FILE.12 追憶
───15年前。
街中の音を掻き消し、ただ一つ、天から降り注ぐ大量の雫が、空間全てを支配していた。
時節は梅雨。
全国有数の降雨量を記録するこの地では、来たる夏に向け、天が貯水するかのように、連日、雨を降らせていた。
陰鬱な気持ちになるのは、大人も子どもも同じで、朝、布団から離れることすら気が重い。
「行ってきます」
覇気の無い声で、挨拶をする少年。井川空。12歳。あどけなさが残る空少年は、何気ない日々を繰り返していた。
呆市立中学 校内。
鳴り響くチャイムと共に、生徒たちは活気付く。退屈な授業の終わりと、自由を約束された昼休憩の始まりが理由だった。
校内に人が溢れ出す中、羨望の悲鳴が聞こえ出す。
廊下の真ん中を開けるように集まった人混みのランウェイを、颯爽と歩く4人。男女問わず、惚れぼれしい視線が4人に向けられていた。
皆の注目が4人に向く中、空は我関せずで弁当を広げていた。決して、孤立しているわけではない。だが、級友と呼べるかも分からない関係性の彼等とは、明確に一線は引いていた。
そんな一線など軽々しく越え、周囲の騒々しくしている元凶が近づく。
そして、その騒音は嘘だったかのようにピタッと止むと、4人のうち1人が満面の笑みで一言。
「空!休憩だよ!一緒にご飯食べよ」
竹内梓だった。
中学校カフェテリア。
「もー。一緒に食べよって言ってたのに、先に食べようとするんだから」
空の髪をくしゃくしゃっと撫でながら、困った表情で梓は言った。
「みんな人気者なんだから、俺に構わず、4人で昼休憩を過ごせばいいのに」
溜息混じりに、不満気味な空。だが、本心ではない。空にとってはかけがえのない面々。彼女らと一緒に過ごせる"当り前"を、内心は嬉しく感じていた。
それは、彼女らも同じだった。彼女らにとって、空は、ただの後輩では無い。家族以上の存在で、誰よりも特別で、可愛がっていた。
梓は、中学生と思えない程に整った顔立ちに、モデルのようなプロポーション。男子だけでなく、女子からも人気があった。加えて、教師顔負けの頭脳を持ち合わせているが故に、一部な教師からは、彼女の前で教鞭を取りたくないと言われる程だった。
森原遼子は、バレー部の絶対的エースだ。ボーイッシュな雰囲気で、女子から告白されることもしばしば。このメンバー唯一の彼氏持ちで、誰しもが納得するお似合いカップルだった。
立華陽菜は、おっとり系担当というのがピッタリかもしれない。梓に次いで、成績も良く、その辺の教師より教えるのが上手い。教えてもらうと成績が上がると、実しやかに囁かれ、テスト前には、彼女の周りを人だかりが囲んでいた。
河下深月は、ムードメーカーだ。誰彼無く接し、元気を分け与える存在。誰よりもスタイルが良いためか、一部ではファンクラブもあるとか無いとか。
そんな4人が、同じ学校、同じ学年、同じクラス、同じグループで、毎日一緒にいるのだ。神様も不平等な程に、一箇所に集めたもんだ。その中にいるのが、特筆すべきものを持たない、空である。何故。これは全校生徒、誰しもが思っていた。当然、空本人も。妬みの念を向けられることも少なくなかった。ただ、知ってか知らずか、4人は一切意に介することなく、空と接していた。
***
時は進み、4人は中学を卒業した。同じ地元の高校に進学し、相変わらず、いつも4人でいるという。空と4人の関係も変わることは無かった。
そして、空、14歳の梅雨。
いつも通りの日常…そのはずだった。
放課後、デバイスには深月からメッセージが届いていた。内容は、遼子が珍しく体調を崩して休んだため、みんなでお見舞いに行くというものだった。驚いた。これまで、病気になったことなど無かったからだ。
「お、出た!今終わりー?」
タイミングを見計らったように、深月からのコールが鳴る。
「たった今ね。校門出たところだから、いつもの所で待ち合わせでいい?」
集合場所など宣告承知済みだった。一応、確認はすれど、空の足は集合場所に向いていた。
「うん。私らももうちょいだから、着いたら連絡ちょうだい」
そう言うと、通信は切れた。
集合場所に着くや否や、スキンシップと称して深月が抱きつくのを、梓が全力で止める。それを苦笑しながら、見る陽菜。いつもと変わらないはずの場面。だが、その日は決定的に違った。遼子がいないのだ。言い知れぬ、違和感を覚える、空。そして、どことなく、不安を感じていた。
「大丈夫よ。空。珍しいけど、あの子もたまには体調を崩すこともあるわ」
心の内を把握しているかのように、梓はニコッとした笑顔で言った。
「私達が行けば、遼子も元気になるはずよ。ケーキでも買っていきましょう」
陽菜も続けて言った。不安を和らげるための言葉だが、もしかしたら、彼女らも言い知れぬ不安を感じていたのかもしれない。
だが、その不安は的中した。
「え、帰ってないんですか?」
空は、玄関先に出た遼子の母親に聞き返した。
「おばさん、遼子、今日学校に来てないんです。体調不良で休むってメッセージは私達に来てるんですけど」
数分前までの元気さが嘘だったかのように、心配そうな表情を浮かべる深月。
「とりあえず、私達もコールかけるので、帰ってきたら連絡ください」
梓はそう言うと、みんなを引っ張るかのようにその場を後にした。
その夜、遼子が家に帰ってきたと連絡が入るが、遼子本人からの連絡は無く、その後一週間、音信不通となった。
梅雨真っ只中。
不安ばかりが心を掻き乱し、空はついにいても立ってもいられなくなった。梓、陽菜、深月にメッセージを残し、体調不良を口実に早退した。
向かう先は決まっていた。
インターホンを鳴らし出てきたのは、遼子の母親だった。
「空くん。あなた学校は?」
「おばさん、そんな事より、りょーちゃんは、りょーちゃんは元気なんですか?一週間以上も連絡取れないなんて変です。学校にも行ってないみたいだし」
空の問い掛けに、顔を曇らせる遼子の母親。
「会わせて」
空の一言に、驚く表情を見せる母親。堪えきれない何かを抱えているのは、表情から見て取れた。
遼子に危機が直面している、そう直感した空は、母親を押し退け、遼子の部屋へ直行していた。
「待って」
母親は、上がり込んだ空を、一度は拒もうとするが、空の勢いに圧しきられた。
とうとう、遼子の部屋の前に空は辿り着いた。目の前には、固く閉ざされた扉。重苦しい空気が扉の向こうから滲み出ていた。明らかに様子がおかしい。
「ずっとこうなの。部屋に閉じ篭って、返事も無い。こんなの始めて」
母親は、弱々しく現状を空に伝えた。別人のように成り果てた、遼子のことが分からなくなっていた。
「お願い。空くん。君にこんなことを頼むなんて親として無責任かもしれない。でも、君ならあの子の心を開けると思うの」
泣きながら訴える母親。もう誰かに頼るしかなかったのだ。その様を見て、眉間に力が入る、空。
「りょーちゃん、開けて。俺だよ。空だよ。お願いだから、開けてよ」
空は、遼子の名を呼び、何度も、何度も強くノックした。だが、一向に返事がない。次第に焦りが強まり、最悪をイメージしてしまう。
「頼むよ…俺はそんなに頼りにならないかな。そんなに信頼できないかな。大切で特別だって思ってるのは俺だけかな」
弱々しく訴えかける、空。その目からは今にも涙が溢れようとしていた。それでも返事は無かった。
「りょーちゃん、俺、りょーちゃんのこと…」
朦朧としながら言葉にしかけたが、口に出してはいけない想いであることに気づき、慌てて飲み込む、空。
"俺は何を言っているんだ"
自分の弱さに負け、遼子の弱さに付け込もうとしている、哀れで、惨めな姿。それに気づいた直後、自分に対する恐怖が全身を支配して、膝をつくように崩れ落ちてしまった。
「俺は…一体何を…」
悔しさが込み上げる。
とその瞬間、空は身体を引っ張られた。
次に聞こえたのは、扉の閉まる音だった。
そして、何も言わず、空の胸にしがみつき、泣いている女性がいた。遼子だった。
「私が悪かったのかな? 私が。私が…」
泣きじゃくる遼子は、我を忘れていた。空は、その勢いに逆らえないまま、唇に触れる感覚を感じた。
頭が真っ白になった。
いつも、かっこよく、みんなを笑顔にしてくれる、森原遼子。そんな遼子に抱いていたのは、恋愛感情だった。でも、その気持ちを抑えていた。彼氏がいるからという建前を、自分に言い聞かせて。本当は、自分の気持ちを知った遼子が、自分から離れていくことを考えたくなかった。きっと、遼子は弟のように見ている。嫌われて、離れていくのであれば、ずっと弟でいたい。そう、無理に感情を押し殺してきた。
それなのに、全てを打ち壊し、無に帰すかのような触れ合い。自然と涙が溢れた。
尚も自暴自棄になる、遼子。空は、目を瞑り、歯を食いしばった。
パンッ。
まるで、遼子に向けていた感情に別れを告げる一瞬。
遼子は数秒、放心したが、自分のしようとしたことを理解し、何度も「ごめんなさい」と繰り返した。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
梅雨らしく、土砂降りの雨が、空を頭上から何発も撃ち抜いていた。あれからどれだけの時間が経ったのか。周囲は暗くなっていた。
空の前からカップルらしい2人がいちゃつきながらやって来る。それを困憊した目で見つめる、空。
「ねー、あの人、気味悪くない? 傘も差さないでさ」
女は蔑むように空を見て言った。
「あんな汚え奴気にせず、俺と温かいことしに行こうぜ」
男も見下す目で、遇らうように言い捨てた。
「おい。」
一言。声にもならないような低く、怒りを込めた声だった。
「あぁ? 俺らに言ってんのか」
男は粗暴な言葉で反応した。
「どうして、りょーちゃんを、遼子を裏切った」
顔を俯せたまま、ボソっと言う、空。
「遼子? あーそんなやついたな」
男は、遼子という名前を聞くや否や、嗤い捨てた。
「どうして遼子を裏切った!!!」
空の怒りは限界だった。憎しみを必死に抑えようとしても、溢れ出す状況にコントロールが効かなくなっていた。
「うぜぇーよ。お前。関係ねぇだろうが」
チッ。男は舌打ちし、溜息をつきながら、声を荒らげる。
確かに関係は無いのかもしれない。だが、気づけば、空は男に掴みかかっていた。
「鬱陶しいんだよ。ガキが」
掴みかかる空を、男は上から振り下ろすかのように殴りつけた。男の怒りは収まらず、雨が打ち付ける地面に倒れ込む空に、容赦無く、何度も蹴りを入れた。
「ちょ、ちょっとやばくない」
その光景に恐怖を感じ、女は咄嗟に止めに入った。
「煩ぇーよ。イイとこなんだから邪魔すんじゃねぇ」
怒りを抑えきれず、男の内に巣食う狂気が、女さえも飲み込もうとしていた。
その恐怖は相当なものだったのだろう。涙を堪えきれず、女は走り去って行った。
「よぉーし!邪魔者は消えた。てめぇはこの後のお楽しみに割り込んできやがったんだ。どう落とし前つけるんだ?こんなんじゃ割に合わねぇから、まだまだくたばってんじゃねぇぞ」
そう言うと、男は空の髪を掴み、何度も嗤いながら殴り付ける。
「だいたいよぉ。てめぇもそうだが、遼子も鬱陶しいんだよ。好き好んで付き合ってるって、勘違いしてんだぜ。理由なんざ、セックスのためだろうが。それなのに、純情ぶりやがって、まだタイミングじゃないだの、何だの言ってヤらせねぇときた。だから、無理やり犯してやろうとしたんだよ。もっと自分の価値を理解しろってな」
人を人と見ていない、その目の奥に巣食っていたのは怪物だった。
「そしたら、泣くわ。喚くわ。興冷めだよ。だから面倒くなって、放置してたら、何通もメッセージ送ってくんだぜ?怖ぇーって。ストーカーかよ」
嘲嗤い、得意げに語る外道に、一発すら与えられない無力を、空は呪った。
「そんな時だったかなー。俺の浮気がバレたの。ま、元から5股くらいしてたし、全員セックス目当ての都合のいい女だったけどな。でも、遼子は、問いただしてきやがったよ。どうしてってな。どうしても何も、お前なんか俺の性欲を満たすだけの道具だろうがって言ってやったよ。その時の顔と来たら傑作でさ」
最悪な価値観をただ押し付けられる空。怒りは次第に呪いに変わり、呪いは狂気へと少しずつ変貌を遂げていた。
そして、直後に空は何よりも聞きたくない言葉を聞く。
「てか、遼子のことが好きなのか?お前。今、優しくしとけば、遼子とヤれるかもしれねぇぞ。ほら。ヤってこいよ」
嗤い声は、雨の中、真っ黒な雲を突き刺した。それを、ただ殴られ続け、聞く、空の心で何かが壊れる音がした。
狂気の伝染ではない。きっと、空自身の内にもともとあったのだ。それが、男に触発されて目覚めた。
一線。
男の頬には赤い直線がスッと入り、暫くして痛みが走った。
「うわァァァァァァ」
その痛みに気づき、尻餅つく男。目の前には、狂気を纏い、殺意に満ちた、空がいた。その手には、カッターナイフが握られている。形勢逆転。ほんの数秒前とは立場が変わっていた。
「ま、待ってくれ。冗談だよ。マジになるなって。とりあえず、刃物はしまってくれよ。な?」
命の危険を感じ、始めて自分が何を突いていたのかに気づく、男。
「オマエヲコロス」
聞き取れない程に小さく、カタコトのような一言だった。涙か雨が分からない粒が流れ、悲しみ、怒り、呪い、苦しみといった負の感情が渦巻いている。
助けを求める男の声は届いていなかった。
ただ、絶望に身を落とし、狂気のまま刃は男を襲った。
雨粒と一緒に血が粒となって落ちる。血が出ている元を恐る恐る見る、空。そこには優しい笑みを浮かべた、梓がいた。刃を握った手から、大量の血が滴り落ちる。
それを目の当たりにし、ようやく罪を理解し、パニックに陥る、空。
「大丈夫。空。空は悪くない。だから、殺す価値も無い奴の為にその手を汚さないで」
空をそっと抱きしめ、一言告げる、梓。空は、罪の意識に耐えかね、泣き崩れる。
「お、お前たちの知り合いかよ。そのクソガキ、ちゃんと躾けとけよ。殺人未遂だぞ。慰謝料、いや、地獄に叩き落としてやる」
命の危険が去った途端、男は攻撃的な口調で、捲し立ててきた。
「あっ、そう。勝手にすれば。お前に明日があれば、ね。私の大切な空を傷つけた。その意味を味わうといいわ。せいぜい、最後の一日を楽しみなさい」
梓の瞳に男は映っていなかった。後にいた陽菜と深月も、冷めた目で男を見ていた。
翌日、男は姿を消した。
───15年後。現在。
公安庁本庁 第四課オフィス。
窓から外を見つめる、空。外はあの時と同じで、雨が降っていた。