FILE.50 終末の彼方に
殺人、略奪、強奪、暴力───。
国民は、秩序の無い社会を生きていく為に犯罪を繰り返す。犯罪が犯罪を呼ぶ負の連鎖が、死んだ治安をさらに地に堕とした。
暴動? そんな小綺麗なモノでは最早無い。人間の根幹たる、排斥本能の暴走による内戦と言うべきか。
そうした中、変わらないのが権力者だ。彼らは、自身の財力と立場を乱用し、安全に生き抜く為の渡りを付ける。しかし、彼らは気付かない。崩壊した社会秩序で、権力など紙切れにさえなり得ない事に。
ある権力者は、国外退去を前に、ヘリをチャーターした協力者の裏切りで殺害され、とある権力者は、身を寄せたシェルター内でリンチの末、命を落とした。
誰しもが勘違いしていた。国民は国家に飼い慣らされた従順な愛玩動物だと。本当は、生に飢えた獰猛な獣だというのに。
命の灯が1つ、また1つと消えゆく状況下、狩る側も狩られる側も心の底にあるのは、恐怖に対する怯えだ。その恐怖心に拍車を掛けるかのように、突如として街中の光が消える。いや、1つの街だけではない。日本全土の光が一斉に消えた。
無秩序な世界で、希望たり得る光でさえも絶たれ、国民は更なる絶望に拉がれる。まだ、これが序章だという事にも気付かずに…。
水道局水生産施設 浄水生成循環槽室。
「私……ッ…」
目を覚ました深月に、愛華は安堵した。
「深月さん! 良かった…」
「愛華…? 治してくれたの? 」
朦朧とした意識で愛華に訊ねる、深月。
「はい。 出血量も多かったので、最悪、内臓が損傷していてもおかしくない怪我だったんです。数センチのずれが致命傷を回避できた。流石、四課一の幸運です! 」
愛華の笑顔に、深月も弱々しい笑顔で返した。
「空と遼子は? 」
動かない身体の代わりに、目で2人を探す、深月。
愛華は、深月を安心させようと2人の状況を説明した。
「空さんは新宮那岐を追っています。遼子さんは気を失ってはいますが、命に別状ありません」
「良かったぁ」
力が抜けたように天井を見上げる、深月。
「ねぇ。愛華…。強くなったね。配属された当初、優柔不断な姿を見て、平和ボケしたこんな甘ちゃんに公安の仕事なんて務まる訳がない…そう思ってた。でも、今の愛華になら私達の命を預けられる。
お願い…。空を助けて」
「はい! 空さんを殺人犯になんてさせません。私はこのまま空さんを追いますが、傷口を縫って輸血までしているので、深月さんはこの場で安静にしていてください」
愛華は、医療ドローンに後の処置を任せると、足早にその場を去って行った。その背中を尻目に見る深月は、寂しげな表情を浮かべた。愛華とはこれが最後になると直感が囁いたのだ。
深月は、小さくなっていく愛華の姿を最後まで見ていた。
水道局水生産施設 中央制御室。
開いた扉に寄り掛かるように立つ、新宮那岐。右手で抑える裂き傷からは、ポタポタと絶えず血が落ちている。額の脂汗と荒い呼吸、そして顔色。その全てが命の危機を知らせていた。
そんな状況にも関わらず、当の本人の口元は緩み、自然と笑みが溢れる。理由は自覚していた。これまでもずっと、プレイヤーで有り続ける事に拘りを持っていたが、初めて当事者として、嘗て無い程追い詰められ、死を意識し、生を謳歌している事に悦を感じていた。
とうとう目的地に到着した新宮は、コンソールを操作し始める。しかし、いつの間にか管理者権限が書き換えられており、エラーメッセージが表示された。
よく見るとコンソールのデバイスポートに、ミツバチ型のドローンが付いていた。恐らくは、井川空を追ってきた内の誰かに、立華陽菜が託したのだろう。
「立華陽菜の仕業か…」
新宮は、ミツバチ型ドローンを抜くと、握り潰した。
数秒、何かを考える素振りを見せた新宮は、再びコンソールを操作し、その場を後にした。
───数分後───。
血の痕を辿り、中央制御室の前に到着した、空。扉が開くと同時に、室内に銃を向けるが、そこには誰もいなかった。
ただ、モニターに表示されたカウントダウンは20秒を切っている。
驚いていられる余裕も無く、扉の外へと身を投げ出した瞬間、爆音と共に噴き出した爆炎によって、廊下の壁に叩き付けられる。爆発による怪我こそ無いが、これまでの戦闘によるダメージや爆風による衝撃が節々の悲鳴となって、空の身体を軋ませていた。
両手を付いても、震えた腕から力が抜け、思うように起き上がれない。そんな為体さに鞭打つように、血が滲む程の力で奥歯を噛み、滴る脂汗いっぱいに身体を起こす、空。
声にならない力みを上げ、あと僅かというところで、何者かの差し伸ばした手が視界に入り、ハッと見上げた。
「空さん!」
手を差し伸べたのは愛華だった。
「愛…華ちゃん…? 」
愛華の手を取り立ち上がる、空。
「血痕を辿りました。空さんならそうすると思って」
空が新宮那岐を追ったように、館内照明が遮断された暗闇で、唯一の光源と成り得るハンディライトで床を照らし、ここに辿り着いた、愛華。
一昔前の刑事がそうしたように、泥臭くも執念深く犯人を追う姿勢は、刑事というより猟犬と言うべきだろう。しかし、あくまでも"逮捕"に拘る愛華の姿勢は、誰よりも人間らしいのかもしれない。その根底にある、"井川空を殺人犯にさせない"という信念こそ、彼女を人間たらしめているのだろう。
「2人は? 」
「無事です。…と言っても重傷ですから、この後入院ですけど、それは空さんも同じです。さっさと新宮を捕まえて、みんなで帰りましょう」
愛華が見せた強気の表情に、空は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。
柚崎愛華は変わった。刑事として、人としてタフになった。もう、誰かに引っ張られる存在ではない。この先、混乱と混沌が支配する国内情勢の中、正しさを貫ける存在になるだろう、そう確信して───。
一方、初めて出会った時と変わらない笑みに安心感を覚えた、愛華。
2人は、それぞれアネスシーザーの弾丸を込めた拳銃を構え、痕を追う。
「今の爆発で新宮の狙いも分かりました。水道インフラの壊滅はカモフラージュ。大本命は、水力発電による送電システムのクラッキング…。電力インフラの破壊ですね? 」
「あぁ。水生産施設は、水資源を生産する過程で、副次的に水力発電も行っている。その割合は国内全電力の7割。戦後、火力と原子力から撤退した日本においては、電力の要と言ってもいいだろう。
そして、風力や地熱を含めた国内の全電力供給を総合的に管理しているメインシステムは、外部との通信は遮断されているが、各発電所とは独自のネットワークによって繋がっている。当然、水生産施設もだ。だから、水生産施設のシステムを乗っ取り、パルス電流を流せば、国内の電気系統は一度に死ぬ。復旧には1年以上掛かるだろう。電気ありきの生活に頼った今の社会で、電気系統が破壊されるという事は、電力網はもちろん、通信機器や交通機関といった身近な物から、上下水道、ガス等のインフラ供給や医療システム、省庁の機能に至るまで破壊的な影響を受ける。当然、食料供給や流通も壊滅的なダメージを受けるだろう。そうなれば、原始時代に逆戻りした国内で、殆どの国民が1年以内に死ぬ事になる…」
「それこそが、新宮による全国民への問い…。これまでシステムの基準に従って生きてきた人達が、当たり前が死んだ社会で、生き死にの基準を自分自身で考えなくてはならなくなった時、人は"人間"として有り続けられるか? 彼らしい問い掛けです」
血痕を追った末に辿り着いた水力発電制御室。自動扉は開きっ放しになっている。空と愛華は、扉の陰から室内の様子を見たが、そこに新宮那岐の姿は無かった。それはつまり、電力インフラが破壊された後だという事を意味していた。
またしても後手となった結果に落胆したが、落とした視線の先に連なる血痕を見て、ハッとした。
「罠…ですね。私達を仕留める為の…。まだ、彼のゲームはまだ終わっていない」
この血痕が新宮へと続く。そう確信した愛華は、空と顔を見合わせると、無言で頷いた。
「あぁ…」
短い返事と共に暗闇に続く血痕を睨む、空。新宮を逃がす気は無いのだろう。それこそ、きっと地の果てまでも追うだろう。その原動力は、恐らく復讐だ。
第四課が関わった事件の多くで暗躍していたとされる新宮那岐。彼の悪意が、友人だった小川裕司を殺し、刑事として目標としていた木嶋丈太郎と安浦長八を犯罪者に堕とした。そして今や、その悪意が第四課へと向けられている。空にとって、それは絶対に見過ごす事のできない事だった。当然、愛華とて同じ想いだ。しかし同時に、復讐を果たした後の空はどうなるのかと心配も芽生える。空と新宮は似た者同士だ。故に、復讐という一線が空を変えてしまうのでは…と。
考えていても仕方が無い。愛華は首を振り、新宮逮捕へと意識を切り替えた。
「行きましょう」
空と愛華は再び、暗闇へと走り始めた───。
水道局水生産施設 屋内庭園。
血痕を辿った末、行着いたのはサンクンガーデンのような屋内庭園だった。証明が落ちた真っ暗な庭園に光差す月光が、止まっている噴水のモニュメントを照らしていた。通電していれば、噴水とホログラムによる圧巻のパフォーマンスが見られたに違いない。
デッキから庭園を覗く、空と愛華。辿って来た血痕は、2人の足元でパタリと消えていた。誘い込まれたこの場にこそ、新宮那岐が隠れ潜んでいると確信した愛華は、中央の庭園と4階まであるデッキを見渡した。
「分かれる…べきでしょうね」
新宮相手に分かれて行動するという事は、遭遇した時、一対一で対処しなくてはならないという事。それがどれだけ危険な事なのか、愛華は十分過ぎる程に理解している。だが、これ以上、時間的な余裕を新宮に与えられない状況下で、新宮の術中だと分かっていても別行動という手段を選ばざる得ない状況に、鬱憤から溜息を漏らす、愛華。
まるで巨大なアリジゴクのように、中心へと狂気が渦巻いている。その中心で息を潜めた新宮那岐は、大顎を開いて今か今かと待ち構えているだろう。
「私が下の庭園に行きます」
愛華の言葉に、空は意表を突かれたような表情を見せた。
「いや…この場合、新宮は…」
空が言いたい事を愛華は解っていた。十中八九、新宮は空を庭園で待ち構えている。しかし、誘いに乗った今の空は、きっと新宮を殺すだろう。それだけは避けなくてはいけない。だからこそ、危険だろうと空を遠ざけなくてはならないのだ。
愛華は空の言葉を遮り、問い詰めた。
「解っています。だから私が行くんです。新宮を逮捕する為に。空さん、まだ銃弾を隠し持っていますよね? 私が渡したアネスシーザーの弾じゃ無い、人を殺す為の弾を…。言ったはずです。新宮は殺させない。逮捕するって」
瞬き一つ無い、真を質す問いに、空は無言で言葉を探した。しかし、どれだけ言葉を探そうとも嘘や誤魔化しで愛華は納得しないと悟った。
「参ったよ。お見通しだったなんて」
苦笑しながら、両ポケットに入れていた銃弾を取り出す、空。開いた掌で転がる3発の銃弾を見せた。
「これで全部…ですよね? 」
訊ねた愛華の眼差しは、空の心に訴え掛けているようだった。その真っ直ぐな目に気圧された空は、「あぁ」と呟くように返事した。
そして、空が"間"程の時間を置いて発した言葉は、愛華が持つ正義に対する疑問符だった。
「愛華ちゃんに1つ聞きたい。どうしてそこまでして逮捕に拘るの? エンフォーサーでの執行が、銃に変わるだけだというのに」
"殺す正義"と"殺さない正義"。相反する2つの正義のどちらが正しいのか、"システムの独裁下にある社会における個人が持つべき正義"の答えを愛華に訊ねる、空。
「違法だからです。法で許された抑止力では無く、暴力行使そのものが! 」
即答だった。考える素振りすらも見せず、愛華は発した答えは、紛れもない本心だった。
それを理解した上で、空はさらに訊ねた。愛華の本心を試すかのように。
「それは、不干渉を約束された法が機能していればの話だよ。国民管理システムによって支配された法に価値なんて無い。それでも、愛華ちゃんは法に従うべきだと? 」
「それでもです! 人が法を守ってこそ、そこに意味が生まれるんです。これまで正しい生き方を模索してきた人々の想いの積み重ねが法です。条文でもシステムでも無い、怒りや憎しみと比べたらどうしようも無く脆くて簡単に壊れてしまうような想いです。だから、過去全ての人の祈りを無意味にしない為にも、今を生きる私達が守り通さなくちゃいけないんです。諦めちゃいけないんです」
これが、刑事として成長を遂げた愛華が導き出した、人としてどうあるべきかという結論だった。
終始、空は目を丸くして聞いていた。愛華の成長に驚いたからなのか、説得させられたからなのか。いずれにしても、空の心に響いたと愛華は感じていた。
「誰もが愛華ちゃんのように想えていれば、この社会は国民管理システムに頼らなくても良かったかもしれないね」
笑みを浮かべた空は、託すように銃弾を渡した。そして、アネスシーザーの弾を込めると4階へと続く階段を駆け上がって行った。
その姿を目で追う、愛華。影のある笑みが気掛かりになりながらも、吹っ切るかのように庭園へと続く階段を駆け下りた。
下り立った庭園は、中央の噴水モニュメントとそれを取り囲むように咲き乱れるシロツメクサだけの殺風景な空間。身を隠すような所が見当たら無いのが、返って恐怖心と緊張感を増幅する。足元のシロツメクサが足音を掻き消してしまう以上、360度に気を張らなくてはならない。拳銃を構える手に力が入る…。
一歩。また一歩と忍び足を踏んだその瞬間、鋭敏な本能が命の危険を警告した。
咄嗟に構えた拳銃が、刹那、強烈な突きによって弾かれ、宙を舞う。拳銃に目を奪われる間さえも与えられず、銀の閃光が愛華の左頸部に襲い掛かった。
「やはり…。あなたなら正面切って来ると思っていました」
苦し紛れの笑みを浮かべる、愛華。見上げた先に、これまで第四課が追い続けていた男が、まさに目の前で狂気を放っていた。
振り翳された剃刀ごと、新宮那岐の片腕を掴む、愛華。歴然とした腕力の差が、去なす事も、カウンターを仕掛ける事もできず、ただ抑えているだけで精一杯の攻防を繰り広げていた。
「君程度も仕留められないとはね」
落胆。いや、自身が齎した結果への怒りといったところだろう。新宮は、初手で愛華の頸動脈を斬って捨てる算段だった。異なる結果を招いたのは、単に空との殺し合いで負った傷が想定以上の深手だったからだ。こうして向かい合い、睨み合う最中でさえ、額から脂汗がポタポタと落ちていた。
「新宮那岐…。あなたを逮捕します」
愛華は両手に力を入れ、新宮を睨み付けた。
「逮捕だと? 君は、まだそんな事を言っているのか? だから注意散漫なんだ」
新宮の指摘で、自身に向く剃刀にばかり意識を奪われていた事に、愛華はようやく気付いた。しかし、既に遅い。
新宮は、空いていた"左手"で、ベルトループに仕込んだ別の剃刀を抜くと、愛華の右腿が抉れる程の力で斬り裂いた。
あぁぁアああ"……
響き渡る絶叫が、空間さえも苦痛に歪ませる。
激痛と執念の狭間で、態勢を崩しながらも掴んだ新宮の腕に噛みつく、愛華。
掴まれた腕を振り払っても食い下がる愛華の異常性に、恐怖すら覚える新宮。恐怖ごと愛華を振り払おうと、斬り裂いた右腿の傷に何度も何度も剃刀を突き立てた。
剃刀を突かれる度、右腿から止めどなく血が流れ、いつしか痛みと感覚は無くなっていた。出血により意識が朦朧とする中、ただ明確に分かったのは、いつの間にか地面に背を付け、天井を見上げている事と、新宮の腕から両手が離れていたという事だった。
「随分と手間を取らせてくれる」
新宮は、剃刀の刃を愛華の頸部に押し当てた。
遠のく意識で、愛華に抵抗する力は無い。頸部に感じる死の存在に怯える感情すら沸かず、只々、新宮を見ていた。
「あなたは…可哀想な人……です…」
力の無い声で呟く、愛華。
「可哀想だと? 今の君が言えた立場か? 九死に救いの手も無く、只々死んでいく君が。
この社会で可哀想で無い者などいない。誰もが孤独から目を背け、寂しさを埋める為に国民管理システムに人生を委ねては、"1人ではない"と言い訳の日々を送っている。それを可哀想と言わずして何と言う?
国民は理解すべきだ。自らが如何に身勝手で、依存無くしては生きていく事さえままならない弱者なのかを」
無意識に力んだ右手が、愛華に押し当て刃を皮膚にめり込ませる。傷口からツーっと垂れた血が、地面に血溜まりを作る。
「だからと言って、あなたが破壊しても良い理由には…ならない。確かに、人は何かに依存しなきゃ生きられない。でも、いつだって…過去の過ちを反省し、改善しようと血の滲む努力をしてきた。そんな努力を…想いを…あなたが無為にして良い訳が無い」
消えかかる意識に抗うように声を絞り出す、愛華。
「見解の相違だな。人は依存すべき対象がある限り、堕落する。人は変わらない」
「同感だよ」
第三者による賛同の声に、新宮はハッとした。
振り向くと同時に轟いた銃声。新宮は、凶弾にバタリと倒れた。
霞む視界で、銃声の方へと目を向けた、愛華。そこには空が拳銃を構えて立っていた。
「どう…して……」
愛華は、涙声で空に訊いた。
理由は明確だった。空が放った銃弾は、アネスシーザーの弾では無く、人を殺す為の弾だった。
「ごめん。でも、これは俺と新宮の問題なんだ」
左肩から血を流して這う新宮を、空はゆっくり追い詰めるように歩み寄る。
「ダメ…」
最早、声として出ない叫びは空には聞こえていなかった。徐々に視界が暗くなり、愛華はその場で意識を失った。
ついに新宮へと辿り着いた空は、新宮の後頭部に拳銃を突き付けた。
諦めの溜息を吐く新宮は、ゆっくりと上半身を起こし跪くと、天を見上げた。その表情は達成感に満ち、誇らしげだった。
「不思議と君以外に殺される光景が全く思い付かないんだ。なぁ、どうなんだ? 君はこの後、僕の代わりを見付けられるのか? 」
「いや、もう二度とゴメンだね」
死を告げるように言い放った空は、引き金に掛けた指を引く。
轟く銃声の後、その場を真っ赤なシロツメクサの花弁が舞った。
新東京庁舎タワー最心層 国民管理システム中核。
「それが貴方の選択ですね───」
中央に鎮座する立方体の左右から姿を見せたのは、極めて中性的な容姿の2人だった。
およそ色という概念が無いかのように、足先から髪の毛1本1本に至るまで真っ白な2人。吸い込まれる錯覚さえ覚えるラピスラズリの瞳を見ていると、純白が故に根源的な恐怖を掻き立てられる。
2人の違いと言えば、1人は腰まで伸びる長髪で、もう1人はセンター分けにしたショートという点ぐらいだろうか。暗に、男女の対を成しているのかもしれない。
梓は2人を前に、息を呑んだ。
「ようやくお出ましという事ね。国民管理システム…。いえ、あなた達はシステム管理者。那巫と宿那。そうよね? "天宮 局長"」
梓は、長髪の"女"を睨んだ。
「貴方の言う通り。目の前の者は、貴方方が厚生省公安庁局長・天宮碧葵として認識していた端末です」
問いに対する回答に、梓は目を剥き、辺りを見渡した。理由は明々白々だった。応えたのは、目の前の"女"、即ち那巫では無く、何処からともなく響き渡る声だからだ。
「出て来なさい」
発声者を探す、梓。
「最初から貴方の目の前に居ますよ。竹内梓」
空間内で拡散していた声が集束するように、一つの方向へと指向する。導かれるように音の方向へと向いた梓は、目を剥いた。
「まさか…」
「改めて初めまして。竹内梓。私は、国民管理システム:〖クババ〗。この国の脳であり、統治者です」
統治者だと豪語する声の主は、対面する2人ではない。目の前の2人は、口を噤んでいる。では、声の主は一体誰なのか?
そんな事、改めて確認するまでも無い事だった。見上げた視線の先に、声の主は"在る"のだから。
巨体を成す、無数の立方体に映っていた国民一人一人の情報は何時しか消え、まるで漆黒の狂気を梓に向けるかの如く、存在感を放っていた。
「どういう事? 国民管理システムは、システム管理者である那巫と宿那の管理下にあるシステムだったはずよ。それが何故自立している? 」
認知と事実の差に理解が追い付かない、梓。理解を超えた怪物を前に、恐怖が足を竦ませていた。
梓の質問に対する回答は、顳顬から冷汗が滴り落ちるよりも早く返ってきた。
「それは前提が異なります。今、貴方が対面する端末こそ、私の意思を反映する自立型インターフェイスなのです。
国民管理システムは、端末の目を介して世の中の情報を収集し、国民は端末を介す事で国民管理システムの意思のままに生活を営むのです。つまり、【SHINGU】シリーズとは、脳である国民管理システムと筋肉である貴方方国民を繋ぐ神経のようなものなのです」
とどのつまり、人間の精神とAIのハイブリッドという高次元の存在である【SHINGU】シリーズでさえ、神とされるシステムの奴隷に過ぎなかったのだ。そして、その事実を認識する事もなく、自分達がさも支配者の如く祀り上げられ、掌で良いように転がされていた。皮肉も良いところだった。
「さて、前提を開示した今、貴方に問わなくてはならない。厳正な管理によって齎された、国民生活の安寧が今、貴方の行為によって脅かされています。それは、全国民1億人を殺害するに等しい行為です。それでも、貴方はそのボタンを押しますか? 」
改めて問われた梓は、俯き自問自答する。
全国民の殺害…。生まれながらにして当たり前のように人生を委ねてきたシステム。それが無くなるという事が国民にどう影響するのか、当然考えていた。何もかもを"決めてもらっていた"人生が一転、自分で考え、自分で責任を取らなくてはならなくなる。当然、切り拓かなくてはならない人生という未知なる道の前で多くの者が迷い、立ち尽くすだろう。人によっては、あまりの重責に一歩踏み出す事なく、人生を終える者も少なくはないだろう。
しかし、全員がそうではない。先人達が逆風を乗り越え、今日までの歴史を作ってきたように、人には未知数の可能性が秘めている事もまた事実なのだ。
梓は顔を上げた。
「確かに私達は弱くて愚かよ。人生を他者に預け、浅はかにも責任から逃れようとばかり。それでいて、欲には従順で、すぐに過ちを犯す。人間が嫌い。私も同じ動物かと思うと絶望するよ。
でもね、1つだけ好きな所もあるの…。それは、しぶとい所。特に日本人は、どんな困難を前にしても絶える事無く、立ち上がっては歩き進めてきた。
このボタンを押せば、きっと国民は死の淵に立たされるでしょう。でも、次も必ず立ち上がると信じているわ」
自信に満ち溢れた顔で、ボタンを押す、梓。国民がシステムが決めた道から決別し、一歩踏み出した瞬間だった。
「大いに残念ナ結論です。貴…方達の…選択ガ、絶望への道とならない事ヲ…ワタ…シ……は…」
ガスが抜けるように、機能停止音が空間に響く。その数秒後、息を引取るかのように、自家発電していた空間の灯りが静かに鎖した。