いし迷路みたいに入り組んだ教室の中、お化けに扮した田辺君がいつ凶行に走ってもいいように、私は暗視スコープやスタンガン、さすまたを仮装の中に忍び込ませて準備していた。できれば何事もなく過ぎ去ってほしい。そして少しくらい田辺君から目を離して、私も文化祭を楽しみたい。そんなことを考えていたから、私はことの始まりに気が付くのが少し遅れてしまったのだ。
「空、こっち」
下駄箱の向こうから辺りを伺うように構内に入ってきた妹の空に手を振る。
「兄さん、きたよ。お化け似合ってるね」
そう言って金髪のポニーテールをフリフリしながら空が駆け寄ってきた。
「それは褒めてるのか?」
「もちろん」
弾けるような笑顔だ。口元にチャームポイントの八重歯がのぞいている。
「まあいいか、ありがとう」
文化祭当日。俺は自分のクラスの出し物であるお化け屋敷に空を呼んでいた。文化祭の話をすると本人からぜひ見に行きたいと言うので。
実を言うと俺は空のことが少し苦手だ。四年前、あの事件があった日、俺がフジミネリクトになった日の後、空はショックで塞ぎ込んでしばらく外に出られなくなっていた。精神科に通院したり、一応兄として献身的に心のケアに努めた結果、今では普通に中学にも通えるようになって、こうして俺の高校に一人で足を運べるようにまでなったのはとても良いことなのだが。
「ん? どうしたの、兄さん」
空の俺を見る目だ。何かを知っているような、疑っているような。そういう視線を度々感じる。それは今も。俺はその度に緊張して、もしやあのときのこと、俺が変身の魔法使いであることを知られているのではないかと思って気が気じゃない。そろそろ本当のことを打ち明けてもいいだろうか。フジミネリクトとして、空とはもう十分に信頼関係を構築できた気もするし、一番身近にいる存在にいつまでも嘘をつき続けるのは面倒だ。もし打ち明けて、空が俺を拒絶するようなら仕方ない、また何か別のものにでも変身して流れに身を任せようと思う。実に惜しいけれど仕方ない。それくらいには妹のことを俺はこの四年間で大事に思ってしまうようになったのだ。
「なんでも。楽しんでって。俺を見つけても怖がって殴ったり蹴るなよ」
「うん? 分かった。思いっきり楽しむよ」
「それはどっちの意味か教えてほしいな」
「楽しみにしててー」
そう言ってクラスとしては嬉しいことにそれなりに長い列ができている一番後ろに空は並んだ。
「まったく、元気になったのはいいことだけどな」
俺はそう呟いて暗い教室の中に入って行った。これから最初の客が入ってくる。
最初の十分間で耳が慣れてしまっていた。その甲高い女性の悲鳴が、本物の悲鳴であることに私は気が付くのが遅れた。私は田辺君のすぐ後にお客さんを迎えることになっていたのだが、さっきの悲鳴が聞こえてからお客が流れてこない。もしやと思って慌てて暗視スコープで目を凝らすが、時すでに遅しだった。次の悲鳴が聞こえて、辺りには演出じゃない血臭が漂い始めていた。教室内にいた全員がそのことに気が付いて、本物のパニックになった。男女の悲鳴が行き交って、せっかくみんなで協力して作り上げた迷路を叩いたり突き破ったりして、一斉に教室の出口を目指したが、ガチャン、という施錠の音に、場は静まり返った。そして次の瞬間、一斉に悲鳴が上がった。
一体何が起きてるんだ。
客が流れてこないと思ったらお化け屋敷にしては辛そうな悲鳴が聞こえてきて血の臭いが漂ってきて。今さっき空が通り過ぎて軽く頭を叩かれたばかりだったんだが。
「空!」
暗闇の中、お化けの仮装を脱ぎ捨てて妹の名を叫ぶと、兄さん!とすぐ近くから空が駆け寄ってくる。
「空、よかった、お前じゃなかった」
「早く逃げるよ! 来て」
「な、ちょ」
「早く、殺されちゃう!」
「殺されるって、何が!」
「聴こえるの! あのときと同じ!」
空が聞いたことのないような鬼気迫った声で言った。きこえる? だから何が。
そう思った次の瞬間だった。
「死ねッ」
ぶん、と何かが空の首目掛けて振り下ろされようとしていた。
「やあああッ!」
私は今まさに女の子の首にナイフを振り下ろそうとしていた田辺君の胴体を、さすまたで思い切り突き飛ばした。
「ぐあッ」
バランスを崩して迷路につまずき、もんどり打って倒れる田辺君。私はすぐに、
「逃げて! 殺される!」
と、叫んで、さすまたで田辺君を取り押さえにかかる。が、
「うあああああッ、殺す、殺す殺す殺すッ」
その先端を強引に引っ張られて私は前につんのめってしまう。その瞬間に田辺君は体勢を立て直してナイフを構えた。私の無防備な腹を目掛けて。
あ、刺される、と思った。
「うおおおおお!」
俺は妹を救ってくれた女子生徒、おそらく智枝乃亜を抱えて思い切り飛び退く。その刹那、右腕が焼かれるような痛みと共に力が入らなくなった。
「うぐ」
体を乃亜の下にして庇いながら、俺はすぐに視線を田辺に戻した。
「えへへへへへへへ」
笑っていた。暗くて微かにしか見えないけれど歯を剥き出しにして。あんなのいつもの田辺じゃない。まるで別人だった。悪魔に体を乗っ取られでもしているかのように。
「やめろ、田辺! やめてくれ!」
気が遠くなりそうなほど痛む右腕を押さえながら俺は必死に叫ぶ。すぐ脇で空が、兄さん、と繰り返しながら震える手で背中を支えて起こしてくれる。
「無駄です、彼はもう正気じゃない、逃げてください!」
乃亜が立ち上がって、落ちていたさすまたを拾って構える。
「それじゃ無茶だ、お前も殺されるぞ!」
「それでも! 私のせいだから、やらなきゃ!」
やらなきゃ。その一言はやけに悲壮感に満ちていて。なぜだか自分も何か力になりたいと思ってしまった。思ってしまったら俺は一直線だった。こんなこともあろうかと、いや、それは嘘だけれど、若気の至りというやつだろう。俺は念の為、前に変身していたものを思い出す。変身の魔法は前後一つの姿になら自由に変身することができた。強く、強く、己の体に、変わりたいと願って。
「智枝さん」
俺は立ち上がって、震える両足で懸命に立つ智枝乃亜の前に立って、田辺と向き合う。田辺はまだ笑ってナイフを構えていた。
「引き金を引くだけでいい」
そう言って彼女の右手を握った。
「え?」
瞬きの後、藤峰君の姿がいなくなって、私の右手にはピストルが握られていた。
「引き金を引くだけでいい」と、彼は言った。それからの私の動きは自分でも驚くほど迷いがなかった。気付いたときには田辺君は胸を押さえて倒れていて、私は激しい耳鳴りを堪えていた。手が、震えている。上半身がズキズキと痛む。私は田辺君を撃ったのだ。そう頭で理解した瞬間、次に考えたことは蘇生だった。私は急いで田辺君の元に駆け寄って手を握った。迷いはなかった。殺してしまう、死なせてしまう。嫌だ嫌だ嫌だ。強く、強く願った。そしてすぐに周囲を見回すと、そばに二人の女性が血を流して倒れていた。同じように願う。死なないで、生き返って。強く、強く。必死に祈った。祈り続けた。
「死者蘇生だったのか」
目の前で起こる奇跡に、俺は呟いた。智枝乃亜。どこかで見たことがあると思っていた。まさか彼女があのときの。そう思ったらそうとしか思えないほど二つの影は重なっていた。
「会えたのか、彼女に」
俺は呆然と彼女が魔法を使うところを見ていた。あのとき起こったことを確認するように。
殺したい。一人でも多くの人間を殺したい。生きたい。まだ死にたくない。痛いくらい聴こえていた願いが徐々に薄れてゆく。さっき私を救ってくれた女の人が一人一人の手を握って強く何かを念じるに従って。
「魔法使い、なんだ」
私と兄さん以外で、魔法使いをこの目で見るのは初めてだった。
「すごい、綺麗」
その姿がなんだかあまりに神聖に見えて、私は思わず呟いていた。




