FILE.10 悪魔の選択
「まさか、こんなにも早く姿を見せるなんて思ってませんでしたよ」
男は、狐のような面持ちで、不敵な笑みを浮かべると、二人分のコーヒーを机に置いてゆっくりとソファーに腰掛けた。
ビル群の街明かりが宵闇を引き立てていた。
「意外だったかい? 劉睿泽」
男は静かな笑みで質問した。
「ええ。あなたが与えた"手段"を、彼らはどう取捨選択するのか、それを当分傍観するのだと思っていましたからね。
狐か兎。狩る側か狩られる側。選択次第でどちらにでもなり得、決してワンサイドゲームにはならない様、両者に勝ち目を用意している。タロットカードもその一つ。 どう思考し、判断し、行動するのかを、まるでチェスの駒を操るかのように、あなたは楽しんでいたように見えていましたよ。だけど、公安四課の存在を知ってからというもの、俺ですら予測不能な思考を取り込むんですもん。全く、あなたには良い意味で裏切られる。予想の付かない映画を観ているかのようですよ」
苦笑する劉睿泽の眼には、完全な支配下状態に置いた狂気が映っていた。
「買い被り過ぎだよ。僕はただ、常に当事者でいたいんだ。選択肢を与えて、後は傍観するだけなんてつまらないじゃないか。人は思い通りにいっている時こそ盲目になり、決まったプロセスを踏んでいる時こそ無知になる。それを耳障りの良い言葉や意識で肯定してね。だが、少しでも既定路線から外れると忽ち不満を口にする。堕落だと思わないかい? 本来、口にした不満そのものが、個人を形成する鋳型だというのに。僕はね、個の根底にある深淵が見たいんだよ。それは、国家に飼われている猟犬も同じさ。公安四課の深淵は、どれほど周囲に影響を及ぼすか、考えるだけでも楽しい」
公安四課の話をする男は、無邪気な笑顔で語り、一片の狂気も感じ無かった。ゆえに、劉睿泽は、狂気を感じ無い恐怖に心底惹かれていた。
「やはり、あなたと話しているとね、不思議な高揚感を覚える。あなたが仕掛け、変わらざる得ない世界を、この眼で見るのが楽しみでしょうがない」
劉睿泽は、男が創る未来に心躍らせざる得なかった。
「そういえば」
コーヒーを一口飲み、思い出すかのように喋り始める、劉睿泽。
「あちらにウィザード級がいましたよ。俺の仕掛けたウィルスを破壊しただけじゃなく、こちらのダミーサーバーへ不正アクセスまで仕掛けてくる奴でね。末恐ろしい技術力ですよ」
「末恐ろしいと言いつつも嬉しそうじゃないか」
男が放った指摘の先には、獲物を見つけ、よだれを垂らすハイエナの如し、劉睿泽の姿があった。そして、"嬉しそう"という言葉に対して肯定するかのように、狂気を滲ませ、微笑んだ。
「さて、少し長話しし過ぎたかな。時間だ。彼女はこの社会に何を齎すのか…僕を失望させないでくれるかな」
男はスッと立ち上がった。
冷めきったコーヒーだけが、そこには残されていた。
公安庁本庁 第四課オフィス。
あの日から3日が経った。あの男の素姓は知れないまま、手掛かりも掴めず、時間だけが過ぎていく。分かっていることは、"存在はするのに、認識されない"という事実。これまでに発生した事件の現場周辺には多くの防犯ドローンが設置されている。当然、男の姿は映されていたが、識別スキャナーには一切認識されていなかった。これは偶然でも、識別スキャナーの不具合でもない。あの日、その存在を視認していたにも関わらず、エンフォーサーは認識しなかった…
「お疲れ様。愛華ちゃん」
後ろからスッとコーヒーを差し出したのは、空だった。その目元には薄っすらと疲労の色が見えた。事件に巻き込まれた友人は目の前で射殺され、誰よりも大切な幼馴染の意識は閉ざされたままなのだから、平然としている方がおかしい。
「あの…空さん、大丈夫ですか?」
愛華の問いに、数秒間、無言だったが、優しく微笑むと返答した。
「ホットアイマスクをしたんだけど、隈が取れなくてさ。ハハハッ。心配かけてごめんね。俺は大丈夫だよ」
「その映像…あの時のビジュアル・メモリー*¹だね。俺も見させてもらったよ。記憶の強制抽出なんて無茶したね。それも心的ストレスの強い記憶の抽出なんて、重篤なメンタル汚染、山中リップハイマン症候群*²の発症にも繋がりかねないんだよ?」
空はホロ映像を眺めて、静かに言った。その目に映るのは、その場に駆けつけられなかった後悔の念だった。
「それも覚悟の上です。私だって第四課の一員です。いつまでも足手まといの新人なんて嫌です。それに、あの男が一連の関係者であることは間違いないはずなんです。識別スキャナーが張り巡らされた社会で、犯罪を計画し、準備することは難しい。ただ、街頭スキャナーだけじゃなく、エンフォーサーすら認識しない。そんな特異であれば、一連の事件を裏で手引きしていたとしても不思議じゃないですから。私の記憶が解決の糸口になるなら、やるべきなんです」
強い眼差しに、刑事としての成長を感じ、反論する言葉が出なかった。
「それに、私はショッキングな光景を目の当たりにしてないので、割と平気なんです。それより、梓さんと陽菜さんもビジュアル・メモリーを受けてます。2人のほうが心配です」
空の様子を見て、安心させるかのように戯けて見せながらも、同じ体験をした2人を案じていた。いくら刑事として、タフになろうとも、愛華の本質は人想いで優しい女性である事に変わりなかった。空はそのことに安堵した。
「2人とも大丈夫だったよ。一応、今日までメンタルケアを受けながら、静養ってことになってるけど、家で資料を漁るくらい元気だよ」
呆れた表情で2人の様子を伝えた、空。
「明日はみんな来るし、一から事件を洗い直───」
空が最後まで言い終える間もなく、警報は発せられた。
『事件発生。事件発生。場所は───』
───30分前。
新宿区023-都庁 超大型ホロモニター広場。
正午前の広場には、サラリーマンを始め、老若男女が昼のリフレッシュに出ていた。
時刻は11時50分。
宇宙にまで届く程の澄み切った青は、まるで人々を室外に追いやるかのように、太陽光を地上に振り下ろしていた。
超大型ホロモニターには、都からの宣伝が流されている。
「あぁァァァァアア」
男が発狂と共に蹌踉めきながら、サンクンガーデンの構造の広場中心に入ってきた。その額からは脂汗が吹き出し、目は血走っていた。穏やかなランチ時が一変、その異常さが周囲を漆黒な雰囲気に塗り替えていた。
「頼むから…金はいくらでも用意するから…誰でもいい…助けてくれ…」
───同刻。12時50分。
横浜市西区195-第二都市ヒルズガーデン。
ビルとショッピングエリアのバランスが、絶妙な調和を織りなす空間。高所得者が午後の一時を楽しむ様子があちこちで見られていた。
その空間を割くように、着信のメロディが流れた。音の方向に周囲の視線が集まる。
「んーーーーー」
男は音にならない声を絞り出していた。その両手足は、手錠で椅子に縛られ、口にはタイマーが設定された装置が咥えさせられていた。
タイマーの時間は4時間を切っていた。
───13時32分。
新宿区023-都庁 超大型ホロモニター広場。
周囲は物々しい空気に包まれ、警務ドローンが一人の男から距離を取り、囲っている。数名の捜査官が集まり、厳戒態勢を敷く現場は、異常なまでに空気が張り詰めていた。
「木嶋さん、状況は」
サンクンガーデンを上から見下ろしていた、木嶋丈太郎は、声を聞いて少し驚いた。
空と愛華だった。
「お前らか。もう大丈夫なのか」
普段の刺々しい口調とは打って変わった返答だった。先日の四課襲撃事件の顛末を知っているからこそ、木嶋も嫌味を言う気になれなかった。
「相変わらず、河下捜査官は意識戻らずです。竹内、立華の両名は、今日までビジュアル・メモリー後のメンタルセッション中なんです」
空の言葉に覇気は無く、木嶋はそれを察してか、無言で空の左肩を二度叩いた。
「井川か。大丈夫か」
合流したのは、宮下直也と結城巧だった。当然、宮下も四課の顛末は知っていた。急襲とはいえ、"特課"の戦力が削がれるなど、未だかつて無いことだった。それは、四課個々の実力も然りだが、幼馴染という関係性を超えてのチームワークが、どんな犯罪者すらも寄せ付けなかったからだった。
「結城、報告しろ」
四課の件を何度も言わせるのは酷だと言わんばかりに、木嶋は話を無理やり逸した。温かみのある、木嶋の計らいだった。
「はい。被害者は、金丸保典 都議会議員。昨日、家を出てから行方が分からなくなっており、議会にも姿を見せず、連絡も付かない状況で、家族から捜索願いが出されていました。ドローンによるスキャンの結果、被害者の頸動脈付近に、マイクロチップ式・小型爆弾が埋め込まれていることが確認できました。小型とはいえ、広場を弾き飛ばす程の威力があると考えられます。現在、半径500メートル圏内を法定避難区画に指定し、ドローンによる完全封鎖を敷いています。全避難完了の確認取れてます」
それぞれのデバイスに状況が送られ、結城は読み上げるように報告した。
「犯人からの犯行声明は無いのか?」
宮下は結城に質問すると、結城は慌ててホロ情報を確認した。
「現状、無いようです」
「でも、おかしいです。被害者は都議会議員。であれば、犯人は何かしらの要求があるはずです。それなのに何も無いなんて。もしかしたら、この爆破事態、囮なんじゃ…」
愛華の推察に、木嶋は感心したような表情を見せ、言葉を発した。
「大したもんじゃねぇか。違和感に気づいて、立派な考察まで立てるなんてよ。お嬢ちゃん、第一課に来るか?結城とトレードだ」
木嶋の半ば本気な冗談に、本気で動揺する、結城。それを見て苦笑する、空。
「愛華ちゃんはあげませんよ。でも、愛華ちゃんの推察には同意だよ。たぶん、前提条件が違う」
空がそう思う理由に、明らかに引っ掛かる矛盾点と違和感があった。空の予感を象徴するかのように、周囲は不自然な程に静まりかえり、被害者の命乞いが響き渡っていた。
「都議会議員を拉致し、人体に爆弾を仕掛けた上で、都庁前の広場に放った今回の事件……一見、都政に対してのメッセージのように思われるけど、それであれば、人間爆弾と化した、金丸都議を、議会に出させ、議員全員を人質にする方がいい。都庁で、議員全員が人質ともなれば、国家レベルの注目度になる。メッセージ性は十分だ。逆に、金丸都議個人に対する復讐であれば、ここまで大掛かりにすべきじゃない。そもそも、拉致して、人体に爆弾を仕掛けること自体、犯人にとっては手間で、顔が割れるリスクに繋がる。こんなにも大袈裟すれば、公安に阻止されることなんて、誰にでも分かることだよ。目的は何か別に…」
底が見えそうで見えない、ブラックボックスに手を入れている感覚に、空は気持ち悪さを感じていた。
突如、デバイスからコールが鳴った。
遼子だった。実は、もう一箇所で人に爆弾が取り付けられる事件が発生していた。指揮は第二課率いる、手塚鈴華が執っていた。
「空。私、遼子。情報共有するね。被害者は、篠原拓斗、証券会社の常務取締役員よ。高所得者の往来が目立つ一角、この広場で、手足を固定され、口にはデジタルタイマー式の小型爆弾を咥えさせられているわ」
遼子は、デバイスを向け、状況を見せながら話した。
空も状況を説明し、
「そっちも同じ手口だね」
一言、付け加えるように言った。
「でも、変なの。人の往来が絶えない場所よ。どうやって今の状況になったのかしら。複数の目撃者によると、被害者は一人でこの広場にやって来て、あの椅子に座った。20分程して、突然、寝るかのように伏せたと思いきや、今の状況に至ったようなの。誰一人接触しなかったそうよ。そうなると、必然的に被害者である、篠原拓斗が自ら手足を固定し、爆弾を咥えたことになるわ。自爆テロなら有り得る話だけど、動機が見当たらない。会社では次期社長として名が上がり、妻子とタワーマンションに住んでいる。まるで不自由も不満もない生活を捨ててまで、自爆するかな? それにこの広場は篠原の会社が隣接しているわ。仮に会社への報復だったとしても、自分の命を引き換えになんてこと無いでしょ」
遼子の見解は最もだった。二箇所で発生した、爆破テロには共通点があった。被害者または当該エリアの爆破が主旨で無い可能性。
「まさか…この爆破テロ自体が揺動なのか…」
空の中で、点在していたキーワードが一本の線になるような気がした。
「いや、これすらも今までの事件と同じなら……囮でありつつ、公安を組織ごと壊滅させるのが目的…なのか」
「どういうことですか?これが一連、あの男に繋がるってことですか?」
愛華は、恐る恐る確認した。
「愛華ちゃん、りょーちゃんも聞いて。この仮説が正しければ、俺らはまんまと罠に掛かっている。それも二重に」
一息つき、目を瞑る、空。その空間は一層静まり返り、非道な真実さを演出していた。
「まず、この爆破テロは揺動だ。公安をこの場に総動員させるための」
空は、ゆっくりと目を開け、話し始めた。
「それじゃあ、都庁と横浜が本マルじゃなく、別で起こすテロから公安を目を逸らすためってのか」
木嶋は食い気味に確認した。
「そうです。爆破テロ騒ぎで捜査官もドローンも現場に割かれる。必然的に手薄になる地域、且つ、テロの標的として有効な地域がある。ただ、これまでの事件は、いつだって実行犯の主旨とは違う思考が組み込まれていた。つまり、この事件を手引きしている黒幕は問うてるんだ。この爆破テロに隠された真実をじゃない。どちらを取るかを」
空は、デバイスでマップを取り出し、地域をピックアップを計算させていた。
公安の通信を傍受している男は、空の推察を聞き、口元をニヤリと緩ませた。
「都庁、横浜…割り出される最適な地域は、新東京駅、新品川リニモステーション、ディズニーワールドジャパンの3箇所ね。でも在り来りすぎる。限定的なテロなら、公安の意識を逸してまでやる必要性が無い。この3箇所に仕掛けるとして…いや、違う。もっと広範囲にするとしたら、爆破じゃない。広範囲且つ、殺傷能力が高い兵器…まさかVX?」
遼子の額からは、ひと粒の汗が落ちた。
「そんな馬鹿な。VXを散布した所で、そのエリアの死傷者はとんでもない数になるけど、やはり限定的なテロになるわ」
手塚の指摘も間違いではない。VXは、揮発性が低く、エアロゾルでの使用が基本となるため、広範囲への攻撃にはなり得ないからだ。
「いや、VXの完全気化生成に成功していたら? 理論上ではあり得るんです。新連合アメリカや新ソ連は極秘裏にVXの気化に着手していると噂もある。その噂が実技術となることは珍しくない」
既存の概念を一蹴した、空の仮説は大胆だが、現状の裏付けという意味では的確だった。
「気化したVXを散布するとして、いくら広範囲に影響を与えたとしても、数キロってところだろ?確実にダメージを与えるなら人の流入が盛んな中心部ってことになる。なら、さっき森原が挙げた3箇所からの散布がベターじゃないか?」
タバコを吸う宮下は、サンクンガーデンの中心で項垂れる金丸を見ながら言った。
「たしかに、それがベターです。でも、ベストじゃない。まだ、術中だと思うんです。広範囲…そうか」
空は静かに金丸を見た。右手を強く握りながら。
「今回の事件、2つの思惑があります。1つは、巧妙に仕掛けられた二つの罠。一つ目の罠は、最初にも言ったように、都庁と横浜に公安をおびき出す囮です。捜査官とドローンを分散させ、本来の目的から意識を遠ざけている。だけど、本来の目的は、りょーちゃんが言ったように、VXによる毒ガステロ。しかも完全気化生成に成功したVX。当然、ここまで公安に予測されるのは計算のうち。であれば、散布場所の候補が、公安の戦力が手薄になった、新東京駅、新品川リニモステーション、ディズニーワールドジャパンの3箇所に絞られるのも考えるはず。待機している捜査官とドローンをさらに各所に分散させ、大本命から遠ざけること。これが二つ目の罠。2074年の関東地区改革*³後、かつての一都三県は一つと都市、新東京となった。その全域をカバーするのが、地下を利用した大規模空気循環システム『ACST*⁴ = Atmosphere Circulation System Tokyo』。ここにVXを流し込めば、新東京全域が文字通り未曾有のテロに巻き込まれる。つまり、標的は、練馬区循環処理センター」
歯ぎしりと共に、空の額からは冷や汗がひと粒流れた。
「それじゃあ、三課、五課に応援要請を」
手塚は、即座に要請手配を始めたが、それを遮るように遼子が口を開いた。
「空。分かったよ。それも術中なんだね。VX処理のために全戦力を投入した、公安の無力化が狙い。一つ目の罠はただの囮じゃない。まずは、都庁と横浜にいる捜査官を爆破で消す。そして、当然仕掛けてある新東京駅、新品川リニモステーション、ディズニーワールドジャパンの3箇所の爆弾も起動させる。三課、五課の投入でVXは防げても、避難すらできてない、3箇所の被害は甚大だわ。どう転んでも、公安の存続を脅かす手を打ってきてるって訳ね」
「そう。だからもう1つの思惑は、何を取り、何を捨てるのかという、公安への問いなんだ。都民全員か、公安の戦力か、公安の存続か、金丸、篠原及び3箇所にいる何も知らない一般人の命か。」
"悪魔の選択"に一同は言葉も出なかった。
緊張感が張り詰める空気の中、最悪は起こった。腹の底から響く音と共に、火柱が各所で立ち上がる。
タイマーの時間は、まだ二時間程残っていた。
*¹ ビジュアル・メモリー:脳内記憶を特殊な電磁波でスキャニングし、映像データとして抽出する技術。記憶を強制的に追体験させるため、被験者の心身にかなりの負荷がかかる。
*² 山中リップハイマン症候群:個人のメンタリティに修復できない程の過負荷がかかり、廃人のようになる現象。肉体は生き、精神が死ぬ為、「ゾンビ病」とも言われる。
*³ 関東地区改革:2074年に起こった、東京、神奈川、千葉、埼玉の大合併。
*⁴ Atmosphere Circulation System Tokyo:新東京の地下に張り巡らせた循環器から1時間に1度、適切に調整された空気が排出される仕組み。大気汚染やウィルス蔓延が世界各地で深刻になる中、日本は大気を完全にコントロールする技術を獲得した。