ぎゅっと掴んじゃだめなのですぅ
シュシュたちがこの階層を選んだ特別な理由などはない。なんとなくで、ポークのレベル上げを簡単に出来そうな階層を選んだにすぎない。
モエとフィナにはちょっとだけ感慨深い階層ではあったが、それでも何も特別などではない。
ポークは、それこそ何も思うところなどなかった。
フィナもモエも問題ないと言う階層主に出会うまでは。
根源的な恐怖がポークの体を不自由にする。瞳孔は開き、胃酸が込み上げるのを堪える体は熱く寒い。
フィナに念のための注意を促したシュシュも、嫌な予感を感じていた。
(なにか普通とは違いやがる)
だがそれが何か分からない。分からないはずなのに、震えが止まらない。
フィナが薄く風のベールを展開しシュシュとポークが返り血に濡れないようにと遮ってくれる。
景色が揺らぐような視界で、シュシュはモエの鉄球が階層主を貫き絶命させたのを見届けた、はずだった。
「なんなのよ、あれ──」
「モエっ、さがれっ」
イノシシの魔物は確実に生命活動を終えてその場に崩れ落ちたのだが、鉄球が突き抜けた背後に撒き散らした血と臓物の量は決して階層主の体積と釣り合っていない。
木をツタを地面を濡らし、赤黒く染め上げた中身は重力に逆らい立ち昇るとひとつのカタチを形成する。
見上げるほどに遥か高く、シュシュたちを見下ろす紅い瞳。太く長い脚は前後合わせて6対あり、蹄のサイズは人を踏み潰して余るほど。
「──牛さんに似ているのです」
シュシュの忠告も聞こえず、モエは見たことのあるシルエットに硬直している。
グールのおじさんがシュシュとして再誕したあととなっては、かつての怒りもなく素直に記憶をたどり──追いかけ回された恐怖がじわりと蘇る。
「にゃああああっ」
それが何かを分かった途端、モエは階層主の亡骸もそのままにしてシュシュたちの元に駆け寄り、通り抜けた。忘れずにシュシュを抱えて。
得体の知れない存在に何を試す気にもなれず、フィナもモエの行動に従いポークを担いでついていく。
「なんであいつが出てくんのよっ」
「ぴ、ぴぃ」
歯が噛み合わずガチガチと音を鳴らして震えるだけのポークをフィナはぎゅっと抱きしめてモエに追いつかんと走る。
(ちょっ……モエの本気ってわたしが風の精霊に頼っても離されるのっ⁉︎)
フィナも強くなった。あのクルーンを抜けてからはそれまでの自分とは“違う”存在になったかのような全能感さえ感じていた。
しかしそんなフィナよりも、明らかにそれまでの自分とは別物になったのがモエだ。跳ね上がった身体能力はフィナを驚嘆させるが、悲しいことにそれは魔法使いから遠く離れるものでもあった。
「……モエっ、止まれ、止まれっ。くそ……止まれえっ!」
「んにゃあーっ⁉︎」
腕の中の幼女に乳を思いっきり握られて叫ぶ猫獣人。
モエがたまらず急ブレーキをかけ蹲れば、必死に追いすがるフィナが気づかずにつまずいてポークを抱えたまま地面にダイブする。
「シュシュちゃんそれは痛いのですよぉ」
「全然話聞かねえから仕方ねえだろ」
「──わたしは何に、つまずいて……がくっ」
「ぴ、ぴぃぃ」
無事なのはシュシュひとり。腰に手を当てた仁王立ちで、痛がる猫獣人と泥だらけのエルフと震えるばかりの豚を見回したあと、巨大な牛らしきものを見上げる。
「あれは、まだ不完全なんだ──」
今も階層主の亡骸から流れ出る体液がその体を創り上げようと亡者のように群がり続けている。
「でも、大きさはあの時の牛さんと同じなのですっ」
「だから、ハリボテなんだよ。どうなってやがるのかは知らねえけどよ、今なら出来上がる前にバラバラにしてやれるかも知れねえ」
「モエにも倒せるのです?」
「ああ、モエになら倒せる」
すっと立ち上がり、胸の痛みを紛らわすように首を振るモエ。牛を見上げる瞳にはまだ恐れが見えるがそれ以上に──。
「今度こそは負けないのですっ」
「ああ、その意気だ。今回は俺も、遠慮しねえ」
勝つという強い意志を秘めている。
動かない泥まみれエルフを他所に2人は巨大牛に立ち向かう。