解析機関
かつて海上作戦の際に指揮官や将軍、参謀達が集って作戦を立てたゴッドルフ軍司令部では、今や砲弾や銃痕から町のアパートメントや、コートを着込んだ紳士淑女たちの姿を覗くことができる。祖国から海を渡ったハットン卿は、もし仮に祖国から鯨のような飛行船が、この場所に降り注ぐ鉄球の雨を降らせたならば自分がどうなるかなどと、無意味な空想に耽っていた。
女王暗殺の陰謀論が、クィンザーズのゴシップ界隈を騒がせる昨今、彼は解析機関の解析をし、設計図を持ち帰れば、その真偽を確かめることができるだろうと期待していた。王国の変わらぬ繁栄のため、情報の調査と検討は喫緊の課題であって、テンプル公国との協力関係に何らの可能性も見出してはいなかった。
一方で、カウニッツにとっては、主戦場となったテンプルの荒廃ぶりに比べて、対等の同盟国にもかかわらず海軍と飛行船しか寄越さないクィンザーズの壮健ぶりに、同盟関係の亀裂を感じざるを得なかった。元々、外務相となって直ぐにクィンザーズ女王に取り入り、同盟関係を結んだのは、カウニッツその人である。その才能を、この老獪な紳士が妬み蔑んでいるのではないかという強烈な不信感に見舞われていた。
青空の下、崩落した天井の上に降り注ぐ光の横を、2人の紳士の影が通り過ぎていく。その後を付き添う4人の警備兵は、両国の友好の証としては少々ぎこちなく思えた。
ハットン卿から見れば、テンプルの兵士のうち1人は少年で、もう1人はどこかそわそわとした妙な男で、まるで統率が取れていない。
カウニッツから見れば、仏頂面で自国の兵士を蔑むように見る背の高いクィンザーズ兵は、森を闊歩する熊のような愛想の悪さを感じる。両国共々、国家元首が列席しないのもまた、互いの自尊心からくる不信感に拍車をかけていた。
「カウニッツ、我が国には女王、貴国には女公。昨今は肩身が狭いと思わないかね?戦場はむさ苦しく品が無いが、宮廷は煌びやかでずいぶん居心地が悪いのだよ」
それはハットン卿が得意と自負する気晴らしのジョークだったが、気位の高いカウニッツには、テンプル公国の宮廷や、殉死した英霊達を侮辱する発言のように思われた。彼は自身の外相としての実績を守るために、務めて平静を繕ってみせる。
「宮廷が華やぐのは良いことでしょう。戦場もまた、勇ましく誇りある姿が見られて誇らしく思います。今朝は貴国のプリンス・エーベンスにも同席させて頂きましたから、戦場に降り立つのも悪くは無いでしょう」
「……まぁ、先ほどの君の秘書も、悪くなかったと思うよ」
凄惨な伽藍堂の通路を進む。壮麗さの代わりに、慰安用の慰安室やビリヤード台、家具、鍛錬用の諸道具が、破砕された天井や外壁の下敷きとなっている。
彼らは巨大な卓上に、地図が広げられた会議室に入る。会議室の壁に貼り付く書庫の裏に、地下壕への入り口があった。
カウニッツはまず、書庫の本を整え、取手となる隙間を作ると、そこに手をかけてドアを開く。殺風景な仄暗い部屋の中心に、地下壕に続く扉があった。
「ハットン卿、この先に、解析機関がございます」
「カウニッツ。くれぐれも壊さぬように」
ハットン卿は楽しそうに両手を広げて戯けて見せる。カウニッツは苦笑してこれに応じる。ハットン卿はひどく退屈な反応に辟易し葉巻を取り出すと、これに火をつけて咥える。地下壕への扉が開かれると、カウニッツの秘書も灯りを持って同席し、兵士らを引き連れて奥へと進んでいく。
急傾斜の階段を、葉巻とランプの光だけを頼りに慎重に進んでいく。若く身軽なカウニッツと、恰幅の良い老紳士であるハットン卿との足並みはなかなか合わず、後ろを守る兵士は時折詰まりながら長い階段を降りる。
やがて地下壕にぶら下がったランプの灯りが見え始めると、ゴォォォ、ふしゅうと言った物々しい蒸気の音が聞こえ始める。いよいよと杖をつく音が速くなるハットン卿は、地面につくなり即座に音のする方に向き直った。
「おぉ……。これは……」
巨大なドラムの前に、蒸気を配送するパイプが蛸足のように張り巡らされている。燃料室は真っ赤に熱せられた石炭が燃え、ロッドで繋がれた自動計算機が、ドラム上のピンを動かしながら、実用的な計算を行い続けている。所々にある安全弁からは、時折強烈な音を立てて蒸気が吹き出す。
計算が終わり、暗号のような結果が出ると、カウニッツはこれを受け取ってハットン卿に共有した。
「見様見真似ですが……。このように、さまざまな計算が可能なようです」
「凄まじい技術だよ、カウニッツ。これはね、巨大なオルゴールの応用のようなものだ。詳細は貴国に持ち込んで技術者に解析させることとしよう」
ハットン卿はそう言うと、クィンザーズ兵らを指で呼び込み、解析機関の改修作業に当たらせる。
カウニッツもこれで一安心と、この老人から離れるべく適当な断りを入れようと思索を巡らせようとした。
すると、秘書の持つランプの灯りが突然切られる。不審に思い両者が振り返ると、秘書の女は耽美な微笑を浮かべてスカートの前で手を組んだ。それに対応するように、備え付けのガス・ランプが次々に破裂する。
混乱する兵士達の中で、年少者の兵士が秘書の隣に陣取った。彼の手には安全装置を外した小銃が握られている。
「ハットン卿、ご無事ですか!?」
カウニッツがハットン卿の前に立つ。クィンザーズ兵が次々に現れて、銃口を秘書とコナーに向けた。即座に弾丸が彼らの手先を狙撃し、警備兵の小さな呻き声が響いた。
「貴国の軍部は一体どうなっているのだ?カウニッツ。まともに統率が取れていないようだが」
ハットン卿は杖をカウニッツに押し付ける。そのまま彼を押し退けると、背広を整えて葉巻を強く噛み潰した。
長い睨み合いの後、秘書の女は静かに礼をする。
「お初にお目にかかります、ハットン卿。私はハリエットと申します。刹那の間ではございますが、どうぞ、よしなに」
「……目的は何だね?」
「あぁそれは、今し方済ませましたので、では」
ハリエットが手を振って立ち去ろうとする。ハットン卿が彼女の手を鷲掴みにする。垂れた瞼の向こうから、鋭い眼光が彼女を刺す。
「まちたまえ。クィンザーズは紳士の国だ。人には理性をもって接するが……ネズミに容赦をする気はないよ」
「ハリエット!」
ハットン卿は懐からピストルを取り出す。咄嗟に銃を構えるコナーの腕を、2人のクィンザーズ兵が取り押さえた。
手負とはいえ大人2人分の全体重を受けて、コナーは床に押さえつけられる。
「カウニッツ!援軍を呼べ、この場で銃殺刑だ」
カウニッツは慌てて階段を駆け上る。笑顔を崩さないハリエットの腹に、回転式拳銃の銃口を突きつけられている。解析機関の安全弁が警笛の如く何度も泣き喚いた。
ハットン卿が歪に口角を持ち上げる。ハリエットは、舞踏会ですれ違うようにごく自然に微笑んでいる。
「君達が何を企んでいるかは知らないが、残念ながら成果を見届けることは出来ないようだね」
「ハリエット!くそ、離せ!」
ハットン卿はゆっくりと、人差し指に力を込める。
「ハリエット……!」
その時、コナーの体を突然軽くなった。なりふり構わず駆け出すコナーに向けて、クィンザーズ兵に跨ったテンプルの青年将校が叫ぶ。
「コナー!受け取れぇ!」
テンプル公国の古い小銃が宙を舞う。ハットン卿はごく冷静に、トリガーを押し込んだ。
発砲音が地下室に反響する。しばらくの静寂の後、ハットン卿は視界が天井を捉えていることに驚愕する。腹が熱を帯び、彼は恐る恐るその手で摩った。しかし、血の滑りは感じられず、代わりにくっきりとハイヒールの足跡が残っていた。
コナーが小銃を握りしめたまま硬直している。ハリエットが嬉しそうに彼の背中を叩く。
「助けてくれてありがとう。さぁ、逃げるわよ」
「ちょ、ちょっと、俺も……!」
ハリエットはコナーの手を取り、クィンザーズ兵を何とか引き離した青年将校がコナーに手を伸ばす。コナーが起き上がる兵士を小銃のグリップで殴ると、彼の手を掴んで階段を駆け上がる。
「あ゛っ……!くっそ、あの女め!全く最近は女に絡むと碌なことがないな!カウニッツ!取り逃がすなよ!」
荒い呼吸を整えたハットン卿は、突き出た腹を押さえながら立ち上がる。クィンザーズ兵に肩を借りたハットン卿は、解析機関を背に足を踏み出す。
ハットン卿の背後を、強烈な閃光と爆音が轟く。
地下室から響く老心身の悲鳴を聞きつけ、カウニッツは階段を駆け降りる。すれ違い様に、何者かに腹を打たれた彼が、階段を転がり落ちると、そこには、そこには放心状態のハットン卿と兵士たちの姿があった。
巨大なオルゴールの破片と火の粉が飛び散る中、強打した脛を摩りながらカウニッツが立ち上がる。しばらく呆然と立ち尽くした後で、彼は血相を変えて叫んだ。
「か、解析機関が!ハットン卿、解析機関が燃えてます!」
「燃えるどころか既にガラクタだ、戯け!……とにかく脱出するぞ。崩落しては堪らんからな」
ハットン卿はそう言ってカウニッツの脛を蹴る。鈍い悲鳴の後、カウニッツは慌ててハットン卿の後を追いかけた。
この大胆な破壊工作の首謀者及び容疑者については、両国の警察隊協力のもとで調査中である。