FILE.9 絶望への生贄
目黒区666- 廃棄区画 旧住宅街。
「何なの。あいつ」
遼子が追う先に、上下赤のスーツを身に纏い、"不気味"という言葉が妥当なメイクを施した男がいた。その見た目からは、ピエロと言うに相応しい。
「全く分からないけど、古い映画で、『JOKER』っていう作品に出てくる主人公そっくりだよ。でも変だ。最初こそ襲って来たのに、今や逃げてばかり。そもそも襲って来た時でさえ、まるで殺意が無いようだった…」
"敵"を分析をすればする程、殺意の無い狂気を纏う相手に異様さを覚える、空。鳥肌が立つ皮膚は、分析するまでも無く"敵"を危険だと本能的に知らせているのかもしれない。
「そうね。でも、私達を殺す事が本当の目的じゃないのだとしたら、あの男の目的って私達をここに誘い込む事じゃないかしら? 何となくだけど、元いた場所から遠ざけられている気がするの」
遼子が抱いたのは、仲間と落ち合えないよう足止めされているかのような、何か腑に落ち無いモヤモヤ感だった。
事実、樫木邸からかなり離れた廃棄区画にまで来てしまった2人。ここから仲間と落ち合うとなると、それなりに時間が掛かってしまう。
そして、遼子の抱く懸念を決定付ける事象が発生していた。
「それに、さっきから通信エラーでみんなと連絡が取れないのも気になるよね」
展開されたホロ情報に大きく表示された、"通信エラー"の文字。デバイスを何度タップしても変わらない状況に、遼子は焦りから下唇を噛んだ。
─── 1時間前。
目黒区青葉台914- 住宅街。
樫木邸を後にした空と遼子は、高級住宅が建ち並ぶ直線道路を歩いていた。
「大丈夫? りょーちゃん…」
歩きながら遼子の顔色を伺う、空。樫木邸で妻の過去を聞いた、遼子。自身の過去と重なる部分が頭から離れず、思い悩んでいた。
「うん。大丈夫。空は知っていたよね? 彼女の過去
…。それを全部知った上で、敢えて私に任せた。私の心に巣食う過去と決別させるために。そうよね? 」
遼子は吹っ切れたかのように深呼吸すると、穏やかな表情で訊ねた。空は、穏やかな表情で微笑んだだけで何も答えなかった。それは、明らかに空の優しさだと、遼子はすぐに理解し「ありがとう。空」と返した。
背中から射す夕陽を受け、2人の影は長く伸びた。
暫く無言で歩く2人の間を、突如として後ろから伸びた影が差す。そして一瞬。一瞬だった。天を衝くような発砲音が鳴り響いたのは。
全く予想だにしていない発砲音に振り向く、空と遼子。視線の先に"ソレ"はいた。
空が呟く「何だ? 」という言葉は、的を射ている。上下赤のスーツに身を纏い、ピエロのような風貌をした男は、その場でステップを踏み踊っていた。思想は一切掴めない。得体の知れない、まさに、"何だ"という言葉が相応しい人物。
ただ、その男が拳銃を所持しているという事、対峙する2人が公安庁の捜査官である事を理解して発砲したという事、そして何より内から湧き出る狂気が只者では無い事の3つは明確だった。
「あなたは何者? 」
ゆっくりとエンフォーサーを向けた遼子は、一言問い掛けた。しかし、想定外の異変に思わず「え? 」と呟くと、一瞬ではあったが動揺から呆然とした。
ピエロ男はニタッと笑顔を見せると、両手の親指を口元に持っていき、耳まで裂けるようなグラスゴースマイルを作ってみせた。その狂気じみた笑顔に、本能的な恐怖を感じた空は遼子の方へと一歩踏み出した。
空の嫌な予感は的中していた。ピエロ男は、胸ポケットから出したタロットカードを見せると、グシャッと握り潰し、手品のようにいつの間にか拳銃へと変えた。そして銃口向けると、躊躇無く遼子へと発砲した。
「危ない!!! 」
間一髪。飛び付いた空によって被弾を免れた遼子は、ハッと我に返った。あと数秒遅ければ、銃弾は遼子の額を貫通していただろう。そう考えるだけで悍ましいが、悠長に怯えていられる程、"敵"は優しくない。今にも次弾を込めて、次の発砲をしようとしていた。
身体が地面へと打ち付けられるまでの数秒間に、頭を庇ってくれている空の腕の隙間からエンフォーサーを出すと、ピエロ男へと銃口を向ける、遼子。しかし、引金は引かれる事なく、身体は地面へと打ち付けられた。
「そんな…」
咄嗟に体勢を整えて、左膝を付く格好でエンフォーサーを構えた遼子は、目を疑った。
「エンフォーサーが反応しない…? 」
異変に気付いた空も咄嗟にエンフォーサーを向けたが、やはりエンフォーサーは反応していない。いや、エンフォーサーが故障しているという訳では無いのだから、反応していないというのは多少語弊があるだろう。
目の前に拳銃を持ち、狂気を放つ男がいるにも関わらず、まるで存在自体していないかのように、エンフォーサーはその男を"認識しない"のだ。当然、認識しなければトリガーがロックされる。つまり、エンフォーサーはただの鉄屑。否が応でも近接戦闘に持ち込むしか無い。しかし、"敵"の素性も釈然としない状況で、接近するというのはそれだけ命を危険に曝すリスクが伴うという事。手の内が読めない以上、迂闊に近付く事さえできず、2人は手を拱いていた。
そんな2人の様子を見たピエロ男は、撃ってみろと言わんばかりに両腕を開き、胸を前に突き出した。それでも行動を起こさない2人に対して、人差し指を振り挑発すると、戯けたダンスを踊り始めた。
本人が意識しているのかどうかは分からない。しかし、踊り姿はまるで、映画『JOKER』において、主人公アーサー・フレックが階段を踊りながら下るシーンを彷彿とさせる光景だった。
ピエロの男は、大勢の観客が集まる舞台に上がるコメディアンのように、夢中で戯け踊る。
空と遼子は互いに顔を見合わせ、頷き合うと、路地角に身を隠した。
踊りに夢中になっていたピエロ男は、目の前から空と遼子が姿を消した事に気付かず、踊りのフィニッシュを決めると共に、銃を2人に向けたが、2人の姿はそこに無い。ピエロ男は、渾身のパフォーマンスを無為にされたと知ると、唸りのような叫びを上げ、天に掲げた拳銃に向かって4、5発撃ち放った。閑静な住宅街で鳴り響いた発砲音は、恐怖と狂気を齎す。
その様子を息を潜めて見守る、空と遼子。
「りょーちゃん、怪我はない? 」
「大丈夫。空が助けてくれたからピンピンしてるよ。それより、これ以上住宅街で闘うのは、一般人に危険が及ぶわ。あいつごと移動しなきゃ」
ピエロ男に反応しないエンフォーサーをレッグホルスターにしまうと、スタンバトンの申請をする、遼子。
『申請認証中───。ユーザー認証、厚生省公安庁第四課 森原遼子 警視、同 井川空 警視。適切ユーザーです。Code024の進行を容認致します。Level3の装備を展開します。』
空は、スタンバトンの使用が承認されたと同時に飛び出し、脱兎之勢でピエロ男の死角からスタンバトンを振り上げた。
その一瞬に意表を突かれたピエロ男の手から拳銃が飛び、その場を支配していた狂気の渦が弾け散った。
ピエロ男を仕留めるには千載一遇の好機。空は、スタンバトンでピエロ男を殴り倒そうと、天を突くように上げたスタンバトンを振り下ろす。しかし、その右腕が上がった体勢は、胴が無防備でもある。
ピエロ男はそれを見過ごさない。左袖から剃刀を取り出すと、空の胸へと一線を引いた。
しかし、刃が空の肉を斬る事は無かった。刃が肉に当たる刹那、ピエロ男の背後に迫った遼子が、スタンバトンを振り翳し、剃刀ごとピエロ男の左手を叩き落とした。
転がる剃刀を追う間も無く、空の左拳がピエロ男の頬を一突。凄まじい衝撃で脳が揺さぶられたピエロ男は、反撃もできずに髪を遼子に掴まれると、蹴り上げられた右膝が今にも顎下を襲った。
しかし、空の拳によって得た衝撃を利用したピエロ男は、身体が倒れる方へと自ら体重を掛け、遼子の膝蹴りを躱すと、両手を地面に着き前転した。流石は道化師と言える、猫のような身のこなしを披露したピエロ男は、反撃の機を逃すまいとする空と遼子が振り下ろしたスタンバトンを、両袖から新たに出した剃刀で防いだ。
男女の違いはあれど、大人2人が本気で振り翳した鉄棒を、剃刀程度で防ぐ事などできるのだろうか?
あまりに常識離れしたピエロ男の身体能力に、2人は意表を突かれ、目を剥いた。
その意表によるコンマ秒にも満たない一瞬は、ピエロ男にとって十分過ぎる反撃の好機となった。
ピエロ男は、空側の剃刀を手から放すと、そのまま遼子の腕を引っ張った勢いのまま背後に回り込み、喉元に剃刀を当てた。あまりの早業に、遼子は息を呑む。
遼子が人質となった以上、空は一歩も動けない。ピエロ男は、顎を小刻みにしゃくり、スタンバトンとレッグホルスターに入れたエンフォーサーを捨てろと合図した。
遼子の瞳には、要求を呑んだ空が、足元に置いたスタンバトンとエンフォーサーを他所へ蹴る姿が映った。その行動に満足そうな笑みを浮かべたピエロ男は、遼子にも武器を捨てるよう合図した。
渋々スタンバトンを投げ捨て、レッグホルスターに入ったエンフォーサーに手を掛けた。その時、異変を感じハッとする、遼子。
自由落下で落ちていくスタンバトンが、まるでスローモーションのように、ゆっくりと宙を舞う。何千倍にも凝縮された一瞬に、ピエロ男はチェックメイトと言わんばかりに空へと銃口を向けた。引き金に掛けられた人差し指は、今まさに力が入ろうとしていた。
それからの時は一瞬だった。パンッという轟音によって、スローモーションから解き放たれたかのように時間は加速し始める。
一滴。また一滴。空の足元で血が地面に跳ね返る。右膝を付く、空。左頬からは掠った銃弾によって血が流れていた。
だが、それ以上に血を流していたのは、ピエロ男だった。右耳は抉れ、血は滝のように流れ落ちる。思わず、遼子の喉元から剃刀を退け、右耳を抑える。
溢れ出す血と激痛に藻掻きながら、ピエロ男に疑問が浮かんだ。"何故、空は掠り傷で済んだのか?" と。ピエロ男と空の距離は、3、4メートル。空の脳を貫通した銃弾で、空は即死のはずだった。それなのに何故…?
ピエロ男は、瞬間の出来事を脳内整理する───。
確かに引き金は引いた。しかしその瞬間、手元が狂う程の衝撃を右耳に感じていた。さらにその一瞬を巻き戻しのように思い出すピエロ男。
右側ニハ、女ガイタ…。ソウダ。女ダ。俺ガ取リ押サエテイタハズノ女…。
ピエロ男の脳内で結果と事象が結び付く。
空に向けられた銃の引金に、ピエロ男が指を掛けた一瞬の隙に、遼子はエンフォーサーをピエロ男の右耳へと撃ち込んだのだった。
しかし、何故…。エンフォーサーの識別は無効化していたはずだった。それなのに何故、撃てたのか?
思い通りにいかないピエロ男は、地団駄を踏み、苦悶の表情を見せた後、2人に背を向け逃亡を図った。
あまりに唐突な逃亡。呆気に取られている間に、ピエロ男は、50m先の路地を右折した。それを慌てて追いかける、空と遼子。
強襲されてから今に至る僅かな時間で、ピエロ男には尋問しなくてはならない事が山ほどできた。中でも、タロットカードを所持していた事を問い質さなくてはならない。進展の無かったカードに纏わる事件の手掛かりになり得るからだ。
そもそも、捜査官と知りながらの強襲してきた危険人物をこのまま野放しにはできない。ピエロ男を追う2人は、吸い寄せられるかのように人気の無い廃棄区画へと足を踏み入れた。
─── 現時刻。
目黒区666- 廃棄区画 旧住宅街。
襲撃の最中、仲間との通信が遮断するという異常事態に困惑する、空と遼子。"敵"が公安庁の捜査官と知って襲撃している以上、狙われているのがここだけとは限らない。何らかの意図があるのなら、オフィスで捜査に当たる陽菜と愛華は兎も角、外に出ている梓と深月にも刺客が仕向けられている可能性は高い。それもかなりの戦闘訓練を受けた刺客が。
一刻も早く合流して対処したい…。空と遼子は、何度も通信を試みるが、依然として変わらぬ状況に不安が募る。
そうした中、空はふと異変に気付く。1時間、鬼ごっこのように追っていたピエロ男が、何時しか姿を消していたのだ。たった数分、迂闊にも通信にばかり意識を取られていたせいで、ピエロ男を見失っていた。
「まだ、近くに隠れているはず。気を付けて」
人気の無い廃棄区画の中、エンフォーサーを構えて警戒をする、空と遼子。
神経を研ぎ澄ます2人の集中力に割って入るかのように、突如としてデバイスの通信が復旧し始めた。
「ジッ、ジッ、こ、、、ら、、、、聞こ、、、、える、、、」
激しいノイズと共に聞こえ声。空は、デバイスに耳を近付け、応答した。
「ひーちゃん? 聞こえてるよ! 空だよ! 」
空の応答と同時に、キーンという耳鳴りのようなノイズが走り、咄嗟に耳を離した、空。直後、今までのノイズが嘘だったかのように、急激に音声が戻り始めた。
「良かった…やっと繋がった! 2人とも大変なの。深月が。深月が!!! 」
パニックになる陽菜の報告を耳にした2人は、「え? 」という言葉以外見つからず、その場に立ち竦んだ。
日が落ちた廃墟で取り残された2人を静寂が包んだ。
1時間後───。
公安庁本庁 集中治療室。
スライド扉の開きと同時に入室する、空と遼子。無菌室で呼吸器に繋がれた深月の姿を見て、空は焦りと動揺から言葉を失い、遼子はその場で崩れ落ちた。
「何があったんだよ」
その場にいる誰もが憔悴している様子を目の当たりにした空は、梓に詰め寄り、両肩を揺さぶった。
「梓!!! 」
普段は姉呼びする空が、叫ぶ様に呼び捨てた。その怒号に、感情と理性の板挟みで何とかバランスを取っていた梓は、震えた声を発する。
「私を庇って、銃弾を受けたの。意識不明よ」
堪えきれない涙を必死に堪らえようとするのは、強がりだからでは無かった。課員を動揺させまいとする第四課のリーダーとしての責任からだった。
空は溢れる涙を堪えて、梓を抱き寄せた。
───数時間後。
公安庁本庁 第四課オフィス。
深月がいないオフィスは、賑やかさが消え失せた沈黙に包まれていた。通夜のような表情で、誰一人として口を開かない重苦しい空気が、悲しみを増幅させる。
そんな沈黙を梓が破る。悲しみを噛み殺しながら、事の経緯を話し始めた。
「───それで、気付いた時には既に、マスクの男は私達の頭上から散弾銃を向けていた…。気配も殺気も全く無くて、完全に射程圏に入った私達は、位置的にも即死は免れない状況だった…。その直後、銃声が響き渡ったのは覚えているわ。私の記憶が確かなのはそこまで。その後は曖昧なの。身体が宙に浮いた感覚はあったと思う…。でも、それは、死んだからだって思った」
憔悴した梓は、目は腫らして答えた。
「エンフォーサーが反応しない…。あいつと同じだ」
空は、奥歯を噛み締めた。
「そうね。でも、突然反応するようになった…。そっちもだよね? 」
遼子が質問した視線の先には、愛華がいた。
「はい」
愛華は静かに答えた。
「七瀬佑樹の身辺を洗っていた私達は、ペスト医師姿の男に行き着き、防犯ドローンの映像から梓と深月に危険が迫っている事を察知した。そこで、2人の元へと急行したんだけど、到着した時、梓を庇うような状態で、深月は既に撃たれていた…」
*** 回想 ***
港区896- 芝浦ふ頭廃工場。
「そ、そんな…深月さん!!! 」
愛華は、放心状態の梓と血塗れで倒れる深月の下へと駆け出したが、陽菜に腕を掴まれ、そのままコンテナの陰に引っ張られた。直後、愛華が踏み出していた所に散弾の雨が降り注ぎ、アスファルトの地面は蜂の巣のように抉られた。
陽菜に腕を引っ張られるのが少しでも遅ければ、今頃蜂の巣になっていたのは自分の身体だった。漸く、命のやり取りが"現実"であることに気付き、恐怖から息を呑む、愛華。
「陽菜さん! 深月さんが…! それに梓さんも危ないです」
必死に訴えようとするが、仲間の負傷に動転した愛華は、思ったように言葉を出せないでいた。
「分かってる。でも、迂闊に出るとペスト医師姿の男の格好の獲物になるわ。私が囮になる。だから、あなたは陰から奴を撃ちなさい」
陽菜も必死だった。あれだけ信頼を寄せ、家族のように思っていた2人が命の危機に曝されている。それだけで限界だった。ただ、参謀として、チームの頭脳として、最善を導き、結果を愛華に托したのだった。
「そんな。囮だなんて危険です。それに識別スキャナーに認知されない相手、エンフォーサーも反応しないんじゃ…」
目の前の事象に思考停止していた愛華は、反論しかできなかった。
「だから私が行くんだよ。危険なのは承知しているわ。でもね。死にに行くわけじゃ無いの。策がある。
それに、どういう訳か、先行していたミツバチ達は奴を認識していなかったのに、さっきからミツバチ達が奴を認識するようになったの。もしかしたら、今ならエンフォーサーで奴を仕留められるんじゃないかって思うの。それを確かめる為にも、私が先行しなきゃいけない。
だからお願い。私を信じて、奴を撃って」
意志を託すような真剣な眼差しで愛華の手を握った、陽菜。
そして、エンフォーサーを構えると、コンテナの陰から飛び出しエンフォーサーの引き金を引いた。
陽菜の推測は当たっていた。弾丸は真っ直ぐ空を切り、ペスト医師の男へと進む。惜しくも顔すれすれを通り過ぎたが、陽菜と愛華にとって仕留めずとも、"エンフォーサーは反応する"という事さえはっきりとすれば十分だった。
ペスト医師の男は、散弾銃を陽菜に向け、引金に掛けた指に力を込めるが、引金を引けないでいた。
理由は、陽菜にあった。陽菜を覆うように前に黒い靄のような"何か"が掛かり、的が定まらない。ペスト医師の男は、次第に苛立ちを募らせ、無意味に発砲し始めた。しかし、そのどれもが黒い靄によって阻まれ、ターゲットに銃弾が掠りもしない。
陽菜は小さな盾を纏い、ペスト医師の男を翻弄する。陽菜を守る無数の黒い靄、その正体は、陽菜の相棒にして、第四課最強のAI・ハニーが動かすミツバチドローン。数にして数千匹。
しかし、ペスト医師の男も翻弄されっぱなしでは無い。次第に目は慣れ始め、靄の奥に隠れる陽菜を捉え始めていた。そして、ついに引き金の指を手前に引く。
パンッと轟く銃声が木霊する。
ペスト医師の男を象徴していた仮面が割れて、地面へと落ちる。男が両腕を見ると、散弾銃を持っていたはずの両腕が無い事をに気付く。左腕は肘から先、右腕は手首から先が輪切りになり、そこから真っ赤な血飛沫が吹き出している。
次第に鮮明だった景色は真っ赤に染まり、目眩のようなものを感じた時、男は仰向けで倒れていた。
真っ赤な空を見上げながら、男は思い出す。真下から散弾銃ごと両腕を撃ち抜いたのは、殺し損ねた女捜査官。視界が真っ赤になったのは、額に空いた銃弾の穴から血が溢れて、目に入ったから。そして額に風穴を空けたのは、コンテナの陰に隠れていた女捜査官。
「アァ…。モット殺シ合ヰタカッタ…」
その言葉が声に出る事は無く、結末の全てを理解した時、ペスト医師の男は既に絶命していた。
ペスト医師の男を撃った愛華は、エンフォーサーを構えたまま数秒間、立ち尽くしていたが、ハッと我に返ると過呼吸を抑えながらも、梓と深月の元に駆け寄った。
陽菜は、深月の名前を泣き叫びながらも、応急処置をしていた。深月の容態は最悪だ。まだ息こそあるが、肩、背中、腰と見ただけで3発の銃弾を受けている。それがどこまで達しているか分からないが、心臓や肺を傷付けていれば命が危ういし、神経を傷付けていれば一生寝たきりになる可能性だって有り得る。
愛華は、成す術の無い無力さから、跪くように崩れ落ちた。
「へぇ。噂通りやるもんだね」
突如聞こえた第三者の声に、梓、陽菜、愛華は意表を突かれた。
「良いものを見せてもらったよ。本当は君達"第四課"ともっと遊んでいたいんだけど、その様子じゃ次の機会にしておいた方が良さそうだ」
声の方向に目を向けると、細身の白シャツ姿の男がそこにいた。男にしては長髪で、中性的な浮世離れした顔立ち。警戒心を解くような落ち着きのある声で、一瞬味方だと錯覚さえ覚える。
「また近々…」
ニッコリと微笑んだ男に、陽菜はエンフォーサーを向けたが、「え? 」と声を漏らして、確認するかのようにエンフォーサーを見た。しかし、エンフォーサーに異常は見られない。
再び、コンテナ上に目を向けた時、男は姿を消していた。死亡したペスト医師の遺体と共に。それはまるで、黄昏の陽に消えたようだった。