居合わせなくてよかったな
明らかに体調が悪いであろう青い顔で笑顔を作り大丈夫だと告げるエイタに、治癒を施したリハスはダメ押しの回復魔法をかけてひと息ついた。
「本当になんもねえんだろうな、おっさん」
「ああ。エイタはもとより、ここに流れ落ちた汁気にまで“浄化”を施している。もうこの地面のシミはただのシミでしかない」
「ねえ、まだー?」
「──治療は終わった。出発だ」
「頑張るのですっ」
黄土色のはずの地面の一部を真っ黒に染めた魔物の体液には、やはり浄化の魔法に反応を見せるナニカが含まれていたようだったが、それもリハスの念を入れた魔法の重ねがけで綺麗さっぱりと無くなっている。
モエ汁のおかげで嫌な匂いをすっかりと落としたフィナは、むしろ階層攻略中の冒険者には似つかわしくないフローラルの香りを漂わせており、匂い鑑定人のごとく振る舞うシュシュの合格をもらうとすっかり上機嫌になってリハスたちが行っていた後始末を急かしていた。
「アクシデントはあったものの、階層主はもうすぐそこか」
「今行くと他の連中とかち合いそうだが」
「構わねえさ。それならそれで楽出来るってもんだ」
この階層についてはすでにボスである階層主の居場所が判明しており、それはしっかりと地図に反映されている。
魔物との戦闘を繰り返しながら階層主がいる奥のほうへと目指していたシュシュたちは、当然のように同じ目的地へと向かうパーティも見かけているし、幼女エルフが珍しいのか、時折向けられる奇異の視線をシュシュはうざったそうにして避けていた。
パーティの単位が基本的に五人ひと組であっても、複数パーティの大所帯で挑んではいけない理由はない。むしろただ“神の塔”の攻略を求めるのであればいっそ戦力の全てを一度に投入したほうがいい。
しかしそうして起こる不都合のひとつに経験値の分配問題があり、階層の魔物や主との戦闘に参加していた人数のその頭数で割ることになるために、だいたいは再配置される階層主に対しては最低限の人数で挑むことが多いだけだ。
階層主という魔物由来の素材の所有権や分配の問題もあるが、シュシュたちの目的は別にそんなところにはないし、レベル上げでもない。次の階層へ進むためにも、塔の完全攻略という悲願を達成するためにも、さっさと越えることが出来るなら願ったり叶ったりだという方針を否定する者はいない。
「ん、なんだここは」
「地図だと階層主がいるはずなんだけどなあ……それになんだろ、焚き火でもしてたのかな」
「焚き火の跡にしちゃデカ過ぎじゃあねえか?」
シュシュたちが進むこと半日ほどで、地図上に記載された階層主の居場所だというところにたどり着いたが、そこは確かにそれらしい広々とした空間ではあるが階層主とおぼしき魔物の姿はどこにもない。
広大な洞窟を思わせる階層にあらわれたドーム状の空間は壁も天井もごつごつとした岩で固められているが、その足もとは真っ黒に染まっている。
しかしその黒色は先ほどの魔物の体液のような液体により染められたものではなく、一面の何かを焼いて焦がしつくしたようなもので、今もかおる芳ばしい臭いはフィナが言うように焚き火を連想させるものだ。
「足跡、か」
そんな焼け野原には大量の足跡が残されている。リハスがそう口にするまでもなく全員気づいていて、その足跡の集団が向かった先の壁にぽっかりとあいた穴があるのも確認済みだ。
「見てくださいなのです。ここに人の形があるのです」
「なにそれ。また怖いやつ……?」
「きっとここで寝てた人のなのです、ぷぷ」
「だとしたらそいつはかなり変な寝方をするやつなんだな」
モエが目ざとく見つけたのは、大量の足跡に踏みつけ荒らされた下に元々あったであろう痕跡で、ただ寝そべったにしては妙なポーズであることが窺える。そして。
「おい、その人型……ひとつじゃなかったみたいだな」
「つまりここで仲良くおねんねしてた連中がいたか、もしくは──」
「倒れていたのだ。強大な魔法の行使によりここにあった障害は全て焼き払われたが、それにより発生した煙にまかれてな」
「あっ、釣り人のおじさんなのですっ」
「……また会ったな」
行く先は分かっているものの、目につく痕跡に対して疑問のまま通り抜けることも出来ず足止めをくらっているシュシュたちに声をかけてきたのは、この階層ではじめて会った人物である釣り人で、いつかの鎧の人物の姿はない。
「ここに釣り堀はねえぜ」
「言っただろう。こちらも攻略を目指して準備していたと。そして強そうな連中が動き出したからそのあとに続いていたわけだが、どうしてかいつの間にか追い越していたようだな」
「その見すぼらしい恰好でひとりで、か?」
「着古してはいるがこれでなかなかの上物なのだよ。パンでも食べるかね?」
「いただきますなのですっ」
「さっき食べたばかりなのに……」
釣り人の姿はくたびれた帽子にほつれたシャツとジャケット。ズボンは天然のダメージ加工でそろそろ素肌が見えそうなほどにすり減っており、灰色に見える靴は恐らく汚れが堆積しているのだろう。
本人自体も伸びるに任せた艶のない長髪と髭面で、総合的な見た目は完全に公園か橋の下の住人のそれだ。そんな釣り人はやはり年季の入ったカバンからいくつかのパンを取り出して食いしん坊モエを餌付けしている。
受け取ったクロワッサンを頬張り、見ている方が笑顔になってしまうほどの幸福感を撒き散らすモエに続いてフィナとリハスもそれぞれにパンを受け取る。
「君は食べないのかね?」
「──ああ、いや、俺もこれをもらうぜ」
釣り人と元から知り合い同士であるエイタはパンを断り、シュシュはモエの動向を気にしながらも釣り人のカバンの中からタルトを見つけてひと口かじる。
「で、ここで何があったのか知ってるんだな?」
「ああ。前に君たちに言ったことがあるだろう……あの池に落ちてきたパーティのことだ」
「階層主の話じゃねえのか」
「それもある。だがこの光景を作り出したのが、例のパーティだったことのほうが君たちにとっては重要かと思ってな」
「なるほどねえ。で、魔法を使って階層主を倒せたわけか」
だとすれば奥に続く足跡の先には階層主を倒して使えるようになった次の階層への転移ポータルが鎮座しているのだろうとシュシュは考え「新しく階層主が出現していない今なら戦闘をするまでもなく次へ進めるってことだな」と呟く。
「いや、そうだと良かったのだがな……彼らが訪れたときにここは天井まで届くほどの植物が広場を埋め尽くすほどに密生して階層主を守っていたようでな、魔法使いがひたすらに焼いているうちに、奥へと逃げていったらしく、連中が追いかけていったのが少し前のことだ」
「仕留めきれなかったのか」
「ああ。それに、植物のバリケードを焼いているうちに体調を崩したり倒れた者たちも続出してな。その回復にもかなりの時間と労力を割かざるをえなかった。僧侶たちもさすがに疲れを隠しきれないようだったが、それでもこの機を逃すまいとしてどいつも奥へと向かって行ったな」
神の塔の階層には様々な環境があるが、洞窟タイプの閉鎖的な階層での魔法の行使は場合によっては酸欠などの健康被害による戦闘不能に陥ることがあり、広場全体を焼き尽くしたという今回はまさにそれであったらしい。
しかしながら対策がないわけでもなく、大量燃焼により意識を失い倒れた者が出た時点で魔法使いはさらに風の魔法で周囲から新鮮な風を取り込み最悪の事態を免れたが、そのせいで火勢は一気に増し、階層主の逃走を察知した報告を受けた後は一転して鎮火に膨大な魔力を注ぐことになった。
どうやら階層主戦は終わっていないらしいことにフィナなどは目に見えてげんなりとした雰囲気を出し始めたが、それでも焦げ臭いなかに焼死体や窒息死体なんてものが転がっていないことを確認出来ると、その目にやる気の光を宿し始める。
「だとしたらずいぶんと消耗してるはずよね」
「物理戦闘の連中は暇を持て余してたんだろ? ならしばらくは魔法使いと僧侶を休ませておけばまだどうにかはなるだろう」
「複数パーティが手を組むレイド状態となっているが、万全ではない。君たちの訪れを待っていることだろう」
「あんたはどうするんだ? 色々と準備をしていたってことだが」
魔法職が戦闘に参加できなくなったなら確実にその戦力も回復手段も削られており、まだ見ぬ階層主の実力によっては全滅の可能性も高くなる。
数の有利があるいま、参加することがほぼ確定しているレイド戦に向けて準備を整えだしたシュシュたちだが、釣り人はどうするつもりなのかと、彼がここに残っていた真意を探る。
「もちろん行くとも。その先にこそ答えがあるのだから」
“神の塔”に生まれた者たちは至上命題のごとく、生まれながらに塔の攻略を運命づけられている。
それは生物としての本能に近く、リハスあたりでも疑問に思う余地なく、当たり前として行きつくまでの攻略やサポートに命を捧げている。
だが、その行いを疑問視することなく受け入れているリハスたちとは違い、なぜ塔を攻略するべく生きているのか──そのことに理由を求めるような釣り人の言い回しを聞き咎める者はいなかった。