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公安四課  作者: やん
11/52

FILE.10 悪魔の選択

「まさか、こんなにも早く姿を見せるなんて思ってませんでしたよ」

男は、(きつね)のような面持(おもも)ちで、不敵(ふてき)()みを浮かべると、二人分のコーヒーを机に置いてゆっくりとソファーに腰掛(こしか)けた。


ビル群の街明(まちあ)かりが宵闇(よいやみ)を引き立てていた。


「意外だったかい? (リュー)睿泽(ルイジェ)

男は静かな()みで質問した。


「ええ。あなたが与えた"手段(しゅだん)"を、彼らはどう取捨選択(しゅしゃせんたく)するのか、それを当分(とうぶん)傍観(ぼうかん)するのだと思っていましたからね。

(きつね)(うさぎ)。狩る側か狩られる側。選択次第(せんたくしだい)でどちらにでもなり()、決してワンサイドゲームにはならない様、両者(りょうしゃ)に勝ち目を用意している。タロットカードもその一つ。 どう思考(しこう)し、判断(はんだん)し、行動(こうどう)するのかを、まるでチェスの(こま)を操るかのように、あなたは楽しんでいたように見えていましたよ。だけど、公安四課の存在を知ってからというもの、俺ですら予測不能(よそくふのう)思考(しこう)を取り込むんですもん。全く、あなたには良い意味で裏切(うらぎ)られる。予想の付かない映画を()ているかのようですよ」

苦笑(くしょう)する(リュー)睿泽(ルイジェ)()には、完全な支配下状態(しはいかじょうたい)に置いた狂気(きょうき)が映っていた。


()(かぶ)り過ぎだよ。僕はただ、常に当事者(とうじしゃ)でいたいんだ。選択肢(せんたくし)を与えて、(あと)傍観(ぼうかん)するだけなんてつまらないじゃないか。人は思い通りにいっている時こそ盲目(もうもく)になり、決まったプロセスを()んでいる時こそ無知(むち)になる。それを耳障(みみざわ)りの良い言葉や意識で肯定(こうてい)してね。だが、少しでも既定路線(きていろせん)から外れると(たちま)ち不満を口にする。堕落(だらく)だと思わないかい? 本来、口にした不満そのものが、個人を形成(けいせい)する鋳型(いがた)だというのに。僕はね、個の根底(こんてい)にある深淵(しんえん)が見たいんだよ。それは、国家に()われている猟犬(りょうけん)も同じさ。公安四課(彼・彼女ら)深淵(しんえん)は、どれほど周囲に影響(えいきょう)(およ)ぼすか、考えるだけでも楽しい」

公安四課の話をする男は、無邪気(むじゃき)な笑顔で(かた)り、一片(いっぺん)の狂気も感じ無かった。ゆえに、(リュー)睿泽(ルイジェ)は、狂気を感じ無い恐怖に心底(しんそこ)()かれていた。


「やはり、あなたと話しているとね、不思議な高揚感(こうようかん)を覚える。あなたが仕掛け、変わらざる()ない世界を、この眼で見るのが楽しみでしょうがない」

(リュー)睿泽(ルイジェ)は、男が(つく)る未来に心躍(こころおど)らせざる得なかった。


「そういえば」

コーヒーを一口飲み、思い出すかのように(しゃべ)り始める、(リュー)睿泽(ルイジェ)

「あちらにウィザード級がいましたよ。俺の仕掛けた(はった)ウィルスを破壊しただけじゃなく、こちらのダミーサーバーへ不正アクセスまで仕掛けてくる奴でね。末恐ろしい技術力ですよ」


「末恐ろしいと言いつつも嬉しそうじゃないか」

男が(はな)った指摘(してき)の先には、獲物を見つけ、よだれを垂らすハイエナの(ごと)し、(リュー)睿泽(ルイジェ)の姿があった。そして、"嬉しそう"という言葉に対して肯定(こうてい)するかのように、狂気を(にじ)ませ、微笑(ほほえ)んだ。


「さて、少し長話(ながばな)しし過ぎたかな。時間だ。彼女はこの社会に何を(もたら)すのか…僕を失望(しつぼう)させないでくれるかな」

男はスッと立ち上がった。


冷めきったコーヒーだけが、そこには残されていた。



公安庁本庁 第四課オフィス。


あの日から3日が()った。あの男の素姓(すじょう)は知れないまま、手掛かりも掴めず、時間だけが過ぎていく。分かっていることは、"存在はするのに、認識されない"という事実。これまでに発生した事件の現場周辺には多くの防犯ドローンが設置されている。当然、男の姿は映されていたが、識別スキャナーには一切認識されていなかった。これは偶然(ぐうぜん)でも、識別(しきべつ)スキャナーの不具合(ふぐあい)でもない。あの日、その存在を視認(しにん)していたにも関わらず、エンフォーサーは認識しなかった…


「お疲れ様。愛華(あいか)ちゃん」

後ろからスッとコーヒーを差し出したのは、(そら)だった。その目元(めもと)には()っすらと疲労の色が見えた。事件に巻き込まれた友人は目の前で射殺(しゃさつ)され、誰よりも大切な幼馴染(おさななじみ)の意識は閉ざされたままなのだから、平然(へいぜん)としている方がおかしい。


「あの…空さん、大丈夫ですか?」

愛華の()いに、数秒間、無言だったが、優しく微笑(ほほえ)むと返答した。

「ホットアイマスクをしたんだけど、(くま)が取れなくてさ。ハハハッ。心配かけてごめんね。俺は大丈夫だよ」


「その映像…あの時のビジュアル・メモリー*¹だね。俺も見させてもらったよ。記憶(きおく)強制(きょうせい)抽出(ちゅうしつ)なんて無茶(むちゃ)したね。それも心的ストレスの強い記憶の抽出(ちゅうしつ)なんて、重篤(じゅうとく)なメンタル汚染(おせん)、山中リップハイマン症候群*²の発症にも繋がりかねないんだよ?」

空はホロ映像を(なが)めて、静かに言った。その目に映るのは、その場に()けつけられなかった後悔(こうかい)(ねん)だった。


「それも覚悟の上です。私だって第四課の一員です。いつまでも足手まといの新人なんて嫌です。それに、あの男が一連(いちれん)の関係者であることは間違いないはずなんです。識別スキャナーが張り(めぐ)らされた社会で、犯罪を計画し、準備することは難しい。ただ、街頭(がいとう)スキャナーだけじゃなく、エンフォーサーすら認識(にんしき)しない。そんな特異(とくい)であれば、一連(いちれん)の事件を(うら)手引(てび)きしていたとしても不思議(ふしぎ)じゃないですから。私の記憶(きおく)が解決の糸口(いとぐち)になるなら、やるべきなんです」

強い眼差(まなざ)しに、刑事(けいじ)としての成長を感じ、反論する言葉が出なかった。


「それに、私はショッキングな光景を目の当たりにしてないので、割と平気なんです。それより、梓さんと陽菜さんもビジュアル・メモリーを受けてます。2人のほうが心配です」

空の様子を見て、安心させるかのように(おど)けて見せながらも、同じ体験をした2人を案じていた。いくら刑事として、タフになろうとも、愛華の本質は人想いで優しい女性である事に変わりなかった。空はそのことに安堵(あんど)した。


「2人とも大丈夫だったよ。一応、今日までメンタルケアを受けながら、静養(せいよう)ってことになってるけど、家で資料を(あさ)るくらい元気だよ」

呆れた表情で2人の様子を伝えた、空。


「明日はみんな来るし、(イチ)から事件を洗い(なお)───」

空が最後まで言い終える()もなく、警報(ソレ)(はっ)せられた。


『事件発生。事件発生。場所は───』



───30分前。

新宿区023-都庁 超大型ホロモニター広場。


正午前(しょうごまえ)の広場には、サラリーマンを始め、老若男女(ろうにゃくなんにょ)が昼のリフレッシュに出ていた。

時刻(じこく)は11時50分。

宇宙(うちゅう)にまで届く程の()み切ったあおは、まるで人々を室外に追いやるかのように、太陽光を地上に振り下ろしていた。

超大型ホロモニターには、都からの宣伝が流されている。


「あぁァァァァアア」

男が発狂(はっきょう)と共に蹌踉(よろ)めきながら、サンクンガーデンの構造の広場中心に入ってきた。その(ひたい)からは脂汗(あぶらあせ)が吹き出し、目は血走(ちばし)っていた。(おだ)やかなランチ時が一変(いっぺん)、その異常(いじょう)さが周囲を漆黒(しっこく)雰囲気(ふんいき)に塗り替えていた。


「頼むから…金はいくらでも用意するから…誰でもいい…助けてくれ…」



───同刻。12時50分。

横浜市西区195-第二都市ヒルズガーデン。


ビルとショッピングエリアのバランスが、絶妙(ぜつみょう)調和(ちょうわ)()りなす空間。高所得者が午後の一時を楽しむ様子があちこちで見られていた。

その空間を()くように、着信のメロディが流れた。音の方向に周囲の視線が集まる。


「んーーーーー」

男は音にならない声を絞り出していた。その両手足は、手錠(てじょう)椅子(いす)(しば)られ、口にはタイマーが設定された装置が(くわ)えさせられていた。


タイマーの時間は4時間を切っていた。



───13時32分。

新宿区023-都庁 超大型ホロモニター広場。


周囲は物々(ものもの)しい空気に包まれ、警務ドローンが一人の男から距離を取り、囲っている。数名の捜査官が集まり、厳戒態勢(げんかいたいせい)()く現場は、異常なまでに空気が張り詰めていた。


木嶋(きじま)さん、状況は」

サンクンガーデンを上から見下ろしていた、木嶋丈太郎(きじまじょうたろう)は、声を聞いて少し驚いた。

空と愛華だった。


「お前らか。もう大丈夫なのか」

普段の刺々(とげとげ)しい口調(くちょう)とは打って変わった返答だった。先日の四課襲撃事件よんかしゅうげきじけん顛末(てんまつ)を知っているからこそ、木嶋も嫌味を言う気になれなかった。


「相変わらず、河下(かわした)捜査官は意識戻らずです。竹内(たけうち)立華(たちばな)両名(りょうめい)は、今日までビジュアル・メモリー後のメンタルセッション中なんです」

空の言葉に覇気(はき)は無く、木嶋はそれを(さっ)してか、無言で空の左肩を二度叩いた。


「井川か。大丈夫か」

合流したのは、宮下直也(みやしたなおや)結城巧(ゆうきたくみ)だった。当然、宮下(みやした)も四課の顛末(てんまつ)は知っていた。急襲(きゅうしゅう)とはいえ、"特課(とっか)"の戦力が削がれるなど、(いま)だかつて無いことだった。それは、四課個々(ここ)の実力も(しか)りだが、幼馴染(おさななじみ)という関係性を超えてのチームワークが、どんな犯罪者すらも寄せ付けなかったからだった。


「結城、報告しろ」

四課の件を何度も言わせるのは(こく)だと言わんばかりに、木嶋は話を無理やり(そら)した。温かみのある、木嶋の計らいだった。


「はい。被害者(ひがいしゃ)は、金丸保典(かなまるやすのり) 都議会議員(とぎかいぎいん)昨日(さくじつ)、家を出てから行方(ゆくえ)が分からなくなっており、議会にも姿を見せず、連絡も付かない状況で、家族から捜索願(そうさくねが)いが出されていました。ドローンによるスキャンの結果、被害者の頸動脈(けいどうみゃく)付近に、マイクロチップ式・小型爆弾(こがたばくだん)が埋め込まれていることが確認できました。小型とはいえ、広場を弾き飛ばす程の威力があると考えられます。現在、半径500メートル圏内(けんない)法定避難区画(ほうていひなんくかく)に指定し、ドローンによる完全封鎖(かんぜんふうさ)()いています。全避難完了(ぜんひなんかんりょう)の確認取れてます」

それぞれのデバイスに状況が送られ、結城は読み上げるように報告した。


「犯人からの犯行声明は無いのか?」

宮下は結城に質問すると、結城は(あわ)ててホロ情報を確認した。

「現状、無いようです」


「でも、おかしいです。被害者は都議会議員。であれば、犯人は何かしらの要求があるはずです。それなのに何も無いなんて。もしかしたら、この爆破事態、囮なんじゃ…」

愛華の推察(すいさつ)に、木嶋は感心したような表情を見せ、言葉を発した。

「大したもんじゃねぇか。違和感に気づいて、立派な考察まで立てるなんてよ。お嬢ちゃん、第一課(うち)に来るか?結城とトレードだ」

木嶋の(なか)ば本気な冗談に、本気で動揺する、結城。それを見て苦笑する、空。


「愛華ちゃんはあげませんよ。でも、愛華ちゃんの推察には同意(どうい)だよ。たぶん、前提条件(ぜんていじょうけん)が違う」

空がそう思う理由に、明らかに引っ掛かる矛盾点(むじゅんてん)違和感(いわかん)があった。空の予感を象徴するかのように、周囲(しゅうい)不自然(ふしぜん)(ほど)に静まりかえり、被害者の命乞いが響き渡っていた。


都議会議員(とぎかいぎいん)拉致(らち)し、人体に爆弾を仕掛(しか)けた上で、都庁前の広場に(はな)った今回の事件……一見(いっけん)都政(とせい)に対してのメッセージのように思われるけど、それであれば、人間爆弾(にんげんばくだん)と化した、金丸都議(かなまるとぎ)を、議会に出させ、議員全員を人質(ひとじち)にする方がいい。都庁で、議員全員が人質(ひとじち)ともなれば、国家レベルの注目度になる。メッセージ性は十分だ。逆に、金丸都議(かなまるとぎ)個人に対する復讐(ふくしゅう)であれば、ここまで大掛(おおが)かりにすべきじゃない。そもそも、拉致(らち)して、人体に爆弾を仕掛けること自体、犯人にとっては手間(てま)で、顔が割れるリスクに繋がる。こんなにも大袈裟(おおげさ)すれば、公安に阻止(そし)されることなんて、誰にでも分かることだよ。目的は何か別に…」

底が見えそうで見えない、ブラックボックスに手を入れている感覚に、空は気持ち悪さを感じていた。


突如(とつじょ)、デバイスからコールが鳴った。

遼子(りょうこ)だった。実は、もう一箇所で人に爆弾が取り付けられる事件が発生していた。指揮は第二課(ひき)いる、手塚鈴華(てづかすずか)()っていた。


「空。私、遼子。情報共有するね。被害者は、篠原拓斗(しのはらたくと)証券会社(しょうけんがいしゃ)常務取締役員じょうむとりしまりやくいんよ。高所得者(こうしょとくしゃ)往来(おうらい)が目立つ一角(いっかく)、この広場で、手足を固定(こてい)され、口にはデジタルタイマー式の小型爆弾(こがた)(くわ)えさせられているわ」

遼子は、デバイスを向け、状況を見せながら話した。


空も状況を説明し、

「そっちも同じ手口だね」

一言、付け加えるように言った。


「でも、変なの。人の往来(おうらい)が絶えない場所よ。どうやって今の状況になったのかしら。複数の目撃者(もくげきしゃ)によると、被害者は一人でこの広場にやって来て、あの椅子に(すわ)った。20分(ほど)して、突然、寝るかのように伏せたと思いきや、今の状況に至ったようなの。誰一人接触(せっしょく)しなかったそうよ。そうなると、必然的(ひつぜんてきに)に被害者である、篠原拓斗(しのはらたくと)(みずか)ら手足を固定し、爆弾を(くわ)えたことになるわ。自爆テロなら有り得る話だけど、動機(どうき)が見当たらない。会社では次期社長として名が上がり、妻子とタワーマンションに住んでいる。まるで不自由も不満もない生活を捨ててまで、自爆するかな? それにこの広場は篠原(しのはら)の会社が隣接(りんせつ)しているわ。仮に会社への報復(ほうふく)だったとしても、自分の命を引き換えになんてこと無いでしょ」

遼子の見解(けんかい)(もっと)もだった。二箇所(にかしょ)で発生した、爆破テロには共通点(きょうつうてん)があった。被害者または当該(とうがい)エリアの爆破が主旨(しゅし)で無い可能性。


「まさか…この爆破テロ自体が揺動なのか…」

空の中で、点在(てんざい)していたキーワードが一本の線になるような気がした。


「いや、これすらも今までの事件と同じなら……(おとり)でありつつ、公安(俺達)を組織ごと壊滅させるのが目的…なのか」


「どういうことですか?これが一連、あの男に繋がるってことですか?」

愛華は、恐る恐る確認した。


「愛華ちゃん、りょーちゃんも聞いて。この仮説(かせつ)が正しければ、俺らはまんまと(わな)に掛かっている。それも二重(にじゅう)に」

一息つき、目を(つぶ)る、空。その空間は一層(いっそう)静まり返り、非道(ひどう)真実(しんじつ)さを演出していた。


「まず、この爆破テロは揺動(ようどう)だ。公安をこの場に総動員(そうどういん)させるための」

空は、ゆっくりと目を開け、話し始めた。


「それじゃあ、都庁(ここ)と横浜が本マルじゃなく、別で起こすテロから公安(俺ら)を目を()らすためってのか」

木嶋は食い気味に確認した。


「そうです。爆破テロ(さわ)ぎで捜査官もドローンも現場に()かれる。必然的(ひつぜんてき)手薄(てうす)になる地域、()つ、テロの標的(ひょうてき)として有効な地域がある。ただ、これまでの事件は、いつだって実行犯の主旨(しゅし)とは違う思考(しこう)が組み込まれていた。つまり、この事件を手引きしている黒幕は()うてるんだ。この爆破テロに隠された真実をじゃない。どちらを取るかを」

空は、デバイスでマップを取り出し、地域をピックアップを計算させていた。



公安の通信を傍受(ぼうじゅ)している男は、空の推察(すいさつ)を聞き、口元をニヤリと(ゆる)ませた。



「都庁、横浜…割り出される最適(さいてき)な地域は、新東京駅、新品川リニモステーション、ディズニーワールドジャパンの3箇所ね。でも()(きた)りすぎる。限定的(げんていてき)なテロなら、公安の意識を()してまでやる必要性が無い。この3箇所に仕掛けるとして…いや、違う。もっと広範囲(こうはんい)にするとしたら、爆破じゃない。広範囲(こうはんい)()つ、殺傷能力(さっしょうのうりょく)が高い兵器…まさかVX?」

遼子の(ひたい)からは、ひと粒の汗が落ちた。


「そんな馬鹿(ばか)な。VXを散布(さんぷ)した所で、そのエリアの死傷者(ししょうしゃ)はとんでもない数になるけど、やはり限定的なテロになるわ」

手塚(てづか)指摘(してき)間違(まちが)いではない。VXは、揮発性(きはつせい)が低く、エアロゾルでの使用が基本となるため、広範囲(こうはんい)への攻撃にはなり得ないからだ。


「いや、VXの完全気化生成(かんぜんきかせいせい)に成功していたら? 理論上(りろんじょう)ではあり得るんです。新連合アメリカや新ソ連は極秘裏(ごくひり)にVXの気化に着手していると(うわさ)もある。その(うわさ)実技術(じつぎじゅつ)となることは(めず)しくない」

既存(きぞん)概念(がいねん)一蹴(いっしゅう)した、空の仮説(かせつ)大胆(だいたん)だが、現状の裏付(うらづ)けという意味では的確(てきかく)だった。


「気化したVXを散布(さんぷ)するとして、いくら広範囲(こうはんい)に影響を与えたとしても、数キロってところだろ?確実にダメージを与えるなら人の流入が盛んな中心部ってことになる。なら、さっき森原(もりはら)が挙げた3箇所からの散布(さんぷ)がベターじゃないか?」

タバコを吸う宮下は、サンクンガーデンの中心で項垂(うなだ)れる金丸(かなまる)を見ながら言った。


「たしかに、それがベターです。でも、ベストじゃない。まだ、術中(じゅっちゅう)だと思うんです。広範囲(こうはんい)…そうか」

空は静かに金丸(かなまる)を見た。右手を強く(にぎ)りながら。


「今回の事件、2つの思惑(おもわく)があります。1つは、巧妙(こうみょう)仕掛(しか)けられた二つの(わな)。一つ目の罠は、最初にも言ったように、都庁(ここ)と横浜に公安(俺達)をおびき出す(おとり)です。捜査官とドローンを分散(ぶんさん)させ、本来の目的から意識を遠ざけている。だけど、本来の目的は、りょーちゃんが言ったように、VXによる毒ガステロ。しかも完全気化生成(かんぜんきかせいせい)に成功したVX。当然、ここまで公安に予測されるのは計算のうち。であれば、散布場所(さんぷばしょ)の候補が、公安の戦力が手薄になった、新東京駅、新品川リニモステーション、ディズニーワールドジャパンの3箇所に絞られるのも考えるはず。待機している捜査官とドローンをさらに各所に分散させ、大本命から遠ざけること。これが二つ目の罠。2074年の関東地区改革*³(かんとうちくかいかく)後、かつての一都三県(いっとさんけん)は一つと都市、新東京となった。その全域をカバーするのが、地下を利用した大規模空気循環だいきぼくうきじゅんかんシステム『ACST*⁴ = Atmosphere Circulation System Tokyo』。ここにVXを流し込めば、新東京全域が文字通り未曾有(みぞう)のテロに巻き込まれる。つまり、標的は、練馬区循環処理ねりまくじゅんかんしょりセンター」

歯ぎしりと共に、空の(ひたい)からは冷や汗がひと粒流れた。


「それじゃあ、三課、五課に応援要請を」

手塚は、即座に要請手配を始めたが、それを(さえぎ)るように遼子が口を開いた。


「空。分かったよ。それも術中(じゅっちゅう)なんだね。VX処理のために全戦力(ぜんせんりょく)投入(とうにゅう)した、公安の無力化が狙い。一つ目の罠はただの(おとり)じゃない。まずは、都庁と横浜(ここ)にいる捜査官を爆破で消す。そして、当然仕掛(しか)けてある新東京駅、新品川リニモステーション、ディズニーワールドジャパンの3箇所の爆弾も起動(きどう)させる。三課、五課の投入(とうにゅう)でVXは(ふせ)げても、避難(ひなん)すらできてない、3箇所の被害は甚大だわ。どう転んでも、公安の存続を脅かす手を打ってきてるって訳ね」


「そう。だからもう1つの思惑(おもわく)は、何を取り、何を捨てるのかという、公安への()いなんだ。都民全員か、公安の戦力か、公安の存続か、金丸(かなまる)篠原(しのはら)及び3箇所にいる何も知らない一般人の命か。」

"悪魔の選択"に一同(いちどう)は言葉も出なかった。


緊張感(きんちょうかん)が張り詰める空気の中、最悪(さいあく)は起こった。(はら)の底から(ひび)く音と共に、火柱(ひばしら)が各所で立ち上がる。


タイマーの時間は、まだ二時間程残っていた。



*¹ ビジュアル・メモリー:脳内記憶を特殊な電磁波でスキャニングし、映像データとして抽出する技術。記憶を強制的に追体験させるため、被験者の心身にかなりの負荷がかかる。


*² 山中リップハイマン症候群:個人のメンタリティに修復できない程の過負荷がかかり、廃人のようになる現象。肉体は生き、精神が死ぬ為、「ゾンビ病」とも言われる。


*³ 関東地区改革:2074年に起こった、東京、神奈川、千葉、埼玉の大合併。


*⁴ Atmosphere Circulation System Tokyo:新東京の地下に張り巡らせた循環器から1時間に1度、適切に調整された空気が排出される仕組み。大気汚染やウィルス蔓延が世界各地で深刻になる中、日本は大気を完全にコントロールする技術を獲得した。



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