FILE.30 胡蝶の夢
19日前 ───。
公安庁附属病院。
「陽菜は?」
面会室に入るや否や、その場で待機していた、梓と空に容態を聞く、深月。ガラス窓の先に、点滴や心電図が繋がれた陽菜の姿があった。
「大丈夫だよ。過度のストレスと貧血で倒れたみたい。今日の精密検査でも問題は無かったし、明日には退院できるだろうって」
深月を落ち着かせるように、両肩にポンっと手を置く、空。深月は安心して力が抜けたのか、ヘナヘナと崩れ落ちる。
1日前、第三課から提供された、違法ビジネス業者・SACREDと後継団体・PROTO-STARの会員リストを基に、juːˈtoʊpiəアカウントを割出していた、陽菜。その最中、スマイリーフェイスをエンブレムとした、謎のハッカーから攻撃を受け、成す術無く、敗北を喫してしまう。1度目の敗北から、睡眠時間さえまともに取らずに解析をしていたのが裏目に出たのか、得意のサイバー戦で2度負けたことがストレスとなったのか、陽菜は何かに意識を刈り取られるかの様にその場で倒れたのだった。
「いつもあの子に助けられていたわ。あの子の技術に頼って、あの子の助けにはなってあげられなかった…。だから今度は、私達が個々の得意分野を活かして、陽菜に返す時よ」
梓の言葉には決意が込められていた。力強い意思に賛同するように、空と深月は頷く。
3人の足元から空間がパラパラと捲れ上がる。瞬きの間に、電脳ワールドへと移り変わっていた。
16日前───。
新宿区富久168- PROTO-STARオフィス。
ざわつく室内は、まさに密集地と呼べるに相応しい。ざっと見たところ20代が多いように思える。
「ここで待ってて。説明会の前に、俺が普段お世話になっている方で、説明後の質問に答えてくれる人を紹介するから」
男はそう言うと、パーテーションで区切られたスペースに案内し、20脚程度あるパイプ椅子の最前列中央に座らせた。
程なくして、紹介者の男は別の男を連れてくる。全身ブランドに包まれ、如何にも"成功者"というような出立ちだった。
「紹介するね。こちら、俺がいつもお世話になってる、原田佑汰さん。佑汰さんは元々、首都圏水道局でトップ営業マンだったんだけど、今はこのビジネスだけで当時の何倍も稼がれてる人なんだ。知識も豊富で、今日は愛華ちゃんの疑問点を全部解消してくれるから安心してね」
紹介者の男が放つ笑顔は本物なのだろうか? 勧誘されて来たであろう他の人達も、同じように上位会員の紹介を受けていた。
「佑汰さん、こちらは柚崎愛華さん。今年24歳で、今は雑貨屋の店員さんをやってます。今日、説明を聞くのをめっちゃ楽しみにしてくれてるんですよ」
嬉しそうな紹介者。愛華は立ち上り、緊張気味にお辞儀をする。
「いいね! 今日、説明してくれる篠井雛果さんも、このビジネスを始めてたった半年で、本業だったパティシエを辞めて、コレ一本で生活している1人だよ。体験談を交えて分かりやすく話してくれるから、愛華ちゃんも聞いたらこのビジネスやりたいってなると思う! 疑問点は全部俺が解決するから、まずは説明会を楽しみにしててね」
この原田という男、人間関係の作り方が圧倒的に上手い。身体を斜め45度に向け、目線を合わせる事で、圧迫感を無くしている。しかも、説明者と自分、そしてこのビジネスに対するT-upが絶妙だ。もし、潜入捜査では無く、何も知らずに勧誘されていたら、信じてしまうかもしれない。そう思うと、正直怖くなる、愛華。
「はい。楽しみにしています。よろしくお願いします」
愛華も負けず劣らずの笑顔で返す。手応えを掴んだかのように、自信満々の表情で退出する、原田。
「あと数分で始まるけど、トイレは大丈夫?」
紹介者は愛華の左に座った。
「それじゃあ、ちょっとお手洗いを済ませちゃいますね」
愛華はまたも笑顔で返すと、紹介者は女子トイレに案内した。紹介者の「ここで待ってるね」という言葉は、まるで逃さないと言われているようにも感じる、愛華。改めて、潜入捜査である事にホッとした。
愛華はトイレに入ると、深呼吸をした。そして、ポケットからフリスクのようなケースを取り出す。スライド式のケースを開くと、中から小型ミツバチドローンが4匹飛び出した。ミツバチが換気口に入るのを確認して、愛華はトイレを出る。
あとは、作戦開始を待つだけだ。愛華は、再び笑顔でパイプ椅子に座った。
***
説明会は後半に差し掛かる。事前の調査通り、収入シュミレーションを話すだけで、収入を得るための条件は説明されていない。さらには、国内法適用外を謳い文句に安心感を与え、ポジティブな内容に重点を置いた説明をしていた。
さすがの愛華も、これ以上、この場にいる事に疲れを感じ始めていたが、その時、指向性音声は直接脳内に響く。
「お待たせ、愛華。あと1分で一斉摘発に入る。準備して」
遼子だった。恐らくは既に建物ごと警務ドローンが包囲しているのだろう。その事をここにいる誰もが知らない。
愛華はそっと時計を見た。カウントダウンは始まっている。
3・2・1。
扉を蹴破る音に一瞬の静けさが室内を支配した。
「公安庁だ。ここにいる全員を特定商取引法違反および、金融商品取引法違反の疑いで拘束する。抵抗する者には、執行許可も出ている。全員、手を頭の後ろで組み、その場に伏せなさい」
遼子を筆頭に、警務ドローンと第三課捜査官達が流れ込む。
大人しく指示に従う者は、勧誘されて初めて来た者か、会員となってまだ日が浅い者だろう。厄介なのは、リーダー格会員や中間会員だ。指示に従うどころか、デバイスをこちらに向け、動画を撮っている。突然の摘発に対する抵抗なのだろうか。
「ちょっと、いきなり入ってきて何なんですか? 住居侵入ですよ?」
リーダー格の男が遼子に突っかかると、ぞろぞろとリーダー格会員が男女問わず詰め寄って来る。違法なビジネスをしている自覚も無いのだろう。行為を正当化し、指摘された事実に対しては「それとは違うけれど、会員だから分からない」と白を切る。まさに、洗脳とも呼べるものである。
公安とビジネス会員が繰り広げる押し問答は、加熱し、ついに、会員の男が警務ドローンによって倒されてしまった。それが会員達の感情を逆撫でしたのか、別会員の男がついに公安へ牙を向ける。
男は、遼子に向かってパイプ椅子を振り下ろした。
パンッ。
パイプ椅子は床を2、3回弾き、大きな音と共に倒れる。辺りは再び沈黙に包まれた。
倒れたパイプ椅子の下から、真っ赤な血がじわっと広がる。
何が起こったのか、理解が追いつかない会員達は、恐る恐る入口を見る。そこには、煙が立つ銃口を向けた、女性捜査官の姿があった。
「もう一度言う。お前たちは執行対象だ。死にたくなかったら、今すぐ頭の後ろで手を組み、伏せろ」
これは慈悲のある"指示"などでは無く、"命令"である事をようやく理解する、会員達。
会員達は次々と平伏していった。
「先生、助かりました」
遼子がアイコンタクトを送ったのは、雫だった。雫はもまた口角を上げるように笑むと、「背中は任せろ」と一言呟いた。
平伏した者達の中心で、1人だけ立っている者がいた。その違和感に一抹の不安を抱きながら、男は声をかける。
「あ、愛華ちゃん。伏せないと殺されちゃうよ?」
絞り出すように発した声は震えていた。それを聞き、見下ろすように紹介者の男を見ると、これまでとは違う本心の笑顔を見せた、愛華。
「愛華!」
遼子から投げられたエンフォーサーは、ブレる事なく愛華の手に収まった。
目の前で起こる状況をどうしても否定したい、紹介者の男。男は愛華に恋していたのだ。一緒にビジネスをする楽しみ、そして、距離が縮まれば恋人関係になれるのではという淡い期待を抱いていた。
「ど、どうしてなんだ。楽しみだって言ってたじゃないか。俺は君と…」
「ごめんなさい。私は公安庁第四課捜査官です」
男の想いを打ち砕くかのように、愛華はエンフォーサーを向けた。
***
周囲を警光灯が照らす中、次々と警務ドローンによって、会員、勧誘を受けた人の区別無く移送されていく。彼らがどういう処遇になるかは分からない。後は第三課が担当する。
「淡い恋にヒビを入れてしまったな」
雫の呟きに、遼子はくすくすと笑っている。
愛華は慌てて反論する。
「そ、そんなんじゃ無いです。全くそんな気持ち無かったです。それに、私は…」
何かを言いかけて、口篭る愛華。
遼子はすかさず話題を拾った。
「先生! 愛華にだって本命はいるんですから、そんなに揶揄わないであげてください」
「もー!! 遼子さんまでー!!!」
ふくれっ面の愛華。先程までの殺伐とした雰囲気が嘘のように、じゃれ合う3人。
そんな中、デバイスからコールが鳴った。
「遼子、聞こえる? こちらの拠点は壊滅よ。そっちは?」
別拠点を摘発した、梓からだった。
事前の調査で拠点は二ヶ所存在する事は分かっていた。だからこそ、拠点を片方ずつ潰していては、もう片方が雲隠れする可能性があった。だから、同時摘発を決行したのだった。
「聞こえているわ。こっちの拠点も壊滅よ。だけど、リストに記載の数人がいないわ」
遼子が言うように、リストに載る主要人物数人が不在の為、確保できていなかったのだ。
「こっちもよ。後は虱潰しに行くしか無いようね」
梓は溜息混じりに言った。何故なら、一斉摘発だけであればいつでもできるが、会員を一人残らず逮捕するのには、かなりの労力を要するからだ。
そもそも、違法ビジネス団体の一斉摘発と壊滅は、第三課の捜査目的であって、四課の目的は別にある。目的の為には当日中の全員逮捕は必須であった。
時間が迫る中、通信に割り込むノイズが一瞬生じた。
「私だけ仲間外れなんて酷いじゃない。みんなのデバイスに逃亡中の各主要メンバーの現在地をプロットした地図を送ったわ。三課にも共有済みよ」
四課の通信に割り込みできる人間など、1人しかいない。
「陽菜!!!!」
梓と遼子が同時に反応した。
「もう体調は良いの?」
一番に心配していた深月が尋ねる。
「うん。お陰様で。それよりみんなに心配かけちゃったよね。私、最初に負けた後、"私にはこれしか無いのに"って必死になり過ぎちゃって、無理してでも取り返そうって思ったの。自分を追い詰めて、追い詰めて…。それでも、自分よりレベルの高いハッカー相手に、手も足も出なくて2度目も負けた。その時、"私の存在意義って何だろう"って思ってしまって、その瞬間、意識の糸が切れたみたいに目の前が真っ暗になった。
でも、眠っている間に、みんなの声が聞こえた気がした。そこでようやく思い出したの。私が持つ最強の武器は、ハッキング技術じゃ無い。みんなの存在なんだって。だから、みんなの事、頼っても良いかな?」
陽菜の声はこれまで以上に明るいように思えた。
「もちろん!」
四課メンバー全員が口を揃えて応える。全員が1か所にいる訳では無い現状だったが、気持ちは同じ所にあるのを全員が感じた瞬間だった。
「さぁ、残りの会員を拘束、抵抗あれば執行も許可するわ。全員、状況開始」
梓の号令で、一斉に動き出す四課。
その日のニュース番組は、公安庁による違法ビジネス団体の大規模な一斉摘発に関する報道一色となった。
───現在。
juːˈtoʊpiə。
歌姫・LUNÄの歌声が響き渡り、juːˈtoʊpiəの全てを魅力する。
一帯がファンで盛り上がる一方、人混みを潜り抜けるように、人の足首程の大きさしか無い、まん丸目をしたウサギのようなアバターが、巫女姿をした九尾姫の下へ駆け寄る。
「フフッ。アバターになっても空は可愛いのね」
九尾姫は、ウサギとなった空を抱き上げると、ぬいぐるみにするかのようにスリスリした。
「ちょ、ちょっと止めてよ。梓姉。捜査中なんだから」
空は必死に逃れようとするが、体格差に加え、ぬいぐるみボディでは力が入らず、バタバタと足掻く以外には何もできずにいた。
茶番のようなスキンシップから開放されたのは、15分後だった。梓は満足感に浸っている。
「そんな事より、首尾は?」
空の指摘にハッと我に帰る、梓。
「上々よ。空の筋書き通りになったわ」
嬉しそうな梓。
「なら、もうすぐ事態が動く」
空は、どこからとも無く取り出した懐中時計を見た。LUNÄの歌声とライブの爆音、ファンの歓声が入り交じり、その他の音など掻き消える中、カチカチと進む秒針の音だけははっきりと聞こえた。
ライブも大詰め。最終曲もサビに入りかけると、羽ばたくように両手を広げる、LUNÄ。背中からは巨大な羽が出現し、それに合わせるように夜空にオーロラが出現。会場と化した街全体が壮大な世界観を演出していた。
『♪ 現実は貴方を傷付ける
だから貴方は仮想現実こそ自分の居場所だと思ったの?
私は貴方の傍にいたい
隣りでずっと守り………』
LUNÄは異変に気付く。
声が出ない…。
ファンも異変に気付き、ざわめきが起こる。
LUNÄは必死に声を出そうとするが、音にならない呼吸のような声が掠れるだけだった。それでも、首を両手で抑えながら、訴え掛けるかのように声を出そうとするLUNÄ。
ダークネイビーの夜空が真っ赤に染まり、オーロラは消し飛ぶ。何処からとも無く、エラー音が鳴り響き、juːˈtoʊpiəを不安と恐怖に塗り替えた。
「来た」
空は上空を見上げる。
LUNÄを乗せた白鯨は動きを止める。行く手を塞ぐかのように巨大ホロモニターが出現し、嘲嗤うかの如く、"アレ"が表示される。そう、スマイリーフェイスのエンブレムだ。
笑む闇の狂気を前に、後退りするLUNÄ。
一度芽が出た狂気を、誰も抑え込む事は出来ない。スマイリーフェイスを表示したホロモニターが次々と出現し、あっという間にjuːˈtoʊpiə全体を侵食していく。
そして、LUNÄに最期の悲劇が襲い掛かる。
声だけで無く、息を吐くことができない。苦しみで倒れ込むと、その場でのたうち回る。助けを求めるように手を伸ばすが、その願いは届かなかった。LUNÄは力尽きると、白鯨から転がり落ちる。そして、地面へ落下する前に、身体がピクセル上の粒子となって砕け消えてしまった。
梓と空はそれを見届けると、その場から静かにログアウトした。
千代田区大手町284-ビル一室。
エレベーターが独りでに開く。フロアーの電気は消えており、エレベーターから漏れた光が一帯を照らしている。電気が点いていないのは、その階全てのようだった。
「どうして、ここにいると分かった?」
事務の机に腰掛ける男は、誰もいない場で独り言のように問い掛けた。
「そんなに警戒しないでくれよ。僕は現実世界では丸越しなんだから」
入口に背を向ける男は、両手を挙げた。
纏っていた光学迷彩を解除した、遼子、陽菜、深月、雫、愛華。男を取り囲むように、入口前の陽菜を中心に扇状に広がる5人。
声と後姿の様子から、20代前半の男だろうか。男は、横顔が見える程度にこちらを見ていたが、顔の前で展開されたホログラムによって、顔を視認する事はできない。ホログラムには、例のスマイリーフェイスが大きく表示されていた。
「もう一度聞くよ? どうして、ここだと分かった?」
向けられたエンフォーサーを恐れる様子もなく、声色も至って冷静だった、スマイルマン*¹。
「それは、あなたが私達の仕掛けた罠に掛かったからです」
愛華は答える。
「2週間前に報道された、PROTO-STARの一斉摘発。それによって、あなたの思惑通り、組織の違法性が全国に流布される事になった。
あなたにとって、PROTO-STARの会員が、国家、国民に断罪されたという事は、第一の目的を達成したと言えた。
ただ、問題は第二目的。次に批判の目が向くのは、juːˈtoʊpiəの運営だった。当然よね。PROTO-STARにシステム的な制裁を与えられず、結果的に詐欺ビジネス蔓延の温床化を許してしまったのだから。運営は火消しに躍起となったはずよ。そんな時、地獄で会った仏の如く、歌姫・LUNÄが現れた。彼女の爆発的な人気は、批判を掻き消すには十分だった。実際、たった2日で事態は終息したんだから、運営も手放しで喜んだ事でしょうね。
でも、その状況に不満を抱いたのが、あなた。あなたは、犯罪の温床と化していた、juːˈtoʊpiəとその運営も同様に罰を受けるべきと考えた。
そんな時、ネット上では、ある噂が真しやかに広がり始めた。歌姫・LUNÄは、PROTO-STARを裏から牛耳る黒幕で、売り上げの数パーセントを得ていたjuːˈtoʊpiə運営も、違法ビジネスに加担していた、という噂よ。事実なら、運営を潰そうと目論むあなたにとって、美味い話になる。だから、あなたはハッキングによって機密情報を抜き出した。
そして、全ての証拠となる情報を手にしたあなたは、先程、19時27分にLUNÄを殺害した」
陽菜は、事件背景と犯行動機をスマイルマンに突き付けた。
「なるほど。でも、僕の質問に対する答えにはなっていないな。今のは、推察した動機の説明だ。君達が何故ここを嗅ぎ当てる事ができたのかを答えてもらっていない。そこの彼女が言った、"僕が罠に掛かった"というのはどういう意味?」
スマイルマンにとって、重要なのは居場所を特定されたという事だけだった。スマイルマンの犯行は、全てサイバー上で行われている。居場所を特定されたという事は、何かしらの痕跡を残してしまったということ。ウィザード級ハッカーとして、それは由々しき事であった。
「あなたが犯行で利用した、juːˈtoʊpiəを含むネット環境全てが、あなたを捉える為の罠だった…と言えば、私達がここに来た理由も分かりますよね?」
これまで冷静だったスマイルマンだが、陽菜の答えに明らかな動揺を見せた。
「そんなはずは無い。juːˈtoʊpiəへのアクセスも、回線への侵入も全て、ダミープログラムを先行させている。その環境に罠が仕掛けられていれば確実に気付く。百歩譲って罠に掛かったとしても、ダークウェブをいくつも踏台にしている以上、追跡は不可能なはずだ」
必死に反論するスマイルマン。顔は隠れていても焦りを隠すことはできなかった。
「ええ。なので、juːˈtoʊpiəおよびサーフェイスウェブからダークウェブに至るまでの"全て"をハッキングし、まんまコピーしたんです。当然、juːˈtoʊpiəで上の個別アカウントも。つまり、あなたが最初に侵入した環境から全て、私が作り上げた"偽"の世界なんです」
陽菜は突き付けるように、スマイルマンが辿ったアクセス痕をホログラム表示した。
「馬鹿な。どれだけの演算力が必要だと思っているんだ。スーパーコンピュータを並列化したってできるものじゃ…。まさか、量子コンピュータか…」
スマイルマンが気付く、量子コンピュータの可能性。ただし、公表されている事実との差異に違和感を覚える。
「そう、量子コンピュータだ。公には、国民管理システムを利用目的として、主要都市の非公表地点に設置している、と公表しているが、それとは別に、公安庁も秘密裏だが所持している。その量子コンピュータ数台を並列化すれば可能だよ」
遼子はサラッと答えたが、スーパーコンピュータで数万年かかる演算を、量子コンピュータでは数秒で終える。そんな技術を、いくらウィザード級とは言っても1人のハッカー相手に使う事に、言い知れぬ抵抗感と国家に対する不信感を覚える、スマイルマン。
そして、ある事にも気付く。
「まさか、LUNÄも生きているのか?」
「うん。生きてるよ。だってLUNÄは私だもん」
その声に視線を向ける、スマイルマン。そこには小柄で、右の髪だけを一つ結びした女性捜査官がエンフォーサーを向けて立っていた。
深月だ。
「あ、勘違いしないでね。あの環境でLUNÄと潜入していた2人は、NPCじゃ無くてホンモノだから。もちろんちゃんと歌も歌ってたんだよ〜」
深月らしく、ニシシと笑いながらタネ明かしをする。
「難しい事は分かんないんだけど、受けたサイバー攻撃を解析して、陽菜が上手く死んだ事にしてくれたんだよね。ま、その辺はあんたの方が詳しいでしょ?」
一見、軽口に見える深月の言動。だが、その奥に潜む底知れぬ本質を垣間見て、深月を明確な脅威と判断した、スマイルマン。何故なら、いくらウィザード級ハッカー・立華陽菜の技術があったとしても、普通はそれに合わせられるだけの行動を取る事は難しいからだ。
「お前が見た、LUNÄとjuːˈtoʊpiə運営の黒い噂と、それに関する証拠に関しても、第四課で作ったものだ。まぁ、juːˈtoʊpiə運営には無許可だからな。相当な煮え湯は飲んでもらってるが、そこは違法組織の温床化を放置してたんだ。そのくらいの罰があっても良いってもんだろう?」
雫が言う、証拠を捏造するのは、そう難しくない。問題は噂だ。
噂の発生には、"情報の重要さ"と"情報の不確かさ"が必要である。最大多数にとって必要な情報として認知させ、且つ、ネットワーク環境が発達した現代において調べても答えが出ないようにするのは、現実的に難しい。だが、第四課は少数でそれをやってのけたのだ。
「この筋書きを作ったのは、ここには来ていないけど、第四課の仲間の1人よ。とんでも無いアイディアだけど、私の技術を信じて託してくれたの。正直、1対1じゃあ、私はあなたに勝てない。あなたの方が上よ。でも、7人ならあなたを超えられる。7人ならあなたを追い詰められる」
陽菜の表情には、自信が満ち溢れていた。
「なるほど。僕は君達の話を聞いた時、ハッカーとしての君に注目した。君だけを標的に、僕が実行する制裁をプログラミングしたんだ。だけど、それが間違っていたんだね。僕が敵視しなくてはいけなかったのは、第四課の全員だった…」
スマイルマンが机から飛び降りると同時に、その場にいた5人の視界にノイズが走る。
直接的、肉体的な痛みは無いが、視覚にノイズが入り込む事で、まるで急な頭痛と目眩に襲われたかのような不快感が、5人を襲う。5人は堪らず、片膝を付く。
「ここまで追い詰められるとは…。流石、公安四課。"あの人"の言う通りだ。でもね、僕に王手を掛けたつもりだろうけど、君達には捕まらないよ」
「あの人…だと…?」
ノイズ塗れの視界に苦しみながらも、目の前の敵を見ようとする、遼子。
「止めておいたほうがいい。無理をすれば失明する」
5人の前を平然と通る、スマイルマン。
「貴様、あたしらの目を奪いやがったな」
抵抗するかのように叫ぶ、雫。
「うん。言っただろう? 敵は君達、四課全員だったって。目に入れている"ソレ"をハックさせてもらったんだ。さようなら。第四課。今度は負けないよ」
スマイルマンは何食わぬ顔で、部屋を後にした。
2、3分後、IRIS PROTECTIONへ仕掛けられたノイズが消える。視界を取り戻した5人。
「"今度は負けない"だと? 負けたのは私達のほうだ」
歯軋りの音を立てる、遼子。立ち尽くす5人に重く伸し掛るのは、敗北感だけだった。
*¹ スマイルマン:円周に『Peace begins with a smile.』と刻まれた、スマイリーフェイス(にこちゃんマーク)をエンブレムとした、特A級(ウィザード級)ハッカー。