番外 028裏 ミラさま崩壊寸前
そのつぶらな瞳は私をまっすぐに見つめ、私の心を確実に射抜いていた。
そのつぶらな瞳からあふれる涙は、私の心を確実に溺れさせた。
私はその刹那に不覚を悟った。
こんなにも真正面から渾身の不意打ちを食らうとは不覚以外の何物でもない。
その生物は私を、魔眼ひとつで完膚なきまでに叩きのめした。
完敗…私が初めて味わうその辛酸は、しかし苦くも辛くもなく…
ただただ甘美でどこまでも私の心を堕としていく…
この生物を害してはいけない。
この生物に敵視されてはいけない。
どこまでも味方であり続けなければならない…
「これが神狼フェンリル…」
不意に主の声が私の耳に届いた。
この生物がフェンリル?
そんな醜悪なケダモノであろうはずがない。
例え主の言葉であろうとも、こればかりは聞き捨てならない。
主…畏れながら申し上げます。
「マナトさま…そんなわけないでしょ!」
フェンリルごときに、この私がここまで魅了されるわけがない。
この生物は最も気高い…絶対王者の風格をその身に宿している…
この生物にかかれば、あの四聖獣――白虎、青龍、玄武、朱雀すらも
ただの猫と蛇と縁日のカメやひよこ同然。
「全員で囲んで蹴っ飛ばせばいくらでも勝てそうだけどな」
主が不敬に満ちた言葉を発した。
なんと畏れ多いことを…この生物を、よりにもよって囲んで蹴とばすとは!
我が主ともあろうお方が…恥を知りなさい!
この時私が主を睨みつけていたと、後に主から笑い話として聞かされた。
我ながら、なんと畏れ多いことを…弁解の余地もない。
その私の無礼な振る舞いを、気にも留めぬ主のなんと寛大なることか…
此の身卑しき愛玩神獣なれど、我が生涯全てを主に捧げる所存!
その寛大なる主を、迷いなく睨みつけてしまうほどに…
それ程までに、この生物は私から理性を奪いつくしていたのだ。
もはや猶予はない。即刻手を打たなければ…
主がその生物の保護のため近づくものの、その生物は必死に主の手を逃れまわる。
この生物を捕らえること自体は容易い。
しかしながらこの生物、空腹のため弱り切っている。
強引に捕らえてはいけない。足止めする必要がある…
「マナトさま…【調教師】を【創成】してください!今すぐに!」
【調教師】の《使役》なら確実かつ安全にこの生物を保護することができる。
あるいは、この生物もろともに我が首にも《隷属の首輪》を…
…私はいま、何を考えた?
げに恐ろしきはこの生物の魅了のちから…心かき乱し冷静さを奪い去る…
理性がまるで働かない…
主が幾度となく否定されているのに、私はまだ主への隷属を望むのか…
…いけない。このようなときに、また私は何を考えた?
この生物が私の全てを堕としていく…理性を破壊していく…
押しとどめた卑しき欲望を際限なく呼び覚ます…
それ程までに事は重大だというのに、主は何をもたついているのか!
ただ【創成】を行使するだけだというのに!
「マナト!さっさとする!!」
…またも私は畏れ多いことを…
主を呼び捨てにした挙句、命令まで下すとは…
成程このような不届き者、主は奴隷の価値無しと断じられたに相違ない!
それ故、主は頑なに私を奴隷に堕としてくださらぬのだ…
「ミラさま、できました!」
主の声がこの生物の魔眼に囚われた私の心を引き戻した。
「オオカミを視界にとらえて《使役》と念じなさいっ!さあ早く!」
ついでに私の首を掴みとらえて《隷属の首輪》と念…
前言撤回、理性が全く引き戻されていない…
思考より先に言葉が口をつく…
全力を振り絞り、我が欲望をねじ伏せ続く言葉を封じ込めたものの
もはや主従の逆転まで引き起こす始末、無礼にもほどがあるではないか!
こうも無礼を重ねては、いくら寛大なる主といえど私に暇申し渡されるだろう。
嗚呼…いっそここから逃げ出してしまおうか…
違う…いま考えるべきは、我が事ではない。
今は私の逃走よりも、この生物の保護を優先させねばならない。
主の《使役》行使と同時に、私はその生物を抱え込み、
全速力でこの場から逃げ去っていた。




