第132話:その頃美咲は(上)
『ひ~く~ん? まさかとは思うけど…今、私から逃げようとしたわけじゃないよねぇ?』
『『―――――っ⁉』』
(………って、私じゃなくて一之瀬君か。はぁ~、ビックリした。というか今の彩乃の一言でさっきまでの俺様一之瀬君が嘘のようにしおらしくなったんだけど、普段あの子と彼の間で一体何が行われているっていうのよ)
ついさっきまでの私は全力でこの場から逃げ出そうとしていたはずなのだが、あまりにも目の前での出来事が衝撃的だっ…た
(彩乃には悪いけどこんなにカッコよくてちょっと強引で、でも時として母性本能をくすぐられる…世界中探しても漫画やドラマの中にしか存在しないであろうような男の人が目の前に現れでもしたら―――)
なんて友達として以前に人として絶対にやってはいけない、しかし一人の女としてそんなもの無視してでも彼のことを手に入れたいと思わされるほどの魅力を見るだけでなく実際に体感させられたともなれば己が間違った道へと進まないよう踏み止まるのが精一杯というもので
『ひ~ぃ、くん♪』
例え目の前にそんな人の彼女がいようが、自分の彼氏の魅力に気が付いた女に対する挑発かの如くいちゃつきだそうがこちらが黙って我慢しているご褒美として…先程までの強引で男らしい彼とは違う姿が見られるな……ら♡
そう思っていたのが今から数分前のことであり現在の私達はというと
(………これ完全に私のことなんて忘れてるよね? というか、もしかしなくても私どころか自分が今どこにいるのかさえ忘れてるんじゃないでしょうね?)
なんてことを考えながら一人で呆れているといきなり彩乃の態度が変わり、『私だけのひーくん』という言葉を聞いた瞬間彼はまるで何かのスイッチでも押されたかのような早さで表情から態度、雰囲気、その他諸々全てが変わってしまったのだが……。
自分で言っておいてなんだが押されたかのようではなく、間違いなくこの短期間でそのスイッチを作り上げただけでなく自由自在に使い分ける術すら身に着けたのであろう張本人はというと
(私、生まれて初めていわゆる性的サディストって呼ばれるような性格をした人を見たかも。まああの感じだと少なくとも《《まだ》》私が心配するような域にはお互い達していなさそう…というか一之瀬君に関しては自分の行動のどこがいけなかったのかを考えることでいっぱいいっぱいなお陰で? そのことに全く気付いていないどころか)
(この状況をいいことに今以上にただ逃げ出さないように抱き着く力を強めただけという建前のもと自身の体を押し付けてちょっとしたオ○ニーをしたいのを寸前のところで彼氏に意地悪をすることで別の性的興奮を覚え、なんとか気をそらしているなんてことはもちろん実は知らず知らずのうちにこの子以外の女のところへは行きたくても行けないよう幾重にも布石を打たれていることも分かってないんだろうなぁ)
(……………………)
(………………さっきまでの強引な一之瀬君に加えてこの母性本能をくすぐられるかわいい困り顔)
(…………しかも目の前にはその元凶および状況があるおかげでこれでもかというほどまでに保護欲をそそられるという完璧なシチュエーション)
(………もしここで『私があなたの彼女なら…こんなに酷いこと絶対にしないのはもちろん、そんな顔絶対にさせないのに♡』etc.)
といった感じで一之瀬君が持ちし天性の魅力に惹かれて危うく道を踏み外しそうになったところを友達の行動に対する呆れという感情でなんとか抑え込めたかと思ったのも数分間だけのこと、再びこうして魔性の男の子こと一之瀬陽太君によって私の心が先ほどよりも大きく揺れ動き始めたと同時に今度はもし私が《《陽太君》》と付き合い始めたら♡
といういけない妄想が頭の中で繰り広げられようとしたその時―――
(あ……れ……?)
そんな何に対するものかは分からないものの突如心の中で浮かび上がった疑問…というには少し似合わない……どちらかというと胸騒ぎのようなものが勝手に一人で行おうとしていた妄想であるにも関わらず
(まるで今私の目の前で見せつけるかのごとく《《一之瀬君》》といちゃつている彩乃本人がそれに気が付いて邪魔をしてきているかのような不快感と………もし何も知らない状態で私があれを実行し、めでたく彼と付き合うことになったとしても流石に100%とまでは言わないまでもそれにかなり近しい確率で失敗するだけでは済まない、お互いが迎えるであろう最悪の未来)
そう己の思考が謎の感情に追いついたと同時に
『ただただ凄い』
『凄すぎる』
と感心する自分と
『たった今私は底知れぬ女の……佐々木彩乃という一人の女の闇を見てしまった』
ことに対する恐怖心…と呆れ。




