見た目がアレでももしかしたらってのはあるんじゃ?
67階層は湿原フィールドだった。一歩一歩が深く沈み込む足元にシュシュたちは早々に靴を脱いで裸足となっている。
しかも高い草木があるわけでもないのにずっと薄暗い。見れば空には灰色の分厚い雲が敷き詰められていて、日の光を遠く遮っている。
「モエはどっちでもなれるなら、どっちがいいんだ?」
「もちろんヒューマンにゃのです」
「へえ」
まだ幼女のシュシュは細い脚を膝下まで泥につけて、歩きにくいからとスカートの裾をつまみあげた姿である。ガニ股でなければ淑女にも見えたかも知れない。
リハスもフィナもズボンを汚して重くなった脚を動かし、ポークはリハスの背中にしがみついている。
そんなメンバーの中で、モエだけは頼りない低木に飛び移り、アスレチックのようにこちらからあちらへと移動している。その姿は見た目とともに猫そのままである。
「器用なものね。わたしじゃ不安定すぎて無理なのに」
「モエの方が絶対重いのにな」
豊満だから。
「シュシュちゃんは失礼なのです」
「そんなことは今さらだろう」
そのシュシュの失礼を雨あられの如く身に受けているリハスからすればまだかわいい方である。
「──おいでなすったな」
どこを歩いてもびしょ濡れ、ましてや今は泥に足を取られるそんな場所で、シュシュたちはこの階層はじめての魔物と出会う。
「あれは、なに?」
「なんだろうな……おっさんは知ってるか?」
「恐らくは蟹だな」
「気持ち悪いのです」
「です」
神の塔では基本的にひとつの階層に多くて3種類、大体は1種類の魔物しか生息していない。
黒っぽい殻に包まれた甲殻類は、平たい体にいくつかの長い脚と大きな鋏を携えているが、フィナたちはこれまで出会ったことがない。
なのにリハスだけは知っている、ということはフィナたちが49階層までにすっ飛ばした階層うちのどこかにいたのだろうか。
「ずいぶん昔の記憶だ。堅い殻には斬撃は通じにくい」
「じゃあモエに潰してもらうか」
「任せてなのですっ」
「だが、脚の肉もミソも美味いぞ」
「モエはおあずけな」
「そんなぁなのです」
そうして前に出たのはフィナだ。斬撃は好ましくないというが、前の階層でいくらかのレベルアップを果たしたフィナは多少堅いくらいの魔物など問題ないとばかりに切り込む。
踏み込んで間合いを詰めると同時に抜き放った剣でそのまま斬り上げる。蟹の黒いおめめの間を、嫌な音を立てて疾り抜けた剣は、その甲殻に傷をつけることもなく、しかし刀身をずたずたに刃こぼれさせてしまっていた。
「わたしのっ、剣がぁ……っ」
「フィナっ、よけろ!」
レンガ100本ノックあとでボロボロになった剣を買い換えてからそれほど使っていないお気に入りが無残な姿になって半泣きのフィナは、踏み込んだ脚を狙うハサミをギリギリで避けて下がる。
「こんのっ」
と思いきや、下げた脚を今度は前に出して蟹を思いっきり蹴り上げた。平たい甲羅を持つ蟹を下から突き上げた蹴りは、きっと大したダメージも与えてもいないだろうが、その生態ゆえに地面に踏ん張りもきかず天地逆転することになる。
蟹はあっけなくひっくり返ったのだ。
「めっちゃバタバタしてるんだけど……」
「さすがにそのうち元に戻るんだろうな」
「つまり今がチャンスってことよね!」
いくら体が堅いとはいえ、こうも無防備なお腹をさらしてくれているのならとフィナはガタガタになった剣をその白い腹のど真ん中に突き立てる。
力任せに、止めることなど考えていない勢いで。
切っ先がまさに蟹に突き刺さろうかという瞬間、蟹はお腹の白い甲殻をバラバラと左右に折り畳むようにして広げると、そこにある中身がフィナの剣を出迎えてくれた。
赤紫色に黒い縞模様を巻きつけた軟体の触手が取り囲む口と思われるもの。その口内には獲物を抉り砕くように無数の歯が蠢いている。
「ひっ⁉︎」
驚き固まったフィナの剣は勢いを失い、引き戻そうとするも触手に絡め取られたところを蟹の大きなハサミで剪断されてフィナの手を離れた。
リハスが即座にフィナの腰を掴んで引き離し、木から飛び降りたモエが間に入って鉄球を構える。
「おっさん……あれって本当に美味いのか?」
「いや、俺が食ったのは少なくとも──鉄を食べたりするようなやつじゃなかったんだけどな」
嫌な音を立てて蟹はその体内に折り砕いた剣を取り込んでいく。生き物が捕まれば骨も残らない事だろうと確信させる雑食。
「ならこの階層では俺が焼いて食わせてやるから味見は頼んだぞ」
「その場合シュシュも食うんだよな?」
さすがの雑食蟹も研がれた鉄クズは美味しくなかったらしく、口内のあちこちに破片を突き刺して青い血を噴き出しながらその身を殻の外へ伸ばして、まるで怒り散らしているかのようにグネグネと激しく動き出す。
「あんなの、口に入れるわけねえだろ」
「なら俺に食わせようとするのもやめてくれ」
少なくとも食欲などそそられない見た目の蟹は誰からも求められていないようだった。




