五話『来客(前)』
城の大食堂で三人、朝食をとっていた。
パーティーなど大勢の会食を想定してか、その食堂は何十人もが座れそうな長机とそれに見合った椅子の数々が三列に渡って置かれている。
壁には絵画、燭台、絵画の様な順に天使や大空が描かれた物が並んでいて、奥では壁一面に広がる大窓が朝日に輝くミクス自慢の花畑をくすみ一つ無く映していた。
その部屋の広さ故か、三人だけの食事風景はどこか持て余しているというか、寂しい風景にも見えた。
しかしアルと並んで食事をとるミラリールも、その二人と向かい合って座るミクスも、そしてアルも誰かと食事を共にすること自体が日常的ではなかった為にさほど気にしている様子はない。
「今日のスープ美味しいわね」
「街で良いお肉が手に入ったのでそのお陰でしょうか? シンプルなポトフですがお口に合ったのならよかった」
「アルはどう?」
「は、はい!美味しい、です…!」
アルが城の主人であるミラリールに一輪の花をプレゼントしたのは昨夕の事、少年がこの城でやって来て五度目の朝食であった。
昨夕の事や、食事を共にする回数も増えてきて、アルも少しずつ慣れてきた――
「あら、アル、エプロンがずれているわよ。それでは汚れてしまう」
隣に座るアルの膝まで覆うシルクのエプロンを正す。
え――わっ――と驚くアルに、「じっとしていて」と静止させて、白い手が少年の足の上をなぞっていく。
「うん、これでいいわ。 アル、食べにくいなら私が食べさせてあげるわよ?」
昨晩の夕ご飯を思い出せば、アルはフォークとスプーンを使う食事も、ミラリールとの会話も、その前よりもずっと慣れて、打ち解けたものだったのは間違いない――だけど、今日の朝食は別の緊張感が少年にはあった。
というのも、アルは普段、ミラリールないしミクスが彼を起こす際に用意する衣服に着替えるのだが、ここに来てからずっと少し大きめのTシャツに短パンがベターで寒い日には長袖などだった。
しかし今朝着ているのは襟付きのシャツに、肩口の大きく開いた真っ黒なベストのジャケット、それに合わせたロングズボンと少年用の正装で食事していたのだ。
「い、いえ、大丈夫です…」
ドレスやタキシードを汚してはいけない――極々当たり前のことだが、それをもしも奴隷が汚したとしたらどうなるか。
アルの記憶に確かに刻まれているあの教育。その先を言葉にはせずともあの場にいた奴隷の子達は皆が理解するに容易いだろう。
それがまさか、自分が正装をして暖かいポトフを食べているとは夢にも思えなかっただろうけれど。
「今日は私の友人が来るの、せっかくだからアルのカッコイイところも見てもらおうと思ってね。少し慣れないだろうけど我慢してもらえるかしら」
「は…はい!勿論!」
「そ、ありがとう。 …それはそれとして、やっぱり私が食べさせてあげるわ!」
「い、いいえ…大丈夫ですって!」
「いいから!観念しなさい!」
スプーンとスープカップを奪うとミラリールはそれはそれは楽しそうな顔で笑うのだった。
「私はもう少し書類を片付けるけどアルはどうするの?」
「アル君は私のお手伝いをしてくれるそうですよ」
食事を終え、来客までまだしばらくの時間があるそうだ。
アルは思い他の形で賑やかなになって朝食を終えて、改めて二人の服を見て見た。
ミクスは普段と変わらずパリッと綺麗に仕立て上げられた執事服、ミラリールもあまり普段と変わらない黒いドレスだが、いつもよりもフリフリが多い気がした。
「そう、ならミクス、アルに新聞の呼び方教えてあげて。」
「畏まりました」
「じゃあ、また後でね。あ…そうそう、私の友人が帰ったらお勉強にしましょうね」
「はい!」
借りて来た猫の様だったアル。牢屋での奴隷としての生活は過去になり始めたのか、その小さく乏しかった言葉も、声も少しずつ大きな声も出せるように変わっていた。
「アル君、玄関脇にある棚から宝石のついたペンを持って来てもらえますか?」
ミクスの言う通りに棚を開けると、布付きの箱に置かれたペンが確かにあった。
ペンとしては不便なくらいにびっしりと七色の宝石が散りばめられ、パン先の反対側に一際大きな水色の宝石があしらわれた不思議なペンだ。
「うん、それです。ではこちらへ」
玄関を出て右へまっすぐ背の低い樹々の道に沿って歩いて行く、ミクスの後をついて行くアルはまるで雛鳥の様。
正門から城の正面を彩る花畑と、城の脇に咲く花畑を仕切る様に大きな数本植えられていた。
「これがですね――」
ミクスはその中の一本の木を指し示す。
他の木は高く高く、天に手を伸ばすかの様に葉を伸ばしているのに対して、その木だけは幹を一切見えないくらいに全身を葉で隠している樹木だった。
それこそ道中のに並んでいた、美しく刈りそろえられた木々と同じくらいに、まるでミノムシの様に葉を伸ばしている。
「これがですね、トウロウ樹と言ってこの木の葉っぱは魔力に反応して光を放つのです。『トウロウ』という異国のランプの原材料でもあるらしいですよ。それを一枚とってみてください」
「いいの…ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
恐る恐る、アルは茎から一枚の葉をちぎる。
濃い緑色をした小さな毛が無数に生えたその葉は大きく、アルの手と同じくらいの大きさとそして――
「…重い」
「でしょう? この木は結構特殊でして、大地の魔力を蓄える事ができるので葉が水分と魔力を含んでいて重たいのですよ」
ずしりと、そこまではいかなくても確かな重みがアルの手にのしかかっていた。
「これは葉にそのまま火をつけても長く燃えるので森で迷った時などはこの木を探すと良いですよ」
では――、ミクスは少年の様子を確認した後に再び玄関の元へと歩き始める。
アルはまじまじとミクスの姿を見たのは初めてだった。
気品漂う、大きな大人の背中。滑らかに歩みを進める――その姿にはどこか妖艶で、思わず見惚れてしまっていた。
「ふふ、私は人間の感情には疎いのですが…上目遣いでそう見つめられると嬉しいものなのですね。些か恥ずかしさもありますが」
「ご、ごめんなさい」
「いえ、気にせずに。さて、こちらにカゴが――ああ、後ほど掛ける高さを変えなくてはいけないですね、ミラ様が玄関前にチェアが欲しいと言ってましたしその際に…おっと申し訳ない、つい。えっとですね、これを持っていただいて…」
気を取り直してと言わんばかりに、平然を装い直すミクス。
大きな玄関扉をアーチ状に囲う雨除けの屋根、その支柱に掛けられた小さなカゴを手に取り、それをアルに手渡した。
木の枝で組み上げられたそのカゴは、側面に渦巻きの模様が描かれている。
「トウロウの葉をよろしいですか?」
「は、はい」
アルは手にした葉をミクスに渡し、ミクスは胸ポケットに入れてあった宝石付きのペンを取り出す。
「これをこうしまして…」
ミクスは葉の裏にペン先で模様を描いていく。
二重円に囲われた星の形。六芒星を軽く撫でる様に描くとその筆跡が紅く光り始めた。
「書き方などは簡単なので、ミラ様とのお勉強の際にでもお教えしますね」
描き終えた葉をカゴに入れると、アルはそのカゴの持ち手に銀色の鈴がついていたことに気づく。
ミクスは正門に身体を向ける。
つられてアルも視線を向けてみれば、遠くの柵の上では小鳥たちが朝を祝うかの様にさえずっていた。
「アル君、カゴを持っていて下さい。少し、気持ち悪くなってしまうかもしれませんがゆっくりと息を吸えば大丈夫ですので、落ち着いていてください」
「……?」
意図を読めず呆けた表情のアルに、ミクスはただ笑いかける。
アルの前に屈んでカゴを持たせ、鈴を一度指で弾いた。
チリリ、とお世辞にもいい音とは言えない鈍い鈴の音が小さく響く。
「あ、れ――」
しかし、その音はそれでよかった。
爽やかな朝焼け、どこか白く眩くような朝日を緑と色とりどりの花に滴る朝露がのびのびと世界の夜明けに呼応していた――はずの景色。
一度目――そして、二度目とミクスは鳴らした。
まるで…そうまるで、鈴から何かが溢れ出たかの様にアルの目にしている景色は変化していく。
世界が影になる――突き抜ける様な青空は消え、視界が閉ざされてしまう程に濃い霧が立ち込めた。
「う…うぅ…」
そしてアルの全身には圧迫感の様なものが、景色の変化とともに訪れる。
「大丈夫です、ゆっくり…そう、ゆっくりと息をして下さい」
優しいミクスの声が、アルの脳内に響く。
促されるまま、少年は浅くなっていた呼吸をゆっくりと、深く取り込み、そして吐き出す。
まるで頭から湯船に沈んだみたいだ――そう、アルは感じました。
不意に固く閉じた視界も広げていく。
――真っ白。
そう、アルは呟いた。
濃霧。あんなに広かった世界、だが今はカゴをアルの手ごと優しく包んでいるミクスの姿しか、確認できないほどに不鮮明になっていた。
からん かららん からん
気の抜けた金属音が響く。そして音は徐々に大きくなり、その主が近づいて来ているのがアルにもわかった。
「や、今日はダンナですかァ…ん、それと…人間の子ですかぇ?」
「ええ、最近うちにやってきたアルと言います」
――その、恐らくは顔に当たるものが向いた時、思わずアルは悲鳴をあげそうになってしまう。
黒い…黒い人影だ。人型の影が揺らめいて歩いている。
それはまるで闇に飲まれた炎の様に実体の掴めない、身体の端々がたなびいている人型の何か。
人間で言えば目に当たる部分に黄ばんだ、古びた包帯の様なものを巻いている。
「糸すぎみたいに細い、細い子だねぁ。俺はルルってんだ、よろしくねぇ」
「よ…よろ…しくお願い、しま…」
包帯を巻いた顔がぐいっとアルに寄る。アルはミクスにしがみつきながらも、精一杯に返事を口にした。
「すみません、まだそちらの方々に会うのは恐らく初めてなもので」
「いやぁ、こういうのが酷く当たり前でさァ。初めてあっても顔色一つ変えない魔女達や、おたくの主人様の方がおかしいのですよ。 でもなんだか新鮮っすからちょっとゾクゾクしますが」
「はいはい、ではマデアド新聞と前城新聞ください」
「毎度ぉ、ではまたよろしくお願いしやせぇ。アルさんもじゃあ」
あっさりと硬貨と二部の新聞を受け渡し、新聞屋のルルは霧の中へと消えていった。
「では、私たちも帰りましょうか」
呆気にとられたままのアルをあまり気にする事もなく、ミクスはもう一度鈴を鳴らすと再び景色は城の玄関前に戻った。
「ん、ああ、アル君はそもそも新聞ってわかりますか?」
もう何が何やら、立ち尽くすアルに語りかけるミクス。
こくこくと小さくアルが頷く。
「新聞というのはその地域であったり国だったりで起こった事件や、話題などがまとめられた物なのですよ。この城の近くにも街がありまして、そこでも新聞は買えるのですが…ミラ様の地元の新聞は今やったやり方でないと買えないのです。 まぁ、ルルも見た目は怖いかも知れませんし、喋り方も気持ち悪いですが、危害を加える様な人ではないので少しずつ慣れてもらえればと思います」
返事に困るアル。その実は驚いていて、喉がしまって言葉に詰まってしまっていた。
「では、お客様がいらっしゃるまで、お手伝いをお願いできますか?」
「――! は、はい!」
なんとか言葉を発し、花に向かう事でアルは元気を徐々に取り戻すのであった。
――そして、その後訪れるミラの友人にアルもまた出会う――…。