泣いて欲しいと願う鬼
放課後になってしばらくすると、校内に残っていた生徒たちが一斉に泣き始めた。
正門近くにいた者は立ち止まって顔を覆った。図書室にいた者はページに滴を落とし、会話していた者らは口を閉じて俯いた。グランドでボールを追っていた生徒たちはみな足をを止め、滲む晴天を見あげた。
そして彼らは同じように咽び始めた。しくしく、シクシクと泣く声が至る所で起こった。
泣いたのは生徒たちだけではなかった。中年や初老の教師までもが突然湧き起こった感情に途惑い、やがてこみ上げる悲しさに打ちひしがれて嗚咽した。
彼らの泣く時間は二十分ほど続いた。
そのあとふいに我に返り、誰もがきまり悪そうな照れ笑いや取り繕ったすまし顔で日常に戻った。その出来事について語りあうこともしなかった。
同じことは翌日も、その翌日にも起こった。
放課後になって一時間ほどが過ぎると、校内にいる者のほぼすべてが泣き始めるのだ。
不二学園は地方都市の郊外にあった。敷地は広いが生徒数は少ない。そこそこの進学校。その本校舎、金網フェンスで囲まれた屋上。
立ち入り禁止なのに、毎日放課後になると端っこに立って遠くを見る男子生徒がいた。
彼の足もとのさらに下方、地表では国道と県道が縦と横に走っている。道路わきに民家、外れると農地が拡がって遠くに海が見える。
彼はずっとそこに立って、空と海、空と大地の境界を見ていた。線が細く優しくて気の弱そうな少年だ。上着は脱いで白いワイシャツ。
何かの儀式のように佇立して五分、十分、それ以上が経過したとき、物音がして振り返った。十メートルほど離れた昇降口から男女の生徒が現れたのだ。
男子は黒い詰襟。女子は紺のセーラー。同級生だが彼との交友はない。二人の目はいつものように鋭くて厳しかった。
「佐藤だね」
名を呼んだ女子生徒は立ち止まり、男子だけが前に出てきた。
「何か用かい?」
振り返って問う佐藤の両眼からは涙が溢れていた。彼は屋上に立って地平を見ながらずっと泣いていたのだ。眼球は泣き腫らして赤いが、ただの充血とも違ってみえる。
現れた男子生徒、標表太郎は背が高く筋肉質、短い頭髪は逆立って目つきが悪い。頬が尖り顎は頑丈そうで荒い印象がある。その標に怒りのような憐れみのようなものが滲み出ている。
「放課後の屋上で泣くヤツがいると聞いたんでな。おまえだとは思わなかった」
間をおいて付け加えた「残念だよ」
同級の男女に見られても佐藤の涙は止まらない。
「泣いてる僕を笑いに来たのか?」
「笑ってるように見える?」
離れた場所の女子生徒が問い返した。古里あかり。おかっぱ風の髪が豊富だ。いつも不機嫌で寡黙だが、稀に話すときの口調には容赦がない。顔立ちはきれいに整い少しの愛想でも浮かべればきっと可愛いはずなのに、クラスの中で彼女の笑顔を見た者はいない。
佐藤が直接会話するのもこれが初めてだ。
いや、と佐藤は首を横に振り、視線を標に戻した。
「僕と一緒に泣きたくて来たわけじゃないね」
「ああ」
「ではそれ以上寄るな。きみも泣いてしまうぞ」
「確かめよう」
標は荒い動きで二メートルほどの距離まで近づいた。そして両眼から涙を流した。鋭く荒々しかった顔は鋭く荒々しいまま歪み、喉の奥から掠れた音が漏れ出ている。
抑えきれない悲しみが不意に彼を襲ったのだ。哀しくて哀しくて、もうどうしようもなく哀しくて、ただ涙を流すほかに術がない。
声をあげて泣くなどは彼のタイプに似つかわしくないだろう。しかし標は、佐藤の言うとおり両眼から涙を溢れさせて嗚咽したのだ。
「ほら、泣いた」
佐藤は自分も涙を零しながら、からかうように言った。
標は急いで数歩後じさった。距離をおくと嗚咽はやんだが涙はまだ止まらない。
「……なるほど、ホントに泣いちまったな。話せよ。これはなんだ? なぜ俺はこんなに悲しいんだ?」
佐藤は視線を床に落とし、次いで宙に向けた。
「ここにたくさんの悲しみがあるからだよ。誰かに泣いて欲しいと願う者がいて、その願いをきみが受け取ったんだ」
「わからねえよ。ここに何があるって?」
「過去の人の悲しみだ。それは……」
「きみが集めたのか?」
佐藤の言葉を砕くように遮ったのは古里あかり。
「ここに過去の悲しみが集まっている理由を、きみは知っているのか?」
「ああ。僕がここで泣いたからだ。一ヶ月前にお袋が死んだ。僕はしばらく抜け殻となって、それから無性に悲しくなった。どうかすると涙が止まらなくなって、人に見られたくなくて放課後になるとすぐにここに来て泣いていた」
標と古里は沈黙し、佐藤は続ける。
「ここで泣き続けていると世界中から悲しみが集まって来た。そして僕は、この世界には他にも沢山の悲しみがあることを知ったんだ。母を絞め殺した息子がいる。上の妹を生かすために下の妹を捨てた兄がいる。凌辱した父を殺した娘がいる。村じゅうの人間が理不尽に殺されたこともある。恋した相手に裏切られ刺殺された娘もいる。みんな泣きながら死んだ。殺しながら泣いていた。夢見た未来を捨てて、希望を砕かれ命を失い、母を失い子を失って泣いていた。ずっとそうだった。何百年も何千年も何万年も前から人はみんなそうだったんだ。僕はそれを知ってしまった」
標は背が高い。歪んだ顔と濡れた目で佐藤を見おろす。
「俺も知ってるぜ。世界を知れば誰だって感情が揺れる。泣いたり笑ったりしたくなるさ。そして何かを愛したり憎んだりしたくなるんだろ?」
「そうはならなかった。人は死んでいくつもの思いを残している。でも僕は泣いてばかりだったので、集まってきたのは悲しみだけだ。その一部を標も受け取った。だからきみは泣いているんだ」
標の頬も佐藤の頬も、濡れて陽光を照り返している。
「感傷なら勝手に泣いてろ。それで癒やされるものがあるのなら一人で好きにすりゃいい。だが、おまえがやってることは傍迷惑なんだよ。ここらに浮遊してる感情をたっぷり集め、増幅してばらまいている。おかげでこの数日、学校じゅうの人間が泣いちまったぜ」
「そうか。よかった」
佐藤は泣き顔で微笑んだ。
「でもまだ足りない。人が残した悲しみは膨大で、僕や標や学校のみんなが泣いたくらいではまだまだ足りない。聞こえないか? もっと泣いてくれと訴えているだろ。世界はこんなにも悲しいのに自分たちはもう泣けない。だからみんなでもっと泣いてくれと。これが世界の本当の姿なんだ。みんなこれを知らなきゃならない。僕たちの命がどんな礎の上に在るのかを、知って泣かなきゃいけない」
陽はまだ高く西の空も青い。陽光はあるが気温は低く風は冷たい。
佐藤の手足は細いまま、背丈もさっきまでと変わらない。しかし彼の身体が少しばかり膨らんで見えるのは、周辺に濃密な気配が満ちているからだろう。
「ほら、どんどん悲しくなるよ。もっと悲しくなったとき僕の心は弾けて散り、みんなの心に届く」
「それを毎日やってたんだな」
向かい合う標と佐藤。その二人から十メートルほど離れた古里が、慎重な足取りで一歩だけ前に出た。
「佐藤、きみは自分の正体を知っているのか?」
「正体? なんのことだろ」
続いて標が分け入るような動きで迫った。再び佐藤に近づくと涙がいっそう流れ出る。
「古里は、おまえ自身が鬼なのかと聞いてるんだよ」
「鬼? 僕が?」
「過去の妄執を現在にばら撒くヤツのことを、俺たちは鬼と呼んでいる」
午後の陽光を斜めに浴びて佐藤の顔も斜めに翳っている。目だけが光っている。それを見ながら標が続ける。
「まだ鬼にはなっていないな。もうすぐなるか、それとも鬼を産むか」
標と古里の視線は厳しいがどこかやさしい。人を迎えるときのやさしさではなく、見送るときのものだ。
標は踏み出しながら周囲の空間を見た。夕暮れには間がある。辺りは照り返しで明るいのに風景はなにもかもが灰褐色だ。風はあってやけに冷たい。音はないのに耳鳴りがする。不穏な気配がますます満ちてくる。
「密度が濃くなった。浮遊していた妄念がおまえを核として凝結しようとしている。より強い感情となっておまえの意志を盗もうとしているんだ」
「感情が、盗む? 僕の意志を?」
「おまえの意志をコピーした別の意志が生まれるんだよ」
佐藤を包んで不定形に拡がるものがある。彼が発したものではなく、彼に集まってくる悲しい思いだ。それを標と古里は視ることができた。色は薄いブルー。僅かに紅が混じり帯状に揺れている。
標の背後で古里あかりの表情が変わり、整った顔に鋭さが増した。
「標。まだか? まだ把握できないのか?」
奇妙な問いを発して一歩、二歩とまた近づいた。
そして泣きそうに顔を歪めながら、大きく目を開いた。眼光は異常なほどに強く容赦がない。
「もういい。私に視えた。いま鬼が生まれた。私が名付ける。これは悲しい鬼、悲鬼だ。標、その名で把握しろ。佐藤から叩きだして破砕しろ!」
標表太郎は「了解」と応じた。
「悲鬼か。それでいいぜ。……把握した。俺にも視えたよ」
心は見えないが存在する。疑う者はいない。
身体と心は寸分違わず同じ場所に在る。どんな空間、どんな時間の中にあってもそうだ。
身体が時間と空間の中に在って物理に従うのなら、心はどんな理に従っているのか。形はない、重さもない。色も匂いもないから存在を証明することはできない。けれども誰もが人に心が在ることを知っている。
稀に心を視る者がいる。数百万人に一人くらい。近ごろ増えているらしい。
心を「視る」とは、色や形としてイメージすることだ。それができれば造形もできる。己の心を形あるものとして身体から引き剥がすことも、動かすことも可能になる。
標表太郎にもそれができた。
身体から離れた自分の心を、彼は「シルベ」と呼んでいる。
標は立ち止まり、しかし前に出た。
止まることと進むこと、この二つを同時におこなったのだ。
晴れた午後の屋上、同級の佐藤から三メートルの距離。身体はその場からピクとも動いていない。だが前に出ようとする意志、心だけが身体と同じ形を持って佐藤に向かい駆け寄ったのである。
標から枝分かれするように生じたシルベは薄く半透明。身体と同じ形と大きさだ。生じるや否や瞬時に佐藤の目の前に来ていた。
膝を浅く折り、身を低くして両手を左の腰に置いて、それから右腕を異常な速度で前に振った。
その腕が倍くらいの長さになったのは、振ると同時に細長い棒状の物をさらに生み出したからだ。右手に握ったそれは日本刀の形状。この刃もまた彼の心が生み出したもの、というより彼の心の一部。
突っ立つ佐藤の腹部を心の刃で薙いで、シルベは即座に身体に戻った。伸びたゴムが元にもどるような速さで。剣術で言うなら、跳び込んでの居合い斬り、だろうか。
心を身体の中に戻した彼は、また大量の涙を流した。
普通の人間に他人の心は見えない。だから佐藤には自分を斬ったシルベは見えず、離れたところで動かない標だけが見えている。何をされたのかも解っていない。
ただ心に衝撃はあったようだ。張り詰めていたものがカクンと消滅し、気抜けした表情となっている。
「あれ?」
と呟いてしばらく虚脱した。ぼんやり前を見て数秒、右左を見てまた数秒。それから標と古里に不思議そうな視線を向けた。
「えっと、どうしたんだろ僕は? ここで何してたっけ」
斬られたはずの腹部に傷はない。心の刃は身体を傷つけることは出来ないからだ。
そして彼はもう泣いていなかった。頬は濡れているが新たな涙は流れていない。この場所で悲しみを集めていたことも、みんなに泣いて欲しいと願ったことも忘却した表情である。
標と古里は佐藤ではなく彼の数メートル右、フェンスの前にいるモノに凄まじい緊張を向けていた。
さっきまでは何もなかったその場所に、新たに存在するものがあったのだ。
そいつは膝を抱えて蹲る小さな人間のよう。手足があり頭髪もある。服は着ていない、皮膚は薄いブルーでところどころが血の色で赤い。輪郭は少しぼやけている。閉じた瞼の下の眼球は大きそうだ。
手足しはガリガリに痩せてどこも細く、頬はこけて髪は半分抜けている。老人の顔だが赤子のようにも見える。男女の判別は困難だ。
「……出た!」
古里が恐ろしい声で言った。
それはさっきシルベの刃によって佐藤の身体から叩き出されたモノ。古里あかりによって悲鬼と名付けられた異形の物だ。人に似ているが人ではない。
佐藤はふたりの視線に気づき、振り返って驚きの声をあげた。
「な、なんだコイツは? 誰だ? いつからここに……」
それを聞いた標と古里が、彼以上の驚愕を見せた。
「見えているのか! 佐藤、おまえにも見えているのか?」
「なぜ見える? とにかく離れろ。佐藤、そいつから離れるんだ!」
え? え! と狼狽えながらも佐藤が古里の間近まで駆けてくる。
「なんだよアイツは?」
「鬼だ。悲鬼。さっき標がきみの中から叩きだした」
「僕の中から? え、なんだって?」
言われてもう一度見れば、そいつの頭には角が生えている。小さな子の姿をしていてもたしかに人間ではない。身体のどこかが震えるほどに不吉だ。
「アレ、生きてるのか。う、動くのか?」
するとその小さな鬼は目を開き、蹲ったままぐるりと周囲を見渡した。
その後、声が聞こえた。
「ここは何処だろう?」
その声はなんの変哲もないようにも思える。人間のものではないと言われればそのようにも思えた。
「喋った……」
「喋ってはいない!」
古里の語気は鋭い。
「でも……」
鬼は立ちあがった。背丈は佐藤と同じくらい。不気味なほど痩せていて餓鬼と呼ぶほうが似合いそうな体型。
また周囲を見渡して三人に気づいたようだ。
「きみたちは誰だい?」
口調はのんびりしている。休み時間の同級生の会話のように。
「また喋った。聞こえたぞ!」
「聞こえてはいない。そう感じただけだ」
「なんだって?」
「もういい、黙ってろ!」
古里は凄まじい眼光で悲鬼と向かい合う標を見つめた。両者の距離は三メートルほど。
「標。さっさとやれ!」
やれ、とはさっき佐藤の心から鬼を叩き出したように、シルベとなって斬れという意味だろう。だが標の動きは止まったまま、悲鬼を目の前にしてただ立っているだけだ。
「何をしている! 砕くんだ」
古里の再度の呼びかけにも標は動かない。二人に背を向けたまま肩を震わせている。
やがて振り向いた彼の顔には涙が溢れていた。
「ダメだ、コイツに近づくと泣いてしまう。さっきより何倍も悲しくなる」
「こんなときに泣くな。グズグズしてるとヤツは飛ぶぞ!」
「わかってるんだが、クソッ。涙が止まらない。悲しくて悲しくて、意識を集中できねえ」
それでも標は一歩だけ前に出た。鬼との距離が二メートル半ほどに縮まる。
けれどもそこで号泣した。痩せこけて見窄らしい小さな鬼の前で、標表太郎はウオォー、ウオォーン、と遠吠えのように泣き始めたのだ。
「さがれ! 私がやる」
古里が怒声を放って数歩走り出た。
そして悲鬼から五、六メートルの距離で両掌を合わせた。身を糺し頭を垂れる。セーラー服の女子生徒。彼女の姿は墓石の前の遺族か、神社で拝礼する人に似ている。
だが古里は祈るでも拝むでもなく、その姿で闘気を溜めながら心を研ぎ澄ましていた。
悲鬼は屋上の三人から下界に関心を移したようだ。大地を見おろして、それから一度仰け反り、次いで背を丸めた。
近くに来た標に佐藤が問い詰める。
「あれが鬼。本当に鬼なのか? 本当に僕の中にいたのか、あれが?」
「言っただろ。この辺りに残っていた昔の人の感情、それが寄り集まっておまえの意志をコピーして生まれた鬼だ。世界じゅうの人間に泣いて欲しいと願っている。今からそれをするつもりのようだ」
「どういうことだよ。泣いて欲しいってのは、僕がか? アイツがか?」
「知るか。両方だろ。それより飛ぶぞ、アイツは。跳梁して世界中の人間に悲しみをぶちまける気だ」
「だからどうすんだよ、あれどうすんだよ」
「俺にはどうもできん。近づけば泣いてしまう。離れてなにか出来るのは古里だ」
古里はまだ合掌している。合わせた両手の奥で爛と瞳を輝かせているが、その先の行動には出ていない。
彼女の前方では悲鬼の背中がモゴモゴ蠢き、何かが生えて両横に拡がり面積を増していた。次第に形を整えて、本体よりも大きな蝙蝠の翼となる。全体の姿は絵本の中の悪魔に似てきたようだ。
「羽が生えた。本当に飛ぶんだ……」
自分の中から痩せこけた鬼が出てきて翼を生やし、屋上から飛び立とうとしている。この非現実感のなかで、さっきから佐藤は狼狽えるばかりだ。
悲鬼は古里にも標にも佐藤にも無関心のようだ。翼を拡げて背を伸ばし天空を見あげた。
そのとき古里がやっと次の動作に移った。
彼女の全身が薄く光って輪郭が二重になった。光る古里と光らない古里が、同じ場所に存在し始めたのだ。
光らない古里は合掌の姿勢を崩さないまま。もうひとりの光る古里は左腕を真っ直ぐ頭上に伸ばして、そこから前方に倒した。指先の延長上には飛び立つ寸前の鬼がいる。右腕は後方に引いて耳の後ろ。これは弓を射る構えだ。
相手は過去の人々が残した哀しみの感情だ。それが鬼の姿で認識されている。本当は色も形もないのに、その存在を知った者が姿や声をイメージしているだけだ。
さっき古里がわざわざ「悲鬼」と名付けたのもそのイメージを固定化するためであった。
そして過去の人間が残した思いに干渉できるのは、今の人間の思い、心でしかない。だから標表太郎は心の刃で斬り、古里あかりは心の矢で射貫こうとしている。
悲鬼が身体を屋上から数十センチ浮かせたとき、光る古里あかりが矢を放った。
放たれた矢も半透明で白く薄く光っていた。
それは火箭のように先端を炎立たせながら宙を飛び、過たず悲鬼の頭部の側面に当たって砕けた。同時に悲鬼の頭部も砕けて霧散する。
さらに身体全体が飛び散って消えた。
午後の学園、校舎の屋上。空気は澄んでいる。
悲鬼の存在が消えるのを中空に見ながら、佐藤は辺りに何の痕跡もないことに違和感を覚えていた。彼の胸騒ぎだけが残っているようなのだ。
いや、他にもひとつあった。空に飛び立とうとする悲鬼を矢で射貫いた古里あかり。彼女が屋上の床にうつ伏せに倒れている。
佐藤が駆け寄るより早く、標表太郎が膝を突いて彼女の肩に手を置いていた。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃねえ。古里は心の一部を使ったんだ。そのつまり、コイツは自分の心を一部消費したわけだ」
「消費したって……」
「なんでかわからねえがお前にも鬼が見えてたんだよな。ならコイツの矢も見えただろ。あれは古里の心の一部だ。それを放ったんだから、つまり心の一部が消費されて無くなったんだよ。それで、気を失ったわけだ」
標は古里を横抱きに抱えた。
「ま、しばらく寝かしときゃ目覚めるだろう。当分は使い物にならねえだろうが」
立ち去りかけて振り返った。
「おまえに鬼が見えた理由はいずれわかるだろう。それより、もうここで泣くんじゃねえぞ」
ああ、と肯いて佐藤は遠くに視線を投げた。大気は済んでいるが、さすがに海の辺りは少し霞んでいる。山と空、海と空との境界。もっと近くの農地や民家。国道を走るバスや乗用車。小さく見える下校途中の生徒たち。
それらを見おろしながら、さっきまで同じ光景を目にして泣いた自分を不思議に思った。
いったい、なにがあれほど悲しかったのか?
その思いは数日で彼の中から消えた。




