プロローグ②
こはるが消えた。
それが現実だと認識するまでどれくらいの時間その場に立ち尽くしていただろう。パトカーのサイレンが遠くから聞こえてきた時、ようやく遠のいていた意識が引き戻された。気付くと鼓動が加速し始め、冷や汗が噴き出す。目がチカチカして眩む。ふらつきながらも何とか扉の前にたどり着き押し開けようとするが、手に力が入らない。吐きそうになってしゃがみ込む。俺は何もできない現実に罵詈雑言を浴びせることもできず、ただ縋りつきながら気を失った。
目が覚めると、俺は病院のベッドの上だった。早くこはるに会いたいと思った。会って謝りたいと思った。ぼんやりとした頭でずっとそんなことを考えていた。そのうちに母や父や妹、こはるの家族に警察、いろんな人が来た。誰一人として、彼女の家族でさえ俺の臆病を責めなかった。責められなかったからか、誰の言葉も耳に入らなかった。煉も病院に来たらしいけど、会える気分じゃなかったので看護師さんに断ってもらった。あいつのことを考えると、なんだかモヤっとする気持がした。
数日が経った。色々な検査が終わり退院の許可が出たので家に帰った。母にあの日持っていたカバンを返してもらい、中を見るとやっぱり手袋と手紙が入っていた。改めて見ると手袋はぴったりのサイズだったけど、模様がちょっと派手でこれはつけたまま外へは出られないなと一人苦笑した。手紙はすぐに机の中に入れたまま開けずじまいだった。
またいくらかの期間無為に過ごしていると、ある日こはるのお母さんから是非最後に彼女の部屋を見に来てやってくれないかと連絡がきた。なぜかと聞くと、この部屋にはきっとこはるの想いが詰まっているからだと言われた。
そんなことは物理的にありえないはずなのに、もしかするとその部屋には俺の臆病への恨みが詰まっているんじゃないかと考えた。むしろそうであってほしいとも思えた。彼女の家族には合わせる顔なんてあるはずなかったけど、それを確かめるために行くことに決めた。
朝の10時ぐらいにこはるの家を訪れると、彼女のお母さんが出迎えてくれた。俺を見るとなぜかとても心配してくれたが、とにかく彼女の部屋が見たいですと言ってことわった。
見慣れた玄関に入って廊下を歩いて階段を上り、丸いローマ字で「KOHARU」とクマのキャラクターの貼ってある可愛らしい立て札がかかっている部屋の前に着いた。いつもと同じ光景のはずなのに、なんだか薄暗い寒さを感じた。後ろから来たお母さんに許可を得て、深呼吸して冷たい金属のドアノブに手をかける。ドアを開けると、そこにはこはるが数秒前に出ていったと錯覚するほど彼女の暖かい匂いの残る、淋しい部屋があった。
「俺らが来る時やっぱり掃除してたのかよ」
部屋に入った瞬間にふと口をついて出たのはそんなどうでもいい発見の言葉だった。つまり、当たり前だけど、実際にどうかは別として、彼女の恨みなんてものはこの部屋に微塵もなかった。その代わり、それとは全く逆の感情が想起させられるようなものが、たくさん彼女の机の上に残っていた。いつもは見ない、俺と煉とこはるが写っている写真がいくつか立てかけられていた。三人で一緒に勉強した時のノートやワークブックがたくさん卓上棚に詰められていた。カレンダーには色々予定がマークしてあって、クリスマスイブの日にハートマークがつけられていた。それを見てやっと思い出すぐらい大昔にあげた安いプレゼントまで飾ってある。それに一番目を引いたのがいくつもの出来損ないの毛糸のかたまりと机の横のゴミ箱にまとめてくしゃくしゃに捨てられている良質な紙だった。針は片付けられることなく針山に刺さりっぱなしだ。彼女が相当なずぼらでないとすれば、きっとあのデートの前日まで苦心して俺への贈り物を作っていてくれたのだろう。
彼女の物寂しい部屋と友愛か恋愛かはもう判別できないけど、確かにある愛の痕跡を確かめて、俺は初めて彼女の消失と、自分の精神がねじ切れてしまったのを認めた。そしてもうそれらを取り戻すことはできないことも。
その事実に気づくのと自分の頬に涙が伝っているのに気付いたのはほとんど同時だった。頭が熱くなって苦しくて膝をついて歯を食いしばった。声を抑えて泣き続けていると息がしづらくなって頭がクラクラし始める。それでも唯一彼女を感じられるこの部屋を離れたくなかった。ずっと泣き続けていたかった。でも彼女の母親の心配には今度は敵わなくて、リビングに連れていかれた。そこでもしばらく泣き続けていると、体力が限界を迎えたのか心のどこかで安堵したせいか、次第に微睡みに落ちていった。
また意識を取り戻すと、布団に寝かされていたようだった。壁にかかってある時計を見ると、もう17時を回っていた。部屋を出てキッチンへ行ってお礼を言った。
「おばさん、今日はありがとうございました。」
そういうと、
「陽太くん、朝から顔色ひどかったから、少しはよくなってそうで安心したわ。」
彼女は疲れた顔に少し安堵の表情を浮かべて返事してくれた。
「あなたの責任じゃないんだからそう自分を追い込まないでね?」
その言葉にはどうしても曖昧な返事しかできなかった。
彼女に気をつかわせないように、少し話をすると重ねてお礼を言って早めに帰宅した。