六話『来客(中)』
ミクス自慢の庭、春には春の、夏には夏の…といった様に四季それぞれの花が咲くという。
その庭もミクスの努力なくしては存在し得ないもので、これと言ったやる事のないアルも手伝いたいと言い。
アルがきて五日目の今朝からそれが日課となりそうだった。
丁度春から夏の季節の変わり目、ミクスは城の正面ならびに両側面に広がる花畑を大切にしている。
しかし、それと同じくらい大切にしている畑の手入れが今日の主な作業だった。
とはいえ今日はこれから来る来客に備えて、ミクスは普段と変わらず執事服姿だが、アルも正装に着替えているため余り腰の入った作業はしていない。
「ひゃう」
「アル君、どうかしましたか?」
全身を包むスモックの様な作業着を着たアルが腰から倒れ、側にいたミクスが覗き込む。
「ああ、芋虫ですか。アル君は見たことはなかったです?」
ちょいちょいと指先に芋虫を乗せて、アルに見せる。
軍手の上をぴょこぴょこと体を曲げて進んでいく芋虫を少々引けた腰のままに少年が見つめていると、ミクスは語りかけ始めた。
「この虫はですね、この後蝶へと成長します…蝶、昨日アル君が綺麗と言っていた、ピンクのあれになるんですよ」
「そう…え?あれに、ですか?」
上ずった声で、ひらひらと宙を舞う蝶をアルは指差すと、ミクスはそうですよ、とそれを笑みで返す。
「アル君が怖がる様な姿をしていても、のんびりと時に懸命に地面を這って生きていればいつか…いつか広い空が見えたりするものなのですよ。 きっとそれは虫も人も同じだと思います。」
「…?」
「ふふ、そうなりますよね。 いつか時が来たらアル君がこの言葉を思い出してくれたら幸いです…なんて、いつか人間に言って見たかった、知ってる風なことを初めて言えました!」
一人楽しげに話すミクスだが、アルは変わらず困惑していた。
「こほん。今日はこれまでにしましょうかね、アル君は先に中へ戻ってください。お客様もそろそろ見える頃だと思いますので」
とりあえず、アルは言われたままに玄関へと向かった。
「あれ…」
視界の先、城の側面から正面へと出たアルの視界の隅に大きな馬車が正門の前に見える。
――きっと、ミラ様の言っていたお客様だろう。
玄関前に一度たどり着いてから女性像の噴水を避け、正門へと走る。
「おや、人間の子ですね――」
門の外で馬車から降りた人、声からして恐らくは女性がアルに気付いた。
正門の柵を挟んで少年と、少年と比較すれば大きな…きっとミラリールよりも身長が高いであろう女性が見合う。
「私の名前はコマタ・シズオミ、ミラリールの友人なのだけど…日陰の君、ミラリールはいらっしゃいますか?」
なんというか、正体の見えない人だった。
真っ白な袈裟を身に纏い、顔のほとんどが隠れてしまうほどの帽子を被っていて、顔も身体の輪郭も全てボヤけている。
ただ悠然と、ただそこに立っているだけで不思議と目を引かれる存在感はミクスと似ていて、だがしかし別物の様だと、アルは思った。
「…? あの、坊や?」
「――っ、すみません! おは、なしは聴いて、ます。今…ご案内を、しまっ…す」
アルは飲まれていた。その存在感に、その何か特別なオーラに。
ただでさえ言葉を発するのが苦手なアルだが、朝にミラリールの言った『アルのカッコイイところを見てもらおうとね』という言葉と、何より主人を立てろという奴隷としての刻まれた教育が吃りながらも精一杯の言葉を紡がせた。
「へぇ、貴方はミラに似ている不思議な星なのね。 でも、貴方は六等星…自分ですら気付けない星。」
「…?」
今日だけで、いやこの城に…もっと言えばミラリールに買われた後から、アルに向けられる言葉は彼にとって理解できる言葉の方が少ないだろう。
それはアルが絶対的に世界を知らない事も大いにあるし、そもそも人に何かを言われるという事がここ数年間は年間で数えられるくらいしか無かったせいもある。
だからアルは知らないから解らないのだ。物差しがないから当たり前がないから、一般的にもわけのわからない事をさも当然に言ってくる大人しかいないこの生活にも疑問が持てないのだ。
己のただの無知なのだと全てを受け入れるしか、彼にはない。
ただそんなアルもミクスのミラリールに対する皮肉が理解できなくても、そのミラリール自身も突拍子もない事を言ってるとアルには気付けなくとも、彼だって数日だがここで生活をしていたのだ。
――つまり。
「今、門を開けます…ね」
――受け入れる事を本能的に覚えていたのである。
カラカラカラ。
一切引っかかることのない、気持ち良さすら覚える程の滑らかさで門は開いた。
「ありがとう」
「で、ではこっちに…」
頑張りとは時に空回ることを指す時がある。
肩に力が入って、無駄な所に無駄な力がかかって、そんな状態で普段通りにやろうとしたって普段通りにいくはずもない。
ましてや着慣れない正装を身に纏い、汚してはいけない上に主人の評判を下げる様な行いは言語道断だ――そう言われて、奴隷としての生き方だけを教えられた、まだ齢二桁にも満たない少年に緊張するなという方が本来は不可能なのだ。
何故ならば、奴隷としての教本は海馬の殆どに焼き付いていようと奴隷として買われた後の経験は全くと言っていい程にないのだから。
だから少年や少女の奴隷など人前に出すことはおよそない、もしくはそういう失敗をさせて『教育』をしたいという人間が買うものだ。
綺麗に身繕いをさせて、日がな一日自由にさせるなどあり得ないことで、アルの想像にもしていなかった生活だった。
「こちら、にっ――」
「きゃっ!」
緊張のあまり、着慣れない服のあまり、コマタという来客者の斜め前を歩こうとしたアルは足がもつれて、女性の方へ倒れてしまったのだった。
袖や足元を大きく余した布に吸い込まれるアルの体、思わず見上げると帽子というよりは、綿帽子の様な被りの下に隠れた瑠璃色の瞳が見えた。
その刹那。
「私を視るなぁぁぁ!」
怒声が響いた直後、アルは倒れた方向と真反対へと投げられていた。
腰から石畳へ落ちていくアルの姿を、突然息を荒げたコマタの目が追う。
「ごめんなさ――」
――悪いわね、うちの子が失礼して。
ミラリールの友人だと言うコマタ・シズオミと突き飛ばされたアルとの間に突如として城の主人であるミラリールの姿が現れる。
いつもより豪勢なフリルを揺らして、ミラリールは背後に視線を向けるとミクスが倒れる直前のアルを支えていた。
ふう、と安堵の息を漏らしてミラリールはコマタの方へ再び向き直すと、頭を下げた。
「改めてごめんなさいね、私が付いていればよかったわ――」
ごめん、なさい。 ごめ…なさい。 ごめんなさい…。
すすり泣く声がミラリールの背後からただただ繰り返されていく。
それはミクスの腕の中で頭を守りながら謝り続けるアルの声だった。
「――あぁ…あぁ…」
呼応するかの様にコマタも呻き声をあげて目を手で覆う。
「『視て』しまったのね…大丈夫、コマタ?」
「わ、たし…よりも…」
ゆっくりと息を整え、目から手を離すとコマタは変わらず謝り続けるアルの元へと近寄った。
「ごめんなさい。 アル君…と言うのね、私は貴方に痛い事も怖い事もしないわ。ただ少し驚いてしまっただけなの、だから謝らないで…謝ると思い出してしまうでしょう?大丈夫、貴方は何も、何も悪くないのだから…大丈夫だから…」
頭を抱えて座り込むアルの背中にコマタの手が触れるとびくりと跳ねて強張った。
しかし、アルと同じ様にすすり泣きながらも優しく、優しく、震える背中を撫でていた。
「はぁ…。とりあえず、中に入りましょう?」