20.08.13
僕は彼に謝らなければならない。
カトーが僕のとこに来てから、2月たった今日、庭にあるあらゆる植物は枯れ始めていた。彼は傲慢で相当嫌味なやつだった。それでも僕はそんな彼とまた嫌味な会話をしたくて、寂しかった。
*
二匹の蛇が絡み合い潰し合う。そんな絵がこの本の表紙には書いてある。中には詩が綴られているようだった。僕にはなんだか嫌な予感がして、二度と見たくないと思った。僕たちが次に会う時までこの本は棚の中にしまっておくことに決めた。
いつか見た彼のにぎり拳は岩石みたいに堅固だった。力強く楔を握りしめて、家にあった鋼鉄の金庫の縁に楔を添えた。そしてもう片方の手に持った重鈍なトンカチで楔を叩き、金庫を無理やりこじ開けた。金庫の扉はねじ曲がり、もはや金庫としての存在意義は損なわれてしまったようだった。僕はそれを見て、体の奥から震度弱の地震が起きたように震えた。何故だか僕は切なかったのだ。
その中から出てきたのがこの本だったというわけだけど、金目のものが入ってると期待していたカトーは拍子抜けしたようで、この本も壊れた金庫もしばらく放っていた。僕としてはなぜか、その力ずくにこじ開けられた"壊れた金庫"の方が気になって、自室に持ち帰ることにした。"壊れた金庫"は今でも冷たい部屋の床に氷山の一角のように孤独に置いてあった。
本については先に述べたように、僕はこの本の持つ不気味な予感を恐れて部屋の棚の中に置いておくだけで読むことも開くことも無かったわけだけど、数日経ったある日、カトーから「やっぱりあの本、気になるから中身だけでも見せてもらおうかね」となんとも傲慢に言ってきた。僕としては置いておきたくもないという思いが強かったため貸すことにした。
*
僕は初めてこの本を見つけた時、既にこの本の中に書かれてる詩を読んでいた。
初めてこの本に触れ、本のページを適当にめくった時にちらと見た程度のことだったのだけど、僕はそのことを後悔している。
本の中の一説にはこう書かれていた。
ーつぶらな眼球に墨が霞み、土塊を空睨みする
祈るなら蛇に針を刺し、詫びるならその悪意を労へ
慈悲を持って私は欠けていくー
僕にはその詩の意味が理解できなかった。それでも僕はこの詩のもつ秘めたる暗黒性の吸引力に確実に飲み込まれ、僕自身からカルト的な熱狂心が生まれていくのを感じた。その後にこの本を拒絶したのは、今になって思えば、そのカルト的な熱狂心に囚われるのが、心酔するのが、急な崖を駆け下りるようで、怖かったのだと思う。例え、既にその存在の中に僕自身の一部を取り込まれていたとしても。
僕の一部は既にこの本の中に取り込まれていた。
僕が確かに現実世界の庭を見ていたとしても、それと同時に目の前には、
"孤独な鬱の樹木がそこにあり、石飛礫の雨が降る世界"
を見たような気がするのだ。確かにその景色をその瞬間に見たのか、気づいた頃にはわからなくなっていて、現実と幻の境を見損なってしまったようだった。
それは何か僕自身の比喩なのか、または幻ののようなものなのか、僕自身でさえわからない。その景色のもつ懐かしさや切なさは、置いてきぼりの子供をイメージさせた。今も僕の失われた魂の一部は、きっとこの景色に慰められている、そんな気がした。
あの詩を読んでからそのようなことが僕自身に起きている。
もしも僕があのまま本を読み続けていたら、僕は引き返すことのできない暗黒の内側へと飲み込まれ、周りのもの(つまり両親や友達、僕に寄り付く野良猫や鳩、家具に玩具など、僕の近くにあるあらゆる存在のこと)を直視することができず、無差別的な破壊衝動に駆られていたのではないか?と予感するのだった。
視線を部屋に戻し、薄暗がりの自分の部屋を一望する。ぼやけた視線に引っかかるのは、折り曲げられ鋭く尖った"壊れた金庫"だった。
僕はその金庫の中に、もうここにはない僕自身の一部分を求めた。金庫に近づき中を覗くと無機質的な銀色しかない。
"金庫は損なわれ、その存在意義は既に損なわれている"
それでも僕はすでに欠けた僕自身の残りの全てを、この限りなく無機質な金庫の中に託したいと思った。
*
翌日の夕方にカトーは本を取りに来た。外には粘りつくような雨が降っていて、夕陽を透過させた雨粒は茜色に染まっていた。
カトーは「こんにちは」と嫌に丁寧な物言いで、嫌味な笑みを浮かべて挨拶した。その笑みはいつもと変わらない、友人同士だからこそできる嫌味な笑みであった。
「どうも」と僕は素っ気なく返した。
「早速だけど、例の本を借りようかね」
そう言うと、神経質そうな指で頬をかいた。
僕たちはお互いに嫌味を言うこと以外に特段話すことがない、皮肉な関係なのだ。
僕は自室から本と"壊れた金庫"を持ってきて彼に渡した。カトーは「"壊れた金庫"なんか、価値がないに決まってるだろう?」と言って、僕につき返した。
*
そうして彼は本を持ち帰り、翌日学校に来たときには青リンゴのように青ざめて、椅子にうなだれていた。
僕はいつも通り彼に話しかけた。
「調子が良さそうだね、カトー君」
彼は煙たそうに首を振った。その様子本当に具合の悪い人の仕草のようで、僕は心配になった。
「大丈夫?保健室へ連れてってあげようか……?」
彼は首を振った。
僕はなんだか鳥肌が立った。
「本には何が書いてあったの?」
僕がそう尋ねると、彼は薄灰色の瞳で黒板を空睨みした。
そのまま彼は沈黙し、僕が諦めて自分の席へ戻ろうとした時に彼は小声で呟いた。
「"石飛礫の雨が降る世界では、孤独な鬱の樹木が声を出せずに泣いている"」
「え、今なんて……」僕の問は授業のチャイムの音にかき消された。
この日は彼にそれ以上話を聞くことはできなかった。そしてこれからも、カトーにあの時の話を聞くことはできないのだ。
*
カトーは翌日自殺した。死因は風呂場での溺死だった。風呂いっぱいの水を死ぬほど飲み込んだらしい。
彼がなぜそんなことをしたのか、僕には理解できないが、その原因にあの本が絡んでいるということは僕にはわかっていた。
彼はあの本の内容を読んだのだろう。そしてあのカルト的な熱狂心に駆り立てられて、僕以上にあの本の内容を読んでしまった。僕の一部があの本の中に取り込まれてしまったように、彼自身も取り込まれてしまったのかもしれない。そして比喩とも幻とも言えないものを見て、彼は自殺した。彼はすべてを奪われる前に、そうするしかなかったのかもしれない。
僕は彼の見た世界を知らないけど、僕は自分が予感したことを思い出して鳥肌が立った。彼に本を渡す約束をしたあの時、僕は無理にでも止めておくべきだったのだ。
葬儀の日にあの本を僕はもらい受けた。
表紙には二匹の蛇が絡み合い、潰し合っている。その嫌に生々しい目は門番のように僕を睨んでいた。
僕はこの本を捨てるわけにはいかなかった。失った僕の一部がやはりその中で泣いているような気した。それは僕の元に戻りたくて泣いているというのではなく、あの景色を見て故郷に帰ったように懐かしみ泣いているように感じるのだ。そして、この中にはカトーのほとんどが存在する。僕は責任を持ってこの本を守らなければならない、それが僕が彼にできる唯一の償いだと思ったからだ。
"完全な金庫"に欠けた僕達の存在を、労うように閉まっておこう。