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九話『紅に染まる月を見上げる金木犀』

 ドクンドクン。 ドクンドクンドクンドクン。

 ――うるさい。

 どくん、ドクン、どくり。

 ――うるさい!


 心臓がうるさい。血液を押し出すたびにまるで石ころが血管を流れて行くようだ。

 渇く、渇く、喉がカワイタ…。

 身体が暑い。身体が機関車になってしまったと錯覚するぐらい熱い。

 水分がどんどん消えていって、石が流れるような血管は広がって無くなった空気に触れているかのようで。

 そうしてまた私の身体はますます乾いていく。

 苦しい。クルシイ。苦しい。クルシイ。

 この渇きを誰か鎮めて…。


 太陽が沈む。

 世界は眠り、生きるものに代わり死者の世界が訪れる。

 

「艶やかなあの肌…アルの…あの…ダメ、ダメよ…」


 光少なき部屋で身体を丸めて喉を抑える城の主人をまるで見下ろすように、窓の外で赤い月が大きく居座っていた――。



「ミラ様…」

「やはり体調が優れないようです」

 帰宅したミクスとアル。

 そしてアルがミラリールの部屋を訪れるのはそれから三度目だった。

 夕食を済ませ、風呂を済ませて、ミクス経由で受け取った文字書きの宿題を済ませて、その隙間を縫うようにアルはミラリールのいる仕事部屋に訪れたが、彼女は出てこない。

「夜はまだ冷えます、少し早いですがアル君もお疲れでしょうし今日は休みましょう」

 ミクスに促され、アルはその扉の前から去る。

 名残惜しそうな表情を浮かべながらも。


 その夜は嵐だった。

 大きな城の一室、アルの自室にある窓もまた大きくしっかりと立てつけられているものの、それでもゴトゴトと音を立てて揺れ動くくらいに強い風と何度も景色を塗りつぶす雨水が流れ続けている。

 薄い白のカーテンと厚い紺色のカーテンが窓にはあり、普段は薄い方のカーテンだけを閉めて眠るアルだが耐えきれず今日は二枚のカーテンをしっかりと閉めていた。

 びゅうっ、と切り裂くような風の音に頭まで布団をかぶっているアルの体が跳ねる。

 暖かい布団、身体をすっぽりと受け入れてあまりあるマットレス。

 それはアルの寝床として記憶にある、一枚の布と石の床で過ごしていた牢屋とは天と地の差があるが、こんなにも荒れた夜は初めてのことで怖がっていた。

 目を固く閉じて耳を塞いでも、音は消えず。この大きな建物が揺れているのではないかと思うほどその風は吹き荒れている。

「うう…なにこれ…」

 眠れ、眠れ、と唱えるたびに冴えていく。

 アルにとって嵐とは「知らないもの」で、ただただ本能が危険に対して恐怖している。

 まるで氷漬けになっていくかのように思った。

 固く目を閉じて思考を閉じると音が静かに思える時がある、しかし静寂に安堵した瞬間に大きな音が頭の真ん中まで響き、その度に心臓が大きく跳ねる。

 アルにとって大きな音とは嫌な音だ。

 大人が奴隷を叩く音や、怒鳴る声であったり、何かの失敗をしてしまった時の音だったり。

 真っ黒なまぶたの裏に音が響くたびに彼の過去が呼応するように浮かび上がってしまうのだ。

「うう…うあ…う…」

 段々と頭が痛み始めていた。

 まるで二枚の写真が交互に映し出されているみたく、彼にはこの部屋が外の音がするたびにあの牢屋に見えて仕方なかった。

 寒い…とても…寒い…――さ、びしい?


『多分それは寂しい、ではないでしょうか』

 この城に来た時にミクスが言った言葉をそれの意味を少しずつ…理解には程遠くとも、感覚的にはアルも分かり始めてたのかも知れない。

 ただそれを実感する、実感してしまうのは、とてもつらいことだ。

 そう、タオルと誰かに渡したいパンの袋を持って部屋から飛び出してしまうくらいに…彼はまだ子供なのだから。


 コンコン、コンコン、コンコンコン。

 短いノックが幾度も響く。

「んはぁ…なに…ミクス?」

 部屋の主人は苦しげに息を吐くとソファーから身体を起こす事はないままに扉の奥を睨む。

「あの…ミラ様、ごめ…なさい…」

 震えた小さな声。 外の嵐はますます荒れていき、ついには雷も何処かに落ちたようだ。

「ア…アル…? ダメ…今は…ダメよ…ぐっ…」

 ぴしゃり。ゴロゴロ。

 雷が轟く、風が雨粒と木々の呻きを纏ってまるで生き物のように暴れまわる。

「ひっ…ぐ…ごめんなさい…ミラさ…まぁ、ごめん…なさい…」

 しかし、その部屋の主人であるミラリールにはもはや扉の向こうにいるアルの声しか聞こえていなかった。


――アマイ声ダ。 ――ニンゲンのオイシソウな声ダ。


 自分の自分のではない声がうるさい。本能が欲望が遂に言葉を持って私に語り始めたようだ。

 アルの声は泣いている。

 だけど今はダメ…この姿はまだ見せたくない…。

 そう抑えれば抑えるほど思い出す、彼の滑らかな肌を。握り潰せそうなくらいに柔らかい肩を。甘い匂いのする首筋を。

 思わず生唾を飲むとそれはまるでマグマだったのではないかと、そう錯覚してしまうくらに熱くて、余計に渇いてしまう。

「うう…ぐああっ…」

「ミ、ミラ様!?」


 自分のことながら恐ろしいくらいに見事な捕獲だった。

 私の声にドアノブが回って、扉の輪郭が淡く光って…薄かったアルの匂いが一本の線みたいに絡みついた。

 それで…まだ外にいるはずのアルの手を掴んで…引き込んで。

「はあっ…はあはあはあ…」

「ミラ…様…?」

 心臓の鼓動がどんどん早くなっていくのに、血管に流れるそれは乾いた泥のよう。

 光なき部屋でアルのダークブラウンの瞳が揺らぐ。

 理性が本能から身体の支配を取り戻せたのは耳元のアルの声のおかげ。

 肩を強く握りしめ、喉元に歯を突き刺す直前で止められた。

 ――だけど全て手遅れだ。


「ごめん…ごめん――ね――」

「ミラ…様」

 紅い月が登る夜、我らの呪いは姿を現わす。

 骨が割れて、目が熱くなって、心臓から手が出てきそうなほどに目の前のモノがホシイ。


 ――お前は『喰らうイーター』だから。


 ムカつく声のおかげで嫌なほど自分を保っていられる。

 呪い――これは呪いだ。

 身体を蝕む呪いと心を蝕む呪いと…色々。

「ごめんね…気持ち悪いよね…でも、これも私なの」

 ラムのような角、コウモリの翼にトゲまでついて、手には鉤爪みたいなのまで生えて、尻尾はまるでドラゴンのよう。

 バケモノ、悪魔、バケモノ――悪魔。

「私は…人間じゃない。人を食べたことのある悪魔なのよ。どう、怖いでしょ」

「……」

 震える肩。小さな…肩。

「私は人間の血を飲まないとこうして抑えられなくなってしまうの、だから貴方を買った」

 あーぁ、何言っているんだろ。

 確かに全て事実だ。アルを…人間の奴隷を買おうとした理由の一つだ。

 だけど…だけど――!

 それだけじゃなかった筈なのに…。

 ギリギリと何かが耐えきれずに軋む音がした。

 人間の血を、肉を、求める悪魔の呪いと、押し潰れそうな生身の心がお互いに異なった声を上げているかのようだ。

「怖い…よね。 でも、まだ…我慢っ、できるから…アルは早く逃げ、て」

 首筋に突き立てた牙があと少しで届くのを抑える、ふるふると震える先に口内から薄い液体が滴る。

 早く。

 早く。

 早く…離れて…。


 呼吸をするたびに広がる麻薬のようなアルの香り。

「――暖かい」

 心地良いくらい冷たい手だった。

「ア…ル…?」

「確かにミラ様だ」

 灯りのない中でアルの手が探すように動き、私の頰を見つけるとそっと包んだ。

 凍ったように冷たい手が髪をかき分けて進み、頬には柔らかい二の腕が押し付けられる。

 ぐいっと抱き寄せられる――。

「アル!離してっ…ダメ…あぶ、な…」

「大丈夫…ですよ。」


 ――僕は奴隷なので


 押し付けられた牙が肌に触れる。

 アルの甘い言葉だけが私を埋めていく。崩れていく自我。抑えていた呪いが私の背中を押す。

 いや…そうか、私だけではなく、もう彼も既に壊れていたんだ。


「ごめ――ん――ね――。」


 嵐のはずの外。しかし、その瞬間だけは雲間から紅い月が、大きな月がその姿見せた。

 ギラリと牙が一瞬光る。同時に悪魔の頰にも一筋の水滴が流れていく。

 かぷり。

 白い肌を二点の牙が突き破ると赤く、紅く、水滴が小さく膨らむ。

「んっ――」

 痛みを覚悟していた少年は思わず、声を上げるが痛みはなかった。


 ごきゅり、ごきゅりと上下する喉仏に合わせて鈍い音がした。

 満たされていく渇き。収まっていく疼き、呪い。

 多幸感と背徳感と罪悪感と苦しさと優しさと…ありとあらゆる感情がとろけていく。

 ただただ陽だまりに包まれていくような、そんな感じ…だ。


 全然違うと、はっきりわかった。

 前に口にしたときとは全然違う味がすると。

 泥のようなものではなくアルのそれは甘くて、さらさらと清らかなもので。

 歯を離すのが惜しくて、噛みちぎってしまいたくなるほど甘い香りがする――が、これ以上はダメだ。

「ふうっ…はぁ…」

 傷口を舐めぬぐい口を離す。

 まだ残る感触と溢れた血の雫。

「――じゃない!アル!?」

 アルの肩を掴み引き離す。

「…ア、アル?大丈夫?」

「ミラ様はやっぱり…あたた…か…い」

 潤んだ瞳で精一杯に笑顔を浮かべるアル。

 ははは、と笑いながら糸の切れた人形のように崩れていくアルを受け止める。

「アル!アル!」

「すう…すう…」

 私の焦燥も知らずにアルは腕の中で穏やかに眠っていた。


「――うまくいかないものね。」

 ため息混じりに渇きを満たした悪魔は呟くが、一際大きく窓を揺らす風にかき消された。

 誰かにはバケモノと言われ、その実は悪魔で、誰もが恐ろしいと口にする者の腕の中で少年は穏やかに眠る。

 無意識の中で温もりを掴み続けながら眠るのだった――。


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