一章 帰郷・4
「……………」
リンダは自分が、不躾にもアディスを凝視していることが頭の片隅に浮かんだが意識は別のところに飛んでいた。
(アリオス、皇子さま)
リクスル皇国の第一皇子、第二皇位継承者。そして――側妃の母を持ち、<森ノ民>の血をひく尊い身分の御方。同じ<森ノ民>の血をひくハーフであっても、リンダとアリオスの身分には天と地ほどに差がある。
リンダとて表向きはカストール公爵の娘ではあり亡き父はアディスの従兄ではあるが――父のヨナは父親の分からぬ私生児であるからだ。
リンダの祖母のリーシェラ・ヴィランはかつて王立学院の秀才として知られた才女であった。学院卒業後に才能を買われ、隣国ローディアの王族の子女たちの個人教師として王宮に召し上げられる名誉を賜ったリーシェラは――その二年後、父親の分からぬ子を身ごもったという。
リンダはこの公爵家の醜聞を直接母ユリスやアディスに聞いたわけではないのでこれ以上の詳細なことは分からない。リンダとてまだ十二歳のほんの子どもでありいわゆる男女の艶事には疎くて当たり前であるし、公爵家ではこの醜聞はある種の禁句であるらしいことはリンダにも理解出来たのであえて話題にはしなかったのだ。リンダがその祖父にあたるという人について知っていることは、その人がローディアのさる貴族の子息だった、ということだけ。
アリオス皇子は<森ノ民>の血をひく妾腹の皇子であっても、大国リクスルの第一皇子である。第一皇位継承者の第二皇子アスエルは病弱で大きな祝典、儀式がない限り国民の前に姿を現さないことは周知の事実であるので、リクスルの次期皇王位にアリオスが就く可能性は十分にあった。
年は今年で十四歳。皇族としては極めて優秀で、文武両道。大変人目をひく美貌の持ち主である。――リンダがアリオス皇子について知っていることはこのくらいだ。
「なぜ、私が?」
リンダは自分が不自然だと思われるくらいアディスを凝視していたことを、アディスの物問いたげな目線で気づき、慌てて口を開いた。口の中はからからに乾いていたようで、引っかかったようなかすれた声が出た。
「…皇子殿下は、母君のユリアさまが一年前に亡くなられてから変わってしまった」
リンダの問いかけには答えず、アディスは語り続けた。
「殿下はユリシス陛下の御子ではあるが、妾腹の皇子だ。皇室規範により十歳までクルテアの離宮で、皇王家の方々と引き離されて養育された。そのせいか――三年前にカルメルに戻られてからもあまり人と関わろうとせず、ひっそりと母君と皇子宮で暮らしていたよ」
「………」
「だが殿下はけして人間嫌いだったわけではない。無口ではあったけれども、血の繋がらない皇妃殿下や皇女殿下、皇太子殿下を大切にしようと懸命に努めておられた。慣れない王宮でも第一皇子として不適格だと周囲に思われぬよう常に気を張って…。だが、ユリアさまが亡くなられて殿下はあからさまに人と関わるのを厭うようになってしまった。…カルメルに来た当初から殿下は侍女や侍従などを側に置くのを好まれなくてね。必要最小限の者たちしか側に置いていなかったのだが母君の御葬儀の後、それもひとりを除いて解雇してしまった。だが――仮にも第一皇子の側付きがひとりというのは皇王家の体面もあるし身の安全のこともあったから皇妃殿下が皇子殿下を説き伏せて、皇妃付きの者たちを少しずつ皇子殿下の側に送り込まれることが決められた。アリオス殿下も了承してのことだった」
「しかし――殿下は結局送られた侍女のすべてを拒んだ。理由は、私には分からない。だが恐らくは何か、殿下の怒りに触れることがあったのだろう、と私は考えているが。事情が事情なのでこれは公にはされていないが、心を閉ざしてしまわれた殿下に皇妃殿下は深くお嘆きだ」
むろん、アディスもリンダも皇都アジェでアリオスがルイシアに心の内を吐露したことは知らない。
「そこで――私は皇妃殿下に、侍女候補におまえを推薦した」
「私が、この髪と目を持っているから――?」
「それもある。だがそれ以上に…殿下はクルテアで過ごしていたときも、そして皇都でも、同世代の子どもと接していない。というより、出来なかったと言うべきだが…。おまえは殿下と年もそう違わないし、身内の贔屓目を抜いても気立てのいい、よく気がつく娘だと私は思っている」
リンダはアディスの思わぬ賛辞に頬を染めたが、ふと疑問が口をかすめた。
「ですが、私の他に候補の貴族の方はいらっしゃらなかったのですか?」
「いないわけではない。…有体に言ってしまえば、<森ノ民>の血をひくアリオス殿下のもとに自分の娘や親族を推す者は少ないのだよ」
「え?」
「リクスルでは、<森ノ民>は好奇の目で見られることの方が多いということだ。建国の祖に<森ノ民>を持つローディアとは違う。…もっと言えば<森ノ民>を嫌悪する者は、特に貴族階級には多い」
「……」
リンダには想像することが出来なかった。自分はこのカストールの穏やかな生活に慣れきっているから分からないのかもしれない。アディスの治めるカストールの民は――少なくともリンダが知る者たちは――純朴で、リンダの容姿にもさほど反応せずに接してくれる。
リンダの胸中を読み取ったのか、アディスは穏やかな声のまま、リンダが想像してすらいなかったことを口にした。
「ここカストールはリクスル国内でも有数の森林地方だからその分僅かだが<森ノ民>との交流もある。領民たちも純朴であの者たちのことをさほど嫌がらない。だから…おまえにはまだ想像出来ないだろうね。だが貴族にはそう考えぬ者たちが多くいる、ということだ。露骨に嫌悪し、<森ノ民>を侮蔑する者はざらなのだよ。事実、アリオス殿下を第一皇子として正式に国民に発表するのに堂々と異を唱えた者もいる」
「だが殿下は妾腹とはいえリクスル皇王家の皇子、至高の血をひく数少ない高貴な御方だ。それに…殿下の姉君、ルイシア皇女殿下が異を唱えた者に対して激怒されてね。結局その意見は消えたが…」
「ルイシア、姫さまが?」
「そう…皇女殿下は腹違いのアリオス殿下をとても大切に思っている御方だからね。それに、皇女殿下は弟君のが<森ノ民>の血をひくから、という理由で非難されるのを殊のほか嫌っているから。…話がそれてしまったね。…リンダ」
「はい。旦那さま」
リンダは恐らくは公にされていないであろう皇王家の、アリオスの情報に着いてゆけずに呆然としていたが、アディスに呼ばれてぴんと背筋を伸ばした。