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公安四課  作者: やん
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FILE.1 第四課

扉の前で深呼吸した柚崎愛華(ゆずさきあいか)は、覚悟を決め認証機にデバイスを(かざ)した。承認されれば、これまでとの生活とは180度異なる世界へと足を踏み入れる。そんな気構えが愛華の緊張を最高値まで押し上げていた。


『認証中───。ユーザー認証、厚生省公安庁第四課 柚崎愛華(ゆずさきあいか) 巡査長(じゅんさちょう)入室承認(にゅうしつしょうにん)()られました。お入りください。』


アナウンスと共にスライド扉が開くと、眼前(がんぜん)に広がったのは職場というよりは、高級マンションのリビングのような空間だった。想像と違う光景(こうけい)に、一歩()()れてしまった右足の()()りが()かず、次に踏み出すべき左足が前に出ない。


「そんな所で立ってても中には入れないよ」

部屋と廊下の境界線で躊躇(ちゅうちょ)している愛華に掛けられた、優しくて温かみのある声。我に返った愛華が室内を見渡すと、部屋の奥にある螺旋階段(らせんかいだん)から1人の男性がこちらを見ている事に気付いた。


美系…。()みを浮かべる男性の第一印象はその一言に尽きた。古い言い方をするなら塩顔(しおがお)。だが、可愛さも()(そな)えた、まさにイケメンと呼ぶに相応しい人物がそこにいた。


ゆっくりと螺旋階段(らせんかいだん)を降りてくる男性に見惚(みと)れていた愛華は、今更ながら男性の声掛けに返事すらしていない事に気付き、(たじろ)ぎながら慌てて返事した。

「え…あ、、、!」


「君が今日から第四課(ウチ)に来るっていう、柚崎愛華(ゆずさきあいか)さんだよね?」

慌てふためく愛華を、男性は笑う事なく、緊張を(ほぐ)すような声色(こわいろ)で質問した。その質問に、自己紹介すら忘れていた事に気付いた愛華は、恥しさから一瞬頬を赤らめた。そして、深呼吸で気持ちに整理を付けると、第一声(だいいっせい)(はっ)した。

「ほ、本日付けで第四課配属の拝命(はいめい)を頂きました、柚崎愛華(ゆずさきあいか) 巡査長(じゅんさちょう)です。若輩者(じゃくはいもの)ですが、よろしくお願いします」

声が裏返(うらがえ)った。


カーッと顔を(あか)らめた愛華に対し、男性は微笑(ほほえ)みを崩す事なく、歓迎の言葉を掛けた。

「第四課へようこそ。柚崎愛華(ゆずさきあいか)さん。俺たちは君を歓迎(かんげい)するよ」

その一言で()き物が落ちた愛華の左足は、いつの間にか部屋の中へと入っていた。


「挨拶が遅れたね。俺は第四課の井川空(いがわそら)。ここでは階級や(れき)を考える必要は無い。自分らしくやってくれればいいよ」

空は手招(てまね)きすると、部屋のソファーへ座るよう誘導した。


刑事課らしからぬオフィスで、新人に対する向い入れとは思えない高待遇に、想像とのギャップを多少感じながらもソファーへ腰掛けた、愛華。


「今は井川さんだけですか? 」

一息つき、部屋を見渡した愛華は、覚えた違和感を空に(たず)ねた。


「そうだね。他の面々(めんめん)は───」

空が何かを言おうとした瞬間、舎内全域に緊急コールが鳴り響く。


『事件。事件。新宿区廃区画しんじゅくくはいきくかくにて、10代後半と見られる女性の遺体(いたい)を発見。第一課(だいいっか)捜査官(そうさかん)(ただ)ちに現場へ急行(きゅうこう)してください。繰り返します───』


「とりあえず、コーヒーでも飲む?」

緊急コールでも出動する素振りすら見せない空は、何故(なぜ)かキッチンへと向かった。余裕とも取れない行動に戸惑う愛華は、思わず声を発した。

「あ、あの…」


カフェのような本格的な形でコーヒーを淹れ始めた、空。キッチンから顔を覗かせた。


「事件現場には行かなくていいんですか?」

愛華は(たず)ねる。


「一課への出動要請だからね。俺達は"まだ"行かなくて良いんだよ。でも、そのうち───」

再び空の言葉を遮るかのように、緊急アラートが鳴り響く。


『緊急出動。緊急出動。第四課捜査官は(ただ)ちに新宿区廃区画しんじゅくくはいきくかく急行(きゅうこう)してください』


「コーヒー飲めなかったね」

残念そうな表情で苦笑(くしょう)した空は、コーヒーを()れたマグカップにラップを掛けた。



新宿区廃区画213-旧歌舞伎町。


スラムと化した街は、日本一の繁華街だったかつての面影を多少は残しながらも、違法居住、違法売買、違法出店などが横行していた。そんな醜悪な環境でも、社会から爪弾きされた人々にとっては最後の楽園なのだろう。弱者同士、身を寄せ合いながら生きにくい世の中を何とか生きていた。


ネオンの光以外には基本的には影が支配する街に、真っ赤な警光灯が照らされる。一帯に張り巡らされたホログラムの規制線を前に、まるでゾンビのように群がる浮浪者に囲まれながら、スーツを着た数人と警務ドローンがその場を占拠していた。


「まだ未成年かそこらだってのに、こんなになるまでやられちまってよ」

50歳前後のベテラン捜査官は、遺体(いたい)を前に(しゃが)んで手を併せた。


一見では人物特定ができない程、()れ上がった顔の遺体(いたい)は、身体(からだ)の至る所から体液が漏れ出し、人とは思えぬ悪臭を放っていた。その原因が人の所業(しょぎょう)とは思えない程の暴力によるものだという事は、身体(からだ)に付いた無数の(あざ)やタバコによる瘢痕(はんこん)が証明していた。

鑑識ドローンによる簡易検死の結果は、強姦時の過剰な暴力による"自死"と呼ばれる症状。自死とは、自殺ではなく、ストレスやフラストレーションが生命維持をする上での限界を超えた時、苦痛から逃れる為に脳が"命を絶つ命令"を下す症状である。

歴戦の捜査官でも(まれ)に見る、見るに耐えない遺体(いたい)だった。


木嶋(きじま)さん、身元(みもと)特定(とくてい)しました。被害者は都内の短大(たんだい)(かよ)う、佐々木(ささき)みなみ。20歳(はたち)です」

報告する男性捜査官のデバイスには、今となっては判別すら難しい、被害者・佐々木(ささき)みなみの顔がしっかりと映っていた。


「おう、身元確認早くなったじゃねぇか、結城(ゆうき)。お前の指導が(こう)(そう)したってことだな、宮下(みやした)

現着してからずっと、眉間にシワを寄せていた木嶋丈太郎(きじまじょうたろう)だったが、結城巧(ゆうきたくみ)の成長に表情が少し(やわ)らぐ。


「そんなことより木嶋(きじま)さん、犯人はまだこの区画に潜伏(せんぷく)してるみたいだぜ」

タバコを吸う宮下直也(みやしたなおや)が目を向けた区画は、廃棄区画の中でも老朽化の著しい5階から10階相当の建物が建ち並ぶエリア。光の差し込みが乏しい迷路のような空間は、暗いという理由を除いたとしても居るだけで精神に異常を(きた)す程、負のエネルギーが充満していた。


「どうやら、俺らが来るのを察知(さっち)して、一般人拉致(らち)って逃げたのがこの先みたいだな」

宮下(みやした)は、報告をしろと言わんばかりの視線を結城巧(ゆうきたくみ)に送った。それに気付いた結城(ゆうき)は、慌てふためいた様子でデバイスからホロ情報を立ち上げた。


「は、はい。拉致(らち)された被害者は、土宮愛緋(つちみやあいひ)。26歳。管理栄養士(かんりえいようし)。犯人に拳銃(けんじゅう)()き付けられたまま、この区画に引き釣り込まれたようです。それと…」

その先の情報を目にした結城(ゆうき)は、気不味(きまず)い表情で言葉を詰まらせた。


「なんだ? 勿体(もったい)ぶらねぇで報告しろ」

木嶋(きじま)は、再び眉間にシワを寄せると、もたつく結城(ゆうき)の尻を()り、報告を催促(さいそく)した。


「はい。犯人ですが、区画住民の聞き取りと防犯ドローンの映像から、即配中(そくはいちゅう)*¹の安田孝一(やすだこういち)かと…」

()られた尻を擦りながら、細々(ほそぼそ)としたボリュームで報告する、結城(ゆうき)


結城(ゆうき)が犯人の名前を口にした途端、呼応するかの如く小雨(こさめ)が降り出した。木嶋(きじま)は、いつにも無く怖い表情で雨粒に打たれていた。

事態を把握(はあく)した木嶋(きじま)は、捜査指揮(そうさしき)を取るためデバイスに手を掛けた。

その時、警笛と共に雨に乱反射(らんはんしゃ)した真っ赤な光が野次馬(やじうま)を押し退けて進入する。


警務車(けいむしゃ)*²? 」

結城(ゆうき)(おどろ)き、木嶋(きじま)はチッという音を立てて露骨な舌打(したう)ちをする。


規制線の中にまで入り込んで停車した警務車(けいむしゃ)は、風船の空気を抜く時のようなシューという音を立てた(あと)、背面ドアが機械仕掛けに動き大きく開いた。直後、飛び出したランプウェイの上を2人の捜査官が歩く。


「何しに来た」

眉間(みけん)にシワを寄せた木嶋(きじま)は、テリトリー内に入ってきた天敵(てんてき)威嚇(いかく)するライオンのように2人を(にら)みつけた。


その2人は空と愛華だった。あまりの威圧に気圧されそうになる愛華。それを気遣った空はスッと愛華の前に立つと、木嶋(きじま)に笑顔で答えた。

「今回の事件、逃亡中の犯人が即配中の安田孝一(やすだこういち)と確定したので、執行(しっこう)しに来ました」


「バカ言うんじゃねぇよ。これは俺らがツバつけてる案件だろうが。四課がしゃしゃり出んじゃねぇよ」

木嶋(きじま)怒号(どごう)が響いた。


「いや、どうやら局長命令みたいだぜ?」

タバコの煙を吹き出した宮下(みやした)は、静かに(つぶや)いた。それに対して遇の音も出なくなった木嶋(きじま)を見た空は、宮下(みやした)にナイスフォローと言いたげなアイコンタクトを送った。


「チッ。分かってるよ」

()ねた子どものようにそっぽ向いた、木嶋(きじま)。これで落ち着くかと思った矢先、突然思い出したかのようにハッした。

「そういえば、女狐(めぎつね)共はどうした?」

木嶋(きじま)の質問に驚きの表情を見せた、空。何故(なぜ)、出会いから終始笑顔だった空が驚きの表情を見せたのか分からなかったが、空の笑顔が崩れるきっかけとなった、その"女狐(めぎつね)"と呼ばれる人達の事が気になる、愛華。


「今日は一緒じゃないんです。でも、状況は知ってるはずですし、きっともう中にいるかもです」

答え終わった(あと)、空の口角が一瞬だったが緩むように()みを見せた気がした。


「そーかい」

深い溜息の(あと)、課員に撤収命令を出した、木嶋(きじま)


空は、撤収を始める第一課の様子を尻目(しりめ)に、愛華に「じゃあ、行こっか」と笑顔を見せた。


「初日から割とキツめの事件だけど、とりあえずエンフォーサー*³を持って俺について来て」


警務車から出てきた運搬ドローンは、空と愛華の前で止まると、ドライアイスのような(けむり)(はっ)して開いた。()けていく(けむり)の薄まりと共に、2丁の拳銃(けんじゅう)が姿を現す。一見、自動拳銃オートマチック・ピストルの形をした拳銃(ソレ)を手に取った瞬間、脳内に指向音声が響いた。


『自動装填式執行兵器・エンフォーサー起動しました。ユーザー認証…。厚生省公安庁第四課 柚崎愛華(ゆずさきあいか) 巡査長(じゅんさちょう)。使用許諾確認。適正ユーザーです。』


()れた手付きでエンフォーサーを取り出した空は、暗闇(くらやみ)(まぎ)れ込むように負の空間に入っていった。その後を追うように、愛華も深淵へと足を踏み入れる。


深淵に向かって潜り込んで行くほど、息苦しさを肌身で感じる。まるで、酸素ボンベを使わずに素潜りする時のような不安が()(まと)い、今にもおかしくなりそうだった。


小雨だった雨は大粒へと変わり、一層苦しさが増していく。それはまるで近付くなと悪霊による警告受けているようだった。


今にも負の海に()まれてしまう、そんな様子を察知したかのように、空は愛華に尋ねた。

「エンフォーサーは訓練で使ったかい? 」

まさに溺れかけていた所を助け出された、愛華。青褪(あおざ)めていた表情は徐々に血色を取り戻し、自然と呼吸できている事に気付いた。


「はい…。第四課への配属が決まってから二週間、一通りの訓練を受けたのでその時に…」

愛華はエンフォーサーを握り締めた。


「それなら使い方はバッチリだね。ただ、実際に人へ向けた時の責任と覚悟は教えてくれない。それを今日(いや)でも理解することになるから心構(こころがま)えはしておいてほしい」

そう言った空の瞳には、"人を殺す"ことに対する覚悟が映っているように思えた。


廃棄区画(はいきくかく)を進めば進むほど、空気は重く、深淵(しんえん)に呑み込まれていくような感覚に襲われる。浮浪者(ふろうしゃ)法逸脱者(ほういつだつしゃ)が、監視するような目で2人を見ている中、法律上、殺害(さつがい)しても構わないという判定(はんてい)が出た犯罪者を()わなくてはいけない。状況だけで()き気さえ覚える。


この人は平気なのだろうか。ふと思いながら必死になって背中を追う。何かを考えてさえいれば、負の空気に押し潰される事は無い。だが、考え事に対する答えが出ないパラドックスに陥り、一瞬の緩みで環境に呑まれてしまう。その繰り返しに藻掻(もが)いていた時、何か壁のようなものにぶつかり、我に返った。正気でよく見るとぶつかったのは壁ではなく、空の背中だという事に気付き、慌てて謝る、愛華。


そんな愛華に向けて、空は人差し指を自身の口に持っていくと、静かにシーっとして見せた。そして、小声で「見つけた」と(つぶや)き、音を立てずにエンフォーサーを構えた。

その時の空は、まるで別人のように冷めた目をしていた。


向いた銃口(じゅうこう)の先を見ると、直線上には探していた犯罪者が興奮しながら犯行に及んでいる真っ最中だった。


安田孝一(やすだこういち)…」

(ケダモノ)。その言葉がぴったりなくらい、下劣極まりない所業と全身から溢れる狂気を()の当たりにした愛華は、本能的に後退(あとずさ)りしてしまった。


安田(やすだ)は、拉致被害者の服を()ぎ、下着姿にした上で好き勝手に(なぶ)っては、暴力と暴言を()()らしていた。


最初は被害者も抵抗したのだろう。周囲は物が散乱している。しかし、顳顬(こめかみ)に突き付けられた拳銃(けんじゅう)という絶対的な暴力が、被害者の(あらが)う意思を折り、心を殺していた。僅かに残った心も、被害者の瞳から静かに流れる涙と共に消えてゆく。そして、涙が枯渇した時、きっと被害者は廃人になるだろう。


(すで)に自身が()られる側になっているとは(つゆ)知らず、安田孝一(やすだこういち)は被害者の事などお構い無しに狂気を振り(かざ)していた。


タイミングを(はか)っていた空は、遂に引き金に指を掛けた、その時。緊張のあまり、足元への注意が散漫になっていた愛華が、道路に散らばる"何か"を踏んだ事で金属音が響いた。


音を気付いた安田(やすだ)が放つ狂気に(たじろ)ぎ、足が竦んだ愛華は、空に助けを求めようと手を伸ばしたが、今の今まで目の前にいた空は姿を消し、辺りを見渡すも気配すら無い。


狂乱した犯罪者を前に新人を置き去りに敵前逃亡?


嫌なイメージだけが頭を支配し、恐怖は重力のようにのしかかる。目の前で犯された被害者が、未来の自分と重なり、力が抜けた足元から崩れ落ちてしまった、愛華。泣く余裕すら無く、放心しながら死を悟った。


しかし、いつまで経っても安田(やすだ)の狂気が愛華に届く事は無い。それどころか、数分前まで狂乱状態だった男は、いつの間にか鳴りを潜めていた。


訳も分からず目を(こす)った愛華の瞳には、姿を消していたはずの空の姿が映った。それも、安田(やすだ)(ひたい)銃口(じゅうこう)を突きつけているではないか。


そう。空は敵前逃亡したのでは無い。愛華が混乱している隙に、狂乱した安田孝一(やすだこういち)をエンフォーサーの銃口(じゅうこう)だけで制圧していたのだ。そんな早業(はやわざ)を愛華のみならず、(とう)安田(やすだ)本人も捉え切れていなかった。何故(なぜ)王手(おうて)を取られているのかさえ理解さえできていない、安田(やすだ)


愛華が(つば)を飲み込んだと同時に、安田(やすだ)後頭部(こうとうぶ)から真っ赤な(きり)()る。


「執行完了」

(つぶやい)いた空の足元には、糸が切れた操り人形のように崩れた格好で倒れる、安田孝一(やすだこういち)が事切れていた。


建物の外壁に左右を囲まれた通路。八方に飛び散った血と肉片の中心に座り込んでいた被害者 土宮愛緋(つちみやあいひ)は、パニックに陥っていた。


「も、もう大丈夫。大丈夫です!あなたは助かったんです。だから落ち着いて!」

嗚咽(おえつ)する土宮愛緋(つちみやあいひ)()()る愛華は、落ち着かせようと必死に声を掛け続けた。根気強くアフターケアする愛華の想いが、次第に土宮愛緋(つちみやあいひ)の心を癒やし、(さら)された狂気からの開放された事を自覚した時、(ほお)から涙が(つた)った。


土宮愛緋(つちみやあいひ)の涙に愛華は安心した。


これが第四課の事件。

これから向き合い、携わっていく事件。

そこには常軌を逸した精神を持った犯罪者がいて、常に狂気がこちらを視ている世界。

ただ、そんな世界でも絶望に暮れる必要は無い。何故なら、理不尽から救い出される人もいるのだから。

事件の被害者達は、事件で負った心の傷を一生涯背負いながら生きていく。その負担を少しでも軽減する役割を担っていかなくてはならない。


愛華は、科された責任の重大さを痛感し、推し量れない感情が溢れた。(ほお)(つた)う涙が地面へと落ちる。


その刹那(せつな)。それは一瞬の出来事だった。

愛華の身体(からだ)は衝撃と共に宙を浮き、気が付けば真後ろへと投げ飛ばされていた。


地面に落下した衝撃で(かす)んだ視界。事態を把握しようと身体(からだ)(むち)を打ち、見開いた目に飛び込んできたのは、右腕(みぎうで)から血を流している空だった。


どうして、井川さんが怪我(けが)を…?


その疑問に対する答えを出すのに時間は必要無かった。


空の奥で新たに芽吹いた人ならざる感情の恩讐。その感情には名前が付いている。"狂気"と。


しかし、安田孝一(やすだこういち)井川空(いがわそら)のエンフォーサーによって執行されたはず。なのに"狂気"が芽吹くなど…。いや、考えなくとも分かるはずだ。今まさに産声を上げた"狂気"は、先程(さきほど)までの"狂気"ではないという事に。


"狂気の伝染"

世界的に有名な心理学者、リチャード・ロンブローゾが提唱(ていしょう)

長期間または短期間であっても特殊な状況下で集中的に外的狂気(がいてききょうき)(さら)された精神は、ウィルスが細胞を犯すように精神を(むしば)み、新たなホルダーとして狂気を撒き散らす。


つまり狂気は伝染し、精神の弱い者から順に(むしば)み、次の獲物へと移っていく。


それがまさに目の前で繰り広げられていた。

新たな宿主(やどぬし)を見つけた"狂気"は、土宮愛緋(つちみやあいひ)に巣食った恐怖と絶望を()らって成長し、次なる宿主(やどぬし)を求めて羽ばたこうとしていたのだ。


こうなってしまえば、とどのつまり手遅れである。土宮愛緋(つちみやあいひ)はもう人では無い。かつての被害者は死んだのだ。

そして、今、土宮愛緋(つちみやあいひ)(なり)をしている狂気(ソレ)は、深淵(しんえん)へと()ちた者の末路だ。


土宮愛緋(つちみやあいひ)は、空から奪ったエンフォーサーを右手に持ち、左手には安田(やすだ)の持っていたナイフが握り、悪魔に()かれた者のように威嚇(いかく)した。


対して、一定距離を保ちながら土宮愛緋(つちみやあいひ)の様子を伺う、空。


「私が何とかしなくちゃ」

いくら空と言えど、エンフォーサーを奪われた丸腰な状態で狂気に対処するなど無理にも程がある。立ち上がった愛華は、悪魔にエンフォーサーを向けた。


まさかこんな事態になるだなんて、想定していなかった。狂気に堕ちた悪魔といえど、元は善良な一般市民。その元市民に向けているのが、殺人銃(さつじんじゅう)だと意識すればする程、覚悟の無さが露呈し手が(ふる)え、全身の熱が奪われる。


廃棄区画に入る前、空が言っていた"人へ向けた時の責任と覚悟"が脳裏に呼び起こされる。そうした躊躇(ちゅうちょ)が、引き金に掛けた指に重くのしかかる。だが、愛華の決心を事態は待ってくれない。


土宮愛緋(つちみやあいひ)は、(うめ)き声と共に空から奪ったエンフォーサーの引き金を引いた。


『エラー。適切ユーザーではありません』


幸いにも、エンフォーサーを使用するには、登録されている捜査官の指紋と静脈(じょうみゃく)を認証させる必要があるため、一般人には使用できない。


エンフォーサーが使えないと知るや否や、土宮愛緋(つちみやあいひ)はナイフ振り(かざ)し、空に(おそ)い掛かった。


このままでは確実に空は死ぬ。

それを回避する為には、愛華がエンフォーサーで土宮愛緋(つちみやあいひ)を殺さなくてはいけない。


仲間の死か自身の人殺しという究極の天秤は拮抗し、愛華に選択を許さない。その迷いがエンフォーサーを構える手を震わせていた。

「止まれ!止まれ!止まって!お願いだから」

愛華の心の(さけ)びも(むな)しく、震えは(ひど)くなる。


そんな愛華に最期の笑みを見せた、空。そして、ナイフが空に突き立てられる…。愛華は、見ていられず強く目を瞑った、その瞬間───。


パンッという3つの銃声(じゅうせい)が重なり木霊(こだま)した。


音に驚き、目を開けた愛華が見たのは、(ちゅう)に浮く土宮愛緋(つちみやあいひ)の左腕と、"確実に命を終わらせる"3方向からの弾丸だった。


土宮愛緋(つちみやあいひ)は、その場で崩れた。


状況を呑み込めない愛華は、只々(ただただ)唖然とする以外、何も出来なかった。そうした状況に水を差すかのように、第三者はおちゃらけた言い方で空の名前を口にした。

「にゃー危なかったねぇ〜。空」


声の方へと目を向けた愛華の瞳に映ったのは、空。そして、いつの間にか空のパーソナルスペースにまで入り込んでいた小柄な女性だった。


右髪をサイドテールのように括った女性。親しげに空へと話し掛ける女性に見惚れていた矢先、事件の幕引きを知らせる冷めた一言が(はっ)せられた。


「執行完了」


咄嗟に振り向いた愛華が、声が聞こえたビルの屋上へと目を向けると、そこには美しくも冷酷な目をした女性がエンフォーサーを構えて立っていた。




*¹ 即配中:即時処刑命令が下された指名手配犯。


*² 警務車:捜査官が乗る大型の車。護送車のような形。無人運転。


*³ エンフォーサー:正式名称は、自動装填式執行兵器・エンフォーサー。特課とされる第四課のみに扱いが許され、対象に着弾した際、銃弾そのものが破裂する仕組みになっており、結果的に被弾した幹部ごと風船のように破裂を誘発する殺人銃。



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