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一章 帰郷・5

「――落ち着いて。俺の鼓動を数えて」

「…ぁ…」

アリオスはリンダを胸に抱いたまま、淡々とした口調で言う。

「一、二、三、四…」

アリオスの数を数える静かな声を聞いているうちに、リンダの耳にトクン、トクンと規則正しい音が響いてきた。言われるままに、リンダはアリオスの声を頼りに鼓動を数え始めると、同時にアリオスの腕から伝わる暖かな感触に気づいた。そのやさしいぬくもりが心地よく、リンダはそっと身をゆだねた。

(――人間の暖かさ、だわ)

きっと――親に抱かれた赤子というのはこのような感じなのだろう。

「――怖がっている人には、これが一番効く」

リンダを腕に抱いたまま、アリオスは呟いた。

「昔、母がよくこうしてくれた。こうすれば…自分は一人ではないと――誰かが側にいることが実感できると…」

アリオスはほんの少し腕の力を緩めるとリンダの顔を除き込んだ。リンダの緑の目と、アリオスの煙るような紫の目が絡み合った。







‐‐‐‐‐

「まだまだ子どものおまえにこのような役目を与えるのは酷なこと…。だが私はおまえならあるいは――と考えおまえを推した。おまえは私の実子ではないが、皇室補佐官このわたしの養女だ。おまえの後見人として私がたてば…おまえを宮廷で守ってあげられる。わが公爵家は宮廷では最高位の貴族だ。表立っておまえを排そうとする者はいないだろう。…どうだろうか」

「……ですが、私は…」

――リンダは戸惑っていた。冷静に考えてみると由緒正しき貴族の令嬢、令息が宮廷にあがり皇族クラスの人間に仕えることはこの時代、そう珍しい話ではなかった。ましてや皇室補佐官を代々務めているカストール公爵家の出であればたとえリンダが<森ノ民>の血をひいていたとしても、この話はいずれ自然に出てきたかもしれない。

(私が…皇子さまに仕える?)

今まで想像すらしていなかった話にリンダは途方にくれた。自分が<森ノ民>の血をひいていないただの貴族の娘であったなら己の幸運に酔いしれたのだろうか。…いや、たとえただの貴族の娘であったとしても夢のようなこの話には実感が湧かなかっただろう。

不安も不思議と湧いてこない。そういう一般感覚も超越してしまったのだろうか。リンダはアディスの怒りに触れるだろうか――と少しためらいながらも口を開いた。

「わ、たしは…そのう…まだ、今のお話はお受けしたらよいのか、分かりません…」

リンダのたどたどしい言葉にアディスは落胆の色を浮かべずに頷いた。

「そうだね。それが当然の反応だ」

「申し訳――ありません」

「いいや。…これは即決できる類の話ではないからね。今すぐに――とは言わない。私は三日ほどこちらに留まる。…その間に結論を出しなさい。無理を承知でこの話をおまえにしたのだから」

「……はい」

「ただ――もしおまえがこの話を受けるなら、ユリスは了承していることは覚えておきなさい。明日にでも、ユリスと話し合うといい」

「お母さんが…」

「もう、遅い。部屋に戻りなさい」

アディスは壁に据えられている時計に目をやり、軽く手を振って退出の合図をした。

「はい。…お休みなさいませ、旦那さま」

「お休みリンダ」



‐‐‐‐‐

「ふうん。――でリンダはどうしたいわけ」

「まだ、迷っています…」

リンダの煮え切らない態度にはさして気にとめなかったのか、ヨナはそう、とだけ言った。

――早朝のカストール公爵領の湖キノワ。森林地帯であるカストール公領は、リクスルの三大保養地――カストール、アローク、トルフィアの中でももっとも美しいとされているのがアロークだとすると、カストールはもっとも謎めいた地であると言えよう。

美しい森の中で、<森ノ民>はひっそりと堅実な生活を送り、公領の領民とも細々とだがやり取りもあるらしい。

リンダとヨナはまだ人々が寝静まるフェ―ルンを抜け出し、気に入りの遊び場のひとつであるキノワ湖のほとりまで遠乗りに来ていた。ふたりの寄りかかる大樹の側でリンダの馬のルスタ、ヨナの馬のクアンが繋がれている。


昨夜――アディスから夢のような話を告げられ、ぼんやりとした面持ちのリンダが部屋に戻ると、部屋の前にはにこりと微笑み、壁に背を預けて立っているヨナの姿があった。

微笑んだまま、「明日の朝、キノワに行こうね」と告げたヨナは呆気にとられたリンダを綺麗に無視してさっさと自室に戻ってしまった。ヨナはリンダが夜更けにベッドを抜け出し、ミシェルとともにアディスの私室に向かったことに気付いていたのだろう。微笑んだときのヨナの、一見邪気のない顔がそれを物語っていた。…その可愛らしい顔には長年ともに過ごした家族にしか見抜けぬ有無を言わせない表情が含まれていた。


早朝のキノワ湖は美しい。澄み渡っている湖面が時のうつろいとともに色を変えてゆくのを見ることがリンダは好きだった。ふと目を放した瞬間、湖面は直に色を変えてしまう、そのさまが。

特に今の時期、春のキノワ湖はすばらしかった。湖畔の花々――サリュ―、アストリア、イラス、シウリアなど――が鮮やかに咲き誇るこの季節がすばらしい色を生み出していた。

リンダとヨナは丁度、美しく咲き誇るアストリアに囲まれながら地面に座ってキノワ湖を眺めていた。きつすぎないやさしい香りを放つアストリアはヨナが最も好む花で、フェ―ルン城のアントーニア奥方の温室の一角でも育てさせていた。

「でも――僕は、もしリンダが皇都に行くことになったら嬉しい」

「え?」

ヨナの思いがけない言葉にリンダは呆けた。ヨナは目の前に咲くアストリアを一輪選んで手折るとその、素朴な白い花を手でもてあそびながらだって、と薄く笑った。

「僕は、来月から王立学院に入学するから。僕は向こうの寮に入寮するから、これからは休暇を頂いたときしかカストールに帰れない。だから――もしリンダもアジェに一緒に行けるなら嬉しいなあ」

そういえば、ヨナは来月から院生になるのだ。皇宮カルメルの一角を占める学院は、王侯貴族の子弟たちが集まる学び舎だ。大陸一と謳われる隣国ローディアの、学問の最高峰であるローディア王立学院には劣るものの、国中の優秀な若き学生たちが集まる場所だ。

学院は六年制で、十三歳から十八歳の学生で構成されている。ヨナは今年で十三歳、そして国で最高位であるカストール公爵家子息であるために学院に入学することは早くから決められていた。そして無類の学問好きであるヨナは入学を心待ちにしていた…。

「ま…僕がどう考えているかはいい。結局リンダはどうしたいの?」

「私は…」

恐らく自分はまだ、自分が何をしようとしているのか分かっていない。純朴なカストール領民と過ごし、貴族ではあるが慎ましく幸せに育ったリンダには、華やかな皇都でアリオス皇子の侍女になる、ということがどうにもぴんとこないのだ。強いて言えばほんの少し皇子殿下に興味がわいたぐらい。

「…ね、ヨナさま。アリオス皇子さまってどんな御方なのでしょうか」

話題を変えたリンダにヨナは眉を寄せたが、リンダが話を逸らそうとしているわけではないと感じたのか答えてくれた。

「…とても聡明な方だ、と聞いているけれど。文武両道で――ああ、とても美しい顔をしているとか」

ふと思いついたように付け加えた最後の言葉を言うとき、ヨナはいたずらっぽい表情でリンダを見た。

「漆黒の髪に、リクスル皇王家の血をひく証である紫の目でさ…今は亡き側妃さまにそっくりな光のような皇子さまらしいよ。――――――何、その顔。姉さんったら想像しちゃったの?」

ヨナの言葉を聞きながら頭にアリオス皇子の顔を思い描いていたリンダは、ヨナのからかいの含んだ指摘に頬を染めた。

「図星?姉さんはかわいいねえ」

「ヨナさまっ!」

にやりと笑ったヨナにリンダは頬を染めたまま声をあげた。ヨナはそのままの表情で膨れっ面になってしまったリンダにごめんごめん、と言いながら手を伸ばす。リンダの黒髪に手を添えると先ほど手折った大輪のアストリアを挿して満足気に似合うよ、と言った。ヨナの行動の早さにリンダは何とも言えない表情になったが、ありがとうございます、と何とか礼は言った。

――光のような、とヨナが評したアリオス皇子は実際はどんな人なのだろう。といっても自分よりひとつだけ年上のアリオスはまだ少年、と言うべきか…。リンダは前に個人教師のリーナスからリクスル宮廷に住む王侯貴族の肖像を見せられたとき、皇王家の肖像画も見たことがある。そのときはたいして気を払っていなかったためにアリオスの顔もおぼろげにしか覚えていない。ただ――冷たい美しさを醸し出していた紫色の瞳だけはなぜか印象に残っている。さっきヨナにアリオスの話を聞いておぼろげな記憶とその話を照らし合わせていたが、想像することは難しかった。

(光の、皇子さま…)

どんな方なのだろう。

「リンダ?」

ヨナの呼びかけにリンダははっと我にかえり、ヨナに視線を向けた。

「…はい?」

「また皇子さまのことを考えてた?」

さっきからかってきたときとは違い、真顔で問い掛けてきたヨナにリンダは思わず素直に頷いた。

「そんなに心にひっかかるなら、皇都行き、いっそ受諾してもいいと僕は思うけど」

「……」

「だって君、僕が呼ぶまで今まで見たことがない表情かおしてたよ」

「そう…でしたか?」

うん、と頷くヨナを見てリンダはキノワの湖面に視線を戻す。

――心にひっかかるなら、皇都行き、いっそ受諾してもいいと僕は思うけど――

確かに、先ほどヨナに指摘されてから…いやアディスに皇都行きの話を聞いてから、まだ見ぬアリオス皇子のことが頭から離れなかった。会ったこともない人のことをどうしてこんなにも考えてしまうのかまだ幼いリンダにはわからなかった。一度指摘されてしまうとますます頭の中は皇都行きの話でいっぱいになり、リンダは何かに突き動かされたように思わず口を開いた。


「私…お受け、して、みようかな…」

それは――無意識だったのかもしれない。気がついたら、口からするりとその言葉が出てしまっていた。





















更新しました。ヨナさまの性格が書いていてどんどん変わっていきます…


余談ですが、アリオスを主人公にした外伝<闇の微笑>を近々アップする予定です。

まだ正式に登場していないアリオスの過去を描きます。リンダは出ません。





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