FILE.44 都合の良い人形
2116年7月───。
港区5101- 天王州アイル埠頭コンテナ。
深夜2時。人の背丈をゆうに超えて積み上げられたコンテナが、月の光を遮断する空間。放たれた猟犬達が、嗅覚を頼りに闇の中を網目状に徘徊する。
十字路を挟んだコンテナの影にお互いに身を潜め、エンフォーサーを構える木嶋と安浦。立場は逆転したが、先輩後輩タッグの息の合った動きは気配すら感じない程、闇夜に溶け込んでいた。
局長の緊急招集から1週間。公安は、ようやく犯人に繋がる手掛かりを掴んだ。気掛かりなのは、情報元が"匿名"という一点。ただ、情報を降ろしたのが局長という事から、角度は高いはずだと言い聞かせていた。
「お前さん、良かったのかい?」
それまで手信号でコミュニケーションを取っていた2人だったが、安浦の急な通信に木嶋は驚く。
「どうしたんです? 急に」
「梨乃ちゃんだよ。誕生日だったんだろう? 」
耳に届く通信音は、安浦の呆れ声だった。
「えぇ…。まぁ。でも、あいつも俺の仕事分かってますから。それにこういう時ですし、プライベートは二の次です」
返す言葉が見つからず、言葉に詰まる、木嶋。
「他所様の家庭事情に煩く言うつもりは無いけどよぉ。たった1人の娘なんだ。こういう時だからこそ、誕生日くらい一緒にいられる時間を作ってやっても良かったんじゃないか? 現場は俺達に任せてよ」
刑事という仕事柄、それも今追っている事件が事件なだけに、毎日無事でいられる保証はない。四課のように全員が死亡する事だって有り得る状況下、安浦は木嶋に1人娘を最優先に考えてほしかった。
安浦の想いに木嶋は笑顔を浮かべた。
「やっさん…。ありがとうございます。それじゃあ、ちゃちゃっと終わらせて、娘の元へ帰ると…」
言葉尻が突然の大きな音で阻害される。音の大きさ的に、木嶋と安浦が近い。2人は音がした方へと急いだ。
まず目に飛び込んで来たのは、暗闇でもはっきりと判る狂気じみた笑顔で、コンテナに磔られた遺体。間違いなく、一連の新たな犠牲者だ。遺体の足先からは血液がポタポタと落ち、直下のアスファルトを真っ赤に染め上げていた。
しかし、これまでの事件とは1つ異なる点があった。それは、遺体の前に人がいるという事だ。背中まで伸びた長髪に、血飛沫で真っ赤に染まったワンピース。その手には、磔で使用する釘のような物が握られている。後ろ姿ではあったが、華奢な体型から女性だと思われる。
木嶋は、エンフォーサーの引金に指を掛け、一歩、また一歩とゆっくり近づく。
「公安庁刑事課だ。両手を後頭部で組んで、ゆっくりとこちらを向け」
女性は指示通り、両手を頭の後ろで組むと、ゆっくりと振り向く。その一瞬、音を立てて跳ね返る釘のような物に目を奪われる、木嶋と安浦。
再び女性に目を向けた時、目を疑う光景に木嶋は動転した。
「ど、どういう……事だ? 木嶋…」
安浦も自身の目に映る光景が信じられず、言葉を失う。
そして2人が構えたエンフォーサーは、腕ごと力無くだらりと下りた。
「梨乃…なのか? 」
木嶋の問い掛けに、無言の涙を流す、木嶋梨乃。
「な、何でお前がここにいるんだ? 何で…何でだ!」
吼えるように訊く木嶋の問いに、首を横に振る、木嶋梨乃。
「お前がやったのか? これまでの事件も全部お前が?」
「違う! 私じゃない。気が付いたらここにいたの! お父さん、今日は帰って来るはずだったじゃない。だから、夕飯を作って待ってた。そしたらインターホンが鳴って、お父さんだと思って出てみたら、お父さんの同僚だって人達だった。そこからの記憶が無くて、気付いたらここにいたの。ねぇ、どうなってるの? もう分かんないよ!!!!」
木嶋梨乃もまた動揺していた。家に訪れたという人物に接触してから、ここで目が覚めるまでの記憶がないのだ。無理もない。
「わ、分かった。大丈夫だ。お父さんが守ってやる。だから、お前はこっちへ来い」
安心させようと笑顔で手を差し伸べる、木嶋。
しかし、思惑と反対に怯える木嶋梨乃は、立っているのがやっとの震えた両足を後退りした。
「い、嫌…」
その理由を理解するのに時間は要しなかった。
「犯人の即時執行を命令したはずだが? 木嶋丈太郎 警部」
「天宮…局長……!?」
現場に出るはずの無い人物が、エンフォーサーを愛娘に向けている光景に言葉を失う、木嶋。
「何故ここに…? いや、そんな事より、あれは私の娘です! 犯人じゃない。エンフォーサーを下ろしてください」
天宮が向けたエンフォーサーの前に立ち、娘を庇うように両腕を広げる、木嶋。
「何を言っている? 木嶋丈太郎 警部。君の娘こそ、この忌わしき連続猟奇殺人の元凶だよ」
天宮によって告げられた有り得ない知らせに、木嶋は言葉を失った。これまでの事件、犯行時刻とされる時間帯に、娘・梨乃と木嶋は一緒にいる事が多かった。つまり、娘にはアリバイがあり、犯行は物理的に難しい。
しかし、そんな事を主張したところで、身内の証言などアリバイにはならないと聞き入れてもらえない事など、火を見るよりも明らかだ。
成す術の無い木嶋にできる事は、天宮の前に立ちはだかる事だけだった。
「違う…。娘は犯人なんかじゃない。何かの間違いです! 誤認執行など、真犯人の思惑通りじゃないですか?」
「だったら何だというのだね? 君の娘が真犯人かどうかという些細な事に価値など無い。犯人として執行されれば十分。犯人でなくとも、執行された事で真犯人へのメッセージとなれば、それはそれで十分だ。要は満足のいく結果が得られさえすればいい。
それより君は、責務を逸脱して私の前に立っているわけだが、その意味を理解しているのかね?」
天宮の凍てつく視線が、木嶋を穿く。
「何…ですか…。それは…。それじゃあ、娘は生贄同然じゃないですか! そんな事、納得できるはずが無い!」
木嶋の必死の抵抗も、天宮には退屈な雑音だった。「はぁー」という冷めた溜息を漏らす、天宮。
「そこまで言うのなら、娘が無実だという事を証明したまえ。ほら、君の娘は君を待っているよ?」
冷めた表情のまま、笑みを浮かべる、天宮。
振り向く木嶋の瞳に映ったのは、不安に押しつぶされそうになりながらも、父を信じる娘の姿だった。
気付けば足を踏み出していた、木嶋。娘を抱きしめて安心させたい。父親としての本能が足を動かしていた。
思えば、即時執行命令が出ている中、明確な証拠を集められる程の時間など無かった。そんな事すら忘れ、娘の元へ駆け寄る木嶋は、娘・梨乃へと手を伸ばす。
あと数メートル。あと数センチ。娘を抱きしめるのに、あと一歩。
その刹那、希望は弾け飛ぶ。父の目の前で弾けた頭は、肉片となって周囲に散る。頭を失った胴体が、力無く崩れ落ちる様を目の当たりに、瞬きすらできない程、目を剥く、木嶋。
先程まで前へ進ませていた足がピタっと止まり、俯くと、血溜まりと肉片の海に頭を失った胴が、横たわっていた。
一粒の水滴が木嶋の頬を伝った。それが地面に落ちる頃には、音を立てて雨粒が降り注ぐ。まるで、降り注いだ絶望が立つ力を削ぐように、膝から崩れ落ちた、木嶋。
「あ…あぁ………あああああアああ"ああ」
嗚咽にも似た叫び声を上げ、変わり果てた娘を抱く、木嶋。
負の感情を向ける木嶋に対し、蔑むような視線を天宮は向けた。
憎悪の渦中、娘が死の直前に言っていた事を思い出す、木嶋。梨乃はたしかに、"同僚を名乗る男達が訪ねて来た"と言っていた。そして、その後の記憶は無く、"気が付けばこの事件現場にいた"と。では、その同僚を名乗る男達は誰なのか?
気掛かりな事はもう1つある。それは、全捜査官が招集された場で、天宮の言った、四課が殺害された現場を検証したという厚生省直轄チームの存在だ。厚生省直轄という言葉から気にもしていなかったが、よくよく考えれば、どういう経緯で組織され、どういう人物で構成されているのかなど、詳細は全くの謎だ。
結びつくはずの無い2つの謎に、繋がりが見い出してしまう木嶋は、次第に"厚生省直轄チーム=自宅を訪ねて来た男達"でないかと思うようになっていた。
証拠なんてものはない。ただ、どうしても国家の闇がチラついてしょうがないのだ。
そして、局長・天宮碧葵は全てを知っている。いや、目の前にいる冷酷無慈悲な悪魔こそ、一連を仕向けた張本人ではないのか。天宮への怒りが、心に芽生えた疑念を増幅させる。忠誠を誓ってきた上官に裏切られ、これまでの言葉さえも疑わしく思う中、国家の闇を疑えば疑う程、辻褄が合っていく事に、次第に恐怖すら感じるようになっていた。
本能的に"敵"を認識した時、何かがプチンと切れる音がした。その音が何だったのか、当時は分からなかったが、確かだったのは"敵"への殺意を向けていた事だった───。
───現在。
「"思い出した記憶"で確かなのはここまでだ」
深呼吸なのか、溜息なのか曖昧な、しかしいずれにしても深い息を吐く、木嶋。当然だろう。最愛の娘の死。それも、忠誠を誓った信頼すべき上官に、半ば濡れ衣のような形で殺害されたのだ。
忘れたくても、忘れられない記憶に違いない。しかし、それ故に謎は深まる。何故、以降も刑事として有り続けたのか、という事だった。局長への疑念と失った忠誠心に耐えかね、本来なら刑事を辞めるはずだ。もっと悪くすれば、狂気に呑まれ、復讐を考えても不自然では無い。だが、木嶋は娘を殺害した張本人の下で、刑事で有り続けた。とてもじゃないが、正気の沙汰では無い。
「確か?」
空は、疑いの眼差しを木嶋に向けた。
「あぁ、この記憶すら俺は忘れていた。いや、記憶にロックを掛けられていたんだ」
額を右手で抑える仕草を取る、木嶋。記憶に混濁が生じた人間が、その記憶にアクセスしようとした時によく見せる仕草だ。心理的行動ゆえに、無意識下で行う事が多い。"記憶にロックが掛けられていた"という突飛なワードは気掛かりだが、"記憶を失っていた"という木嶋の証言には、ある程度の信用があると、空は確信した。
その上で、確信に迫る質問をする、空。
「記憶のロックというのは? 」
「俺の脳には外部から記憶、思考を操作するマイクロチップが国家によって埋められている」
人差し指で顳顬をトンと突く、木嶋。衝撃の告白に驚きを隠せない、空。
木嶋の発言の意味を理解しようと、頭で整理するが、考えれば考える程、恐ろしい疑念が思考を邪魔する。
"もしかして、第四課の脳にもチップは付いているんじゃないか?"
空の疑念を、木嶋は笑って一蹴した。
「お前らには付いてねぇよ」
木嶋の一言は、動揺を抑えられずにいた空の胸中を刺した。
仕事柄、他者の心理を読み解きはすれど、他者に心を覗かれる事など無かった。それも意表を突くような形で。故に、まるで心を掌握されてしまったような、何とも言えない気持ちの悪い感覚に襲われた。
目を剥くような表情のまま動かない空に、木嶋は答え合わせをするかのように、話し始めた。
「一般に国民管理システムが運用したとされる2069年。国家の治安維持組織の改革により、警察庁が解体され、厚生省に公安庁が設置された。ここまではお前も知っている通りだな?
それじゃあ、公安庁への改組後、警察庁に在籍していた警察官はどうなったと思う? 」
木嶋の質問に、親指と人差し指で顎を摘み、俯くように腰を折ると、記憶を辿る素振りを見せる、空。
「国民管理システムによる適正判定で、全国の警察官のうち0.1%が公安庁の捜査官として採用された…と記録にはあったはず…」
断言から程遠い、曖昧な言い方だったが、木嶋は正解だと言わんばかりに微笑んだ。
「確かにそう記録されている。それじゃあ、99.9%の"元"警察官達はどうなったのか。当然そういう疑問に至る訳だが…」
木嶋の話を遮るように、質問を被せる、空。
「一度、メンタルケア施設に入所後、各々の適正に応じた職務へ就いているはずでは?」
「流石、表に出ない記録も熟知しているな」
特課故に、過去の事案についても必要以上に目を通さなくてはならない立場で、自身が入庁する40年以上前の情報までしっかり覚えていた空に、感服した木嶋。
「警察官というのは、他者の狂気に向かい合う仕事だ。それ故に、耐性の有る無しにかかわらず、ストレスを受けやすいとされている。だから、記録上はお前の言う通り、メンタルケア後に斡旋された違う職務に就いた事になっている。
だが、国民管理システムからすれば、汚染されたメンタルを持つ、用済み人員は果たして必要だろうか?
答えはNOだ。記録上、別の職務に就いたとされる99.9%は、メンタルケア施設と称した処分場で殺害されている」
木嶋の発言に、目を剥く、空。
99.9%というのは、実に全国29万人に上る。この人数を国家都合で殺害しているのだとしたら、これは殺害などという生優しいものでは無く、虐殺という言葉が相応しい。
国民管理システムの正体が人の魂をベースにしたAIである以上、完全管理された楽園を謳っていた日本の本質は、人類史上類を見ない独裁国家だったという事になる。
その考えに至った時、公安在籍時に何度も見た、局長・天宮碧葵の冷たい表情をふと思い出し、恐怖から鳥肌立つのを感じた、空。
しかし、それは国家が見せた本質の片鱗でしかない事を、まだ空は理解していない。言葉の出ない空を他所に、木嶋は続けた。
「そして、公安庁の捜査官として採用された0.1%においても、捜査官適正を認められ死を免れただけで、これまで警察官として職務に当たってきたメンタルは汚染されている。
そういう人間が、ある日を境に全く異なる体制、常識を強要され、「はい、そうですか」って適応できると思うか? 」
木嶋の言う通り、今日と昨日で思考、行動、価値基準が180度変わるという事は、当然受け入れられない人間が一定数発生する。それも、数年がかりで変化していくのでは無く、"明日から今までの常識は通用しません"という事にもなると、従順できる人間など僅かでしか無い。
それは、警察官も人である以上、同じだ。
「適応できる人間なんて、ほんの僅かだ。
今でこそ、国民管理システムによる、教育という名の洗脳によって、国民誰しもが生まれながらに、システムに従順な人形として管理されているが、当時は違う。0.1%の"元"警察官も、最低限の治安維持を確立する為に、急ごしらえで用意された使い捨てに過ぎなかった。
だが、国民管理システムからすれば、使い捨てとは言っても、システムの意に沿わない人間は使い勝手が悪い。そこで、国家によって画策されたのが、治安維持に従事する者の記憶と思考をコントロールする事だった。
それが『アメノオモイカネ計画』。メンタルケアを名目に、マイクロチップを脳へ埋め込み、人為的な記憶改竄と外部から思考操作をする計画だ。
人間の"記憶"と"思考"が電気的な脳内信号だってのは、お前に説明するまでもない事だが、この計画は、脳の電気信号をマイクロチップで数値化し、データとして国民管理システムへ送信する。システムは、受信したデータを都合の良い情報に書き換えた上で、マイクロチップへ返送し、再び電気信号として脳へと命令を出す。
こうして、知らぬ間に操り人形にされた"元"警察官達は、自身の判断や感情を疑う事すら無く、時には非人道的な責務にも当たった。
この計画は、廃止される2100年まで続き、2094年に入庁した俺の頭にはマイクロチップが今も尚、入っている」
指で再び顳顬を小突く、木嶋。長々と説明した木嶋が本当に伝えたかったのは、2113年に入庁した梓、2116年入庁の四課メンバーの脳にはマイクロチップを入れられていないという事実だった。
しかし、キャパオーバーになる程の情報量を突き付けられ、その事実に気付く事は疎か、言葉どころか、リアクションすらできずにいた。
見兼ねた木嶋は、「おい、井川!」と喝を入れる。
ハッと我に返る空の様子を見た木嶋は、話を続けた。
「話を戻すが、俺は娘を目の前で殺された事を……いや、娘がいた事さえ忘れていた。
局長に娘を殺されたあの日、俺の中で"何か"が切れた。当時は分からなかったその"何か"が、今でははっきりと分かっている…。
理性だ。俺は本能のまま怒りに呑まれ、剥き出した狂気を局長へと向けた。
それからの記憶は未だに無い。恐らくはアネスシーザーで眠らされ、そのまま記憶を書き換えられたんだろう…。
その日から娘に関しての記憶全て失い、刑事として日々を送っていた。ちなみに、一連の事件はというと、被疑者執行という形で記録としても終わっていた。記憶の無い俺が、当然違和感を覚える事も無く、それから5ヵ月が経った12月、ある事件の捜査中、新宮那岐と劉睿泽に出会った───」
2116年12月───。
埼玉区川口861- 荒川公園河川敷。
警務車の背面が機械的に開くと、捜査官達が続々と降車する。
野次馬が集まる中を掻き分け、規制線ホログラムの前に立つ2台の警務ドローンに、木嶋はデバイスを向けた。
『認証中───。公安庁第一課 木嶋丈太郎 警部…。立入り許諾、承認されました。お入りください』
道を開けたドローン達の真ん中をコートのポケットに手を突っ込み、ズカズカと木嶋は入っていく。
遺体は、肩から下が地面に埋まっていた。そして、顔は糸か何かで攣るように、無理矢理な笑顔で硬直していた。
その時、木嶋の脳裏にフラッシュバックのような強いイメージが錯綜した。
「何だ? 」
まるでフラッシュ演算のように、1秒もないくらい短い点滅で、映像が浮かぶ。そして、耐え切れない程の頭痛が点滅する映像に呼応するかのように木嶋を襲った。
そして、ふと遺体の前に書かれた文字に目が行く。
『キミノコトヲミテイル』
一見、猟奇とも言えるこの殺人事件は、犯人が創り上げた歪んだ作品で、この文字は言わば題名のようにも思えるが、木嶋にはどうしても自分へのメッセージに思えてならなかった。
脳内再生されるフラッシュバックを振り払うかのように、頭を振り、後ろを向いて深呼吸をする、木嶋。
目の前には、事件現場に群がる野次馬達。普段と変わらない光景のはずだった。その中の1人以外は。異様に際立つ男。何故だか目が合い、男は微笑むと、くるっと背を向け、野次馬の中に紛れてしまった。
何の確信もなかったが、逃してはいけないという勘のようなものが、男を追えと足を動かした。
「お、おい。どこ行くんだ」
安浦の問いに、木嶋は「やっさん、しばらく現場の指揮お願いします。ちょっと気になる奴を追います!」と言うとその場から立ち去った。
数十分は走り回り、男の行方を探したが、その姿を捉える事ができない。いつの間にか住宅街にまで来ていた。迷路のような住宅街で、ドローンや仲間の援護も無く、たった1人で追うのは絶望的だ。走りっぱなしだっただけに、息は上がり、諦めかけていたその時。
「思っていたより熱血漢だな。木嶋丈太郎 刑事」
声の方向へと顔を上げると、そこにいたのは間違いなく、野次馬の中、目が合った男だった。
慌ててアネスシーザーを向ける、木嶋。
「お前、何者だ?」
「君が失った記憶を知る者だよ」
男は微笑んだ。
「ふざけ……。!?」
正体を問いただそうとした時、木嶋は違和感に気付く。向けた相手にアネスシーザーが反応していないのだ。有り得ない事だった。視認はできている。それなのに、アネスシーザーがその存在を認識していないのだ。
「無駄だよ。その銃では僕を撃てない。そんな事より君にとって重要なのは、さっきの現場で君が感じた違和じゃないのか? 感じたんだろう? 記憶が混濁するような感覚を」
男はまるで霊視能力者のように、木嶋が感じた不快感や違和感を当てて見せた。オカルトを信じる訳ではない。しかし、ぐうの音も出ない程に言い当てられた事に驚きを隠せずにいた。
男は微笑むと話を続けた。
「さて、まずは君が失った記憶を思い出してもらわなくてはいけない。頼んだよ。劉睿泽」
路地の陰から糸目の男が現れる。
木嶋はハッとした。相手は1人だと思い込んでいたのだ。こんな路地裏に誘い込まれた上、アネスシーザーが認識しない相手の他にもう1人。それも名前からして外国人。つまり2対1。相手がどの程度武装しているのかも分からない状況下で、事態は最悪だった。
劉睿泽と呼ばれた糸目の男に、アネスシーザーを向けたのは咄嗟だった。
しかし、またしても異常事態に気付く、木嶋。今度はアネスシーザー自体が機能性を失っているのだ。
「悪いがこの辺一帯のあらゆる電波を遮断させてもらった。言うなれば、ここ一帯が巨大な電波暗室って訳だ。新宮さんと違って、俺はその銃の標的になっちまうからね」
アネスシーザーは、向けた相手の生体情報を識別し、国民管理システムへと情報を送る事で初めてトリガーのロックが解除される。つまり、電波を遮断されたという事は、国民管理システムとの通信が遮断されたという事になる。そうなれば、アネスシーザーはただの鉄屑に過ぎない。
しかし、その仕組みは公表されていない。劉睿泽という男がその仕組みに自力で辿り着いたのであれば、国家にとっては当然脅威だ。
さらに、電波遮断の影響はもう1つある。捜査官同士がお互いの位置を確認し合うよう、デバイスに位置情報の記録と更新が常に行われているが、電波が遮断されている以上、他の捜査官から見れば、突如として木嶋はロストした事になる。いつから電波を遮断されていたのか分からないが、現在地の特定ができない以上、仲間の救援は絶望的に見込めない孤立状態を意味していた。
「そう睨まないでくれ。これは君のためでもあるんだ」
新宮はそう言うと、劉睿泽に合図する。それを受けて劉睿泽は手首に着けたデバイスを慣れた手付きで操作し始めた。
直後、割れるような頭痛に襲われ、膝を付いて蹲る、木嶋。呻き声を上げずにはいられない程の激痛に、目を強く瞑ると、事件現場で断片的にループしたイメージが、次第に連続性ある映像として再生されていく。
鼓動は高まり、激痛はピークに達していた。そして、殴られたような衝撃を受け、反動から蹲っていた背筋が立ち、顔は天を仰ぐように放心した。
「梨乃…」
全ての記憶が甦り、大粒の涙が溢れる。
「どうやら思い出したようだね。君の脳には記憶を操作するチップがインプラントされている。国家にとって都合の良い駒にする為に。僕らはね。君達国民が盲信する国家の本質を暴く為に行動している。それは、国家に騙された国民を救う為の行動だと思っている。その為に君の正義を貸してはくれないか? 木嶋丈太郎」
───現在。
「彼らに出会い、俺の信じていたものが嘘で塗り固められたものだと知った。だから俺は、彼らの…いや、新宮の計画に乗った。そして、一度は思い出した記憶を、劉睿泽に再び消させた。刑事として内部から活動する為にな」
木嶋は顔を上げ、空の目を見た。信念を感じる強い眼差しだった。
「それじゃあ、俺と出会った時のあんたは…」
確かめるように聞く、空。
「新宮との出会いや、娘や国家の闇に関する記憶の全てを消した俺だ。
そして、2年前。新宮が起こした暴動で、俺は全てを思い出した。
まぁ、暴動までは新宮も劉睿泽も、当然俺も、国民管理システムや局長の正体までは知らなかった訳だが…」
木嶋の回答に、策略だったとはいえ、先輩後輩として過ごしたあの時間だけは本物だったと確信し、安堵した空は、堪らず溜息を吐いた。
そして、再び鋭い目付きでもう1つの疑問点を問いただした。
「その暴動であんたは死んだはず。どうして生きている?」
空の問いに、木嶋は微笑むと、2年間、探っても全く得られなかった真相を語り始めた───。